統計としてIQを調べるのはいいが、個人をIQで評価するのは間違っている!

今に始まったことではないが、人々は偏差値とかIQで人を評価することが好きだ。もちろん、偏差値とかIQを一つの評価基準として取り入れるのは悪い事ではないが、あくまで‘‘一つの’’評価基準であってそれが全てになってはだめだと強く感じている。その一方、統計としてIQを取り入れるのは悪いとは思わないが、その場合にもそれが全てとなると重要な事を見逃してしまうことになる。

そもそもIQとか偏差値で評価すると言うのは、思想的に非常に低レベルな事である。アインシュタインのIQがいくつだとかよく言われるが、そもそも一流の物理学者がIQと言う低レベルな試験を受けると言う事自体おかしな話であるし、アインシュタインを数値で評価すること自体アインシュタインに対して非常に失礼な話だ。そもそもIQがいくらだとか言われて評価されている人は、所詮IQで評価される程度の人間でしかないと言う事だ。

物理学者や数学者の才能をIQで評価できるなどと言う事は絶対にない。学者は研究内容の結果で評価されるのである。英語を日常的に使っている人なら、英検やTOEICの点数で評価することが非常にバカバカしいことがわかるであろう。英語のテストが出来る事と実際に英語が使えるかと言う事は基本的に別の話である。もちろん全く関係ないとは言わない。統計を取れば英語のテストの点数が高い人と英語が使える人には相関関係があるだろう。だからと言って、英語のテストの点数だけで英語力を評価するのは間違っている。

日本はテスト大国である。もちろん海外にも大なり小なりそのような傾向はあるだろう。しかしテストだけを見て、何か大切な事を見逃しているように思えてならない。例えば情熱だとか独創性だとか。そのような事は数字には表れにくいが、それがある人とない人ではその後の伸びしろが全く違う。偏差値天才やIQ天才と真の天才は全く違う。もちろん真の天才がIQや偏差値も高いと言う事は十分にあり得ることだ。しかし数字と言うお手軽で無思考的なもので評価するのではなく、アインシュタインであれば彼の研究内容である相対性理論などの理論を理解して評価することが非常に重要なのである。もちろんそれができないから数値でお手軽に判断しているのであろうが、それは将棋の形成判断を内容を見ずにAI評価の数値だけ見て判断しているようなものである。しかし人間はAIではなく、生身の総合的存在なのである。

東京五輪は深い五輪になる。

これほど問題提起された五輪もないだろう。もちろん最大の問題提起はコロナをどう乗り切るかと言う事に尽きるが、数日前の森氏の問題発言についても色々と考えさせられることがある。そういう意味で、(森氏を擁護するつもりはないが)森氏の発言は一定の意味があったと僕は考えている。

コロナによって、五輪の在り方が大きく問われている。一体だれが主役なのか?そしてボランティアはどれだけ貴重でありがたい存在であるか?そして果たしてこれまで通りの商業五輪であり続けるべきなのか?この商業五輪問題に関しては、コロナと大きく係わっている。コロナによって五輪開催がほぼ絶望的な状態であるが、しかし政治家たちがここまで五輪開催にこだわっているのは商業的、あるいは金銭的事情によるところが大きい。何だか主役であるアスリートと国民、そして五輪を楽しみにしている世界市民が置いてきぼりにされているようである。今の五輪主催者たちを見ていると、何だか主役が政治家たちであるように思えていならない。実際、二階氏はボランティア辞退問題に対して、いくらでも代わりがいると言うような発言をしている。ボランティアは単なる使い捨ての駒だったのだろうか?しかしこの二階氏の発言によって、五輪に対する政治家の関わり方を考えさせられる機会になったとも言える。

今は五輪をどう開催するかと言うレベルの問題ではない。開催が100%無理とは言わないが、開催できるかどうかはワクチンなどの外的要因に大きく依存する形になっている。とは言え、絶対に無理だと決めつけるのも僕は違うと考えている。確かに開催できるともできないとも断言できないが、今は様々な問題をどう解決するかと言う事が一番重要だと思う。コロナにどう対処するか?ボランティアなど、国民にどう協力してもらうか?そして森氏の発言に端を発した、男女平等の精神をどう根付かせていくか?考えれば問題は尽きることがない。

最後に僕個人の考えを述べようと思う。結論から言うと、五輪を4年後、あるいは次々回の8年後に延ばすのが最も良いのではないかと考えている。それには大きく二つ理由がある。一つは現在のコロナ禍によって正常に開催できそうにないことにある。もし開催を強行しても、まともに観客を入れることは難しいし、再びコロナを蔓延させるきっかけになってしまう可能性も高い。例え国内でワクチン接種が進んでも、人々は世界からやってくる。経済的に見ても、開催強行によって失うものは大きいと考えている。二つ目は国民感情である。一年前と違って、日本国民は五輪開催を歓迎できる気持ちではない。むしろ開催強行にこだわる政府に怒りを感じている人も多いし、五輪開催にネガティブなイメージを持っている人も少なくないと思う。そのような歓迎できない感情を持った中で開催するのは国民のフラストレーションを爆発させるだけではないか?もちろん開催すれば国民感情も一気に歓迎の方向に向くかもしれない。しかしこればかりは何とも言えない。しかしこのような感情の一番の原因になっているのは、政治家の姿勢であることは間違いない。なのでこのような感情をどう変えるかは政治家の姿勢と手腕・実行に全てがかかっていると言える。しかし政治家に全てを丸投げするのではなく、国民もどうすれば問題を解決できるかと言う事を一人一人が自分の頭で考えることが求められている。

菅氏が三流政治家たるゆえん。

2月10日の報道ステーションで、イスラエルにおけるワクチン接種のニュースが流れた。そのニュースによると、イスラエルでは6割以上の人達がワクチン接種(一回目)を受け終えたと言う。二回目の接種においても2割以上の人達が接種を終えていると言う。まだ一人も接種を受け終えていない日本と比較すると、驚愕的な事実である。ではなぜイスラエルではそのような早期接種が実現したのか?それは非常に単純であって、ワクチンを相場の1.5倍の値段で購入したからである。

それに対して日本はどうか?相場に上乗せすべきお金を全てGoToキャンペーンにつぎ込んでいる。もしそのお金をワクチン購入代金に上乗せしていれば、イスラエルのように早期接種が可能であっただろう。もしGoToにかかる金額以上の出費になったとしても、国民のほとんどが納得するはずだ。イスラエルと日本の運命が分かれたのは、菅氏の無能によるものに他ならない。

もしワクチン接種が三か月早まれば、三か月早く人々は旅行や飲食に出かけることができ、経済的にも大きなメリットになったであろう。それはGoToを行うよりも大きく持続的な効果を生み出すはずだ。そして一番は人々が安心して旅行や飲食に出かけることができることである。GoToで無理やり需要を引き出そうとしても、人々はコロナにおびえながら旅行に出かけなければならない。そしてそれによってさらにコロナ感染を拡大してしまう。

菅氏にはそのような事を想像できる頭は持たないであろう。ならばそのような事を進言する人が絶対にいるはずで、菅氏が公平に意見を聞く耳を持てるだけの器があればそのような事も実行できたはずだ。もしそれができていれば菅氏は二流政治家になれたであろう。しかし菅氏はれっきとした三流政治家に他ならない。

そして報道ステーションではさらに重要なニュースがなされた。アメリカやEUが域外へのワクチン輸出を制限し始めたと言う。それによって日本におけるワクチン確保のめどが立たなくなっていると言う。これらのことも当たり前と言えば当たり前の事だ。自国民を犠牲にして他国民を助けるようなことは普通はしない。しかし菅氏にはそのような事が想像できなかったのであろう。もしワクチン接種が数か月遅れるようなことがあれば、完全に菅氏の失政である。そうならないことを強く願うが、状況は厳しくなって行くように思えてならない。

知を高めたい!ただそれだけ。

「知を高めたい」それだけだ、と言えば嘘になる。生きて行くためにはお金も必要だし、地位や名誉にも興味がない訳ではない。しかし僕の生きる一番の原動力になっているのは、知への欲求であることには間違いない。小学生の頃から数学や物理(理科)に興味があり、素粒子の世界に夢を見ていた。もちろんこれまでに興味の微修正はあったものの、大筋ではその頃と変わりはないと思う。

今、コロナ禍で様々な欲求が抑圧され、これまでの生き方が通用しなくなっている。それはもちろん僕にとっても同じであり、なので新しいことに挑戦して切り抜けようと考えている。そして学問においても、これまで数学・物理一辺倒だったものから、興味の幅を圧倒的に広げようとしている。特に現在はコロナ禍と言う事もあって、コロナに関する科学的情報を身に付けることに力を入れている。

コロナに対する対処として、「正しく恐れることが大事だ」とよく言われる。では正しく恐れるためにはどうすれば良いのか?そのためには敵の情報を正しく掴むことが最も重要だと僕は考えている。なのでコロナを正しく恐れるためには、コロナによる社会的状況だけでなく、コロナに対する科学的知識を身に付けることが非常に重要である。しかし現実を見ていると、感染者数などの社会的情報は頻繁に伝えられるものの、科学的情報が見過ごされているのではないかと強く感じる。人によっては科学的な情報など一般人には無意味だと言うかもしれない。しかし正しい科学的情報が正しい行動へと導くと僕は考えている。

これからはワクチン接種を行っていくと言う段階に入った。そこでワクチンの科学的情報を正しく認識することが重要になってくる。ワクチンの仕組みも知らずに、ただ報道情報に煽られて恐れるのは究極の無知でしかない。とは言っても、ワクチンを接種するかどうかは個人の判断に任される。なのでもしワクチン接種を拒否するにしても、科学的知識に基づいた判断であって欲しいと強く願っている。

重箱の隅から本質が見えることがある。

傍から他人のしていることを見ると、どう見ても重箱の隅を突いているようにしか見えないことが多々ある。しかし自分が実際にその問題に取り組んでみると、それまで重箱の隅のように思えていた事が、実は本質的な事であったことに気づくことがある。特に数学においてはそのような事が顕著に表れる。単なる重箱の隅ではなく、いかにして本質的な重箱の隅に取り組むかが大事なのである。

数学においては、99%出来上がっているのに残りの1%がどうしても解決しないと言うことがよくある。多くの数学の大問題も、現在そのような状況である。残りの1%に労力の99%を注ぎ込まざるを得ないことはよくあることだ。特に数学理論においては、論理的に100%完璧であることが求められる。1%でも隙があれば、それは定理としては認められず「予想」として取り扱われる。実はこの1%と言うものが曲者である。「99%上手くいっているのだから、それは正しいに間違いない」と言いたいところだが、しかしその残りの1%に大どんでん返しが潜んでいるのである。なので1%と言えども、それが全てと言っても過言ではないくらいだ。

しかしこれは数学に特有のことかもしれない。他の学問においては、1%不都合な事があっても99%上手くいっていればそれは正しいものだと見なされることが少なくない。いやほとんどにおいてそうである。それどころか、49%不都合であっても51%上手くいっていればその理論は認められるかもしれない。しかし数学においては100%が求められるのである。「あと1%」ではない。「残りの1%が全て」なのである。

最近あらゆる学問が面白い。僕は数理物理が専門であるが、そのような科学研究者にとって社会学や歴史学、あるいは文学は不必要なのか?いや、僕は全く違うと考えている。自分の専門分野と言うタコつぼに閉じこもるのではなく、あらゆる分野の知見を身に付けることは非常に重要である。なぜなら科学者である前に人間であるからだ。なので人間活動に付随する出来事には常に感覚を研ぎ澄ませていなければならない。確かに理論研究者が実験をすることはほぼ不可能であろう。ならば理論で出来る事だけでもやればよい。それだけでも手に余るくらいの多くの分野があるだろう。もし自分が理論研究者と名乗るのならば、理論分野のあらゆることに対して深い知見を持っていなければならない。

コロナが収まったら暴れまくる!

緊急事態宣言が発令して感染者の数は少しは少なくなったが、しかし感染が収まる気配はあまりしない。おそらく緊急事態宣言が解除されればまた増加傾向をたどるだろう。しかし唯一の救いは、ワクチンが急速に実用化され、今年の中頃までには何とか広く行き渡る気配であることだ。ワクチンに関しては否定的な意見があるものの、僕はワクチンの効果は絶大であると考えている。

今、コロナ禍にあって思うように活動ができず鬱々している人は多いだろう。だからと言って今暴れまくってしまえば感染のリスクを増加させることに他ならない。今は我慢の時だ。僕自身も様々な活動を我慢している。しかしだからと言って、何もできない訳ではない。家に引きこもっていてもできることはいろいろある。理論的な研究などは外出しなくてもいくらでもできるし、このコロナ禍を機に新しい活動を始めることもできるだろう。僕自身も今新しいことを始めようと準備している。

ワクチンは多くの人が接種してこそ意味がある。もちろん個人が接種することにもメリットは大きいが、個人が免疫を付けると同時に、国全体が集団免疫を付けることも非常に重要だからである。そしてワクチンが広く行き渡りコロナの危険性が格段に少なくなれば、その時に暴れまくればいいと思っている。その時には僕自身も、研究に、そしてあらゆることに対して暴れまくろうと思っている。

晴耕雨読ならぬ、晴耕コロナ読。今は室内で出来ることをすればよい。もちろん外出せざるを得ない時もあるのでその時は僕も地下鉄に乗って出歩くこともあるが、幸い数理物理の研究は室内で出来る。そしてコロナから解放されたときに暴れまくる準備も徐々に出来つつある。今はその時のために粛々と出来ることをすべき時である。

パソコンの選び方。

一年半ほど前に新しいパソコンを買ったのだが、今非常に後悔している。何に後悔しているかと言うと、一言で言うと「性能」である。しかしCPUの種類とかストレージやメモリの容量と言った、数値などで表せるような分かりやすい部分ではない。ではどこが問題かと言うと、排熱構造である。店頭では様々な性能を表示してはいても、排熱構造まで説明しているところはまずない。では排熱構造が悪いとどうなるか?当たり前の事ではあるが熱がこもってしまう。その結果、CPUがオーバーヒートして電源が落ちてしまうのである。このような排熱に関する問題は、実際にトラブルにならないと実感しづらいものである。

僕のパソコンはスペック自体はかなり高いものである。CPUはCore i7、メモリ16GB、ストレージは1TB。少し詳しい人がこの数値だけを見れば、スペックは高いことがわかると思う。しかしこのような高スペックパソコンでも、すぐに熱がこもって頻繁に電源が落ちては宝の持ち腐れである。

では排熱が悪い原因はどこにあるのか?その一つの理由は、「薄型」パソコンであると言ことにあるだろう。薄さを求めるあまり、排熱構造が犠牲になってしまっているのである。とは言え、全ての薄型パソコンがここまで排熱が悪いわけではない。おそらく排熱構造もしっかりと考え込まれた薄型パソコンは、こんなに簡単にオーバーヒートを起こすことはないだろう。ちなみに僕が買ったパソコンは、世界的に大手のパソコンメーカーのものである。そして値段もかなり高いものである。

ではこのような失敗をした原因はどこにあるのか?それは「デザイン優先」で選んでしまったことである。実際、僕のパソコンはデザイン的には非常にお洒落なものである。そこに魅かれて買ってしまった。それまでは質実剛健なパナソニックのレッツノートを二台使い続けていた。レッツノートは非常に地味であるが、全く壊れることもなく非常に良いパソコンであった。デザイン的にも地味ではあるが、飽きの来ない愛着の持てるパソコンである。初めのレッツノートパソコンは十年以上経つが、今でも使うことができる。もちろんWindowsのOSはサポートが切れているので、Linuxに入れ替えてある。ちなみにレッツノートは分厚さはあるが、その分排熱に関しては最上級レベルに良いものを使っていると言う話を聞いた。そのような数値には表れない見えない部分にも深く手が加えられているので、最も信頼できるパソコンと言う立ち位置を確保できているのであろう。

このようなこともあり、今新しいパソコンを購入することを検討している。そして次購入しようと思っているパソコンの機種はほぼ決まっている。AppleのMacだ!Macは最近、CPUをインテル製から自社開発のものに乗り換えられた。そしてその自社製CPU(M1と言う名前である)のMacが非常に評判が良い。そしてコストパフォーマンスも抜群に良いのである。ちなみにAppleのM1Macの排熱は、そもそもほとんど熱が発生しないのでファンがほとんど回ることがないらしい。CPUなどに関する性能も、インテルとは比較にならないほど高いと言われている。このM1Macを買うために、少し貯金に励もうと思う。

コロナワクチンに関する僕の私見。

今世の中のコロナ対策は、いかにしてワクチンでコロナを制覇するかと言う段階に入っている。しかし「制覇する」と言う言葉は適切ではないかもしれない。天然痘のようにゼロにすると言うより、新型コロナを季節性インフルエンザレベルにまで危険性を落とすことが主眼に置かれていると思われるからだ。しかしどうにしろ、新型コロナワクチンは医学的にも政治的にも今年最も重要なミッションになることは間違いない。しかし世の中には的確な情報ももちろん沢山あるが、市民の不安を煽るだけの非常に適切でない情報も氾濫している。

ではなぜ医学や生物学の専門家ではない僕がこのような記事を書こうとするのか?確かに医学・生物学の専門家ではないが、そうは言っても普通の市民よりはそれらの知識はかなりある。そして生物学関係の(準)専門的な書物も頻繁に目を通して基礎的知識、そして最新の知識を更新している。さらに今回の新型コロナに対する対策に関しては、生物学・医学的知識だけではなく確率論的思考なども非常に重要になってくる。そのような数学的思考に関しては僕の得意とするところだ。なので僕が新型コロナ及びワクチンに関する記事を書く意義はそれなりにあると考えている。

ワクチンを接種するかどうかと言う判断をするとき、メリットデメリットを天秤にかけることは非常に重要である。そしてそのような事を考える時、自分個人に関するメリットと同時に、家族的レベルから国家的レベルまでの集団的なレベルでのメリットも考える必要がある。個人的レベルで言えば、自分に抗体によって獲得免疫を付けることであり、家族的には自分が感染を防ぐことによって家族にコロナをうつす危険性を下げる事、そして国家的レベルでは集団免疫を付けることだ。

まず個人的レベルで考える時、主題になるのはワクチンの効果と副反応(副作用)であろう。驚くべきことに、医者の中にもでたらめな記事を書いている人が少なくない。なぜこのような医者によるでたらめな記事が出回っているかと言えば、僕が考えるにはおそらくまともな記事よりもでたらめな記事(ワクチンを否定するような記事が中心)の方がセンセーショナルに映り、人々の目を向けられるからだと考えている。なので医者によるでたらめな記事が出回っているほどいい加減な医者はそれほど多くはないと僕は考えている。しかしこのような記事が出回っている限り、我々市民は記事の妥当性を的確に判断しなければならない。

まず新型コロナワクチンの有効性は、日本で中心となるファイザー製が約95%だと言われている。これはプラセボ群(偽薬、つまり生理食塩水を注射した集団)が二十人発症したとしたとき、本物のワクチンを接種した集団は一人発症すると言う事だ。もちろんこれらの人数は割合(確率)を表している。なので単純に危険性が20分の一になると考えてほぼ問題はない。これは非常に大きな効果である。インフルエンザワクチンの有効性が60%~70%ほどだと言われているので、コロナワクチンの有効性の高さがわかるであろう。そしてインフルエンザワクチンが感染したときの重症化を抑えると言う効果があるように、コロナワクチンも重症化を抑える効果があると言われている。

そして副反応(副作用)に関してだが、これに関してもいくつか報告されている。その中で最も大きな副反応として、アナフィラキシー(重いアレルギー反応)は9万人に一人の割合である。これを確率で表すと、0.0011%と言う事になる。そして現時点ではアナフィラキシーを発症した人たちはほぼ全て退院したという報道もある。少なくとも死者は出ていない。

そして多くの人が気になっているのが、ノルウェーでコロナワクチンを接種した高齢者23人が死亡したと言うニュースであろう。この事実にはいくつか解釈がある。大多数の接種が行われれば、その中の何人かは接種するしないに関わらず死亡する人がいることは容易に考えられる。なのでワクチンを接種した時期と死亡した時期が重なったと言うことである。そして次に考えられるのが、持病などで弱っている人が、接種によって負担がかかり死亡したと言う事である。

このワクチン接種による負担は、おそらくワクチンを体に取り入れることによる体内反応によるものと考えられる。ワクチンと言うものは単純に言うと、ワクチンと言う異物を体内に取り組むことによって免疫反応を起こし、体内で抗体を生産することである。なのでこのような反応は絶対に起こるので、多くの人が発熱や倦怠感が一時的に出て来ることになる。しかしこれは多くの人にとって、抗体がしっかりと生成されて免疫が確実に付けられている証だとも言える。

そして無視できないのが、長期的に見た場合の副作用である。しかしこればかりは短期間では何とも判断できないのでイエスともノーとも言えない。しかしこれを例えて言うと、新しい薬が出た時にも同じことが言える。新しい薬の長期的な副作用は不明である。しかし普段は人々はそのような事はほとんど気にしない。なので薬の場合は気にしないでワクチンに関しては過剰に反応すると言うのはある意味思考的にはおかしな話だと思う。

最後に国家的レベルでの話だが、なぜ集団免疫が重要なのか?まずは集団免疫とは何かと言う事を簡単に説明すると、国民(世界市民?)の何十%が免疫を付けたかと言うことだ。これが一定の割合を超えると、国全体での感染者数が確実に減少傾向になる。そして時間が経つと感染者が(ほとんど)いなくなるということだ。しかしもちろんこのためには一定数以上の市民のワクチン接種が必要になる。なのでワクチンの副反応に過剰に拒否反応を示し接種する人が少なくなると集団免疫を付けることができない。そういう意味で、一人一人がワクチンのメリットデメリットを的確に判断して接種すると言う事が非常に重要なのである。すなわち一人ひとりがワクチン接種することは、国民の集団免疫獲得に貢献することでもあると言える。

ここまで様々な観点からワクチンに関するメリットデメリットを書いてきた。この記事を参考にワクチン接種をするかどうかの判断をしてもらえれば幸いである。ちなみに僕はワクチン接種が可能になると、即接種しようと考えている。とにかくコロナ禍が少しでも早く終息することを強く願っている。

意味のない努力なら、しない方がマシだ!

僕はこれまで努力の重要性を度々強調してきた。そして今でも努力は最も重要なものだと考えている。しかしそれには前提がある。それは、その努力が意味のあるものだと言うことだ。なのでもし自分のしている努力が無意味なものならば、そのような努力はしない方が圧倒的にマシだ。

例えばイチロー選手は誰よりも努力をしていたことは誰もが知るところであろう。しかし練習の時間数だけを比べれば、おそらくイチロー選手よりも練習をしている選手はいるはずだ。ではそのような選手とイチロー選手は何が違うのか?これまた良く知られていることだが、イチロー選手は練習の前に丹念にストレッチをしている。おそらくストレッチだけで一時間以上しているのではないかと僕は思っているのだが、ではなぜイチロー選手はそこまでストレッチにこだわるのか?それはそうすることが一番効果的であり、その後の練習に大きな意味を持たせることができるからだと僕は考えている。練習だけを6時間がむしゃらにするよりも、1時間のストレッチの後、3時間の練習をこなす方が圧倒的に効果が出ると思われる。さらにストレッチをしなければ長時間練習をすればするほど怪我をする危険性も高くなる。このように努力に意味を持たせることを考えるのがプロがプロである所以であると僕は考えている。

iPS細胞の山中伸弥教授は研究だけをやっているのか?いや、山中教授は毎日ランニングをやっている事でも有名である。山中教授が何を考えてランニングをやっているかはわからないが、ランニングをやることによって体を鍛えることは研究やビジネスにおいて大きなアドバンテージになるし、さらにランニングをすることによって頭脳も快適に働くことになる。やはり山中教授も仕事や研究に意味を持たせるためにランニングをやっているのだと僕は考えている。

ただがむしゃらに努力にもならない努力をして時間を稼ぐのは、二流三流のアマチュアがすることである。一流のプロは「意味のある」努力をする。なので今やっても効果的ではないと感じたら、思い切って関係のないことをやって気分転換をすることも重要である。そして何をするにも体が資本、頭脳を使うにしてもその頭脳があるのは体である。なので体を鍛えることは非常に重要である。そのような事を山中教授は教えてくれているのだと思う。そう言えば、僕の学生時代の恩師の教授(数学者)も筋トレをして体を鍛えていた。やはり一流のプレイヤーは、どうすれば一番意味があるかと言う事を常に考え行動しているのである。

生物学を時間スケールで考える。

生物学と言うと現在では分子生物学が一番大きな割合を占めているのではないだろうか?その他にも解剖学だとか生態学など色々と分野が分けられているが、その中でも無視できないのが進化学だ。つまり生物学を時間スケールで考えると言う事だ。そしてこれからの生物学においては、分子生物学などを研究する際にもこのような時間的スケールと言う視点を取り入れることが重要だと僕は考えている。

なぜ僕がこのような進化学に注目したかと言うと、理論的観点から研究を進めることが大いに可能だからだ。特に進化遺伝学や集団遺伝学は確率論や数学的モデルが重要な位置を占めている。また分子進化学では、もちろんその名にあるように分子生物学的な研究も必要になる。まさしくミクロスケール生物学と時間的スケール生物学の融合である。

進化学はダーウィンの時代からは大きく変わった。しかしダーウィンの提唱した自然淘汰の原理は今の進化学においても重要な位置を占めている。僕はこれまでジェネラルサイエンティスト(全ての科学的分野においてスペシャリストレベルである科学者)と言うものに言及してきたが、生物学においてもジェネラルバイオロジストと言う存在が重要になるのではと考えている。これからの科学においては、細分化された狭い分野でのスペシャリストでは必ず限界が来る。どの分野においても多方面からの視点が必要になる。それが生物学においては、分子スケールと時間スケールの融合と言う事ではないだろうか。

このように考えると、数学者や物理学者が生物学的分野に進出するのも面白い。研究と言うものは一つの分野に絞る必要はないのだ。いや、むしろ分野を絞らずにあらゆる視点を身に付ける方が良い。しかし現在ではあらゆる分野で極度の細分化が進み、いち早く細分化された狭い分野で結果を出すかと言う事が求められる風潮が強い。しかしそれは間違っていると僕は考えている。もちろん狭い分野で隅を突くような研究をしたい者はそうすればよい。しかしそのようなものは取るに足りない研究者でしかない。それこそ学者とも呼べないと僕は思っている。学者とは学があってこそのものである。しかし細分化された範囲に籠っては学など付くはずがない。改めて言う。今科学の分野が膨大になったからこそ、広い視点を持ったジェネラルサイエンティスト、つまりあらゆる分野でスペシャリストレベルの科学者が必用なのである。