月別アーカイブ: 3月 2024

AI時代になって価値が爆上がりすること。

AI時代に価値が爆上がりする事。

1)不便さ

2)無駄

3)自分の頭で考える事

人々は不便さと無駄を求めて、自分の頭で考える事の莫大な価値に気づくであろう。

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先ほど僕がthreadsに書き込んだメモです。

AIとは世の中を超便利にし、超無駄をなくすものです。しかしそれが当たり前になると人間は違うものを求めたくなり、その結果AIの仕事とは真逆のことに価値が出るはずです。そもそも不便さによって人間は自ら動こうとするものだし、無駄とは言い換えれば人生の余裕でもあります。

そしてAIによって人間は考える必要がなくなると思われていますが、人間が人間たる所以は「考える」と言う行為にあります。AIが浸透するにつれ、人間はその事に気づくはずです。

僕自身、数学や理論物理、そして最近は理論生物学などの問題に取り組んでいますが、考えようによっては数年後にこれらの研究をAIがやるようになってもおかしくありません。しかしそのような世界が本当に楽しく面白い世界でしょうか?生成AIの急激な発展を見て、僕自身強い危機感を覚えました。将棋なら人間が戦うことに意義があるので、どれだけAIが発展しても藤井聡太さんの価値は下がることはありません。しかしAIが数学をするようになると、人間が出した結果か?AIが出した結果か?と言うことは関係ありません。ならばもう人間の数学者は用済みなのでしょうか?これまでのように社会的評価だけを考えていては、数学を研究する原動力は生まれません。ならば自分の頭で考えることがどれだけ価値があるか?そしてそれがどれだけ楽しいことなのか?そのような事を第一に考えて打ち込むしかありません。

AIを使いこなすだけの世の中って、人間がAIを使いこなしているように見えて、実は人間がAIの奴隷状態になっているのです。しかし人間は自分が奴隷になっていることさえ気づきません。奴隷になるのか?人間として生きるのか?それはその人の生き方・考え方にかかっています。

裁判判決をどう捉えるか?

裁判で判決が確定されれば、その判決の内容が社会的に認定される。もし被告が犯罪を犯したと判決で確定されれば、”社会的”にはその人は100%犯罪者だと認定される。しかし確定判決の内容が100%正しいかどうかと言われれば、それはまた別問題だ。こう言うと司法を軽んじていると言う人もいるだろうが、それが現実である。実際これまで数多くの冤罪事件が認定されてきた。そして冤罪が認められなかった人もそれ以上にたくさんいることが容易に推測される。おそらく確定判決は98%正しいのであろうが、2%(実際は何%かはわからないが)は事実と異なると考えられる。

特に殺人事件という、最も間違ってはならない裁判でさえ冤罪が起きている。袴田事件、そして再審が進められている滋賀県の看護助手の事件などがそうだ。そして殺人事件ではないが、冤罪かどうかが争われている大川原化工機事件でも被告が勾留中に亡くなるという痛ましい事件が起きている。これらの裁判に共通するのは警察・検察の自白強要、都合の悪い資料の隠蔽、都合の良い解釈である。そしてさらに冤罪の可能性が高くなり冤罪が争点になると、検察側の見るもお粗末な自己弁護が悪目立ちしている。それがさらに検察側の意図的に作り出された冤罪だという心象を多くの人に与えることになる。

なぜこのようなことを書いたかといえば、現在争われている松本人志さんに対する争いが、どちらに転ぶかわからない状況になっているのを目にしているからだ。もちろん僕は完全な第三者なので真相など全くわからない。しかしこの裁判は、証拠をどれだけ出してそれがどれだけ正しいと思われるかにかかっている。なのでもし松本さんの主張が正しくても、それを証明できるだけの証拠を持ち合わせていなければ松本さんの敗訴が濃い。しかしこれの言うところは、松本さんが証拠を持ち合わせていなかったと言うことであり、完全に松本さん側の言い分が嘘だと言うことではない。もちろん嘘かもしれないし本当かもしれない。それは我々一般市民には全くわからない。

ここで松本人志さんの裁判に対してどう思うとか、どちらが正しいだろうと言うことは僕は一切言わない。しかし裁判の判決はかなりの高確率で正しいと思われるが、それが本当に100%事実かどうかと言うことはまた別問題だと言うことである。特に松本さんのケースでは、現時点では50:50と言うどちらに転んでもおかしくない様相である。しかし「半分本当で半分嘘」なことでは全くなくて、「100%本当か、100%嘘」のどちらかなのである。なのでこのような50:50の状況でどちらかが1プラスされて51:49になったから51の方が正しいとなっても、社会的にはそう認定されたとはなるがそれが本当に正しいかどうかはまた別問題である。なのでこのような裁判で結論が出たからといって、第三者である僕たちがそう決め込むのはちょっと危ないのではないかと僕は考えている。