月別アーカイブ: 10月 2017

理論は正しいのか?間違っているのか?

最近何かと話題の「ダークマター(暗黒物質)」。観測データに照らし合わせると、ダークマター・ダークエネルギーが宇宙の質量のほとんど(90%以上)をせめるという。ダークマターの候補になる物質はいくつか考えられているが、現在ではまだそれを特定するには至っていない。

ただそれらは既存の理論に基づいたデータであり。理論そのものが間違っているという可能性も否定できない。実際、現在の宇宙モデルの基になっている一般相対性理論は不完全である(量子論でないという意味で)というのは物理学者の間では共通の認識であり、一般相対論が量子化(量子重力理論)されれば解決されるという可能性も否定できない。また、既存の理論を修正するという試みも行われている。

いずれにせよ、現在の観測データは既存の知識だけでは説明できない状況が起きている。現在の理論は正しいのか?間違っているのか?また間違っているのならば修正すれば観測と一致するのか?あるいは根本的書き換えが要求されるのか?まだ結論は出ていないが、根本的書き換えによって物理の世界に大変革が起きる可能性は否定できない。

未来の物理理論の風景はどうなっているのか?その風景を作り上げる物理学者には強い野望が求められるところである。

打ち込むべきことに没頭して、苦しい時を乗り越える。

苦しい時、ストレスを感じている時、気分発散して乗り越えるということが多いであろう。確かに気分発散して乗り越えるというのも一つの手だ。しかし、気分発散だけが乗り越える手段であると、常に気分発散をせざる負えない状況に陥る。

しかし苦しい時を乗り越える手段は気分発散だけではない。打ち込むべきことに没頭して乗り越えるというのも手だ。頭を使って没頭していると、余計なことに頭を使わずに済むので、意外と精神的にも落ち着いてくる。ストレスも劇的に軽減されることもある。

しかも、打ち込むべきことに没頭するので、物事が、あるいは人生がより良い方向へと前に進みだす。ある意味、打ち込むべきことに打ち込むというのも気分発散であると言えるのかもしれない。

もちろん、適度にお酒を飲んだりして気分発散するのも悪くはないが、精神的に苦しい時を乗り越えるのには、何かに没頭するのが効果的で前向きな解決の手段だ。

努力を押し付けるのは時代に合わないけれど。

努力が手放しで称賛される時代は終わり、現代はある程度ゆとりを持った多様な生き方が求められている。努力を押し付けるということもほとんどなくなり、皆リラックスして生きているようにも思える。

確かに努力を押し付けるのは時代に合わず、努力のごり押しは間違った考えかも知れないが、自分で努力することに関してはまた話は別だ。努力は苦しいもので、できる事なら努力なんてしたくないと思う人も多いのかもしれないが、自ら努力に突っ込んでいく人も少なからずいる。

自分には目指すところがあり、それを成し遂げるためには努力することは必須だ。他人に努力を押し付けようとは全く思わないが、自分は限りなく努力をもって追求していきたいと思う。

情報過多の時代、いかに必要な情報だけを抜き取るか。

情報過多な現代では、必要な情報だけではなく、無駄な情報、または悪意のある情報が氾濫している。ネットを使えばほとんどの情報はいくらでも入手できるが、問題なのは見ないほうが良い情報までごり押しのように飛び込んでくることだ。

ところが、必要な情報だけを手に入れ、不必要な情報を全てシャットアウトするのは不可能だ。必要な情報と不必要な情報はセットでやってくる。いかにして情報に対するフィルターを作るか、なかなか難しいところである。

そして現在のビックデータを駆使したネットシステムでは、自分に都合の良い情報しか流れてこないという欠点もある。無駄な情報は必要ないが、広い視点から見つめた多角的な情報は必要である。

それらの解決方法の一つとして、ネット中心の生活ではなく、活字中心の生活に重点を置くということが有効かもしれない。活字を中心とした紙媒体では、幅広く質の高い情報を手に入れつつ、かなり取捨選択もできる。

ネット社会と言えども、紙媒体の存在は無視できない。ネットに重心が移りつつある現在でも、紙媒体からの入手源を常に確保することは重要である。

「勝った、負けた」だけが全てではない。

先日の衆院選が終わり、各党は結果について総括をしている。大勝した自民党では安倍首相が足元をより固めつつあるが、苦戦した希望の党、維新の会では、代表の責任問題が問われている。

このような状況の下、希望の小池代表、維新の松井代表の辞任を求める声が上がっているが、選挙に負けたからといって即辞任を求めるのは非常に短絡であるように思える。辞めるのは簡単であるし、いつでもできる。しかし現在小池氏、松井氏に求められているのは、辞任ではなく党の立て直しである。党を立て直すことによって責任を果たすということではないだろうか。

世の中、「勝った、負けた」だけが全てではない。ましてや選挙というものは水物であり、偶然に左右されるところも大きい。もちろん、政治においては選挙に勝って発言権を得ないことには何も始まらない。しかし党の代表レベルの人には、もっと高い視点、政略だけではなく長いスパンで見通した大局的な政策で物事の判断を下してほしい。そのようなことを考えると、今求めるべきことは「辞任」ではないことは明白であろう。

今日を生きる。

人間誰しも、必ず明日を生きれるという保証はない。もちろん、ほとんどの人は99.9%明日を無事過ごすことができるであろう。しかし100%ではない。明日の事は明日にならなければわからない。だから、今日を真剣に思いっきり生きなければならない。

そう考えると、悩みの先取りなんかしている場合ではない。十年後・二十年後、どのように生きるかということを考えることも、もちろん重要だ。しかし今日・明日を生きなければ十年後はない。

未来を自分らしく生きるためにも、まずは今日を真剣に生きることに全力を出そう。

最新か?古典か?

科学の研究でもそうだが、どうしても最新の結果が気になってしまう。最新の結果を知ることによって、その先端に新たなる結果を継ぎ足していく。それを繰り返すことにより実績が積み重ねられる。

しかし、革新的な結果というものは、最新の結果の継ぎ足しというよりも、過去の重要な古典的結果を利用する、あるいはそれを基に覆すことによってもたらされることが少なくない。古典的結果を熟読し、深く理解することは、最先端の研究を進める上でも非常に重要である。

ファッションでもそうである。雑誌に書かれた最先端のファッションばかりを取り入れた着こなしは、どことなく奇抜であまりお洒落に見えない。ファッションの基本を押さえたうえで、長期的スパンの流行と、短期的スパンの流行を適度に取り入れるのが、適度にお洒落でしっくり落ち着いて見える。

話しは初めに戻るが、古典を軽く見るのは明らかに間違っている。古典を知らないで、最新の結果を深く見渡すことはできない。どの分野に関しても、まずは古典を熟知することから先への進歩が始まることになる。

トリプル選挙(衆院選・神戸市長選・神戸市議補選)を終えて。

22日の衆議院議員総選挙を終えて、少し世の中が落ち着いた頃かもしれない。僕の住んでいる神戸市では、衆院選の他、神戸市長選・神戸市議補選もあり、トリプル選挙となった。

今回の選挙に関してはいろいろ感想はある。まずは愛知7区の山尾志桜里氏が当選したことが個人的にはうれしかった。山尾氏は選挙前のスキャンダル報道で劣勢に立たされたが、山尾氏の政治的手腕に関しては高く評価されており、スキャンダルに関しても政治とは全く関係のない色恋沙汰であり、今回の山尾氏の当選は愛知7区の市民をはじめ、国民が見るべきところをしっかりと見据え、良識ある判断を下したものだと僕個人的には感じている。

そして何より今回の衆院選の結果についての最大の関心は、自民党をはじめとする与党が3分の2を取るかということであろう。安倍首相率いる与党は3分の2を獲得したわけであるが、これからは改憲についての話題が最大の関心事となるであろう。

改憲に関しては、真っ先に第九条が論争されるが、改憲は何も第九条に関してだけではない。その他の事項に関しても改憲の対象となっているが、僕が恐れているのは第九条の混乱のどさくさに紛れて、その他の事項に関して特に論争もされずに改憲が成し遂げられてしまうことだ。

最も恐れるのが「条文の拡大解釈・拡大適用」である。極端な例で言うと、戦前の治安維持法のような状況がもたらされることを、最も恐れる。もちろん、第九条に関しても然りである。

ただ、安倍一強による強権政治は、メリットも大きい。特に対北朝鮮をはじめとする安全保障の分野に関しては、安倍首相の強腕による効果は計り知れない。そして対米関係に関しては、安倍首相だからこそトランプ氏に対して対等に渡り合えることができると言えるだろう。

しかし、ここまで安倍自民が大勝して強権を持つ状況に関しては、正直言って危機感を覚える。

これから近い将来にあるであろう、改憲に関する国民投票に関しては、しっかりと熟考し、適切な判断をすることが国民には求められる。これからの日本に関して安倍一強政権が吉と出るか凶と出るか、それには国民の意志も大きく関わることになる。

眼で世界を見るのではなく、紙とペンで宇宙を見る。

世界を見ることによって見識を深めるということは昨今のブームみたいなものでもあるが、宇宙から見れば地球上の世界は微々たるものだ。それならいっそのこと、宇宙を見て全てを見渡せばいい。

しかし、望遠鏡の性能にも限界があるので、眼で宇宙を見渡すには限界がある。しかし紙とペンさえあれば宇宙を全て見渡すことが可能だ。しかしおそらくまだ誰も宇宙全てを見渡してはいない。初めて宇宙を見渡す人間は誰になるのであろうか?

幾何化予想(ポアンカレ予想)を解決した数学者ペレルマンは、幾何化予想を解決することによって宇宙を見たと言ったという。しかし僕の個人的見解では、ペレルマンはまだ宇宙全体は見ていないと考えている。ペレルマンの3次元幾何だけでは、相対論的宇宙を見るのにはまだまだ不足がある。

宇宙の果てというものは、望遠鏡で見るものではない。紙とペンで見るものであると僕は考えている。紙とペンには限りない可能性が秘められている。

規則を破ることの大切さ。

規則を破ると言っても、やみくもに何でも破れと言っているのではない。「破るべき規則を破ることが大事だ」ということを言っている。

規則というものは全知全能の神が作ったわけではない。規則を守る者が人間ならば、規則を作るのも人間だ。従って、規則の中には明らかにおかしい、理にかなっていない規則というものが多く存在する。そこでやみくもに「規則は絶対的に守らなければいけない」と思考停止するのではなく、「その規則は本当に必要なのか?理にかなっているのか?」ということを、しっかりと自分の頭で考えることが重要だということを言いたいのである。そのうえで、その規則が明らかにおかしい、全く理にかなっていないと判断したのならば、それを主張の上、破ることが重要である。

この、規則を破るという行為は、できれば小中学生のうちから身に付けておきたいスキルである。子供の頃に、一方的に「規則は何でも守らなければいけない」という考えが染み込んでしまえば、大人になると、「支配者の言うことは何でも盲目的に従順する一方、立場の弱い人、あるいは子供に対しては一方的に規則で縛り付ける」という大人になってしまう。

規則を破るという行為は、「自分の頭でしっかりと思考する」という、人間が自立して生きていくうえで非常に重要な行為に直結する非常に重要なことである。