トップを目指す者に、学歴の衣は似合わない。

40代になれば、人生も後半に入りかけたと言えるだろう。その後半の人生をどう生きるか?多くの人は若さに価値を見出し、若い頃に戻りたいと言う人も少なくない。しかし僕は、人生後半こそ本当の勝負だと思い、これからの人生に全力をささげようと思っている。

日本は学歴社会だと言われている。もちろん日本よりも極度の学歴社会に陥っている国も存在するし、学歴に物を言わせたい人は勝手にやればよいと思っている。しかし確実に言えることは、学歴が物を言う世界は低レベルな世界であり、学歴に物を言わす人間は低レベルな人間であると言うことだ。学歴に物を言わすのは就職活動くらいで終わらせなければならない。40歳も過ぎて学歴にこだわる奴は最高にカッコ悪い。

日本、いや、世界トップの医学者は誰か?間違いなく山中伸弥教授だ。その山中教授が学歴にこだわっていれば、確実に医学研究の世界に残れなかったどころか、医学研究の世界に足を踏み入れることもできなかったであろう。ノーベル化学賞を受賞した田中耕一氏は大学院さえ行っていない。もちろん、高学歴のノーベル賞受賞者は沢山いる。しかし学歴にこだわるノーベル賞科学者を僕は見たことがない。僕はトップを目指す者に学歴の衣は最高に似合わないと思っている。100%、いや200%実力勝負なのである。

学歴にこだわると言うことは、その人が既にトップからずれ落ちているか、あるいはその社会が低レベルであると言える。もしトップを目指そうと思えば、まずは学歴の衣を捨て去ることから始めなければならない。学歴と言うものは、ある意味結果論であって、手段ではないと僕は肝に銘じている。

専門外の事に走るのは、逃げなのか?教養なのか?

最近何かと専門外の分野に走ることが多い。生物学(特に理論進化遺伝学)、化学、コンピューター科学、経済学、日本史・世界史など、興味の向く分野はかなり広い。もちろん僕の専門は数理物理(数学と物理)なのだが、中途半端に調子がいい時とかは何かと専門外の事に目が向いてしまう。学生なら専門外の勉強をすることは教養だと言い訳できるが、僕の場合どうも逃げに思えてしまう。専門外の分野に取り組むことは、世間一般で言うと「趣味」に当たるかもしれないが、もし僕の行っていることが趣味ならば、それは99%逃げである。

では、趣味(逃げ)で終わらせないためにはどうすればいいか?それはその分野も研究レベルまで究めて一本の論文でも書くことだろう。なので理論進化遺伝学も経済学も、少なくとも一本は論文を書くことを目標にしている。もしそれができれば僕のやっていることが正当化できるだろう。

僕は何が何でも教養で終わらしたくないのである。教養で終わらすのは甘いと思えて仕方がないのだ。ただ現時点の状況で言うと、まだまだその域には達していない。しかしそこまで達する自信はかなりある。根拠のない自信か?それとも本当にそれだけの力があるのか?それは結果を出せるかどうかにかかっている。もちろん、数理物理で自分が納得できる結果を出すことが大前提であるが。

その到達点は、僕が以前から言っている「ジェネラルサイエンティスト」である。すなわち、全ての科学的分野でプロレベルに到達すること。野球で言うと、大谷翔平の二刀流か?そんなことを言う僕に対して、バカにしたい者はバカにすればよい。自分はその道を突き進むだけである。

「数学」とは何か?

数学とは何か?と言う問いに答えるのは、数学者にとっても意外と難しい。多くの人にとって数学は、小学校(算数)の頃から取り組んでおり、かなり身近にある存在だと思う(好きか嫌いかは置いておいて)。数学とは何か?なんて、誰でも分かると思っているかもしれない。しかしそのような「数学とは何か?」と言う問いに厳密に答えることは、そんなに簡単ではない。

数学には「ゲーデルの不完全性定理」と言う定理が存在する。この定理は普通の数学の定理とは毛色が違い、数学そのものについて述べた定理である。分野で言うと、数学基礎論、あるいは数理論理学と言う分野に属する定理である。数学科の学生なら一度は聞いたことのある名前であるが、そのような学生に不完全性定理と何か?と問うてみると、ほとんどの人は「数学は不完全であることを証明したもの」であるとか、あるいはもう少し詳しく「数学には真(正しい)とも偽(間違っている)とも証明できない命題が少なくとも一つは存在する」と答える。しかしそもそもここで言う「数学」とは何を示しているのか?それをはっきりしないと「数学は・・・」と言う説明は意味を持たなくなる。

数学の理論を構築する時、必ずその出発点となるものを定めなければならない。その出発点となるものが「公理」と言われるものである。公理を基に定理を証明する。これが通常の数学である。そこで何を公理とするか?と言う違いによって、その後の展開が変わってくることは容易に想像できる。すなわち、何を公理とするかによって、様々な数学ができる訳である。通常取られる公理系は、ZFC(ツェルメロ(Z)・フランケル(F)の公理系に選択公理(C)を加えたもの)が採用される。すなわち不完全性定理は「ZFCが不完全である」と言える。

ZFCからC(選択公理)を省いた公理系を取ることもできる。そうすればまた違う数学が構成されるとも言える。このような事を考えると、どんどん数学の沼にはまっていく。しかしこの数学の沼にはまるのも数学者としては悪くない。そこをとことん突き詰めた数学基礎論と言うものは、数学を根本的に理解するためには不可欠だ。ただほとんどの大学数学科でも、数学基礎論の講義は全くないし、あるいは無視されている。僕自身も数学基礎論のカリキュラムは受けたことがない。しかしだからと言って、数学基礎論を無視することはできないはずだ。

お金の使い方考察。

皆様はお金をどのようにお使いでしょうか?もちろん、お金をたくさん持っている人と持っていない人ではお金の使い方は全然違うだろうし、またお金を持っている者同士、あるいはお金がないもの同士でも使い方は人それぞれ変わってくる。しかしお金の使い方には、その人の思想や価値感が非常に表れると僕は考えている。そこで僕自身の事を含め、お金の使い方について少し考えようと思う。

お金を使う時、その目的は短期的目的、そして中長期的目的に分かれる。短期的目的の代表例は食事代や遊行費である。とは言え、食事に関しては健康や体造りなども考慮すると中長期的目的だと考えられ、遊行費も人脈作りなどまで視野を入れると立派な中長期的目的だと言える。しかしコンビニで買うメロンパンは明らかに短期的目的である。

中長期的目的も様々あるのでいちいち述べないが、その中で僕が一番大切にしているのが文献費(書籍代や論文入手代)である。書籍代は自分の人間の基盤を作るうえで一番基礎となるものであると考えており、僕にとっては水を飲み空気を吸うのと同じようなものだと捉えている。書籍にどれだけの価値を見出すかは人それぞれであろうが、僕はそれに最大限の価値を見出している。僕のホンゲル係数(収入のうち、書籍代の攻める割合)は超トップレベルであろう。また服飾費なども結構重要視している。とは言っても無駄に服にお金を次ぎこむわけではないが、服や靴は対面する人に対して与える印象は絶大であり(もちろんそれだけではなく、人間性はさらに大事である)、それによって人間関係が変わっていくと言えるだろう。

服の話で言うと。僕は普段着は結構ユニクロを愛用している。ユニクロは値段はそれなりに安く、質はそれなりに良く、コストパフォーマンスは絶大だ。しかし普段着だけが服ではない。男ならスーツも重要である。ここぞという時にはスーツで決めることも重要である。ただ、意外とスーツをしっかりと着こなせている男は少ない。それは電車に乗っていれば分かるであろう。オーバーサイズのだらしない着こなししかできていない男がなんと多い事か!スーツはジャストサイズが肝であり、高い金額を次ぎ込まなくてもジャストサイズでしっかりと着こなせば印象はかなり上がるものだと思っている。

お金を使わない人の事をケチだと言う人がいる。ケチと言えば聞こえが悪いが、お金を使わないこと自体は悪いことではないどころか、節約家であり良い事でもある。しかしそこでも思想や価値観が重要になってくる。しっかりとした目的があり、目標に向かって節約しているのならそれは非常に素晴らしいものだ。そのために普段着がボロボロでもそんなに悪い事ではないかもしれない。しかしただ単に自分の懐だけを考えて、自己中心的にお金に汚い人は非常に問題だ。そのような人はお金があるかないかと言う以前に心が貧乏だと言える。

結局何が重要か?それは今日お金を使うことによって、明日それが倍の効果になって帰ってくることがある。そのようなお金の使い方が重要だと思う。逆に今日ケチったがために、明日にその倍のダメージを食らうことがある。日本人はお金のことを話すことを汚いと思っている人が多いが、お金の使い方を通じてどのような思想、どのような価値観を形成するかと言うことは非常に大切な事である。

(再び毎日ブログ更新します。)学校教師の暴行事件について。

ここ半年くらい、ブログの更新の頻度を大きく下げていた。最近は一週間に一度と言うことも少なくなかった。その理由は執筆時間の節約と言うこともあるが、しかし執筆を省き時間を作ったからと言って、その空いた時間を有効に使えていたかと言うと疑問に思う。むしろ毎日ブログを執筆したいた時の方があらゆることが好調だったように感じる。毎日ブログを執筆することによってリズムができる。リズムができるとあらゆることが調子に乗ってくる。そのように毎日ブログ執筆を続けた方が僕自身も得る物が大きいのではと感じ、今日から(出来るだけ)毎日ブログを執筆すると言うスタイルに戻すことにした。なので今日からまた毎日のブログを届けようと思うので、読者の皆様、よろしくお願いします。

ところで今日のニュースを見ると、中学校での体罰のニュースが流れていた。被害を受けた生徒のうちの一人は背骨を骨折したと言う。これはもう体罰ではなく、れっきとした傷害事件である。このような傷害事件を、学校の中で起こったと言うことで「体罰」と言う言葉を使うのは本当にやめてほしい。学校内で起きた「傷害事件」なのである。しかもその教師は過去に三度の処分を受けていたと言う。もう開いた口がふさがらない。三度の暴行が明らかになっていると言うことは、実際にはその数千倍の暴行があったと考えるのが普通であろう。ニュースによれば、わいせつ事件ではほぼ全て懲戒免職になっているのに対して、体罰(暴行)では全く免職にならないそうだ。傷害事件を起こして免職にならないのは世間の常識に照らし合わせても明らかにおかしいし、学校の外で同じことを起こせば確実に逮捕拘留、そして有罪で場合によっては刑務所行きだ。

ではなぜ暴力教師は免職にならないのか?それは「生徒のためにやった」と言う言い訳(暴力教師の伝家の宝刀)があるからだ。そして教育委員会はそれを真に受けて処分しない。そんな言い訳は世間では通用しないはずだ。そう考えると学校と言う世界は非常にゆがんだ世界だ。もうそう言う言い訳は許さないようにしなければいけない。そして今回の事件で個人的に非常に悲しかったのは、その暴力教師が数学の教師だと言うことだ。数学に関わっている人間として非常に恥ずかしく怒りを覚える。

ところで僕は小学校・中学校と神戸市で教育を受けてきた。そして実際にそこで教育を受けた人間から見て、神戸市の教育は全国最低レベルであると感じている。小学時代には暴力教師(体罰教師でさえない)から日常的に暴行・嫌がらせを受け、中学校は(当時は)男子丸刈り強制である。少しでも髪の毛が伸びていようものならまたそこで暴行である。神戸市の学校では日常的に教師による暴行がはびこっている。今はマシになっていると思いきや、東須磨小学校での教師同士の傷害・嫌がらせ事件である。どうやら神戸市の教育は30年経ってもそのような土壌は変わっていないらしい。もし自分に子供がいても、神戸市でだけでは絶対に教育を受けさせたくないと思っている。

もう体罰と言う言葉はやめにしようではないか。これからは「傷害・暴行事件」と呼ばなければならない。そして暴行教師への処分は学校外社会と照らし合わせなければならない。暴行をしないと教育を行うことができないと言う教師は、教育力が全くないと判断し排除しなければならない。僕は今でも暴行を受けた神戸市での教育を強く恨んでいる。

整理整頓はしなくていい。

子供のころから「整理整頓をしなさい」とはよく言われたものだ。時には親から、時には学校の教師から。整理整頓はどこの国、いつの時代でも美徳だとされている。しかし僕には、そこまでして整理整頓を美徳にする必要はあるのかと常に疑問に思っている。ではなぜ整理整頓は美徳だとされているのか?いくつか理由はあるだろうが、一つは整理することによってどこに何があるのかすぐにわかる事(このことは後に触れる)。そして最大の理由は、見た目がきれいでスマートに見えることだと思う。しかし僕には所詮その程度の利点しかないと思っている。それどころか人によっては、整理整頓にこだわることは欠点にもなると思っている。

先ほど述べた「どこに何があるのかすぐわかる」と言うことに関しては、一見整理していないように見える人でも実は物の在りかはすべて把握している(人にもよるであろうが)。それどころか、散らかっている中にも自分なりの秩序があり、意外と効率的に散らかっていると言うことも大いにあり得るものだ。それは僕自身の経験でもそうである。しかし社会では、整理整頓ができないと仕事ができない人だと判断されることが多い。なので一つ実例を出そう。

僕が大学院時代、一人の付き合いのある研究者(I教授)がいた。そのI教授の部屋は結構散らかっており、机の上は書類(論文)の山でいったいどこで研究をしているのかと思うほどであった。しかしそのI教授は当時フィールズ賞(数学のノーベル賞と言われ、40歳以下と言う年齢制限がある)の有力候補と言われ、世界的な数学者なのである。もしI教授に整理整頓を強制するのならば、それはI教授を否定するに等しいと僕は考えている。

僕が整理整頓にこだわる人を見ていると、もちろん人それぞれだが、整理整頓をすることによって自分の才能のなさを覆い隠そうとしているようにしか思えない人もかなりいるように思える。そして自分のスタイルで取り組んでいる人に整理整頓を強制することは、その人の足を引っ張ることにもなり得ると僕は強く感じている。

要は整理整頓自体が重要なのではなく、整理整頓ができる余裕がありその方が仕事がはかどるのならばどんどん整理整頓をすればよい。しかし人にはそれぞれ自分のスタイルというものがあり、人によっては散らかっている方が仕事がはかどる人も少なくない。さらに言えば、整理整頓に過度に神経と時間をつぎ込むことは無駄である。世の中にはI教授のような人もいることを多くの人に知ってもらいたいものである。I教授の事例は決して例外ではないはずだ。

ノーベル物理学賞にペンローズ博士ら。

今年のノーベル物理学賞に、ペンローズ博士ら三人が受賞されることが決まった。僕は今年の受賞者の名前の中にペンローズの名前があったことに少しびっくりした。なぜなら、ペンローズ博士のような大物理学者なら、今までに受賞されているとすっかりと思い込んでいたからだ。ペンローズ博士なら30年前に受賞していても全然おかしくはない話だ。

今回の受賞理由は、ブラックホール理論に対するものだ。ペンローズ博士はおそらく特異点定理などを評価されたものと思われる。そして特異点定理などのペンローズ博士の業績を語るうえで外せないのは、故ホーキング博士との共同研究だ。特異点定理もペンローズ博士とホーキング博士の共同研究によるものだ。なのでホーキング博士が存命ならば、今年の受賞者の中にホーキングの名前があったと思われる。

ペンローズ博士は非常に多才な学者だ。そして物理学者と言われているが、非常に数学寄りの数理物理学者と言え、数学者と言っても間違いではないだろう。特にペンローズ博士の代名詞と言えるのが「ツイスター理論」だ。このツイスター理論は、物理側からも数学側からも研究が進められている。

最後に一言付け加えると、世間では圧倒的にホーキング博士の方が有名だが、研究者からしてみればホーキング博士よりもペンローズ博士の方が偉大だと言う人は多いのではないだろうか?僕自身もそう思っている。今年のノーベル物理学賞には日本人も期待されていたようだが、ペンローズの名前を出されては日本人物理学者は太刀打ちできないと言えるだろう。それほどペンローズ博士の業績は圧倒的なのである。

今、アメリカは自由を履き違えている。

アメリカと言えば自由の国だと言われているが、しかし今アメリカは自由を大きく履き違えているように思えてならない。例えば昔から問題にされている銃所持の自由、そして今ならマスクをしないで集団で騒ぐ自由。これらは自由と言う言葉で一括りしたものの、それらの自由はその他の多くの人の不自由・拘束と精神的束縛の基に成り立っており、そして時には多くの人に命の危機さえもたらしてしまう。

銃所持に関してはアメリカ国内・国外で常に問題視されているが、いつも最終的には銃を所持する自由を維持することで決着してしまう。これにはもちろん全米ライフル協会のロビー活動による政治的圧力が最も大きな原因だと思われるが、アメリカ市民が何でもかんでも自由を一括りしてしまうことにも大きな問題がある。全ての自由を一括りにして、百かゼロか?と問題を単純化してしまうことは良くない。何を自由にすべきで、何を規制すべきか?そのような事をケースバイケースで考えて行くことが重要である。

現在のコロナ問題で言えば、マスクをしない自由と言うものが問題になっている。もちろん、マスクが感染抑止に効果があるかないかははっきりと決着していない。なぜなら、健康な人間を実験台にしてコロナウィルスにさらして感染するかどうかと言うことを実験することなどできないからだ。なのでマスクは大きな効果があるかもしれないし、ほとんど効果はないかもしれない。しかし状況証拠や様々な間接的実験、そしてコンピューターによるシュミレーションによってマスクはかなり効果があると言われている。しかしアメリカでは(もちろん日本でも言えることだが)ここでも百かゼロか?で判断してしまう。マスクなど効果はない。だからマスクなどしなくて良いし、自分はかからないし、だから他人にもうつすことはない。なぜこういう思考パターンに落ち着いてしまうのか?もちろんマスクをしていても感染することはあるし、マスクをしていなくても感染しないことも多々ある。しかしここで重要な事は、感染するかしないかの二択ではなく、感染の「確率」を下げることである。マスクは少なくとも感染の確率を下げることはほぼ間違いない。このように問題を確率的に判断できない人は意外に多いものだ。

もちろん、四六時中、家の中で寝るときもマスクをすることはできないしそのような必要もない。しかし問題を確率的に考えれば、どのようなシチュエーションの時にマスクをすべきかはある程度分かる。そして問題をさらにややこしくしているのは、ウィルスが目に見えない事。なので人にうつしてもうつした本人にうつしたと言う自覚はないし、うつされた人も誰にうつされたかわからない。なのでマスク問題はかなり困難な問題であり、感染抑止と言う視点で考える以上に今はエチケット問題だと考える必要がある。

アメリカの自由の問題からかなり逸れてしまったが、やはり少しでも早くマスクなしでワイワイ騒げる世の中に戻って欲しいものである。しかし今回のコロナ禍によって、コロナに限らずマスクは感染症予防に大きな効果があることが認識されることとなった。今年の初めにコロナが流行しだしてからのインフルエンザ感染者数は例年の千分の一だと言われているし、子供がかかる手足口病の感染者数も去年の同じ時期の百分の一だと言われている。これは逆に言うと、全く感染症予防(マスクや手洗いなど)をしなければ、現在のコロナ感染者数は実際の百倍になっていたと単純に結論付けられる。自分たちがコロナに、そしてインフルエンザも含めて感染症にかからずに済むのは皆の努力の賜物なのである。こう考えると、コロナが終息した後もマスクなどの感染症予防文化はある程度残っていくのではないかと考えられる。しかしアメリカのように自由を履き違えてしまえば、同じ過ちを繰り返すことになるだろう。

90%の失敗。

9月20日の半沢直樹も非常に熱かった。次回が最終回のようだが、今から心がワクワクして止まらない。

ところで半沢はする事する事が全て(最終的には)成功している。もちろん途中経過として失敗することはあるが、最終的には全ての物事が成功しているのである。半沢の成功率は100%?もちろんこれはドラマだから出来ることなのではあるが、しかし多くの人はできるだけ成功率を上げたいのではと思っているのではないだろうか?

しかし僕は自分の成功率にはあまりこだわっていない。だからなのか、僕の物事の成功率は非常に低い。もちろん、僕だって成功しようと努力はしている。しかし数字は結果論であるので、あまりこだわらないようにしているのである。そして成功を糧にする人がいれば、失敗を糧にする人もいる。僕はもちろん後者。ただ僕は成功の数にこだわるのではなく、成功に質に非常にこだわっている。では成功の「質」とはいったい何なのだろうか?それは根幹的な部分に位置することである。枝葉は数多く散っても、幹は確実に守り成長させる。また幹を成長させて守るためには、多くの枝葉を切り落とさなけらばならないこともある。すなわち僕の数多くの失敗は、将来の幹の構成の布石だと考えている。失敗しないやつに幹を為すような成功は為せない。失敗しないでそれができるのは半沢直樹くらいである。

そして失敗を恐れない意志と言うものが非常に重要になる。そのような意思を持って行った失敗は前向きな失敗となるが、恐れて失敗してしてしまえばそれは後ろ向きの失敗にしかならない。僕の90%、いやそれ以上の失敗のほとんどは意志を持った前向きな失敗だ。だからこそ何も卑屈にならず、それどころか確信を持つ事ができるのである。後はそれらの失敗のなす根幹的な成功まで生きること、それが重要になってくる。そのためにもこれからも頑張って生きよう!

僕がこのブログで本名を明らかにしていることについて。

僕の名前(本名)は木原康明。このブログのタイトルの通りだ。なぜ有名人でもない僕がブログのタイトルで本名を明らかにしているのか?理由はいくつかあるが、一つは名前(僕の姿かたち)を隠して発言したくはなかったからだ。世の中の事についてニックネーム(偽名・匿名)で物事を発言している人は多い。しかし僕にはそれは卑怯なのではないかと思うのである。もし正論を言うのならば、自分の姿かたちを堂々と明かして声高に叫べばよい。しかし実際は自分の姿かたちを隠してこそこそとネガティブキャンペーンをしている人も少なくはない。

最近世の中では、ネット上での誹謗中傷が問題になっている。そしてそれらの誹謗中傷をやっている人のほぼ全てが偽名・匿名で攻撃を行っている。もし誹謗中傷をしたければ、首相や大統領に対して本名で行ってみればよい。しかしそれらの人はそんな勇気は全くないであろう。弱者には強く、強者には弱いのである。今、菅義偉氏が日本国の総理大臣に就任した。まだ就任したばかりなので良いとも悪いとも言えないが、官房長官時代の菅氏を見て(安定感は圧倒的だが)、僕の心証はあまり良くはない。これから良い政策をボンボン打ち出して行って欲しいものだが、もし道理にそぐわないような政治をしようものなら僕は容赦しない。総理であろうと強く非難していくつもりである。

話は元に戻るが、僕が本名を出していることによるメリットはあるのか?今現在だけで見ると全くない。しかし何も考えないで名前を出しているわけでもない。ブログで本名を出しているのは将来への一つの布石でもある。もちろん本名を出したことに対して後悔などは全くない。そいう言えば、一つ良いことがあった。それは海外に住んでいる中学時代の同級生が、僕のブログを見つけてくれて連絡を寄こしてくれた。それ以来、彼が毎年日本に帰国したときは一緒に飲む仲となった。

僕は立派な人間でも何でもないが、ただいくつか心に決めていることがある。弱いものに優しく、権力者に対して厳しい態度を取る。長いものに決して巻かれない。それが木原康明と言う人間だ。それができなくなれば、もう木原康明ではない。と言いたいところだが、やはりどうしても妥協してしまうこともある。優しくしたくても少し強く当たってしまうこともある。そこは僕の人間的な弱さなのかもしれない。しかし匿名・偽名で人を攻撃(誹謗中傷)するようなことは決してしない。今の僕には何の力もないかもしれないが、菅義偉総理は心して身構えた方が良いだろう。