考え方が老いている人が退かなければならない。

社会ではよく「若い人に道を譲るべきだ」と言われる。ではそこで言う「若い人」とは何を指して言っているのだろうか?ほとんどの場合、年齢の若い人と言う意味で言っているのだろうが、僕が思う若い人と言うのは単に年齢だけの事ではない。考え方が老いている人、つまり精神的に老いている人、そして惰性で生きている人は例え年齢が若くても若い人とは言えない。その反面、精神的に若くて常にエネルギーに満ち溢れている人はこれからもずっと活躍の場で輝き続けるべきだ。そして最近は「老害」と言う言葉も良く取り上げられる。これももちろん年齢が老いている人と言う意味で取り上げられているのだろうが、やはり年齢が若くても精神が老化していればそれは立派な老害である。

ではいつまでも精神的に若くあるためにはどうすれば良いのか?まずは「守りに入らない事」である。いつまでもリスクを背負いながら挑戦し続ける事、それが精神を若返らせる。惰性で生きるようになれば全ての事においてリタイヤすべきだと思っている。世の中は若い人が作り、若い人が変革させていく。もちろん「精神的に若い」と言う意味である。もちろん年齢が若ければこれからの可能性も大きいだろう。しかし逆は必ずしも言えない。歳を取っているから可能性がないとはならない。例え中年であろうと大きな可能性を持ち続けている人は少なからずいる。そしてそのような挑戦し続ける人が世の中を変えて行くのだと思う。

人間と言うものは見かけだけではわからない。しかし世の中では年齢だけで判断されることが多い。もちろん身体能力的なものは自分で気づかないうちに低下していることも多いので、車の運転免許などはある程度年齢で制限していくのが賢明であろう。それは最近の高齢者による交通事故が物語っている。しかし精神はいつまでも若返らせることができると僕は考えている。もちろん年齢が若い人の方が精神も若い可能性は高い。しかしそれが絶対だとは言えないのが人間と言うものだ。一部ではあるが精神的にバイタリティ溢れる老人もいる。単に年齢が若いだけの人は、バイタリティ溢れる中年や老人に道を譲るべきだ。

年齢を若返らせることは完全に不可能だ。しかし精神を若返らせることは常に可能であり、それはその人本人の生き方考え方にかかっている。確かに歳を取って惰性で生きるのも一つの生き方かもしれないが、そのような人は年齢にかかわらず即刻隠居でもしてもらいたい。世のなかは常に若い人達のものだ。年齢にかかわらず!

非難を受けながら開拓していく。

開拓者と言うものは往々にして非難を浴びるものだ。もちろん結果を出せば皆黙るのだが、結果を出すまでは精神的に非常に苦しい状況に置かれる。そのような非難を浴びた開拓者として思い浮かぶのが、メジャーリーグへの道を切り開いた野茂英雄であろう。野茂氏もアメリカに渡る際は、ほとんどの日本人から絶対に通用しないと非難を浴びた。しかしそのような声も数か月もすれば消えて行く。皆を黙らせたのは紛れもなく野茂氏本人の活躍である。野茂氏の場合もそうだが、周りの人と言うのはほとんどがかなりいい加減だ。野球で言うと、新庄氏の時もそうであった。開拓者と言うものはほぼ例外なく初めは叩かれる。そこを切り抜けるためには結果を出すしかないのだ。

プロ野球には1軍と2軍、そしてチームによっては3軍がある。しかし2軍と言えどもプロ契約をしているプロ野球選手である。そのようなプロ野球選手でさえ2軍から1軍への切符を掴めるのは一部である。増してやプロでない立場に置かれている人がプロの1軍で活躍するのは絶望的に困難だ。しかしそれは周りから見た目であって、選手本人は自分の実力を誰よりも認識している。なので自分の力に自信がある人は、周りの人が絶対に無理だと言っても挑戦して結果を残すことが往々にある。あるいは現在はケガで一時的に活躍できない状況なのか?一時的な不調なのか?それは自分が一番よくわかっている。逆に周りの人が絶対に大丈夫だと言っても、自分に実力がないことを認識している人は結果を残すことは無理であろう。

ではスポーツと学問は全く違うのか?僕はそうではないと思っている。学問において自分の実力をどう判断するのか?その一つに「ビジョンを明確に描けているか?」と言う事がある。ビジョンとは結果を出すまでの道のりである。なのでビジョンを明確に描けていれば、後はそれに従って進むだけだ。もちろんその途中では想定外の事に多く出くわすであろう。そう考えれば想定外の事に対する対応力と言うものは非常に重要なスキルであろう。では想定外の事を乗り越えるためにはどうすればいいのか?それは全てを前向きにとらえるしかない。失敗をポジティブに捉え、次のステージに進むための糧にするのだ。そう考えることができれば、人々が失敗だとネガティブに捉えることでも全てポジティブな現象に変換できる。

今の僕は超ポジティブだ。周りの人は皆「なぜそんなにポジティブなんだ」と言う。しかし学生時代からの一時期、大きな不調に見舞われたことがあった。はっきり言ってその時は何もできなかった。しかしその時もなぜか「自分はできる」と言う自信があった。今考えるとかなり勘違いだったように思えるが、その時にそう考えて乗り越えて来たからこそ今の自分がある。さあ、次はどんな困難が待ち受けているのか?そして周りの人はどれだけ否定し非難するであろうか?そう考えた時、これから僕が身に付けなければいけないのは心臓に毛を生やすことかもしれない。

僕は同調圧力は嫌いだが・・・。

僕は人間にとってオリジナリティーを出すことは非常に重要であると考えており、またそれが人間の個性そのものであると考えている。なので人と同じことを強要する同調圧力と言うものが最も嫌いであり、日本における一番ダメなところは誰に対しても同調圧力を押し付けることだと思っている。

しかし現在のコロナ禍においては状況は少し違うと思っている。マスクを付けることを求める事、多人数での会食を自粛する事、このようなこともある意味同調圧力だと考えられる。しかし現在の状況下においてマスク、会食問題は人の命にかかわることであり、また人に不快な思いをさせないための究極のマナーだと思っている。なので「自分は同調圧力は嫌いだからマスクはしない」と言うのは完全に違うと思っている。なので究極的に同調圧力が嫌いな僕もマスクは必ず着用し、できるだけ不要な外出を避けている。もちろん人との会食などコロナ禍に入ってから一度も行っていない。

もちろん僕だってマスクをしないで街中を歩きたいし、皆と飲み会も行いたいと強く思っている。しかし周りの人の命、また命に係わるまで行かなくても大きな健康の損傷につながる今のような状況においては仕方のないことだと思っている。コロナ禍に入るまでは、皆がマスクをせずにワイワイと騒いでいた。今では想像もできないことだ。しかしそのような日常を取り戻すことが現在の最大の社会的課題である。

アメリカやヨーロッパでは個人の自由と言うものは最大の価値を持つ。しかし現在のコロナ禍においてはそれが完全に裏目に出ている。欧米の人達も現在は非常時であり、通常時の常識が通じないと言う事を認識した方が良いかもしれない。しかしそれ以上に恐れているのが、コロナ禍後に日本が個人の自由を認められる社会に戻れるかと言う事だ。震災後、日本においては「絆」と言う言葉が多用されることになった。しかしこの絆と言う言葉は、暗に同調を強要することが含まれている。なので僕はこの絆と言う言葉は決してきれいな言葉ではないと思っている。言葉もそうだが、物事を表面的に捉えてはならない。僕は大学時代に所属していた大学の合唱団で、プーランクの「人間の顔」と言う20分ほどの大曲を歌った。この曲は第二次大戦下の究極的な抑圧に対しての抵抗の曲である。そしてその曲の最終章のタイトルは「リベルテ(自由)」である。

もう一度、蓮舫氏の「2位じゃダメなんですか?」発言を考える。

十年ほど前の民主党政権下での事業仕分けで、蓮舫氏が京コンピューター建設に際して「2位じゃダメなんですか?」と発言したことは余りにも有名だ。この蓮舫氏の発言によって、科学と言うものは1位じゃないと何の価値もないことが広く認識されることとなった。僕のブログでも以前、この蓮舫氏の発言を取り上げたことがある。しかし今考えると、この蓮舫氏の発言はもっと深い意味があるのではないかと最近感じている。

確かに科学と言うものは、1位じゃないと何の価値もない。例え小さい結果であってもそこに1位であることが求められる。しかし「京」のようなスーパーコンピューターは科学であると同時に「道具」でもある。いや、道具であることの比重の方が圧倒的に大きい。そう考えると、道具に対して1位を求めることは本当に正しいのか?とも思える。例え単位時間当たりの演算回数が圧倒的であってもそれは単なるスペックであって、それが本当に道具として優秀かどうか?と言う話とは別問題だ。例えばスマホで言うと、メモリやストレージが何ギガだとか、CPUのスペックがどうか?と言う話と、実際にそれが本当に使いやすいか?と言う話はそれぞれ無関係ではないが、完全に相関関係があるわけではない。中にはどんなに高スペックのアンドロイドよりもiPhoneの方がいいと言う人も少なくないであろう。

京コンピューターはスペックに過度にこだわるあまり、非常にマニアックなものとなり使い辛いものだったと言う意見が多かったと言う。それの反省を生かして、二代目スパコンの「富岳」はスペックよりも使いやすさに重点を置いたと言う(そうは言ってもスペックも世界トップクラスだ)。今蓮舫氏の発言を考え直すと、コンピューターと言うものは道具なのだから2位でも良いではないかと言う提言だと捉えることもできる。しかし当時は科学としての側面ばかり焦点を当てられたがために、スペックが1位であることにこだわり続けられた。ある意味、二代目スパコン「富岳」の汎用性は蓮舫発言の結晶だと言える。

しかし社会では全く逆の発想が染みついている。「役に立つ」とことばかりに重点が置かれ、「科学の真の価値」が無視されている。例えば学校でも、「数学なんかやっても何の役にも立たない」と言う主張も根強くある。しかし数学と言うものは極論を言うと、物事の本質を極限まで追求する学問だと言える。そして役に立つかどうかと言う事に対しても、自分の命を左右するくらい重要なものであると僕は考えている。その理由を挙げると、現在のコロナ禍において「ワクチンを接種するかどうか?」と言う事が関心事になっているが、確率(数学)をしっかり理解できないとリスクの評価(副反応のリスクとワクチン接種による感染防止のメリットの評価)に対して判断を下すことができず、最終的に自分の命の行方まで左右されることになる。

「科学」と「科学技術」の違いを明確に認識することは非常に重要な事である。科学は1位でないと意味がないが、科学技術は必ずしも1位でなくても良い。それよりも道具としての使いやすさやどれだけ役に立つかと言う事が非常に重要になってくる。しかし少なくとも日本においては、科学と科学技術の違いについて教育や言及されることはほとんどない。なのでほとんどの人が科学と科学技術を同一視している。蓮舫氏の発言はそのような現状に一石を投じるものではないだろうか?

五輪開催だけが菅首相に評価をもたらすのか?

今、五輪を開催すべきかどうかと言う事で世間が揺れている。しかし揺れているのは「世間」であって、政府にとってはどうやら「開催ありき」の選択肢一本しかないようだ。もし五輪を開催しそれが成功すれば、政府そして菅首相の評価はうなぎのぼりになるであろう・・・。とは僕は思わない。そもそも現在の民意は五輪回避にすべきだと言う意見であるように思えてならず、もし菅氏が五輪を強行すれば菅氏は民意を無視したと言う事になる。しかも菅氏は「五輪開催=成功」と言う等式しか眼中にないように見えるが、しかし「五輪開催→失敗」と言う事も十分にあり得る。最悪は、「五輪開催→コロナ患者が急増→五輪中断」と言うパターンであろう。五輪失敗に終われば菅氏の政治生命は完全に断たれるわけであるが、では何をしてもダメなのかと言うとそういう訳ではない。現在の状況であれば、「五輪開催断念」と言う決断をすることは、五輪を強行すると言う決断以上に英断と言えるだろう。

菅氏にとって、国民の命より五輪開催による自身の支持率向上の方が重要なのか?そう思えてならない。緊急事態宣言が5月11日までと言う非常に中途半端なのも、その直後のIOCバッハ会長の来日に合わせてのものだと言われている。これまでの緊急事態宣言もそうだが、菅氏の決断は何もかもが中途半端に思えてならない。結局二兎追って一兎も得ずと言う事になるのではないだろうか?そもそもこのような国民の事を考えない政治家が首相になること自体、完全に間違っていると僕は強く思っている。

もちろん五輪を強行して成功する可能性も十分にある。そして菅氏はそれを期待して強行しようとしているのだろう。ではそのような可能性があるにも関わらず、なぜ多くの国民は菅氏の判断に従えないのか?それは菅氏の後ろ姿に誰もついていけないと言う事であろう。僕は意外に大きかったのは、菅氏のステーキ会食問題であったと考えている。たかが一会食だと思うかもしれないが、トップは自分の行動によって国民に取るべき道を示すべきであるのだが、そのトップがそのような姿しか示せないようであれば誰もそのようなトップについて行こうとは思わない。

今回の五輪開催の問題は、それが成功するか失敗するかに関わらず、菅氏が国民の方を全く見ていないと言う事を示すものであった。僕は必ずしも五輪を否定しようとは思わない。選手にっては4年に一度の五輪であって、その一度に人生を懸けている選手も少なくないであろう。しかし首相が実行を決断するのであれば、その根拠を明確に示すべきである。「強行したらたまたま成功した」と言う事でしかないのなら、例え五輪が成功しても菅氏には誰もついて行こうとは思わない。菅氏は「五輪が成功すれば、皆自分を支持する」と思っているようだが、僕はそれは全く違うと考えている。成功した暁に支持率を高めようと思うのならば、その開催強行の根拠を示さなければならない。そうでないと開催しようがしまいが菅氏にとってはこれからは茨の道になるであろう。

スマホ後の革命ツールは自動運転車だ!

ここ十年程、社会の革命はスマホが担ってきた。スマホの性能は格段に良くなり、革命的スマホツールがいくつも現れ我々を驚かしてくれた。しかし現在はどうだろう。CPUの性能がどれだけ上がっただとか、カメラの画素数がどれだけ上がったとか毎年話題にはなるが、しかし一般ユーザーとしてはそのような性能向上を実感できることはほとんどなく、一部のガジェットマニアとガジェットレビューアーが喜んでいるだけに見える。もうスマホの革命は頭打ちであり、一般ユーザーもこれまでのように性能アップを望んでいないように思える。

ではスマホ革命後のこれから、世の中を変えるツールは何か?それは間違いなく自動運転車だと言える。自動運転車は単に自動で運転してくれるだけでなく、考えれば考えるほど、想像すれば想像するほど夢があふれてくる。では自動運転車の何がそこまで夢を見させてくれるのだろうか?

まず必ずしも家にいる必要がなくなる。そして移動するにも、そして通勤するにしても、朝起きてそのまま車に乗り込み、車の中で着替えをし食事をすればよい。一人で乗れば他人の目を気にする必要はない。そして目的地に着くまでiPadで読書や情報チェックができる。そして夜は飲み屋でたらふく飲み、無人の自動運転車に迎えに来てもらい家まで帰ることができる。学生なら自動運転車に学校まで送ってもらい、帰る時には無人の自動運転車を呼び出せばよい。

しかしこれらの事だけなら従来の車から運転者がいなくなっただけの話だ。実は夢はさらに広大だ。一言で言えば「車に住む!」、これが究極であろう。最近ホンダのレジェンドと言うセダンの車がレベル3の自動運転を実現したことが話題になった。しかし例えレジェンドがレベル5の完全自動運転になったとしても、車に住むのは難しいであろう。僕が想像しているのは、マイクロバス級、あるいはそれ以上の大きさの自動運転車に住むことだ。バスくらいの大きさがあれば書斎もベットもおけるだろう。そしてトイレも完備すれば完璧だ。そうなればもう家など持つ必要はない。もし家でゆっくりとしたいと思えばその時だけホテルにでも泊まればいい。

とは言え、車に浴室を付けるのは難しい。もしかしたらトイレを付けるのも嫌だと言う人もいるかもしれない。洗濯機を置くことも難しいだろう。そこでだ。そのような自動運転車で暮らす人たちのために「自動運転車ステーション」を至る所に作ればいい。自動運転車ステーションには銭湯やトイレはもちろんあり、クリーニング店を併設してそこで洗濯してもらえばよい。もちろん車がステーションに入れば自動課金される。そして全てのステーションに水素ステーションを完備すれば、水素燃料車も普及するだろう。今日は鹿児島のステーション、そして寝ている間に翌日には仙台のステーションに着くと言う事も夢ではない。

こうなれば、車に住むのは家がない人だと言う固定観念が崩れる。いやむしろ、お金がある人の方が積極的に車に住むかもしれない。住所不定、いや、住所は車!そんな生活が訪れることを僕は夢見ている。アップル社はiPhoneを世に出しスマホ革命を起こしてきた。そして現在、またもやアップル社による自動運転車の計画が世に知られるようになり革命を起こそうとしている。僕は数年後に出される「アップルカー(iCar?)」は間違いなく人々の生活様式を変えてくれると考えている。アップルカーが発売されたときには、真っ先に僕もアップルカーを購入できるようにお金を貯めておきたいと思う。そしてゆくゆくはアップル製自家用自動運転バスの中に書斎や寝室を完備して住みたいと思っている。このような世の中に大きな夢を感じるのは僕だけではないはずだ!

メリットとデメリット。

現在、ワクチン接種をするかどうかの判断が問題になっている。ワクチンに限らず、どんな薬でもどんな医療でもリスクはつきものであり、少なくともゼロリスクと言うものはあり得ない。そこでそのようなリスクをどう評価するかが問題になってくる。するか?しないか?の判断を下すとき、人間なのでどうしても感情的な事やイメージなどが入り込んでくる。そのような事抜きで判断する事は実際非常に難しいことだ。しかしそのような判断をするときに最も大事なのは、メリットとデメリットを天秤にかけてどちらが大きいかと言う事を比較することだ。

何度も言うが、ゼロリスクと言うものはあり得ない。道端を歩いていても、車が突っ込んでくる可能性もゼロではない。しかしほとんどの人はそんな危険性など考えずに気軽に道を歩き回っている。それはなぜかと言うと、道を歩いて事故に遭う危険性と、家に籠って自由に歩き回れないデメリットを無意識に比較しているからだ。そしてほとんどの人は、家から一歩も出ないことによるデメリットの方が大きいと判断する。さらに言えば、家に車が突っ込んでくる可能性もゼロではないので、家にいることが必ずしも安全だとは限らない。

ワクチンのメリットデメリットを判断する時に最も重要になるのは、副反応(副作用)が起こるかどうかではなく、どれくらいの確率で副反応が発生するかだ。この確率が高ければワクチンの危険性が高いと言う事なので、接種しないと言う選択肢も十分にあり得る。しかし重篤な副反応が100万人に一人の確率で発生するとどうだろう。この100万に一人と言う確率はそのままではイメージしづらいが、満員の甲子園の収容観客人数が約5万人なので、甲子園を20個満員にしたときその中から一人発生すると言う事だ。2020年の交通死亡事故人数が2839人なので、去年交通事故で死亡する確率は、約42000人に一人ほどだ。そして2021年4月10日時点の情報では、コロナによる国内死亡者数は9364人。これを割合で表すと、国民約13000人に一人である。現在アストラゼネカ社のワクチンによって血栓ができると言う副作用が報告されているが、その割合は(イギリス国内の統計では)約2000万回接種して死亡者が19人。なので単純に計算して(一人二回接種することを考慮して)約50万人に一人である。なのでコロナに感染して死亡する危険性の方が圧倒的に高い。

そしてもう一つ大事な事は、副反応と思われるものが本当にワクチン接種と因果関係があるのかと言う事である。ワクチンを接種しなくてもその時期に死亡する人は当然存在する。そのような人が偶然ワクチン接種の時期と重なったと言う可能性は十分にありえる。もちろん100人くらいの集団ならそのような可能性はほぼ皆無と言っていいが、数千万人の集団接種となればそのような人が何十人と出て来る事はむしろ当然のことである。なのでワクチンとの因果関係ははっきりと追究しなければならない。そしてメディアには、単にワクチン後に死亡したと言う事例をセンセーショナルに伝えるのではなく、因果関係がどれくらいあるのかと言う事をはっきりとさせて正確な情報を伝える義務がある。もしメディアが視聴率だけを考えて因果関係がはっきりしない死亡例をセンセーショナルに伝え続けてしまえば、結局最後には国民の首を絞めることになる。

今国民一人一人が、メリットデメリットを正確に判断できるかと言う判断力が試されている。学校で習う勉強が実際には社会で全く役に立たないと言う声をよく聞くが、ワクチン接種の判断をする上では大アリなのである。生物学的な知識、社会的な知識、そして何より数学的(特に確率的)な思考力が大きくものを言ってくる。そのような知識を総動員して正確な判断が出来ないと、回り巡って自分の不利益として跳ね返ってくる。それはもしかしたら命にかかわることかもしれない。そのように考えると、基礎的教養としての学問がいかに大事かと言う事が思い知らされる。

教科書は最強!

「学校の教科書は退屈だ」と言う声をよく聞く。確かに見ようによっては何の変哲もない書き方に思える。しかしそのような偏っていない何の変哲もない書き方こそ教科書の最高の利点であり、まただからこそ教科書は最強なのだ。例えば数学書では、「定理→証明」の繰り返しが退屈でつまらないと言う声をよく聞く。しかしプロの数学者の間で良く参照される「ブルバキ」は、その「定理→証明」の極致であり、だからこそ数学者からの信頼を勝ち得ていると言える。確かに初学者にとってはそのような無味乾燥な書き方は取っ付き辛く、例えば「ファインマン物理学」のような親しみのある書き方の方が良いかもしれないが、しかし物事の本質を自分で掴むためには余計な事が書かれていない方が良く見えるものである。

こんなことを言う僕も、学生時代は教科書を少しバカにした見方をしていたものだ。小学校から高校へかけての教科書は余りにも初歩的であり、いきなり発展的な問題に取り組みたくもなる。しかしそのような教科書を二度三度と完璧にマスターすることは、今考えると決して無駄ではない。最近必要に迫られて(もちろん興味もあっての事だが)高校の生物の教科書を読んだりしているが、それが意外と良く書けているのである。いや、非常に良く書けている。その辺の発展的な生物学の書物を読むのも良いが、その前に高校生物の教科書を読むことは非常に重要であり、むしろ教科書を読み込む方が余程力になる。

大学における教科書は、先生(教授など)によって様々である。もちろん大学によっても難易度が変わってきたりする。しかしどの大学のどの教科書であっても、教科書をしっかりとマスターすることは非常に重要である。そして大学の教科書は、卒業した後でも何年何十年と利用することができる。人によっては卒業した後は教科書類をすべて捨てると言う人がいるようだが、大学の教科書類は死ぬまで持ち続けた方が良いと僕は思っている。高級時計のように子や孫の代まで教科書や専門書を受け継ぐのも良いと思う。

教科書をバカにする人は、物事の本質を理解していない。大学時代の教科書はその後も持ち続けるべきだ。高校の教科書も特に理科系(物理・化学・生物・地学)の教科書は、基本的教養として意味を持ち続ける。もちろん生物学などに関しては学問の進展も早く、20年もすれば教科書の内容もすっかりと変わってしまう。なので10年ごとに新しい教科書を入手して勉強し続けることが肝心である。教科書をバカにする人は、教科書に足元をすくわれる。教科書こそが基本的教養を身に付けるための最強の教材なのである。

ノーリスクはハイリスク!

意外と逆説的だが、リスクを取りに行くことによってリスクを下げられるし、逆にリスクを取らないことがリスクを増大させる。僕は常にそう考えて行動している。例えば僕がよく使う言葉に、「現状維持は没落の始まり」と言うものがある。意味はそのままだが、少なくとも現状維持を目指して発展することは99%ない。それどころか現状維持をしているつもりが、ズルズルと底辺へと引きずられて行く。お金に関するリスクを取ることも重要だが、それ以上に重要なのは人生においてリスクを取ること。そして自己投資を怠らないことが重要である。

自己投資と言うものには、もちろんお金もかかる。なのでお金の投資と人生の投資を明確に区別することはできないが、僕が人生における投資で最も重要視しているのは書物に対する投資だ。人によっては「本など読んでも無駄だ」と言う人もいるかもしれないが、僕が読んだ本の前書きに次の様な言葉が書いてあった。

「どんなに学習がつらいものでも、無知の方がずっと高くつくものである」

もちろん僕は好きで学問に取り組んでいるのだが、人によっては学問に対して拒否反応があるかもしれない。しかしもし学問が本当に無駄なものならば、そもそも学問など存在しないはずだ。そして書物も存在しないはずだ。しかし書店に行けば数多くの本が並べられているし、毎日のように新刊本が発売されている。そして大学の図書館に行けば、それこそ膨大な量の書物が並べられている。書物を読むことは進撃への足掛かりになるし、リスクの低減にもなる。

僕は最近YouTube配信を始めた。なぜ始めたかと言うとその理由はいろいろあるが、一つはリスクを取って進撃するためだ。もちろんそれが成功するかどうかはまだわからない。しかし現在のコロナ禍にあって、今までと同じことをやっていてはそれこそ現状維持をするつもりが没落してしまうことになってしまう。もちろんYouTube動画を作るには、気力も時間もかかる。本音を言うと、研究に全ての時間をかけたいと思っている。しかし今の僕には、「YouTubeを始める」と言う選択肢しかないようにも思える。幸いにも今はテクノロジーが発達し、iPhone一つで動画撮影も動画編集もできてしまう。そう考えれば大きな金銭的な初期投資はほとんどいらない。ならば今すぐ行動すべきだ。

僕の人生に現状維持はない。そして「保身」と言う言葉が最も嫌いだ。いつも自信をもって堂々と行動すればよいと思っている。だからこその失敗をしてしまうこともあるだろうが、失敗をするのは慣れている。そして失敗を成功につなげる方法も見えている。「失敗はリスクだ」と考えている人は多い。しかし失敗こそ成功へとつなげる最も大きな有益リスクではないだろうか?失敗の数は挑戦の数に比例する。なので胸を張って挑戦し続ければ良いのである。

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