被害者にプライバシーは全くないのか?

先日北海道で起こった重大事件の報道において、被害者の名前や顔、そして加害者との関係性などが何の配慮もなしに流され続けていることが非常に可哀想でならない。加害者の情報を報道するのはもちろんとしても、そこまでして被害者の個人情報を流す意味が本当にあるのか?さらに読者・視聴者が知りたいと望む情報ならば無条件に何でも流しても良いのか?甚だ疑問である。

特に今回の事件には、被害者にとってセンシティブな内容が含まれる。今の報道の状況を見ていると、被害者を晒しあげているようにも感じる。もし被害者が生きていれば、ここまで個人情報が垂れ流されることはなかったであろう。しかし被害者が亡くなった場合、途端に個人情報やプライバシーの問題が完全に無視される。被害者にとっては二度殺されたも同然だ。

つまり報道機関は、報道内容に対して本当にプライバシー保護が大事と思っているのではなく、単に横並びで基準を決めているだけのように思えてならない。そしてこれから予想されるのが、被害者への中傷だ。社会ではなぜか被害者、そしてその家族が中傷を浴びることが多い。そのような悪質的な中傷を防ぐためにも被害者の個人情報を流すことには慎重にならなければならない。

我々は被害者の名前を本当に知る必要があるのか?一部には「被害者の背景を知ることが重要だ」なんて声も聞かれるが、被害者のプライバシーを侵してまでもそんなことを知る必要は全くない。被害者の詳しい個人情報を知りたい、流したいと思うのは、報道機関の、そして一般市民のエゴでしかない!今回の事件の報道を見て、改めて被害者のプライバシー保護の問題の重要性を強く感じた。

僕がなぜAIに否定的なのか?

僕は基本的に新しい物大好き!新しい技術大好き!という人間である。しかしAIに関してはかなり否定的であり、かなり将来を悲観している。それはなぜか?そのことについて述べようと思う。

AIとそれ以外の技術には決定的かつ本質的な違いがある。それはAIの本質が「考える技術」であるということだ。僕は人間の本質が「考えること、思考すること」にあると考えている。なのでそれがAIに取って代えられるということは、人間のアイデンティティが奪い去られるということを意味する。なので考える行為を奪い去られると、人間は人間でなくなる。そのようなことを危惧しているのだ。もちろん全ての人間がそうなるのではなく、完全な二極化が起こるはずだ。徹底的に思考する人、そして考えるという行為を放棄する人に。

そしてさらにAIが発展して行けば、AIは自律的に物事を考え行動するようになるだろう。そうなるともう人間はお払い箱だ!「AIが人間が豊かに生活できるようにサポートしてくれるようになる」などというようなお花畑のようなことを言っている人が多くいるが、現実は非常に残酷だと思う。人間と家畜の牛の関係を考えてほしい。なぜ人間は牛を家畜化することができるのか?それは人間の知能が牛より圧倒的に優れているからだ。そして未来の人間とAIの関係は、人間がその牛の立場に置かれるということだ。

人間はAIを無条件に高性能化することによって、人間の本質を捨て去ろうとしている。そして人間は人間でなくなるであろう。さらにいえば、数十年後、いやもしかしたら10年後くらいには人類が絶滅している可能性もある。今AIをビジネスに利用すれば業務が効率化され利益も増えるともろ手をあげて歓喜している人が非常に多い。しかしそのようなことが言えるのは、現在がAIの発展が始まった初期段階だからである。先ほど言ったように、AIが自律的に行動するようになれば人間はAIに指示する必要もなくなる。その時人間はお払い箱になるのである。しかし一度開けたパンドラの箱は元には戻せない。ある意味、人類にとってAIは核兵器よりも遥かに危険な物であるということを認識しなければならない。

学生時代、全力で取り組まなくて後悔してること。

僕は今では色々なことに挑戦しようと意欲満々だが、学生時代はそうではなかった。数学と物理に関しては人生を賭けるつもりだったので常に全力で取り組んできたが、数学・物理への思いが強すぎてそれ以外のことには本気になれなかった。もちろん今なら全てのことに全力を尽くそうとは思うが、当時は数学・物理以外のことは適当に済ませばいいと思ったりしていた。

では全力で取り組んでおけばよかったこととは具体的には何か?一つは数物以外の学問、つまり生物学や哲学など、そしてもう一つは当時入っていた混声合唱団のサークル活動だ。特に合唱サークルを真面目に取り組まなかったことは非常に後悔している。僕らの同期は人数が少なかったので、真剣に全力で取り組んでいれば学生指揮者のチャンスもあったと思う。そして今考えるとすごくやりたかった。しかし当時はそんなことは全然思わなかった。そんな大変なことなどやりたくないと思っていたのである。はっきり言って不良団員である。

大学時代の僕は調子を崩したこともあって、人生をエンジョイし尽くすことができなかった。しかしそれはそれでいい。しかし全力で物事に取り組まなかったことは本当に後悔している。何しろ人生は一度しかない。なのでその一度の人生を全力で生きることはすごく大切なことである。しかし過去のことをとやかく言ってもしょうがない。今僕にできることは、これからの人生を全力で生きることである。全ての学問に対しても、そしてそれ以外のことに対しても全力で取り組みたいと思っている。そしてこれからの人生を全力で楽しみたいと思っている。

僕の人生は確実に後半戦に入っている。そして中年にもなると、いつ死んでもおかしくないと思っている。あと50年生きるかもしれないし、明日死ぬかもしれない。だからこそこれからの人生を全力で駆け抜け、全力でエンジョイしたい!そしてこの世からいなくなる直前には、僕の人生は後半戦の方が楽しくエキサイティングだったと言い切りたい!そのためにもとにかく挑戦!挑戦!そして挑戦!挑戦あるのみである。

本屋に行く目的。

僕は本屋が大好きだ!なので近所の本屋で何の目的もなくぶらついたりするし、ジュンク堂のような大型書店に行くとワクワクする。本屋に行くと言うことは何か本を買うのが目的か?と思われるかもしれないが、必ずしもそうではない、むしろ本屋でぶらつくこと自体が目的と言っていい。もちろん本屋でさまざまな本を目にして気に入った本を買うこともあるが、ぶらつきながら様々な本を手に取ることが何よりもの楽しみなのだ。

大型書店といえば大阪梅田の丸善ジュンク堂の梅田茶屋町店に行くことが多いが、大型書店の一番の強みは専門書が揃っていることだと思う。そこでは僕の専門の数学・物理書だけでなく、生物学・医学書から経済学書までかなり幅広くチェックしていく。和書ならほぼ何でも揃っているので、分野を絞ってしまうのは勿体無い。

とはいえ、最近はAmazonや楽天などのネット書店で本を購入することが非常に多い。その理由はネット書店のポイントにある。特に楽天のポイントは半端ない!消費税分くらいは余裕で取り戻せる。特に高額な本になればなるほど効果が発揮される。もちろんそのようなことをすることに、実在書店には申し訳ないと言う気持ちはある。しかし僕のように毎月かなりの額を本の購入に費やす者にとってはかなり影響が大きいのである。そう考えると、本に多額のお金を費やす人ほどネット書店に流れているのではないかと思う。なので従来のような書店形態では大型書店も含めとてもではないが存続は厳しいのではないかと思う。

最近2500円以上の入場料を取る書店が誕生したと言うニュースを見たが、その額はともかくそのような試みはすごくいいと思う。ただもちろんその入場料に見合うだけのサービス・イベントを行わなければならない。本屋を「本を買う場所」から「ぶらついて楽しむ場所」にしなければならないのである。特に僕のような本をネットで買う派の人にとっては、いかにぶらついて楽しいかが重要になる。なので本当に楽しく充実して過ごせる本屋なら、入場料2500円は高いとしても数百円くらいは出しても良いと思っている。さらにそこでコーヒーが飲めるとなったら最高である。

今、書店は試行錯誤の時代だと思う。これまでのような形態を続けているだけでは間違いなく潰れてしまう。なのでいかにして付加価値を付けるか?と言うことを試しているのだと思う。ある試みは成功するが、ある試みは失敗すると言うことを繰り返している。もちろん値付けも非常に難しい。どれだけ魅力的だと思ってても、先ほどの2500円などと言う値付けをされてしまえばどうしても高すぎると思ってしまう。個人的には500円くらいならたまには行こうかなと言う気分になる。そこで本を読みながらコーヒーが飲めるのなら、400円のコーヒー二杯くらいというのもありだと思う。とにかくもう本を売るだけの書店の時代は確実に終焉を迎えているのだと強く感じる。

考える行為そのものを目的とする。

何かに取り組む時、その目的は結果を出すことだろう。もちろん僕だって結果を出すために日々取り組んでいる。しかしそれと同時に、考える行為そのものを目的にしても良いのではないかとも思う。結果を出すことはもちろん価値があるが、僕は考える行為そのものにも価値があるように思えてならないのである。そして何より、考えるということが大好きなのである。

最近あらゆるところでAIが利用され始めている。ビジネスの世界はもちろん、今年のノーベル賞を見ても分かるように科学の世界でもAIが席巻され始めている。ビジネスなら目的はお金を稼ぐことだろう。もちろんやりがいなどもあるだろうが、最終的にはどれだけ稼いだかが問われる。なのでお金を稼ぐためには手段を選ばないというのが普通だと思う。なのでその手段としてAIを利用するというのは当然の流れであろう。

では科学や数学ではどうだろう。もちろんこのような世界でも結果を出すためには手段を選ばないという考えはある。しかし数学などでは、考える行為自体に大きな価値と喜びを感じる人も多いと思う。そして僕自身もそのような考えを強く持っている。数学などは「知のスポーツ」と呼ばれることもある。スポーツであるからには、人間が行う行為自体に価値が生じる。100m走でロボットがボルトに勝っても誰も価値を感じないし感動もしない。それと同様なことが数学にもある。考える行為自体が目的ならば、それをAIが取って代わるなどと言うことは究極的なナンセンスである。

このように考える行為そのものに価値を見出すと言うことが、これからのAI時代には重要になってくるのではないだろうか?AI将棋ソフトがどれだけ強くなろうとも、藤井聡太の将棋は究極的に素晴らしい!数学の研究に対してもそうだ。考える行為自体を目的とし価値を見出すことが、これからの時代にAIに振り回されない肝であるのではないだろうか?

心身の健康は一番の武器だ!

健康であるときは、自分が健康であることに特に何も感じないものだ。しかし一度大きく健康を崩してしまうと、健康であることのありがたみをひしひし感じる。そして健康であることが普通のことではなく特別なことだと考え直す。

もちろん何か健康を崩したからといって、何もかもができなくなるわけではないかもしれない。しかしものによっては健康であるからこそできることもある。そして何より物事に対するパフォーマンスが大きく変わってくる。そしてたとえ体の不調であっても、それが精神的な不調へと繋がることも少なくない。何より体の健康と心の健康は密接に繋がっていると僕は考えている。だからこそ体を鍛えることによって心も鍛えようと思っているのだ。

僕には大きな目標がある。そしてそれを成し遂げるためには心身のコンディションを高いレベルで維持することは不可欠だと考えている。なので天気の日はランニング&筋トレを行い、納豆と豆腐を食べてタンパク質を摂取している。しかしもう一つ重要な要素がある。それはストレスを軽減することだ。ストレスフルな状況だと、明晰な思考をするのは困難だ。しかし強いストレスを感じていても、簡単に環境を変えることはできない。もちろん変えられるのなら変えたいものだ。なのでストレスを低減するためにもストレス耐性を上げたい。そのために一番効果的だと感じているのが禁酒だ。僕はもともとお酒は好きな方だ。なので飲むときは毎日缶ビール二本くらい飲んでいた。しかし禁酒を二週間も続けると、ストレス耐性が上がってくるのを自分でも感じられる。なのでできる限り禁酒は実行していきたいが、たまに缶ビールを飲んでしまって少し後悔してしまう。

とにかく、何に対しても健康であることは必ずしも武器になると僕は考えているので、心身のコンディションを整えることを日々気にしている。そして必ず結果を出して人生を大きく前進させたいと考えている。なのでこれからは缶ビールを缶コーヒーに変えて、お酒を飲むのは成功した時の美酒だけにしたいと思っている。

二冊目の本を執筆しよう!

僕の著書「眺めて美しい自然科学の方程式」(Amazonより出版・販売)を出してから、もう3年くらい経つだろうか?出版して売れればそれに越したことはないが、とにかく出版すること自体にも意義があると考えている。さらにAmazonで出版すれば、それなりの手間暇はかかるが出版費用はゼロに抑えられる。もちろん売れればそれに応じて印税も入ってくる。なのでもし本を執筆できるのなら、これはAmazonから出版しない手はない!

僕の前著では、さまざまなテーマを幅広く捉えて執筆したが、次の本を執筆するときは、ある程度テーマを絞って深く書いてみたいと思っている。テーマにすべき候補はいくつかあるが、ただ一つのテーマだけで本にできるだけの分量を書き切れるかが課題である。そしてもちろん、専門的な内容の本を書くことも考えている。

本を書くのにはもちろん時間はかかるけど、しかしそれで自分の時間が全部無くなってしまうわけでは全くないので、それくらいの時間を執筆に割くのはいいのではないかと思っている。そしてもちろん、YouTube動画も作成したいと思っているが、ここ半年以上投稿できていない状況なので、何とか現状を打破したいと思っている。現在8回シリーズの動画を計画しているが、現在まだ2回目を作成中である。

僕は常に新しい挑戦に挑み続けたいと思っている。しかし最近はあまり挑戦できていないように感じる。挑戦をやめたとき、それが僕の人生が終わるときだと考えている。常に新しい世界を見出していきたい!そのためには挑戦しかないのだ!そして新しい挑戦として、まず二作目の本を執筆していきたいと思っている。

AIを利用するスキルを身につけることは、本当に価値があるのか?

現在AIブームで多くの人がAIスキルを身につけようとし、ビジネスにおいてもAIを使いこなすことが成功の鍵とも言われている。ではそのような現在の常識がこれからもずっと続くのか?僕はNoと答えたい。

ではなぜAIスキルがこれほどまで注目を浴びているのか?それは現在がAIの発展の初期段階にあるからだと僕は考えている。AIはこれから飛躍的に発展していくだろう。そして数年後か十数年後には、自立的にあらゆることを行なってくれる汎用AIができることは容易に想像できる。そうなるとAIを利用・駆使するスキルなど何の意味も持たなくなる。すなわちAIスキルを身につけるというのは、一過性のブームに過ぎないと僕は考えている。

ではそのような時代にはどのようなことに価値を見出されるのか?それは一周回って「自分の頭で徹底的に考える」ということだと僕は考えている。AIがあらゆることを生み出す時代だからこそ、”人間”が考えるということに価値が出てくるのである。しかしそのような時代になると、人間は二極化してくると僕は考えている。すなわち「考える人」と「頭を使わない人」だ。確かに日常的なことを徹底的にサポートしてくれるAIは頼もしい。しかし人間の考える機会を奪ってしまうAIは人類を絶滅へと向かわせていくであろう。すなわち人類が存続していくためにも、人間は思考し続けていかなければならないのである。

しかし現在の風潮を見ると、全くそのような意見が出る様子がない。その理由は、AIが大きなお金を生み出すからである。それがAIの本質に対する目を曇らせている。そして皆現在の状況しか見ていない。もう少し未来まで見通すことをしなければ、未来に取るべき道を誤ってしまう。AIブームに踊らされるだけでなく、もう少し理詰めで未来の様子を予測していかなければならないのではないだろうか?

袴田事件の判決で思うこと。

先日、袴田事件で死刑囚となっていた袴田巌さんの再審判決で無罪が言い渡され、検察は控訴しないことを表明した。これによって袴田巌さんの無罪判決は確定することとなった。

この事件については多くの人が意見を述べており、特に検察の証拠捏造には厳しい目を向けられているが、僕がこの事件に関連して一番核心的なのは、「犯罪に遭うことはもちろん恐ろしいことだが、何もしていない人が突然国家権力によって拘束され、時には死刑に処されることは、犯罪に遭うよりもはるかに恐ろしいことだ」と言うことだと考えている。特に今回の判決では袴田さんの無罪を言い渡すと同時に、検察の証拠捏造も認定されている。そして今回検察が控訴断念したと言うことは、検察の証拠捏造も確定したと言うことでもある。そして今回の検察のコメントでは、袴田さんの冤罪については一切謝罪されず、「袴田さんを長期間不安定な立場においてしまった」と言うことを述べている。

いやいや、そうではないだろうと多くの人は思うだろう。袴田さんの冤罪が確定したと言うことは、検察の訴えが間違っていたと言うこと。さらに厳しい言葉で言うならば、これは検察による犯罪であると言うことが認定されたと言うことでもある。ならばこれから検察の行なってきた犯罪(捏造)をはっきりと追及していかなければならない。そしてこれらの捏造に関わった者の(もちろん関係者はすでに亡くなっている可能性が高いが)責任も問わなければならない。

これまでこの事件は「袴田事件」と言われていたが、袴田さんの冤罪が確定した今では「袴田さん監禁事件」と呼ぶべきであろう。検察の証拠捏造によって袴田巌さんを数十年も拘置所の中に監禁したのである。そしてそれだけではない。袴田さんは常に死刑執行の恐怖に怯え、そして姉のひで子さんをはじめとする家族も「殺人犯の家族」という目で見られてきた。検察の誤った追及によって多くの人が苦しめられたのである。

これから検察の捏造に対してどのような追及が行われるのか?それともこれで全てが終わりとなるのか?僕には全くわからないが、証拠捏造までして一人の人間を死の直前まで追い込んだ事実は、非常に大きな罪だと僕は考えている。そして何も犯罪を犯していない人間が突然国家権力に捕らえられるということがこれから二度と起こらないように、検察に対しても厳格に追及できる仕組みを構築すべきではないだろうか。

数学・サイエンスとAIとの関係性。

今年(2024年度)のノーベル賞では、物理学賞及び化学賞の二賞でAI関連の研究に対して授与されることになった。物理学賞ではAIの基本的原理「人工ニューラルネットワークと機械学習の研究」に対して、化学賞では「AIを使ったタンパク質の構造の研究」に対して賞が贈られた。化学賞の受賞者の中にはGoogleのAI部門の研究者もいるし、まさしくAIの波がノーベル賞にも一気に押し寄せてきた感がある。

僕はここ数年、AI時代において数学や科学の研究はどうあるべきか?ということを考え、悩み続けてきた。しかし今回のノーベル賞を見ても明らかなように、確実にAIの流れはやってきている。しかしそこで安易に「研究にAIを用いるべき」と片付けても良いものだろうか?僕はそうは思わない。確かにAIを用いれば簡単に答えが見つかることも多々あるだろうし、結果を出すだけが目的なら多くの人がAIを用いるであろう。

その一方、数学などは「思考するスポーツ」と言う側面もあるのも事実である。言い換えると「自分の頭で考えてナンボ」と言う世界である。そして何より、自分の頭で思考することが何よりもの喜びであるのが多くの数学者の思うところであると思う。もしかしたら(数年後?)、AIが数学の研究をする時代が来るのかもしれない。しかし僕は、「AIがする数学はもはや数学ではない」と考えている。やはりどう考えても、人間が自らの頭で考えてこそ数学であると思えてならないのである。

これからAIを用いれば何でも簡単に結果が出せる時代が来るのだろう。しかしそんな時代だからこそ、自分の頭で思考することを徹底的に貫くのも強烈な人間性として認知されるのではないかと思う。もちろん今回のノーベル賞受賞研究のように、AIを使った科学研究はこれから一般的になっていくのであろう。しかし「思考する学問」としての数学・科学も独自の価値を保ち続けるのではないかとも強く思う。僕自身もAIとの付き合い方でかなり悩んではいたが、やはりどう考えても僕の取るべき道は、「AIに頼るのではなく自分の頭で徹底的に思考することだ」と言うことでしかない!

今回の記事では数学・科学とAIはどう付き合っていくべきか?と言うことを取り上げたが、これは「人間が人間として生きていくためにはどうすべきか?」と言う問題につながるのだと強く思う。