これから一か月半生き延びる事。

現在コロナ禍はますます酷くなってきており、現在蔓延しているデルタ株は若い人、そして基礎疾患がない人たちにも重症化のリスクが高い傾向があると言われている。なので完全な健康体(と思っている)である僕であっても、感染すれば重症化のリスクもないとは決して言い切れない。いや、僕自身は、感染してしまうと重症化してしまうと言う前提の下で日常生活を過ごしている。なので感染対策にはかなり気を使っている方だと思っている。

そしてそのような重症化を防ぐ現在出来うる最強の対策は、ワクチン接種である。なので僕も一刻も早くワクチン接種を行いたいと思っているが、接種の予約は今月の後半に入れることができた。モデルナ製のワクチンだ。今月の後半に接種するとなると、モデルナは一回目と二回目の間隔が4週間で、さらに効果が万全になるのは二回目接種から二週間後だと言われている。そう考えると、ワクチンの効果が効いて安心できるまでには一か月半かかる。この一か月半が人生の分かれ目であると考えて、何とか生き延びようと慎重に行動しようと思う。

このようなことを書くと大げさだと言う人もいるかもしれないが、僕は全くそうは思わない。以前コロナはただの風邪だと言っている人もいたが、現在の惨状を見ると90%以上の人はそうは思わないはずだ。しかし逆に言うと、10%ほどの人はただの風邪、あるいはインフルエンザと変わらないと今でも思っていると言える、ここで出した割合の数字は僕が主観的に出した数字なので正確ではないが、ただ飲食店でマスクもせずにワイワイと宴会をしている人がそれなりにいることを考えれば、あながち乖離しているとも思えない。

ここまでコロナ禍が酷くなったのは、50%以上は政府の責任であると考えている。しかし政府の失政によってコロナ禍が酷くなったからと言って、政府が助けてくれるわけでもない。救急車を呼んでも搬送してくれると言う保証がない現在においては、もう自分の体は自分で守るしかない。とは言え社会で生きている以上、100%安全な策と言うものは存在しない。なので今はできるだけ危険性を下げると言う行動を取ることが重要だ。コロナ禍が終息するまで生き延びて、その時に皆で晩酌を挙げようではないか!

確率的思考。

物事を考える時、どう判断すべきか?僕はできるだけ確率的に判断しようと心がけている。常に物事のリスクとベネフィット(利益)を天秤にかけ、ベネフィットが大きければ実行するし、リスクが高ければ実行しないと言う判断を下す。特に現在のコロナ禍の中、このようなリスク判断は非常に重要になってくる。何事においても100%安全であると言う事はあり得ない。コロナ対策に関しても感染のリスクの高い行動は出来るだけ避けるべきであるし、ワクチン接種をするかどうかに関してもリスクとベネフットを冷静に確率的に比較し判断すべきだと考えている。

しかし僕の周りの人間たちはこう言うかもしれない。「木原(僕)は全然リスク判断が出来ていないではないか!」と。そう、僕はかなりリスクを度外視した判断をすることがある。現在の僕の座右の銘は「危険に飛び込め!リスクを負え!」である。とにかく自分からどんどんリスクに飛び込んでいくことを心がけている。先ほどのコロナ対策に関しては完全に確率的にリスク判断をすべきであるが、例えば自分の夢や将来を切り開いて行く行動に関しては、成功の成否を確率的に考えるようなことはしないし、そんなことを考えていれば全く行動に移せない。なのでかなりの危険があってもまずは飛び込んでいくことが大事である。そこには自分の確固たる意志と言うものが大きく絡んでくる。

最近は社会で数学と言うものが軽んじられてきているように感じる。しかし確率と言うものは完全に数学である。なので日常における様々な判断を確率的に行うためには、数学的素養と言うものは重要な要素になってくる。最近はプログラミング教育における観点から数学的ロジックの重要性が主張されることがある。しかし数学の一番の強みは「本質を見抜く目を養う」と言う事にある。物事を実用的観点のみで判断してしまえば、結果的に実用的な力さえも失ってしまうことになる。なので「役に立つかどうか?」と言う判断ではなく、「そのものに価値はあるか?」と言う価値判断を下せる素養を身に付けなければならない。そのためにはまず「役に立つ≠価値がある」と言う事を理解しなければならない。

対応の仕方が一年前と同じでは脳がない!

コロナ禍は一向に収まる気配がない。医療従事者はますます苦しく困難な状況に追い込まれ、医療崩壊寸前、あるいは既に医療崩壊が始まっているとも言われている。我々国民としても、これらの献身的に働く医療従事者をこれ以上苦しめないためにも、まずは自分自身が感染することを防ぎ、最低限マスクをするとか人混みを出来るだけ避けると言った行動をとらなければならない。我々に何ができる?と思うかもしれないが、私たち自身がコロナに感染することを防ぐことが医療従事者に対して協力できる最高で唯一の方法なのである。

医療従事者が苦しい立場で献身的に働いているのに対して、政治家は何をしているのか?今僕が一番問題だと考えているのが、一年前と同じ施策を今でも全く同じようにやっていることだ。具体的には緊急事態宣言、まん延防止法、そして補助金での支援の仕方など、一年前とほとんど変わらないやり方でやっている。しかし一年前と比べてコロナに対する知見は飛躍的に蓄積し分析されている。それと同時に新たな変異株が現れるなどコロナウイルス自体もどんどん変化し続けている。しかし政策だけはほとんど変わらないのである。そればかりか、オリンピックが強行され、五輪関係者をバブルで包んで外に影響を与えないと言っていたところが、今ではバブルの外(すなわち日本社会全体)の方がコロナ禍がはるかに悪化していると言う逆転現象が起きている。

コロナ禍が発生してから一年以上経つのだから、それに沿って政策も発展させていかなければならない。例えば先日僕がブログで執筆したように、一か月限定の強力なロックダウンを行うと言うのも一つの手であろう。ロックダウンを行うと人々の自由を侵害すると言う声もあるかもしれないが、ダラダラと緊急事態宣言を出し続ける方が結果としてはるかに人々の自由を奪ってしまうことになる。自由を何よりも大事にするフランスでさえも、強力なロックダウンを行っている。そもそも一年前と同じ施策が今でも通じると考える方がおかしな話であり、全く脳がないと言える。

そして最後の砦であるワクチンでさえも、ある程度普及すれば必ずコロナ禍を抑えることができるかと言えば、他国を見れば必ずしもそうとは言えない。なのでワクチンを普及させれば全てが上手くいくと言う考えも菅氏は改めなければならない。ただしワクチンは感染を防ぐと言うこと以上に重症化を防ぐと言う効果があるのは明白なので、僕はワクチン接種は非常に重要で強力な手段だと思っている。

オリンピックで活躍するアスリートは皆素晴らしいものであり、オリンピックはアスリートファーストで行わなければならない。しかしそれとオリンピックに対する政治判断は全く別物だ。菅氏はオリンピックが盛り上がれば政治での失策など皆忘れて支持率が上がると思っているようだが、僕はむしろそれとは全く逆だと思っている。オリンピックに湧いたがゆえに、菅政権の失策はむしろ浮き上がってくる。なのでオリンピックが終わると政府、そして菅氏への不満は爆発するであろう。何より菅氏は国民をバカにしている。しかしそのような菅氏を国民がバカにし見放すのも時間の問題である。

リレー日本代表、攻めて失敗した選手たちを称える!

8月6日もオリンピックでは様々なドラマがあった。まずは女子1500メートルで田中希実選手の8位入賞には非常に興奮させられた。そしてその一時間後に行われた400メートルリレーでそれは起こった。バトンミスによる失格だ。その時は何が起こったかわからず呆然としたが、バトン受け渡し区間内で上手くバトンを渡せなかったようだ。しかしその後の選手たちのインタビューでは、4人それぞれが口々に「攻めて行った結果だ」と発言された。もちろん僕のような素人にはそこまではわからない。しかし攻めて行った結果の失敗ならそれは大いに賞賛すべき失敗だと僕は思う。これこそ日本人に最も欠ける部分だと思うからだ。

日本人と言うものは何かと安全志向だ。とにかく確実に成功する保証がないと動かない。もちろん皆が皆そうとは限らないが、日本人の特性でそのようなところがあることは多くの人が認めるところだと思う。しかし僕は安全志向でなんとなく掴んだ成功より、攻めて攻めて攻めまくった結果の失敗の方がはるかに価値があると思う。もちろんオリンピックは4年に一度なので、頻繁にやり直すことはできない。泣いても笑っても4年に一度なのだから。しかし4年に一度の舞台でこのような失敗をしたことは非常に貴重である。

しかし僕は、いや、多くの日本人は同じような不満を抱えていると思う。それは今一番勢いのある日本人選手であるデーデー・ブルーノ選手の走る姿を一度も見れなかったことである。僕も正直言って、ブルーノ選手の走りを一番見たかった。まだ評価の固まっていない選手なので、どうなるかは全く分からない。そのような未知の選手だからこそ、その可能性に懸けてみたかった。しかし僕は今回出場した全ての選手に対して不満はないどころか、大いにリスペクトしている。とは言え、政府のほとんどの決定に対しては大きな不満を持っている。何より国民に響く、国民が納得できる説明が全くなされていない。現在のコロナ感染の爆発に対しても、「想定外」と他人ごとのように捉えているように感じられてならない。現在の政権は「菅“保身”政権」である。オリンピックのメダリストに上から目線で電話で話すよりも、政治家にはアスリートの人生を懸けた覚悟を見習ってほしいものである。

開催の是非が問われたオリンピックだが、アスリートたちには全く責任はない。なのでアスリートを責める人がいればそれは完全なお門違いである。アスリートにとってはこの4年に一度のオリンピックに人生がかかっている。この4年に一度のオリンピックの活躍次第で、その後の人生が左右されると言っていい。そして今回のリレーの失敗に関しても、その後の人生を大きく左右されるだろう。そしてそれが良い意味で影響されることを強く願っている。

ロックダウンはどうすべきか?

現在コロナ禍はますます猛威を振るい、感染者数は東京都だけでもついに五千人(8月5日)を超えた。緊急事態宣言やまん延防止法は出され続けているが、最近はそれらの法にも慣れが生じ、国民の多くは外出を控えようとはならない。そこでより強いロックダウン(都市封鎖)をすべきではと言う考えもあるが、ここでは(法的問題はわきに置いておいて)「ロックダウンするならどうすべきか?」と言う事を考えようと思う。

まずロックダウンをするなら、全国一律に実行することが重要である。そうでないと逆にロックダウン解除後地方からまたコロナが広まってしまうことになる。そしてもう一つ重要なのは、「一か月限定」と初めから宣言しておくことである。そしてその一か月間は厳重にロックダウンを遂行する。もしかしたら違反者に罰則を科すことも必要かもしれない。しかし一か月後には必ず解除することを約束する。そうでないと人々は終わりが見えなくて我慢できないであろう。

次に僕が重要だと思うことは、一か月間ロックダウンすることによって国民が被る不利益を保障することである。そこで「全国民一律給付金」の出番だ。例え5万円くらいであってもないよりかはある方が助かるし、またそれ以上に「給付金が出るなら一か月我慢しよう」と言う意識が広まるはずだ。なので確かに5万円だけでは生活費を完全に補うのは困難かもしれないが、一律給付金を出すことは非常に重要である。

しかしもう一つ最大の問題がある。現首相の菅氏がそのような事を言い出して国民は納得するだろうか?いや、現在の菅氏に対しては国民は何の信頼感も持っていない。そのような人間が言い出しても多くの国民は納得しないので、まずは首相を交代することが重要である。誰が良いとはここでは言わないが、少なくとも菅氏ではダメな事は明らかだ。

これが僕の考えるロックダウン案だが、もちろんここでは述べなかった法的問題も大きな問題である。なので迅速な法的整備を含めてこれらのことを実行できる人物でなければならない。確かに困難な事案ではあると思うが、僕は必ずしも不可能ではないと考えている。そしてロックダウンが終わる一か月後にはワクチン接種もかなり進んでいるに違いない。

最後に、ロックダウンの一か月間は経済的にも精神的にもかなりきつい状況にはなるが、長期的観点から見れば必ずこちらの方がダメージは少ないはずだ。なのでロックダウンに限らず、政府は目先の事ばかりにとらわれず長期的観点から政策を進めてほしいと強く願っている。

勉強はコスパが悪い!

以前、東大を首席で卒業した山口真由さんが、「勉強はコスパが良い」と言われた記事を見かけた。もちろん学生時代の勉強がビジネスに役に立って、巨額の富を手に入れる人もいるだろう。そしてそこまでいかなくても、普通に企業に勤めて高年収を稼ぐ人も多いかもしれない。なので勉強をコスパと言う観点で見た時それをどう評価するかは人それぞれだと思うが、僕自身は「勉強はコスパが悪い」と主張したい。しかしここで勘違いしてはならないのは、「コスパが悪い」からと言って、「勉強をする価値がない」と言う訳では全くないと言う事だ。それどころか勉強や学問に打ち込むことは、巨額のお金に匹敵するか、あるいはそれ以上に価値があると僕は考えている。

しかし僕は、勉強がお金に結び付かないと言いたい訳ではない。僕が主張したいのは、「勉強や学問に打ち込むことを、コスパと言う観点で比較することはおかしい」と言う事である。とは言え、多くに人にとっては「なぜ勉強するのか?」と問うた時には「学歴を付けて良い会社に入るため(高い収入を得るため)」と答えるだろうから、勉強をコスパと言う観点で比較したがるのは無理はない。そして学問の中にはお金(収入)に直結する分野も少なくない。そう考えれば、僕のような考えをする人の方が圧倒的におかしいと言える。

そう、僕は変態なのである。純粋数学や理論物理などを追究しているとこのようにおかしな人が少なからず生産される。もちろん、数学の知見を活かしてアクチュアリーなどの実用的でステータスのある高収入が得られる仕事に就く人もいる。もちろんそれも数学を突き詰める一つの意義ではあるが、数学の一番の醍醐味は「自然(宇宙)と論理の本質を垣間見る事」であると僕は考えている。このような本質を理解することはお金には代えられないような快感である。

勉強に限らず、何でもお金で比較する文化が社会に根付いている。そのような事は資本主義社会においては常識であるかもしれない。しかしお金では買えない価値もある。それが学問を追究することである。例え何百億円出そうとも、高価な数学書を買うことはできても数学の本質を理解することは簡単にはできない。世の中には「お金では買えない価値がある」ことを少しでも理解されれば幸いである。

コロナ「東京株」は現れるのか?

現在、新型コロナの「デルタ株」などの変異株が国内でも広まりつつある。デルタ株は従来の株よりも感染力が強く、重症化率も高いと言われている。このような株が広まれば、コロナ禍は量・質ともにさらに悪化していくものと思われる。

現在、東京オリンピックは無観客で行われているが、人々の接触は増加しつつあると思われ、今日(7月28日)には東京のみの感染者数だけでも3千人を超えた。ただ今回の第五波はワクチンの効果により死者や重症者の数が少なく、危機感があまり感じられないように感じる。確かにそれらだけを見れば深刻さは過去の波より低いようにも思われるが、僕はここに大きな危険が潜んでいると考えている。それは変異株「東京株」の出現だ。

まず変異株の事を述べる前に、少しコロナに関する科学的な側面を簡単に触れて、変異株がなぜ発生するのかについて述べる。ウイルスは増殖する際に、RNAと呼ばれる遺伝子をコピーする。通常は正しくコピーされるのだが、まれにコピーミスが起きる。そしてそのコピーミスによって変異株が生まれるのである。しかしコピーミスが起きる確率は限りなく低い。しかし一定の確率でコピーミスが起きるので、ウイルスが増えるほど、つまり感染者が増えれば増えるほどコピーの回数が多くなり、それに伴ってコピーミスが発生する可能性が高くなる。つまり現在、感染者数が多いが重症者数が少ないと(政府も?)楽観視しているが、しかしそれを野放ししていると「東京株」が発生する可能性が非常に高くなる。

ではなぜ「東京株」の発生がそれほど危険なのか?どのような変異株が現れるのか?それは発生して見なければわからない。もしかしたら従来の株とそんなに危険度が変わらない(もしかしたら危険度が下がっている可能性もある)かもしれない。しかし逆に危険度が大幅に増す可能性もある。現在のコロナの致死率は3%やそこらと言われている。しかし変異株によっては致死率が20%や30%に大幅に増加することも否定できない。そしてワクチンが効かない株になっている可能性もある。確かにそんなに病原性の高い変異株が現れる可能性は低いと思われるが、しかし可能性としては否定することもできない。そこが変異株の一番恐ろしいところなのである。

しかし現在の政府などの対応を見ていると、新たな変異株の発生の可能性など眼中にないように思われる。しかし一度高病原性の「東京株」が発生してしまえば、これは日本が国際問題に問われることにもなりかねない。もし感染者が増加しても変異株が発生しなければ、それは政策が正しかったのではなく、ただ確率的に発生しなかっただけなのである。しかしオリンピックが開催されコロナ感染者が激増している現在、変異株が発生する確率は急激に高まりつつあると考えられる。これらの話は全て確率的な問題になる。なので100%ではないが0%でもない。そして繰り返し述べるように、感染者が増加すればそれに伴って確率は高まる。政府分科会の尾身氏に対しても、それらに対する専門的な知見による指摘を行ってもらいたいと強く思っている。

世界一健康な人間を目指す!

何事も本気で取り組むのなら、世界一を目指すのは当然だと思う。しかし今僕が野球に取り組んだところで、大谷翔平の足元にも及ばないことは十分に認識している。しかし誰にも負けない自信がある分野も当然ある。それらの事にはこれまでブログにも触れてきたが、新たに「世界一健康な人間になる」ことを目指そうと思う。もちろん、健康はいつ突然失われるかわからない。明日突然死ぬ可能性も決してゼロではない。しかし究極の健康を目指すことは僕にもできるのではないかと考えたのだ。

もちろん、どのような状態が健康であるかは人によって意見が変わるところだし、また主観的な部分も多く含まれる。なので僕が「自分は世界一健康である」と言い張っても、「いや、そうではないだろう」と言う人が出てきて当然だ。なので健康に関しては、「自分で自分が世界で一番健康だ」と思えるレベルに持っていきたいと思っている。

では、僕が考えている健康とはどのようなものか?それはもちろん心身共に健康であることだが、まずは治療薬とは限りなく縁のない生活を送りたい。そして頭脳が聡明な状態を常に持続させることが求められる。肉体・精神・頭脳の三体が相乗効果によって高いレベルへと持ち上げられていくことを目指したいと考えている。ではそのためにはどうすれば良いか?もちろん健康的な食べ物を食すとか筋トレなどの運動を欠かさないと言う事は大事だが、僕が最も重要だと考えているのは、「質の良い睡眠を適度に取る」ことだ。そして過度なストレスを出来るだけ感じないようにすることも重要だが、ストレスに関しては睡眠と連動するところが大きい。そして昨今はコロナ禍によって行動が制限され、よりストレスの感じやすい環境になっている。

僕は今、この睡眠改革に取り組んでいる。と言っても大げさな話ではなく、出来るだけ良質な睡眠を取ることに挑戦しているだけだ。しかし多くの人が当たり前にできるような普通レベルの睡眠を取ることが僕には至難の業だ。以前は過眠であったり、そして今は不眠であったりする。しかしこれは僕にとっては乗り越えられる問題だと思っている。そしてこの睡眠問題一つを解決するだけで、健康も学問研究も全てが圧倒的に良い状態になると僕は考えている。なので今はこの睡眠問題を解決することに全力を挙げている。そして世界一健康な人間になることによって、あらゆることが圧倒的に向上することであろう。

‘‘何”が安心・安全なのか?

菅氏そして政府は、オリンピックを「安心・安全なものにする」と繰り返し述べている。しかしそもそも「‘‘何”が安心・安全なのか?」と言う事が全く述べられていない。もちろん、コロナが広まらないことが安心・安全であることは誰にでも分かるが、しかしどれくらい収められれば成功で、どれ以上広まれば失敗なのか?と言う事が全く述べられていないのである。つまり数学で言うところの、安心・安全の「定義」が全くなされていないのだ。このままだと、例えどれだけコロナが広まり問題になろうがうやむやにされる可能性があるし、また例えコロナが広まっても「想定内だ」と言い逃れされてしまう。つまり菅氏をはじめとする政府は、初めから言い逃れできる状況を作り出そうとしているのである。

もちろん、コロナの抑え込みに成功して大会を終えることができる可能性もゼロではない。おそらく政府もそうなれば儲けものと思っているのであろう。しかし現段階でも、ウガンダ代表のコロナ感染問題など既に問題が表面化している。しかし政府は対応を自治体に丸投げして責任を擦り付けようとしている。

そもそもトップ(首相)とはどうあるべきか?トップとは責任の最終所在地である。なので問題が起きた時、最終的に責任を取るべきなのはトップ(首相)なのである。そのために首相には最大限の権限が与えられている。つまり民主主義国家において、権力と責任はセットであると考えなければならない。しかし現首相の菅氏には、権力を振りかざすことしか考えていないように見える。「責任」とは口には出すが、口だけであって全く責任を取るようなしぐさがない。つまり「義務を果たさず、権利だけを主張する」独りよがりな老人にしか見えないのである。

改めて言うが、安心・安全の定義をはっきりさせることは非常に重要だ。これをはっきりさせないと、国民はどこを目指して取り組めば良いかわからない。つまりどれだけ自粛すれば良いのかわからないのである。そのような状況で「頑張って自粛しなさい」と言われても、従う気になれない国民が多いのも当然だ。そもそも自分の行動を背中で見せなければならない総理がステーキ会食をして政局にうつつを抜かすのが現日本の政府の実態なのである。今の菅氏の行動・発言を見れば、政治家の資質と言う事以前に、人間そのものの資質が疑われる。

評論家とは究極的に無責任な存在だ!

今メジャーリーグで大谷翔平選手が爆発している。打者としての爆発が目立っているが、投手としても半端なくレベルの高いプレーをしており、ただ単にリリーフ陣の崩壊によって勝ち星がなかなか付かないだけのように見える。現在どの評論家も大谷選手の事を手放しで褒めたたえているが、二刀流の挑戦を始めた時の評論家の発言はどれも酷いものばかりであった。代表的なもので言うと、「そんなに甘くない」「どっち付かずになってしまう」と言ったものであろう。そしてそのような発言を今見返した時、あらゆる意味であきれ返ってしまう。それは大谷選手の活躍を見通せなかったからではなく、そのような発言を見た時、どれもド素人でも言えるような発言しかしていないことに驚きあきれ返ってしまうのである。もし元プロ野球選手の評論家なら、あらゆる側面からの分析によって評論してもらいたいものであり、そのような分析でも予見できなかったとなれば我々も納得し、大谷選手の凄さをさらに実感できるのである。そう考えれば、上の二つの発言のような評論は、超ド素人レベルの超無責任発言にしか思えない。

もちろん、これまで誰もやってこなかったようなことに挑戦・開拓する人に対しては、無責任な批判はつきものである。そしてもし失敗すれば「それ見たことか」と皆が笑う。なので新しいことに挑戦・開拓する時は、困難は取り組む対象だけでなく、世間の白い目とも戦わなければならない。世の中と言うものはしばしば不条理だと言われるが、しかし不条理が世の常だからと言って平気で無責任な発言をする人に対しては僕は怒りを隠せない。僕も今、数理物理(数学・物理)の研究で、誰もが成し遂げなかった(誰も取り組んでこなかった?)ことに挑戦している。そして結果を出せる自信は大いにある。しかし周りの目はかなり冷ややかだ。確かに今までの過程を見ると、そう思われるのは仕方ないのかもしれない。しかしこれまでの過程、これまでの人生に関しては人それぞれ特有の事情があり、これまで上手くいかなかったことに関してもその人の事情があるのである。しかし今までできなかったからと言って、それはこれからもできないと言う理由にはならない。もちろんこれまでずっと成功できなかった人のほとんどは、これからもできる見込みはないと思うのが常識なのかもしれない。しかしその人の常識を他人にまで押し付けるのはやめてほしい。さらに言えば、挑戦もしない人が人の挑戦に対して否定するのは明らかにおかしいしバカバカしい。それこそ無責任の極致である。

だいたい百年に一人の人間になろうとする人は世の中にはほとんどいない。しかし百年に一人の人間になろうと努力している人に対して外野から非難するのは究極的に卑怯でもある。大谷翔平選手は百年に一人の選手になろうと挑戦しているのである。並みの元プロ野球選手にはそのような事を全く理解できないのかもしれないが、超一流メジャーリーガーのイチロー氏は大谷選手がメジャーに挑戦する時「大谷は打者ではホームラン王を取れる可能性があるし、投手としてはサイヤング賞を取れる可能性がある」と二刀流を後押ししていた。やはり超一流の選手の事は、超一流の選手にしか理解できないのかもしれない。

結果を出すまではバカと言われ続けられるのかもしれない。ならば結果を出せばいいのだ。結果を出してしまえば誰も文句は言わない。僕も今、大きな挑戦をしている。そして結果を出すまではバカと言われ続けることを覚悟している。しかし結果を出すことは僕にとってゴールではない。それは僕の人生、そして研究者としてのスタートであると考えている。結果を出して満足するのではなく、結果を次のさらに大きな結果へと繋げなければならない。そして僕は死ぬまで挑戦し続ける覚悟である。