今、石破茂氏に流れが向いてきたのか?

自民党派閥存続問題で、安倍派・岸田派・二階派の解散が確実になった。おそらく派閥解消によって、これからの自民党政治は大きく変わるだろう。そしてそれと同時にこれから大きく注目される政治家は、石破茂氏に違いない。僕が石破氏の支持者だと言う贔屓目を差し引いても、派閥解消後の自民党を率いるのは石破氏しかいないと思っている。

ところがメディアの論調を見ていると、派閥解消で注目を浴びているのは菅氏であるようだ。確かに菅氏は首相経験もあり、かつ無派閥のボスだ。そこに目が行くのも無理はない。しかし菅氏はもう終わった政治家だと僕は見ている。明らかに総理の器ではなかった。それに対して、政策通で独自の信念を持ち、かつクリーンである石破氏は確実に総理の器を持っている。ところが石破氏は非常に不器用で政治的人間関係を作るのが苦手で、それゆえに派閥形成に失敗した。なので国民的人気があるにも関わらず、自民党内では石破氏は不人気であるようだ。おそらく自民党議員たちも石破氏の下では自らの地位を固めることはできないと考え寄りつかないのだろう。

しかし時代は今変わろうとしている。自民党総無派閥時代に突入しつつある。そうなると党内でも権力闘争より政策実行力のある政治家が注目を浴びる。こうなると石破氏の出番である。これまで安倍派や岸田派に所属していた政治家も、石破氏に急速に近づいていくに違いない。そして派閥無き自民党で影の最大派閥が石破グループになる可能性も否定できない。そうなれば、石破氏の総理総裁の可能性も俄然高まる。

とは言え、石破氏といえども万能ではない。先ほど述べたように不器用なところは皆の知るところであるし、しかし言い方を変えれば愚直で生真面目と言える。しかし僕が思う最大の強みは、防衛政策にとことん通じているところであると思っている。台湾有事など中国に対する防衛問題が重要になった今、防衛政策を的確に実行できることは最も重要である。今アメリカではトランプ氏がまた大統領に返り咲くのではないかともっぱらの話題である。そうなるとトランプ氏と懇意の安倍氏がいないのは日本にとって痛恨の極みである。そして石破氏は不器用である。外交は個人的な人間関係も非常に重要であるから石破氏には少し不安であるが、そこは具体的な政策実行能力で乗り切って、アメリカとの強い関係と東アジアの防衛危機を乗り切ってくれるものだと信じている。果たして石破総理総裁は誕生するのであろうか?

本を読むこと。

今月、このブログのレンタルサーバーおよび独自ドメインの、年一回の使用料の引き落としがあった。はっきり言って今の僕にとっては決して小さな額ではない。それなのに去年はほとんどブログを更新せずに放置状態だった。せっかくこのように発言の場を構築しているのに、それを使わないのは非常にもったいない話だ。なのでこらからはまた頻繁にこのブログを更新していきたいと思っている。

とは言え久しぶりに執筆してみると、毎日更新していた時のようにスラスラと文章が出ない。少し書く手がおぼつかないのだ。やはり何でも毎日続けることによってスキルを維持できるのだとひしひし実感してしまう。これまで積み重ねたものを維持するためにも、毎日行動を起こすことが重要である。

ところでタイトルにあるように僕が読んでいる本について書こうと思うのだが、特定の本に関することではない。僕が読んでいる本に関する全般的な話だ。初めに言っておくと、最近は専門書および科学書しか買っていない。そしてそれらの本の購入に(僕にとっては)多額のお金を注ぎ込んでいる。僕の専門はもともと数学・物理(数理物理)だが、最近はあらゆる科学が面白くて、理論生物学や化学、そしてコンピューター関連の専門書なども読んでいる。そして本だけでなく、論文もできるだけチェックして目を通すようにしている。

論文に関しては、数学・物理に関する最新の論文は「arXiv」と言うサイトに全て集まっているので、無料で論文が読み放題である。そしてここ数年になって、arXivの生物学版、医学版、化学版などもでき、それらの分野に関する最新の論文も読み放題である。このarXivに載っている論文はプレプリントと言われるもので、基本的に査読はされていない。つまり専門家のチェックが入っていない状態のものがまずは掲載される。そしてarXivに載せた後、論文雑誌に投稿するという流れである。

先ほど述べたように僕は専門書を買いまくっているのだが、別に全ての研究者が大量の本を買いまくっている訳ではない。本にほとんど頼らずに研究を実行している研究者もいる。そのような研究者は僕から見ると本当に尊敬に値する。ただ僕自身はとにかく本を買いまくって構想するスタイルをとっており、これからも本を買いまくっていくと思う。それが良いのか悪いのかはわからないが、それが僕のスタイルだ。

専門書や科学書は頻繁に買ってはいるが、小説などの類の本は本当に全く買わなくなった。学生時代は小説などもそれなりに読んで楽しんでいたが、最近は小説を読むのがお金も時間も無駄に感じてしまう。もちろん時間が無限にあるのなら小説なども読んでみたい気は少しある。しかし時間は有限である。そう考えた時、少しでもサイエンスに時間を割きたいと思ってしまう。

近年は出版不況と言われ、皆本を買わなくなったと言われている。情報はネットから無料でいくらでも手に入る。そして本を買う時も最近は電子書籍を購入することが多くなったのではないだろうか。僕自身も電子書籍を購入することがあるが、専門書は基本的に紙の本にこだわっている。確かに紙の本は持ち歩きに不便だ。電子書籍なら何万ページの本でもiPad一枚で済んでしまう。僕自身はどちらがいいと断言しようとは思わないが、専門書に関しては圧倒的に紙のほう効果があるように感じる。しかし論文はネットからダウンロードしてiPadで読むのが便利だ。そして小説などは電子書籍をスマホで読むのがいいだろう。

とにかく紙の本であろうと電子書籍であろうと、本を読むことは人間の知的活動においては不可欠だ。最近はAIを利用する機会も出てきているが、人間が人間である所以は「思考する」と言う行為にある。考えることを放棄してしまえば、それは人間であることを放棄しているのも同然だ。自分はどこまで思考し続けることができるのか?その究極的な限界を追及していくのも非常にエキサイティングな行為だと僕は強く思っている。

「自分の頭で考えること」と、「人の言うことを聞かないこと」

「人の言うことを聞くことは大事である。」多くの人はそう思っていることだと思う。そして多くの人にとってそれは間違いではない。しかし人の言うことを聞くのはいいとしても、全てを人の意見に丸投げして自分は一切考えないとなると本末転倒だ。もちろん、自分ではどうしても手に入れられない情報を他人から手に入れることは非常に重要だ。今のウクライナ戦争でプーチンが苦境に立たされているのは、周りをイエスマンで固め、正しい情報がプーチンに行き渡らないことが原因だとも言われている。

確かに人の意見を聞くことは重要だが、僕はあえて人の意見を聞かないことが多々ある。それは人の意見に左右されずに自分の頭で徹底的に考えて判断するためだ。僕は何よりも「自分の頭で考えること」を最重要視している。極論を言うと、人の言うことに素直に従って成功するよりも、例え失敗しても自分の頭で徹底的に考えて行動することの方が価値があると考えている。そして自分の頭で考えて動いた結果の失敗は、必ず後の成功に結びつく。それに対して、人の意見に従って成功しても、それは後に続かない。とは言え、僕だって自分の頭で考えて最終的に成功する自信があるから自分の頭に従っているのだが。

現在、生成AIが非常に話題になっている。正直言って、現時点でのAIはまだまだ人間に比べて不完全だ。確かに将棋のように単純であるが膨大な手があるようなゲームには大きな力を発揮するが、論理的に物事を構築することに関してはまだまだ人間には及ばない。しかし数年後どのようになっているかは断言できないが。しかし例えAIが発達したとしても、人間が自分の頭で考えることを放棄しては決してならない。人間を人間たらしめているのは「思考する」と言う行為にあるのだから。思考することをやめたとき、その時人間が人間でなくなる。

とは言え、僕はIT社会に逆行しろと言っているわけではない。テクノロジーの否定は人間に何ももたらさない。たとえ社会にとってネガティブなテクノロジーが現れても、それを凌ぐポジティブなテクノロジーで解決しなければならないのである。科学もテクノロジーも退化することは絶対にないのである。開けたパンドラの箱は戻らない。しかしテクノロジーがどれだけ発達しようが、僕は人間の知能と思考の限界に挑戦して行こうと強く心に決めている。

Threadsに移転。

三週間ほど前、meta(旧Facebook)社がThreadsというアプリをリリースした。僕もThreadsがリリースされた初日にThreadsのアカウントを作り、書き込みを開始した。ThreadsはよくTwitterの代替品と言われるが、決定的に異なるのが書き込める文字数で、Twitterが140文字制限であるのに対しThreadsは500文字まで書ける。なのでTwitterは書ける文字数が少なすぎて思ったことが書けなかったが、Threadsにはそこそこ伝えたいことや思ったことが書き込める。

これまで僕のTwitterアカウントは開店休業状態であり、単にブログを書いたときに自動的にリンクが載るだけになっていたが、Threadsにはちょくちょく意見や思ったことをその都度書き込んでいる。何ならこのブログの代用品にしようかとも考えている。また電車の中でサクッと二、三文書き込めるのも嬉しい。

Threadsの僕のアカウントは本名の「木原康明」で登録しているので、もしよければ検索してフォローしてくれるとすごく嬉しい。特に最近はブログの執筆頻度が少なくなっているので、その代わりにThreadへの書き込みを増やしていきたいと思っている。なのでThreadsの方もよろしく!

本を力に変える!

またまた本を注文してしまった。かなり高額な専門洋書をAmazonで予約注文したのだ。はっきり言って今回の本はかなり高額だったので、注文するかどうか数日考え込んでいた。しかしいつもの如く、買うかどうか迷ったときには結局買ってしまう。本当に懐が痛い!

しかし本は買って終わりではない。身につけて着飾るものでもない。読んで理解して、頭脳の血となり肉とするのが目的だ。血となり、知となる。そして知となった血は一生の宝となるのだ。それらの知は大きな力となる。野球で大谷翔平を超えることはできないが、知の世界で大谷級のホームランをかっ飛ばすことは可能かもしれない。そのためにはもちろん努力も必要だし、強い意志と覚悟も必要だ。

今回高額な本を注文した訳だが、普通に考えて僕のように本にこんなにもお金を注ぎ込む必要は全くない。しかし僕のスタイルは、本を買って集めて、それらの本の知を縦横無尽に駆使して結果を出そうと言うものだ。なので今では本を買いまくることに躊躇しない。必ず大きな結果となって表れることだろう。

しかしどうやら近年は出版不況だと言われ、本が昔ほど売れていないようだ。そりゃそうだ。平均的な情報ならスマホでいつでもどこでも手軽に読んで手に入る。もしかしたら今存在するすべての本に書かれている情報の総量よりも、ネット情報の総量の方が多いかもしれない。僕も電車の中では、スマホでニュースなどを読んだりして気軽にネット情報にアクセスする。しかしそれでも紙の本の優位は揺るがないと考えている。もちろん最近では電子書籍というものもある。僕も電子書籍を部分的に利用はしている。しかし何かが違うのだ。専門書は紙の本で読みたくなる。しかしこれも読む本の性質によるのだろう。小説なら電子書籍で全然構わないし、教科書を電子書籍で読むのも良いと思う。特に小学生がランドセルに教科書を何冊も入れて重そうにしているのをみると、iPadひとつに全ての教科書を入れることのメリットは絶大だ。しかも手軽にどこでも読める。しかし紙の本はこれからもなくならないだろう。いかに紙と電子書籍の「ハイブリッド使用法」を確立するかがこれからの課題になるのかもしれない。

AI研究者は、Dr.ゲロになるのか?AI制御の重要性。

今、AI開発が劇的に進歩している。多くの人が知っているように、OpenAI社のChatGPTはとんでもない性能を発揮している。これまでは2040年頃にAIが人間の知能を超える「シンギュラリティ」がやってくると危惧されていたが、しかしそれが今年もうすでにシンギュラリティに片足を突っ込んでいることが明らかになった。では具体的に、ChatGPTの何に脅威を感じているのか?例えばChatGPTに相談をして答えてもらったり文章を生成してもらったりしていることについてははっきり言ってそんなに驚異ではない。一番の脅威は「プログラミングの自動生成」である。プログラミング自動生成のループに入ればAIは自分で自分を脅威的な速さで発展させることができる。そのようなループに入れば、人間を超えるのに1秒もかからないであろう。

今、AI研究者たちの間で真剣に議論されているのが、AIによる人類滅亡である。現在のAIの発展を見ると、はっきり言って核兵器よりAIの方が圧倒的に脅威的になりつつあることがわかる。楽観論者たちはAIが人間の代わりに働いてくれるなどと呑気なことを言っているが、AIと人間が一度敵対的な関係になれば、AIが人間を滅ぼすことなど朝飯前だ。AIにとって人間などどうでも良い存在になるのだ。多くの研究者は、一度AIに自我が芽生えて人間を滅ぼそうと思えば、数秒で人類は滅び、人類は自分たちが滅ぼされたことにさえ気づかないだろうと言っている。

とはいえ科学が後戻りできないように、AI開発と言うパンドラの箱を開いた人類も後戻りはできない。では人類に生き残る方法はないのか?その可能性としては「AI制御」を徹底することがあると僕は考えている。つまりAIを野放しにするのではなく、AIを確実に人間の制御下に置くと言うことだ。しかしこのような概念はまだ誰も述べてはいない。少なくとも僕は一度も聞いたことがない。AI開発は性能を上げることばかりに囚われて、AI制御の研究などまだ誰も取り組んでいないのだ。しかしAI制御のないAI社会など、セキュリティ対策を全くしていないネット社会と同然だ。もちろん、AI制御をしたからといって、必ずしも人類滅亡を避けられるとは限らない。しかしAI制御に人類滅亡回避の可能性を賭けてみるべきではないだろうか?

AI制御は今人類最大の課題と言える。国家・社会はAI開発、AI利用一本槍だが、今世界が総力を上げてAI制御研究に取り組むべきではないだろうか?僕もその一端を担ってみようかと真剣に考えている。

漫画「巨人の星」と、元マラソン日本代表・原裕美子さんの「摂食障害・窃盗症」を考える。

ネット記事で、元マラソン日本代表の原裕美子さんの記事を読んだ。知っている人も多いと思うが、原さんは以前、窃盗を繰り返し何度も逮捕されたことでも有名だ。このことだけを見れば「なぜそんなことをしたのか?」と疑問に思うが、実はそれまでの経緯をたどればマラソンに人生を賭けてきたことが大いに関係していることがわかるのである。

原さんは実業団でマラソンに励み、日本代表にまでなった凄い選手であるが、その一方、チームの監督から極度のダイエットを強要され、1日に何度も体重計に乗せられ少しでも体重が増えていると叱責されるという指導を受けていたという。これだけでも極度のストレスを受けるものだが、そこで原さんがそのストレスから逃れるすべを見出したのが「食べ吐き」と言う手法であった。これは文字通り「食べては吐く」を繰り返すものだ。これなら好きなものを思う存分食べることができ、そして吐き出せば体重も増えない。しかしこれは側からみればとても尋常ではない。そしてこのような方向に進ませる指導はとてもじゃないがまともな指導とは言えない。さらに原さんは合宿中に財布を取り上げられていたという。もうここまで来ればこれは「指導者の犯罪」と言っていいレベルである。そのような状況の中、耐えられなくなった原さんは食べ物を窃盗すると言う方向に走ったという。

このような旧態依然の指導を見た時、僕は漫画「巨人の星」を思い出した。巨人の星の内容が原さんの指導と同じであるわけではないが、スパルタで全く理にかなっていない指導者よがりの指導方法は原さんに対する指導と通じるものがあるのではないか。原さんを摂食障害という病気に追いやり、犯罪者に仕立て上げるような指導は、はっきり言って指導ではなくほぼ犯罪だ。さらにそんな指導で強くなれるはずはなく、仮に良い成績を一時的に挙げたとしてもそんなものは見せかけでしかない。それは巨人の星に感化された昔のプロ野球が証明していると僕は思っている。

数十年前、日本のプロスポーツといえばプロ野球一択であり、プロ野球、特に巨人が大ブームであった。王貞治然り、長嶋茂雄然り、彼らは間違いなく日本のトップ選手であった。しかしアメリカと戦ったらどうか?昔は毎年のように日米野球というものが恒例であったが、日本はメジャーの二流選手に全く歯が立たない。そう、彼らは日本の中でこそ超一流であったが、メジャーの世界では眼中にもなかったのだ。おそらく「世界の王」も、もしメジャー挑戦をしていたら三流選手で終わっていたであろうと思う。そしてその元凶が漫画「巨人の星」なのである。

話は原さんに戻るが、そこにあるのは「勝てば監督の功績、負ければ選手の責任」ということであろう。そのような考えのもとでは、選手は単なる使い捨ての道具でしかないのであろう。そしてそのような歪んだ世界を確立させたのが、漫画「巨人の星」であったと僕は考えている。そしてそのような価値観を打破するには野茂英雄の登場まで待たねばならなかった。そう、野茂英雄は日本のスポーツ観を根底から覆したのである。その証拠に、野茂氏がメジャーで成功してから、メジャーで活躍する日本人選手が次々と誕生した。野茂氏以前の「日本人がメジャーで活躍できるはずがない」と言う当時の常識から考えると隔世の差がある。

今、日本のスポーツは非常に良い方向へ進んでいると僕は感じている。理にかなった指導をし、科学の力を借りてより負担の少ない方法で最大限の力を発揮できるようになってきている。そのような中、大谷翔平のような怪物も日本から誕生した。そう、もう巨人の星の時代は完全に葬り去られたのである。

コロナ、5類への移行と対策緩和について。

先日、岸田総理はコロナの5類への移行を表明した。確かに現在のコロナの重症化率や死亡率の低下、感染者数の推移を見ればいつかは5類への移行は避けられないだろう。しかし今回の5類移行にはいくつかの問題点も存在する。

一つ目は、僕が何度も言及している「コロナ後遺症問題」だ。重症化率は低くなったとは言え、コロナ感染後の後遺症発生率はこの種の疾病としてはかなりの高確率だ。欧米では後遺症の発生率は8人に一人と言われ、軽い倦怠感レベルでは約半数の人が抱えると言われている。これは単純に一千万人が感染すれば125万人が後遺症に悩まされる計算になる。もちろん後遺症と一口で言っても重症なものから軽いものまで様々だが、これは間違いなく大きな社会問題になる。そして現在のところ、後遺症の決定的な治療法は見つかっていない。なので後遺症の有効な治療法、あるいは薬の開発は最重要課題と言える。

そしてもう一つの懸念は、今後現れる変異株の病原性が低いとは限らないと言うことだ。現在中国では爆発的な感染が広がっている。そして感染者の多さから考えて、いくつかの変異株が発生する可能性が非常に高い。これまでは病原性の高いデルタ株から低いオミクロン株へと病原性が低下する傾向にあった。しかし確率的な問題として、これからも病原性が低下するとは限らない。可能性としては致死率の高い変異株が現れても何もおかしくないのだ。もちろんその可能性はどちらかというと低いと考えられる。しかしそのようなことも想定して政策を進めることが重要なのではないか。

僕の個人的な意見として、現在では確かに2類分類は厳しすぎると考えている。しかしだからと言って、上記したように、後遺症問題、変異株問題を考えると、季節性インフルエンザと同じ分類にするのも違うように思う。もし5類に分類した後に病原性の高い変異株が流入したときはどのような対応をとるのか?そのような想定が一切見えてこない。僕は今後のコロナ政策には柔軟性が一番大事だと考えている。流行が激しい時や病原性の高い変異株が入っていきた時には対策を強める。そして流行が下火になれば緩和する。そのような対応を可能にするためにも、2類や5類とかではなくコロナ独自の「新型コロナ類」を設けるべきだと考えている。そして類別に縛られることなく対策を柔軟に進めるべきだ。

とにかく重症化率が一時的に低下しただけでは、季節性インフルエンザと同じだとは言い難い。そもそも新型コロナは季節性ではなく一年に何度も流行を繰り返す。なので決定的な治療薬や変異株によらないワクチンが開発されるまでは予断を許さないと僕は考えている。

佐藤幹夫・大先生がお亡くなりになられた。

1月16日の夜、Yahooニュースを見て驚いて声をあげてしまった。大数学者の佐藤幹夫先生が亡くなられたというニュースを見たからだ。佐藤先生にはお会いしたことはないが、僕は以前から佐藤先生の理論を応用しようとずっと格闘してきたからだ。

個人的な意見だが、僕は一番偉大な日本人数学者は佐藤幹夫先生だと思っている。これまで3人の日本人数学者が数学のノーベル賞と言われているフィールズ賞を受賞されたが、佐藤先生の業績はこの3人を大きく凌駕する。佐藤先生の業績は数学の中でも非常に多岐にわたっている。その中でもまず言及しなければならないのは、もちろん「佐藤超関数」そしてそれに続く「代数解析」の創始であろう。もちろん、ソリトン理論における佐藤理論も忘れてはならない。これらのどの理論も、世界的な超一級の理論ばかりなのである。

ニュースによると、佐藤先生は94歳だったそうだ。佐藤先生は京都大学数理解析研究所の所長もされていた。そして佐藤先生と言えば、多くの一級の弟子を育てたことでも有名である。柏原正樹教授、河合隆裕教授をはじめ、数学者なら誰もが名前を聞いたことがある数学者ばかりだ。佐藤先生とそれらの弟子たちのグループは京都スクールと言われている。

佐藤先生の理論に取り組んでいる僕としても、やはり一度は佐藤先生にお目にかかりたかった。そして誰が何と言おうと、僕は佐藤幹夫先生が日本人最高の数学者だと断言したい。佐藤先生が亡くなったことは非常に残念だが、94歳という年齢を考えると大往生であり、「お疲れ様」と言うのが一番相応しいのかもしれない。

コロナ禍、「終わりの始まり」か?、それとも「始まりの終わり」か?

思い返せば、初めてワクチンが出回ったことは、これでコロナ禍とはお別れだと思った。実際、ワクチン1回目接種後の2021年度終わり頃は、日本では劇的に感染者数が減っていた。しかしコロナ禍は今でも収まることはなく、延々と続きそうな気配である。それどころか、感染者数はますます増えてきており、それだけを見れば悪化しているとも捉えられる。幸いにもコロナウイルスは弱毒化しているように感じられ、コロナ問題は弱小化しているようにも感じられる。しかしこれも本当にコロナウイルスが弱毒化しているのか?それともワクチン効果で重症化が抑えられているのか?はっきりと判断できない。

今社会ではコロナ禍の「終わりの始まりだ」と言う声が叫ばれている。しかし本当にそうなのだろうか?僕にはむしろ「始まりの終わり」のように思えてならない。むしろこれからが、本格的なコロナ共存社会に突入するのではないかと感じられるのである。確かに今ではコロナは弱毒化して重症化の危険性は圧倒的に低下してきているので、本症状自体は過度に恐れるものではなくなった。しかしそれに変わって今は「後遺症問題」が顕著になってきている。しかもこれがかなり深刻な問題なのだ。コロナの本症状が軽症だった人でも、寝たきりレベルの重篤な後遺症が現れることもそれなりにある。後遺症が発症する確率は8人に一人と言われている。これは異常な割合だ。軽い倦怠感が残ると言うレベルだと、半数くらいの人が発症しているとも言われている。今はコロナが治った後の方が恐ろしい状況なのである。

このようなことから、本当に社会がコロナ禍を克服したと言えるには、コロナ後遺症のほぼ完全な治療法が確立した時なのではないかと僕は考えている。ではそれまで我々ができるコロナ対策は何なのか?それは日々の行動やマスクに加えて、定期的にワクチン接種するくらいしかない。とは言え、僕自身はワクチンに対してかなり肯定的な考えを持っておりワクチンは積極的に打つべきだと考えているが、そのような僕でも最近の状況を見るとワクチンに対して疑問を持つことも出てきた。ワクチンが出てきた2021年度後半、まだデルタ株が猛威を奮っていた頃、ワクチンの発症予防率は95%と言われてなり物入りで登場してきた。しかし今では発症予防などはほとんど言われず、重症化予防が目的だと内容が完全にすり替えられている。とは言え、ワクチンは後遺症の危険性も低下することがわかっている。なので今僕は後遺症予防だと考えてワクチンを打っている。

ではこのように、コロナ禍はこれからも延々と続いていくのかと言われれば、僕は決してそうではないと言いたい。治療薬が次々と開発されていくように、後遺症の治療法も確立される日が必ず来るだろう。しかしそれにはまだまだ時間がかかるように思える。その理由は、コロナ後遺症の発症メカニズムがまだ完璧にわかっていないからだ。発症メカニズムがわからないことには対処のしようもない。まずはコロナ後遺症のメカニズムを突き止めることが今の一番の課題だ。しかし近い将来、コロナ後遺症が大きく解決する日が来るであろう。その時こそ「始まりの終わり」から「終わりの始まり」に変わったと言えることであろう。