月別アーカイブ: 7月 2020

人生一度きりだからこそ、本気になれる。

昔から、多くの人が永遠の命を夢見て手に入れようと挑戦してきた。もちろんそれに成功した人間は今のところ一人もいないが、将来どうなるかは全く分からない。僕が以前読んだ「脳の意識 機械の意識」(中公新書)の著者・渡辺正峰博士は、科学の力で本気で永遠の命を手に入れようと挑戦している科学者だ。しかしそれに対するアプローチは、これまで取られてきた医学・生物学的なものではない。コンピューター的なアプローチで臨んでいるのだ。渡辺博士は、自分の意識をコンピューター(機械)に移殖して永遠にこの世に存在しようとしているのだ。

多くの人にとって、死は大きな恐怖であろう。もちろん僕にとってもそれは例外ではない。渡辺博士は、研究の最大の原動力は死への恐怖だと言っている。確かにこれまで死の恐怖が科学の発展の原動力になってきたことは多々ある。特に医学・生物学の一部では、死への恐怖、つまり死からどのように逃れるか、あるいはどのように死を遅らせようかと言うことは大きな原動力になってきたことは間違いない。北朝鮮の金一族は、金日成の時代から不老不死を手に入れることが究極の目標だと言われている。しかし永遠の命とはそんなに偉大なものなのだろうか?

確かに命は一度きりしかないと言う事実は時には冷酷である。生まれて間もなく死んでしまう子供も多いし、死によって不幸をもたらせられることも多い。そういう意味では、死を遅らせる、さらには健康を保つために発展させられる医学と言うものは非常に偉大で価値がある。医学によってもたらされる幸福は無数にある。しかしもし人生が一度きりではなく何度もあるならばどうだろうか?さらには不老不死と言うものが可能ならばどうだろうか?それは決して幸福ではないと僕は考えている。確かに健康で長生きできればそれは非常に幸せな事だ。だからと言って、不老不死を手に入れたいとは思わない。

もし永遠の命を手に入れることができたのならば、人生は非常に退屈なものになるだろう。あるいは不老不死自体が不幸である可能性も非常に高い。むかし読んだ手塚治虫の「火の鳥」では、まさしく永遠の命がテーマであった。そこでもやはり永遠の命が必ずしも幸福をもたらすものではないと描かれている。僕は一度きりの人生こそが究極に価値あるものだと考え、人生一度きりだからこそ本気で生きようと思える。確かに一度きりの人生では、出来ることよりできないことの方が圧倒的に多い。しかしそれでいいのだ。全てをやる必要はない。逆に全てをやることに大きな価値はないと僕は思っている。全てをすることはできない、だからこそ人間は本質を見抜こうとするのである。すなわち、全てをやりたいと思っている人間は、人生の本質を理解していないと言える。

僕の人生はすでに半分を過ぎていると思われる。これからの人生にどれだけの長さがあるか全くわからない。残り一日なのか、それとも五十年あるのか。しかしそんなことはどうでもよい。残りの人生を本気で生きて為すべきことを為すために努力する。そのような姿勢は死ぬまで持ち続けるつもりだ。

リスクを取ってでも、正しいことを貫く。

日本と言う国は法治国家だ。法治国家であるからには、国民は法に従うことが求められる。それは法治国家にとって大原則だ。しかし法と言えども全てが正しいとは限らない。なぜなら法を守るべき者が人間なら、法を作るのも人間だからだ。人間が作るからには時には間違いや欠陥もある。むしろそういうものが存在するのは当然だと言える。ではそのような法の間違いや欠陥に対してどのように向き合うべきか?

日本では「悪法も法のうち」と言う言葉がよく使われる。おそらくそのような事を言う人は、例え法がおかしくても無批判に法に従うのだと思う。そしておそらくそのような人たちは学生時代、教師と校則に従順に従っていたことであろう。確かにそれも一つの生き方である。それはその人なりに生み出した生き抜き方なのかもしれない。

しかし、間違っている事には間違っていると立ち向かう人がいないと世の中は良くならない。もし法が間違っていたりおかしかったりすれば、それを指摘する人が必用だ。しかしそれが難しいのは、そのような行為を取ることが時には非常にリスクを伴うことだ。それは現在の香港の状況を見るとよくわかる。中国政府の悪政に立ち向かっている人たちが大きな弾圧を受けている。そこまでではなくとも、正しいことを主張することには大なり小なりリスクを伴う。

僕自身は、自分が正しいと思ったことを貫き通さないと気が済まないたちだ。しかし時には自分の方が間違っていることもある。そのような時はやはり自分の非を認めないといけない。人間は決して神ではないので、誰だって間違いはある。しかしそれに立ち向かえるかどうかはその人の人間性が大きく表れるところだと思う。自分の生き方が譲れないのなら、覚悟を持ってそれを実行することが一人の人間として非常に大切だと強く感じるものである。

今の安倍政権は、倒れる要素しか見当たらない。

16日、政府(国土交通省)によるGoToトラベルキャンペーンが、都内在住の人に対して適用しないと言う決定がなされた。しかし都内在住者だけ適用しないと言う判断はいろいろな意味で問題だ。確かに現在、コロナ感染者は東京都が圧倒的に多いが、その周辺や大阪周辺でも拡大の一途をたどり、これが全国的傾向になるのも時間の問題だ。おそらく現在の都内の状況が二週間後の地方の状況になると考えるのが正常な展望であろう。なので、現時点だけの状況を見て都内在住者だけを除外するのは長期的展望に欠けるものだと言える。もちろん、都内在住者だけ除外するのは公平的観点からも適切ではない。おそらく二日後には全国でGoToキャンペーンが中止になると容易に想像できる。いや、そうしないと観光業界を助けるどころか、観光業を含めた日本産業全体に大打撃を与えてしまう。

それにしても、今回のGoToキャンペーンの不手際と言い、今の安倍政権は倒れる要素しか見当たらない。河井夫妻の金銭問題、そしてGoToキャンペーンを含むコロナ対策と言い、政府の対策は全て後手後手に回り、そして保身にしか感じられない。なぜ総理に強大な権力があるのか?もちろんこれには様々な議論があるではあろうが、今回のコロナ対策に関して言うと、対策するのに色々と時間がかかるものを総理の独断で迅速に進めることができると言うのも大きな理由であろう。なので今回のGoToキャンペーンに対しても総理の独断で迅速に全国で取りやめにすべきであった。しかし現実は、世論に押されて渋々とと言うところであろう。

もちろん、観光業界は今は壊滅的であり、迅速に対策を取るべきであろう。ならば他の手段はないのか?一番良いのはコロナが収まった後に大々的に進めることであろう。しかし現在の観光業界(そしてもちろんそれ以外の業界も)は一刻も争うような危機的状態である。しかし今回のGoToキャンペーンの予算は一兆円以上ある。ならば別の手段も考えるべきではないか?例えば観光業界への補助に回す方がまだ賢明だと言える。もちろん、例え一兆円と言う巨額な資金でも、全てに等分すれば大した額にはならない。ならば一時的な融資なども考えられる。

はっきり言って、このタイミングでのGoToキャンペーンなどほとんどの人は望んでいない。おそらく観光業界の人達の中にも有難迷惑だと考えている人もいるだろう。はっきり言って、今回のこの時期でのGoToキャンペーンは政府の失策である。もちろんこれだけで安倍政権が倒れるとは思わないが、しかしここ最近の様々な不祥事、そして最近の安倍首相の思考力・決断力のなさと保身に走る様子を見れば、政権が倒れるのは時間の問題だと言わざるを得ない。

コロナのワクチンに対する展望。

現在、コロナウイルスに対するワクチン開発が熾烈になって来ている。ではそのようなワクチン開発は果たして成功するのか?結論から言うと、運が良ければ早ければ来年前半くらいには実用化される。しかし運が悪ければ10年経ってもできない。ではここで言う「運」とは具体的にはどのような事か?

それには遺伝子が関係してくる。我々人間の遺伝子はDNAが主体になっているが、コロナウイルスの遺伝子はRNAの形を取っている。ではDNAとRNAは何が違うのか?簡単に言うと、DNAは二重鎖(いわゆる二重らせん)であるが、RNAは一本鎖である。それによって遺伝情報を転写する時に、DNAは修復機能があるがRNAには修復機能がない。それによって頻繁に変異が起こるのである。

現在、世界で蔓延しているコロナウイルスは一種類だけではなく、変異に変異を重ねて亜種が数十あるとも数百あるとも言われている。なのでこのような全ての種類に効くワクチンを開発することは非常に困難だ。そして今日効くワクチンが明日のコロナウイルスに効くとは限らない。HIV(エイズウイルス)に対するワクチンが数十年たった今日でも完成していないことは大まかには同じような事であり、今年効くインフルエンザワクチンが来年には効かなくなるのもこのような事である。

ノーベル生理学・医学賞を受賞された本庶佑教授はある記事(文藝春秋digital)でこのような事を述べ、ワクチンに対する過度な期待に対して警笛を鳴らしている。本庶教授自身はワクチン開発に対して悲観的だ。本庶教授の専門は免疫学である。つまりワクチンに関してはプロ中のプロ、そのような研究者が悲観的に述べているのだから、これから進む道はかなり厳しいと言える。しかし本庶教授は悲観だけを述べているのではない。ワクチンだけでなく治療薬の開発にも力を入れるべきだと述べているのである。たしかにワクチンなら特定のコロナウイルスにしか効かない可能性が高いが、治療薬なら全てのコロナウイルスに効く可能性が高い。

しかし、ワクチンと治療薬は役割が全く異なる。ワクチンはウイルスにかからないように予防するものであるが、治療薬はかかった後に投与するものである。出来る事なら治療薬よりもワクチンができた方が社会的効果は圧倒的に高い。しかし現実は、ワクチン開発につぎ込んだ数百億、数千億円がパーになる可能性も高く、治療薬を同時進行で進める必要があるようである。

医学の専門外の人(安倍首相をはじめとする政府を含む)から見れば、さっさとワクチンを作って押さえてしまえと簡単に言うが、現実はそんなに単純なものではないようである。自分の人生に対して楽観的になることは時には大きな力になるが、コロナに対してはむしろもっと慎重(悲観的?)になるべきであるようである。

最近、世界史にはまっている。

表題のとおり、僕は最近世界史にはまっている。数理物理の研究や勉強の合間などに、世界史の教科書や図解などを読んで世界の過去の動きを理解し深めている。歴史と言えば大きく日本史と世界史に分けられるが、日本史に関しては中学の歴史でも習い、僕の場合は大学受験も日本史で受けたので、日本の歴史に関しては親しみがあり、大まかな流れもだいたい理解しているつもりだ。しかし世界史に関しては全く手つかずの状態であり、それだけに非常に新鮮さを持って取り組むことができている。

そのように世界史に取り組む中で、色々と気になることも出てきている。その中で、世界史の一番の問題点は、カタカナ名があまりにも多いことだ。これは世界史を学んだ人から見ると当たり前に思うだろうが、これは非常に大きな問題だと僕は考えている。海外の人物や物、あるいは概念の名前は、当たり前であるが外国語で定義されている。百歩譲っても英語で記述されていると言える。それを読みだけを取って無理やり日本語(カタカナ)で書かれているものだから、非常に不自然で、また人や本によって表記が異なることが多い。そのような問題点を克服するためには、現地語で学ぶことが必用だ。なので大まかに世界史の流れを読んだ後は、英語(洋書?)で世界史を理解することが一つの目標だ。

しかし日本における世界史において、必ずしも欠点ばかりではない。日本における世界史は、世界的に見て非常に中立的に書かれていると言われている。海外における世界史は、その国の主観などが入り偏っていることが多いと言う。なので日本で中立公平な世界史を学ぶことは非常に利が大きいと言える。まずは日本語で世界史を学び、そしてそこから専門的な海外史を洋書で読むのが非常に良いのかもしれない。

とは言え、現在の僕は世界史に関してはまだまだ初心者だ。そしてカタカナ語をなかなか覚えることができない。しかし歴史を学ぶことは、単に過去の事実を暗記することではないと何かの本に書いていた。歴史の本質は、過去の事実や動きを分析して復元することだ。そのような意識を持って歴史の勉強に取り組むことにより、暗記科目では得られない深い理解が得られるはずだ。

社会がますます表面的になって来ている。

普段生きていて色々と感じることがあるとは思うが、僕は社会が表面的になって来ているのではないかと強く感じている。確かに社会は悪い側面を無くし、皆が暮らしやすい社会に向かおうとしていることは間違いない。しかしそれに向かっている事と、本当にそうなっているかと言うことは全くの別問題だ。何かを良くすれば別の何かが悪くなってくる。まさしくもぐら叩きである。僕は日本に住んでいるので日本の事が気になってしかたないが、おそらく海外でも中身は違え大筋では同じであろうと思われる。

その中でも僕が特に感じているのは、同調圧力から表面的になることである。特に日本では、皆と同じことをしなければならないと言う意識が強く、一人だけ違うことをしていると奇異な目で見られることが多い。よく言われるように、出る杭は打たれると言うことである。これを解決する方法は一つしかない。それは出過ぎた杭になることである。四六時中野球ばかりしている少年がプロ野球選手を目指していると言うと、「そんなのは無理に決まっている。バカじゃないか!」と言われる。しかしメジャーリーグで活躍すれば、少年時代に野球に打ち込んでいたことが美化される。イチローさんが正しくそうであったらしい。研究者でも同じだ。ノーベル賞を取ると断言している少年がいたらどう思うだろうか?やはりそんなのは無理に決まっていると多くの人は言うであろう。それを覆すには実際にノーベル賞を取るしかない。もちろん、研究者の一番の目的はノーベル賞を取ることではないのだが。

表面的になって来ていると言うことは、言い換えると無難になって来ていると言うことである、近年、日本の科学研究のレベルはどんどん低下していると言われている。その理由として科研費の削減などが言われているが、僕はそれが本質ではないと考えている。研究者が、特に若手の研究者がどんどん無難になって来ているからではないかと思っている。その背景には、研究ポストに就くことが困難になり、確実に研究ポストに就くためには小さく無難な結果を継続的に出すことが求められると言うことがある。しかしそれらの研究者は、本当にそれが自分の求める姿なのだろうか?もしそうなら本当に悲しい話である。

もちろん社会の表面化は、日常生活においても色々と表れている。いや、日常生活の方が顕著に表れているのかもしれない。人付き合いでは自分を表面的に繕って、良い側面だけを見せようとする。しかし苦しんでいる自分も本当の自分自身なのである。だから僕はブログでも正直に苦しい時は苦しいと書くことにしている。確かにインスタグラムやフェイスブックに苦しい様子を載せてイイねがもらえるわけないし、もしイイねされたら逆に落ち込むであろう。社会が表面的になるにつれ、人間までもが表面的になってしまう。そこが大問題である。それは言い換えると、本質を見抜ける人間が少なくなってくると言うことだ。たしかにもともと本質を見抜ける人間と言うものは少ない。それがさらに少なくなるのだ。ただ表面を変えること自体悪いことではないと僕は思っている。しかし重要な事は、表面と同時に本質的な中身も良い方向へ変えなければならないと言うことだ。