月別アーカイブ: 1月 2019

リスクを最大限に取る。

「リスクを最小化する」ということはよく聞く話であり、ほとんどの人が一番力を入れているところであろうが、僕は「リスクを最大限に取る」ということは人生戦略として非常に重要な事ではないかと考えている。もちろん全ての事においてリスクを大きく取る必要はない。しかし人生を懸けていることに対してリスクを最大限に取ることは、人生に大きな意義をもたらしてくれる。間違っても、お金の賭け事などのリスクを取るなどという非常にくだらないことを言っているのではない。

「リスクを最大限に取る」と一言で言ったが、実はこれは簡単にできる事ではない。リスクを最大限に取るためには緻密な計算も必要だし、物事の全体像と人生の全体像を見通すことが出来なければ実行できない。リスクを最小限にすることは目的も意味も非常に分かりやすく簡単に納得させることが出来るが、それに逆行することのように見えるリスクの最大化は多くの人には理解不能に見えるであろう。従ってこの事の意味は結果を出して納得させるしかない。

周りから見ていると一見バカな事に見えることがたくさんある。もちろんその中には本当にバカなことも多いが、一部には緻密に計算された上で覚悟を決めてリスクに飛び込んでいる人もいる。もちろんそれに失敗すれば周りからはバカだったと言われるところだが、そのようにリスクを最大限に取っている人生の挑戦者をバカ呼ばわりする安易な世間の風潮は、あまりにも軽率で愚かに感じる。

いかにしてリスクを最大限に取るか?その結論にたどり着くまでには多くの悩みを経て、さらに強い覚悟が必要である。そしてそのような精神的な事だけではなく、完璧に近い設計や計算も必要だ。しかし多くの事に対してはそれでも100%ではない。しかし物事には100%ということはない。完璧な学問と思われている科学実験においても100%ということはほとんどありえないのである。しかし100%でないから意味はないのかと言うと、それは全く違う。100%ではないから“リスク”と言う言葉があるのである。

リスクを少なくすることばかりを考えるのではなく、自分はどこまで大きなリスクを取れるのかという計算を行い挑戦することも非常に意義ある事であり、自分に人間としての大きな飛躍をもたらしてくれることであろう。

大本営(公式)情報と非公式情報とをどう解釈するか?

政府や官庁から発表される公式発表や企業などが発表する公式情報、つまり大本営情報と非公式情報をどう解釈し向き合うか?これは意外と難しい微妙な問題である。大本営情報だけに言及して行けば、全ての責任から逃れられるだろう。もし大本営情報が間違っていれば責任は発表した組織側にあり、受け取った方は騙された被害者となるからである。しかし大本営情報だけしか見なければ、全ての市民は思うように操られることになる。すなわち非公式の情報を入手することは生きて行く上で必要不可欠である。

しかし非公式情報の中にはどこの骨ともわからないものもたくさんある。信頼できる筋の情報もあれば、全く信用できない筋の情報もある。特にネット社会となった現在では、誰もが情報発信者になることが出来、情報の質というものを考えた時、非常に怪しい情報の方がはるかに多いことになる。そのような現在においては、やはり新聞などのメディアの質は相対的高くなり、信頼できる情報源として必要不可欠である。

もちろんフェイクニュースなどは論外であるが、フェイクニュースが世の中を動かすことがある現実を考えれば、情報の質に対する世の中の意識はかなり低いと言わざるを得ない。多くの情報を入手するという以前に、情報の質というものに目を光らせなければならない。とは言うものの、もちろん100%真偽を見抜くということは当事者でない限り不可能だ。しかし90%見抜くことは意識の持ちようで十分に可能である。

ではそのような意識を持ち真偽を見抜くためにはどうすればいいか?そのためにはやはり一次情報を確認するしかない。事実を確認する、あるいはサイエンスにおいては原論文に当たるということである。そのためには一次情報である大本営発表を確認することは不可欠であるが、時には大本営発表が偽物であることもある。それを見抜くためには社会全体の流れや概観、そして整合性を掴む必要がある。すなわち全体的な骨格と細部の両方を掴まなければならない。そのためにはただ情報をインプットするだけではなく、自分からアウトプットして行くことが必要だ。なぜならアウトプットするためには物事の概観と整合性を掴むことが必要不可欠だからである。

社会や物事の本質を掴むためにも、大本営発表と非公式発表の真偽を大局的な観点から判断し、知識を構成して行くことが必要である。

出来る気しかしない。ただコンディションは良くない。

出来る気しかしない。そんな時がある。そのような時はただ前に進むだけだ。しかし出来る気しかしないと言いながらも、コンディションは良くない。なのでまずはコンディションを高めなければならない。

なぜ出来る気しかしないのか?それはビジョンが固まっているからだ。そして今はその細部を埋めるための数学的技術を習得している。ただ現実として、その細部を埋めることが非常に難しい事であり、どれだけ時間がかかるかわからない。解析学、代数学、そして幾何学などのいくつかの分野を横断的に網羅している数学的技術は一朝一夕で身に付けられるものではない。専門書を読み、論文を読み、一つ一つ確かめて行かなければならない。英語が苦手な僕にとってはかなり大変な作業だ。

自分のコンディションが悪い時は、あえて取り組まないことにしている。本当は悪い時にも悪いなりに取り組むほうが良いのかもしれない。しかしそれがなかなか出来ない。調子が悪い時に1しか出来ないのなら、調子の良い時に10やろうと思ってしまう。実際、調子が良ければ10出来る。しかし常にそのように出来る状態ではない。色々と良い時と悪い時がある。そこが大きな悩みでもある。

しかしチャレンジングな問題と格闘するのは、非常にエキサイティングである。この刺激こそが大問題の醍醐味である。しかし悠長にしている暇はない。時間はあっという間に過ぎ去り待ってはくれない。何とか今年中にはと思っているが、これはもう自分との戦いだ。証明の骨組は出来ているが、中身が全然埋まらない。しかしすぐにとは行かないまでも、近い将来完成できると実感している。何しろ出来る気しかしないのだから。

人生において失敗をすることの大切さ。

多くの人は、失敗を極力避けようとする。「失敗はしないに越したことはない」そう思ってはいないだろうか?僕は失敗をすることは人生において欠かせないものだと思っているし、むしろ積極的に失敗に立ち向かうべきだと思う。これは何も失敗を正当化しようと思って言っているのではない。合理的に考えれば考える程、失敗はできるだけすべきだという結論になる。

なぜ失敗をすることが合理的なのか?もし失敗をしないで成功し続けた時に得られる利益を10とする。では失敗をすれば利益は10を大幅に下回るであろうか?僕はむしろそれを上回ると考えている。失敗を恐れず挑戦し続け、失敗と成功を繰り返すうち、総量は圧倒的に増え、利益は10を大幅に上回る。従って、失敗をすることは実は合理的であり、失敗をしないことはむしろ不合理的であると考えられる。さらに失敗を恐れるあまり、大きな行動に出られなくなり、結果が分かっている小さなことにしか取り組めないことになる。もちろんそれで納得できる人はそれでいいが、常に上を目指し前進しようとする人にはそのような事は全く納得できない。

僕自身もこれまで様々な失敗を経験してきた。それらを経て現在の自分がある訳だが、そのような自分がたどって来た道は今となっては全てが納得できるものだ。そしてこれからも多くの失敗を経験するであろう。その中で大きな成功を二つ三つと出せて行けばいいと思っている。

これまで多くの失敗を重ねてきた自分だからこそ、失敗の重要性は痛感している。もし全く失敗しない自分というものがいたら、それほど恐ろしいことはない。ただ、このように考えられるかどうかは思想や哲学的な影響が大きいのかもしれない。失敗を悪と考えるのか?失敗をその先の大きな成功への足掛かりと考えるのか?そのような考え方の違い一つで未来の自分の姿は大きく変わってくる。失敗は決して悪ではない。ただ失敗を単なる失敗で終わらせてはいけない。失敗に対して熟考しそれを踏み台にすれば、その先には必ず大きな成功があるに違いない。

全豪優勝、大坂なおみに究極の姿を見た!

大坂なおみがテニス・全豪オープンで優勝した。そして何より嬉しいのが世界ランク1位が確定したことだ。これまでは日本人トップ選手がいかにランク1位選手に勝つかということに注目されていたが、今はランク1位になってしまった。本当に空いた口がふさがらない。それと同時に日本人選手が一分野で世界トップに立ったことに同じ日本人として誇りに思う。

大坂なおみ選手は世界1位になったが、それは人間の目指す究極であり、また何かに打ち込んでいる人ならだれもが目指すべきところだと思う。しかし多くの人は「そんなのは絶対に無理に決まっている」と言って挑戦すらしない。もちろんそのような人にとっては、実力云々という以前の問題として可能性はゼロである。しかし頂点を目指している人には、0.1%、あるいは0.01%の可能性を秘めている。そしてその可能性を5%、10%と高めて行くのである。「そんなのは無理に決まっている」と言う人にバカにされる筋合いはない。頂点を目指している人は胸を張って目指せばよいのである。

もちろん、全ての人が頂点に立てるわけではない。頂点に立てるのは70億分の一なのである。しかしそれを目指す価値は大きい。しかしそれには大きなリスクも存在する。挑戦するにはそれだけの覚悟を持たなければならない。リスクを取れない人はまずそのスタートラインに立てない。成功すればその対価は非常に大きいが、失敗した時の代償も非常に大きい。そのような事に耐えられる覚悟が必要なのである。

僕は最近、人間とは若返ることが出来るということを実感している。もちろん肉体的には老化して行くのが自然の摂理であり、それは避けられない。しかし精神の老化は避けられるどころか逆に若返ることもできる。ではどうすれば精神を若返らせることが出来るのか?それは挑戦し続けることである。挑戦を止めた時点から精神は老化して行く。見かけは若くても中身は老人のような人間もいる。逆に肉体は老いても青年のような精神の持ち主もいる。外見のアンチエイジングに力を注ぐこと以上に、挑戦し続け精神の若返りに力を注ぐべきである。世界の頂点に挑戦し、世界の頂点に立った大坂なおみの精神は、究極的に若いに違いない!

自然、人間、最適化。

自然と人間の付き合い方は、人間が抱える最も大きな課題だ。大昔は自然が人間を支配し、人間はそれに従うしかなかった。そして農業革命、産業革命を経て、今は人間が自然を支配しようとしている。これまでのところは様々な悩みを抱えながらも、人間と自然は共生することが出来てきたように思える。しかしこれから数十年、数百年、人間と自然は共生することはできるだろうか?これはかなり難しい課題である。

なぜこれまで人間と自然は共生することが出来たのか?それは人間と自然の関係が常に最適化という補正を加えながらバランスを取ることが出来たからではないだろうか。例えばオゾンホールが社会問題化された時には人間がそれを補修しようとする行動に出た。自然破壊から環境問題まで、問題が深刻化した時には、人間が自然との共生の道を探るという行動を起こしてきた。ではなぜそのような補正が出来たのか?それは進化の速度がまだ遅く、それらの補正が進化の速度に追いついて行くことが出来たからである。しかし現在IT化が急速に進み、人間の環境の進化は劇的に速くなってきた。その速さに補正が追いつくことが出来るのか?これまでのペースで行けば確実に追い付かない。

しかし環境補正の技術も劇的に発展してきている。よって人間の環境発展と環境補正のバランスを取ることは可能であるように思える。しかしそれは危うい橋を渡るようなもので、一歩橋から足を踏み外すと破滅への道をたどってしまう。上手く人間と自然が最適化を図りながら共生していくことが出来るか?これからの最も大きな課題である。

科学技術、そしてITが極度に発達した現代においては、技術を発展させ環境を大きく変えることはそんなに難しい課題ではなくなった。しかし自然と人間の共生を図ることは格段に難しくなってきている。あらゆる意味で数十年後の未来を想像することは困難になってきている。右に進むのか?左に進むのか?現時点では判断できない。これからの時代において最も重要な事は科学技術の発展ではなく、人間の意識なのかもしれない。人間の意識一つで発展の道へ進むか、破滅への道へと進むか、どちらに行くかが決定される。

散り際の美学?

プロスポーツ選手が引退する際の姿は、大きく二つに分かれる。一つは「散り際の美学」を持ち出し余力がある中でやめる人、もう一つはボロボロになるまで現役を続ける人だ。もちろん人それぞれ考え方や哲学があるのでどちらがいいかという問題ではないが、僕はボロボロになるまで現役にこだわる人の方が大好きだし共感できる。そもそも僕には「散り際の美学」というものが理解できない。そんな辞める一瞬の格好よりも、いかに現役を続けるかという問題の方がより深く大きいと感じるからだ。

サッカーで言うと、中田英寿か三浦知良かということだと思う。もちろん三浦選手は現役を続けているが、今でも最前線でプレーしており決してボロボロではない。そのような姿はさらに魅力的でもある。もちろん中田選手は超一流プレーヤーである。そんな中田選手に対して言うことなどは何もない。しかし個人的には出来る限り現役を続けてほしかったというのが僕の本心だ。超一流プレーヤーだからこそなおさらそう思う。

現役を続けるかどうかという問題は。プロスポーツ選手だけではなくあらゆる分野で言えることかもしれない。学問を追究している人なら、リタイヤするのか?あるいは死ぬ直前まで続けるのか?そういうことである。アインシュタインの最後の言葉は「(研究ノートの)最後の紙を取ってくれ」というものであったらしい。それはどのような学問を究めている人にとっても理想的な姿と言える。そもそも学問の研究に引退などというものはないと僕は思っている。しかし研究環境の問題や心身の問題から、リタイヤせざるを得ない人も多いのかもしれない。

今注目されているのは、メジャーリーガーのイチロー選手であろう。つい先ほどニュースで、イチロー選手がマリナーズと“マイナー”契約をしたという記事を見た。もしイチロー選手が日本球界に復帰すれば、バリバリの一流選手として破格の待遇を受けることが出来たであろう。しかしイチロー選手は世界最高峰のメジャーリーグで挑戦し続けることを選んだ。そのような選択には賛否両論があるだろうが、イチロー選手のいつまでもトップを目指し続ける姿勢、そして妥協しない姿勢は、イチロー選手を人間としてより輝かせて見せる。僕はそのようなメジャーにこだわり続けるイチロー選手が大好きだ!

散り際の美学なんていらない!

コンディションをいかに整えて攻めるか?

調子の悪い時でも、何とか前に進めようと無理に物事に取り組まざるを得ない時もあるが、調子を整えることによって効率が二倍、三倍になるのなら、まずはコンディションを整えてから攻めるのも非常に大きな手だ。しかし、何もしないでコンディションが良くなるほど簡単ではない。コンディションを整えるのにも、それなりの努力は必要だ。

例えば今僕がコンディションを整えるためにしている(ちょっとした)努力とは、お酒を飲まないとか大好きなコーヒーを出来るだけ控えるということだ。それ以外にも、体のコンディションを整えるために筋トレなどは欠かさずにやっている。もちろんそれらの事を実行するのは初めはかなりきついが、それが慣れてきて普通になって来ると、精神的にも強くなり調子がどんどん良くなってくる。この様にして上げたコンディションは維持していきたいものである。

やはり歳を取ってくると、何かと不具合は出てくるものだ。若い頃はお酒を飲んでも何をしてもコンディションが悪くなることはなかったが、今はちょっとした事でコンディションを悪化させてしまう。何をするにも努力が必要だが、歳を取るとコンディションを整えることの必要性はより強く感じる。

サッカーの三浦知良選手は50歳を超えてもプロとして活躍している。この事は非常に驚異的であるが、おそらく技術的な問題よりも体のコンディションを維持することの方が圧倒的に重要な問題ではないかと思う。もちろん、三浦選手に備わっている心身が生まれつき強靭的だったということもあろうが、それを維持することに対する努力は絶大なものがあると想像できる。若かりし頃もナンバー1プレイヤーだったが、それをさらに維持している三浦選手のプロ意識には絶大な尊敬を抱く。

人それぞれピークの時期も大きさも違うが、それをどれだけ維持できるかということも人それぞれである。しかしピークの大きさもそれらの維持も、意識の持ちようと努力によって大きく上げることが出来る。それが出来るかどうかは、それこそ人生観だとか生きがいというものに関わってくることだと思う。それらを強い意志によって実行できる者が大きなピークを起こすことが出来、高いコンディションを保つことが出来るのだと強く感じる。

楽しむことが大事だ!

自分が楽しむ事は大事だし、周りの人が楽しんでいるのを見るのも楽しい。僕の大好きなYouTuber「釣りよかでしょう」の動画を観てすごく楽しいと感じるのは、釣りよかの人たちが心から楽しんでいる様子がひしひしと伝わるからだ。楽しんでいるからこそ伸びるし、物事がうまく回り始める。つまり、楽しむ事は全ての原動力の源だと言える。

しかし、勘違いをしてはいけない。「楽しむ」事と「楽をする」事は全く違う。本気で楽しむためには全力で取り組まなければならないし、楽しんでいるからこその苦労も非常に大きい。釣りよかさんたちが楽しい動画を届けてくれるのも、地道な動画編集などの苦労のおかげである。

そのような楽しさの正反対にあるのが「タダ乗り」だ。物事を楽しむためには、それなりの対価を払うことが必要だ。もちろん、YouTubeを見ることに、視聴している僕らがお金を払っている訳ではないが、釣りよかのような本当に楽しい動画に対しては、多額ではないにしろ払う価値があると思う。それくらい、釣りよか動画は質の良い楽しい動画を届けてくれる。

ただ本来は、お金を払うのではなくお金を稼ぐ側にならなければならない。楽しんでお金を稼ぐことが究極である。とは言え、初めから好きな事をやってお金がもらえる訳ではない。初めはどうしても初期投資が必要だ。YouTubeだって、撮影機材を揃えなければ動画を撮れない。スペックの良いパソコンがなければ動画編集はできない。いかにお金を払う側からお金をもらう側にまわるか?それはその人の手腕と努力にかかっている。

思いっきり楽しんで、思いっきり稼ぐ。そのような生き方は決して簡単ではなく、楽でもない。しかしそのような究極的な生き方を目指して、自分の進むべき道を進んで行くことはいつまでも忘れないでいたい。

リーマン予想が解けた?

去年終わり頃の朝日新聞デジタルのニュースの中に、「リーマン予想証明?」という記事があった。リーマン予想は少しでも数学をかじったことのある人なら、名前ぐらいは聞いたことがあるだろう大問題だ。しかしこのような大問題は、解けたというニュースが流れては「間違っていた」と否定されることがほとんどであり、今回のニュースも怪しいものではと記事を見てみたら、その解いた数学者がなんとマイケル・アティヤ大先生だということでびっくり仰天した。

アティヤ先生は現在89歳で、数学者の間では「アティヤ・シンガーの指数定理」や「ADHM構成」など、知らない人はいないのではというくらい超一流数学者だ。僕の手元にも、アティヤの論文(指数定理関係など)は数編置いてある。ちなみに、アティヤ先生の専門は幾何学や数理物理学である。しかし今回のリーマン予想は(僕はそっちの方面には詳しくないが)、数論関係の問題なので、アティヤ先生のこれまでの専門とは少し畑違いなのではと僕は感じる。しかし一流数学者ほど分野の垣根にとらわれず、幅広く大きな業績を残すものである。

リーマン予想には僕はあまり詳しくないが、160年未解決であったらしい。まだアティヤ先生の証明が正しいとは確定していないが、現在査読が進行中であるようだ。そして誰もが、アティヤ先生ならあり得るかもと思っているに違いない。記事によると、アティヤ先生は別の(物理的)問題を考察する中で、副産物としてリーマン予想が解けたと言っているようだ。

果たして本当に解けたのかどうか?解けたのなら大きなことであるし、もし間違っていたのならリーマン予想に取り組む他の数学者にとっては希望が繋がれる。おそらく今年中には解けたのかどうかが一応確定するのではないかと思われる。