月別アーカイブ: 8月 2017

型を極める人、型を破る人。

物事を極めていくということは、物事の型を理解するということである。将棋にも、柔道にも、そして野球にも、歴史あるものには全て型が存在する。そして科学においては、基礎理論が型であると言えるのかもしれない。

最終的にトップに君臨するには、型を極めなければいけない。そしてそれでも先を目指す人は、型を破るという行為に出るのかもしれない。型を極めるか、型を破るかは、人それぞれであろう。

しかし型を極めずに型を破ろうというのは、それは単なる奇策でしかない。そんな奇策には何の意味もない。

型を極め、型を破った時、そこに新しい型が生まれる。すなわち、型というものはトップに君臨する破壊者が生み出すものだとも言える。

科学でも、既存の理論を否定し、新理論が打ち立てられたとき、その新理論が新しい型になる。

新しい型を作り上げることを夢見る人は多いが、まずは型を知り、型を極めることに邁進しよう。

科学者とは探検家だ!

あるテレビ番組(クレイジージャーニー・TBS、再放送)で、高橋大輔さんという日本人探検家が出演されていた。そこで高橋さんは、マチュピチュを発見したハイラム・ビンガムのことに言及し、「現在マチュピチュを訪れる人々は、ビンガムの発見の追体験をしている」と言われた。マチュピチュに限らず、現代人は第一発見者の追体験していると言える。

それは科学でも同じだ。現代において相対性理論を学んでいる学生、あるいは相対論のユーザーである研究者は、アインシュタインの発見を追体験しているのだ。そして科学者とは、もちろん第一発見者である探検家であることは言うまでもない。

科学者に限らす、プロフェッショナルと言われる人は、大なり小なり探検家的要素があるのではないか。プロフェッショナルというものは、自分が第一人者であるという意識を持つことによって、そしてそのような意識が前進していく原動力になる。

そして人生においても、常に人生を開拓していく探検家であり続けることが大事である。

物事を甘く見ず、かつ過剰にも反応せず。

物事を正確に理解するのは、意外と難しい。人によっては甘く見てしまい、あるいは過剰に反応してしまったりする。

甘く見て失敗してしまう話はよく聞くが、かと言って過剰に用心するのも良い効果はない。正確に物事をとらえるためには、まず物事に対する先入観を排除しなければいけない。そして感情的にならないことも大切だ。起きたことを純粋にとらえて冷静に判断できるか、それにかかっている。

 

1位でないと評価されない世界がある。

8月27日、バドミントンの世界選手権で、奥原希望選手が金メダルを獲得した。去年のオリンピックでタカマツペアが金メダルを取ったことが記憶に新しいが、それに続く金メダルは日本人として誇らしく思う。

世の中には1位でないと評価されない世界が存在する。多くのスポーツもそうだし、科学の世界でもそうである。2位を取って伝説になる人はいない。岩崎恭子・里谷多英・北島康介、そしてイチローなど、伝説の選手は皆1位の選手である。

2位を取って狂喜する人、2位を取って悔し涙を流す人、それぞれいるが、圧倒的に可能性を秘めているのはもちろん悔し涙を流す人である。また、2位を取って非難されるのは、期待の表れである。

ところで余談だが、僕が個人的に観てみたいのが、野球世界一を決めるリーグだ。もちろんWBCのような世界大会もあるが、プロ野球常設チーム世界一を決める戦いを観てみたいのである。そこまでいかなくても、日本を本拠地とするメジャーリーグチームが1チームだけでもできないものかと思ってしまう。サッカーで言う、バルセロナのような世界一を決める試合を観たいのである。

本題に戻るが、もちろん初めから2位を目指している人はいない。あえて言えば、1位になれなくて悔し涙を流すからこそ、2位にも価値があると言える。そして、1位を目指せる人は、1位を目指せる幸せを感じながら、自分の手で1位をつかみ取ろう!

ルールを守ることは必要だが、ルールに固執しすぎないことが大事だ!

野球などのスポーツでは、まずルールありきでプレーが始まる。そもそもルールなしではスポーツは始まらない。スポーツにおいてルールは絶対的である。

しかし、世の中で生きていくうえでは、ルールに固執しすぎないことが大事だ。とは言え、世の中でもルールを守ることは非常に大事だ。基本はルールありきである。

しかしルールに固執し過ぎるあまり、物事の本質が見えなくなることがよくある。そんな時はいったん白紙に戻して、真っ白なところから物事を考え直す必要がある。ルールがあるが故に、先入観に縛られては元も子もない。

とは言え、何でもかんでもルールを無視すればいいというわけではない。しかし、物事を打開しなければいけない局面において、いったんルールという前提条件から離れてみるのが有効である。

若者の活躍には期待するが、中年たちも負けられない!

自分はまだまだ若いと思っているが、そうは言っても年齢を見れば立派な中年だ。しかし、歳を取っても熱い闘志は常に持ち続けなければいけない。

サッカーのポジションには、GK(ゴールキーパー)・DF(守備手)・MF(中盤)・FW(最前線の攻撃手)がある。僕自身のタイプは、絶対にFWだと認識している。しかしFWでありながら、なかなか点を取れないでもがいている。

FWは、点を取ってナンボのポジションである。いくら内容が良くても、点を取れないFWは評価されない。

FWと言ってまず思い浮かぶのは、キング・カズこと三浦知良であろう。カズは十代の頃に単身ブラジルに渡り、Jリーグ誕生時からのスター中のスターである。彼はまさしく挑戦者の中の挑戦者と言えよう。そしてFWとして多くのゴールを決め、点を稼いできた。

そんなカズも今では50歳。中年であるが、今でも現役Jリーガー(J2)であり、FWとして最前線で戦っている。

歳を取るとどうしても守りの思考に入ってしまう人が多い。人生のそれぞれの時期によって、自分の置かれる位置は刻々と変わるかもしれない。しかし攻めの姿勢は常に持ち続けなければいけない。自分のタイプがFWならなおさらだ。

点を取れないでいるとき、どれだけ我慢できるか。そしてそんな時にも準備を怠らすにコンディションを保てるか。それがトンネルを抜けた時のパフォーマンスに大きくつながる。

宝くじは最も”センス”のないお金の回し方だ!

米国において、宝くじで829億6000万円を当てた当選者が出たというニュースがあった。

僕は宝くじは、最も”センス”のないお金の回し方だと思っている。確かに、宝くじによって、国・自治体には大きな収益が入るだろう。そういう意味では、目先の数字だけを見れば社会にプラスに映るように見えるかもしれない。

しかし、中・長期的に見ればどうだろうか?あるいは国民の意識的な観点から見ればどうだろうか?こういう視点から見れば僕は決してプラスにはならないように思う。

一流プロ野球選手が、数億円という年棒を得るのは当然のことだ。ビジネスに成功して、数百億円の利益を得るのも当然のことだ。そして彼らがそのお金で豪遊しようが、高額な宝飾品を買おうが、何ら批判されることでもおかしいことでもない。

しかし、宝くじという手段によって収益を稼ぐ国・自治体の行為は、極めて”センス”がないとしか言いようがない。良い悪いという話ではない。センスがないのである。中国では国民のレベルを”民度”という言葉で表すそうだが、まさしく民度の低さを表すものである。

別に宝くじに当選した人がどうしようが、全く興味がない。しかし一つ腹立たしいことがある。それは、宝くじを買うことを「夢を買う」と言うことに対してだ。

自分のすべきことに打ち込んで、本気で夢をつかもうと夢を追っている人からすれば、宝くじを買って夢を買うなどと軽々しく言われることに、言いようのない怒りを感じる。

夢ってそんなものではない。夢って、宝くじを買って数百億当てるなんていうくだらないことではない。このことは、本気で夢をつかもうと夢を追っている人なら理解できるだろう。

読書と実行は車の両輪である。

小学生・中学生・高校生ならともかく、大人にとって読書自体は勉強でもなんでもなく、ましてや仕事でもなんでもない。読書は実行を伴って初めて勉強・仕事になるのである。

読書自体は目的そのものではなく、実行するための原動力である。逆に言うと、実行するのに読書は必ずしも必要ではない。ただ読書は実行する際の大きな威力になるかもしれないということである。

読書と実行は車の両輪。この二つが揃うことによって、威力が3倍・4倍になる。娯楽と割り切っているのならともかく、何とかしようというのならば、目的意識を持ち、実際に実行してみなければいけない。そうでないと何とかはならないだろう。

安全策を取るか?それともリスクを冒して挑戦するか?

現在の世の中、何でも保険が気になり、安全策ばかりに目が行ってしまう。もちろん、作業現場での安全策は最も重要であり、安全策なしに成り立たない事柄もたくさん存在する。

しかし、自分の人生に対して安全策だけで固めるのはいかがなものだろうか?時にはリスクを冒して挑戦することも大事であろう。なかには、現在の地位に安住せずに常に挑戦し続けている人もいる。

現在の社会を見ると、個人がというより、社会全体が守りに入っているように見える。それはもちろん、日本という国が成熟した安定社会に入った証拠でもあり、むしろ良いことなのかもしれないが、挑戦者に対しては幾分居心地が悪い。

このような現代日本において、リスクを取り挑戦し続けるには、精神的負担がかなり大きいが、安定社会と言えども社会をさらに前進させるには、このような挑戦者の存在は無視できない。

ウルトラCには訳がある。

とんでもない大きなことを成し遂げること(奇跡)を「ウルトラC」とよく言われる。この言葉の由来は、体操競技のC難度の技から来ている。

他人がウルトラCを決めると、不可能なことが奇跡的に起きたという捉え方をよくされる。しかし、決めた本人にとっては、そこまでの道筋がしっかりとあり、決して不可能なことを奇跡的に起こした訳ではない。そこには必ず訳があるのである。

生みの苦しみは、しばしば周りの人にはよく見えない。時には他人からは、「苦労もしないで楽に決めやがって」と見られることもある。とは言え、別に他人に対して苦しみを見せる必要は全くないのだが。

生みの苦しみを経て成し遂げた体験は、必ず自分の財産になる。なぜなら、成し遂げられるべくして成し遂げたのだから。例え他人からウルトラCだとか奇跡だとか言われようとも、地道な道のりを経て成し遂げたことに対して、自分自身が納得できればそれでいい。