月別アーカイブ: 11月 2016

福島に対する眼。今、放射線以上に怖いのは正確な情報の枯渇かもしれない。

21日、TBS「ニュース23」で、福島第一原発の特集をしていた。その中で、解説者が福島県立福島高校の男女学生8人と、福島第一原発へ視察するというコーナーがあった。福島第一原発敷地内は、今でも18歳以下の未成年の構内立ち入りは禁止されているのだが、今回は放射線の線量も下がってきたこともあり特別に許可されたそうだ。とは言え、現場に出るのは危険が伴うため、バス内からの視察となったようだ。

高校生らは「福島県民」という「当事者」として、原発を含めた福島の現実を伝えなければいけないという使命感もあり、そのための正確な現状を知るためにも原発視察に参加したようだ。十代の若者たちがそこまで考えていることに、これらの8人の高校生には本当に脱帽してしまう。それに対して福島の正確な現状も知らずに、風評被害に恐れている自分が本当に情けない限りである。

そしてこのように情けない自分を通して一つ感じたことは、放射線ももちろん怖いが、福島の正確な情報・福島県民の生活状況をほとんど知らないことは更に怖いことだということである。そのことに番組に出ていた福島で生活している高校生に、そしてそれらの高校生が使命感を持って福島第一原発を視察しているのを見てひしひしと感じさせられた。

現在のネット社会では、我々はわからないことがあればすぐにネットで検索して調べてしまう。しかしネットというものは意外といい加減なもので、調べる内容によっては正しい情報が少なく間違った情報ばかり出てきてしまうことがある。ネットは非常に便利なものであるが、本当の情報を知るためにはやはり本などの紙の情報に当たることも必要であり、時には現場に自ら足を運ぶことも必要だ。

このことから、今必要なのは情報の量ではない。いくら多くの情報を持っていても間違った情報ばかりでは意味がない。どれだけ質の良い正しい情報を見出せるか、簡単にネットで検索できる現代社会だからこそそのことが重要になってきているのではないかと福島の高校生を見ながら感じた次第である。

心の浄化。

気が滅入った状態になると、心が廃れてくるものである。そのようなときには、心を浄化して綺麗になることが必要である。心を浄化する手段はいろいろある。広く一般にされているのは、禅とか瞑想かもしれない。それらも良かろうが、僕は「哲学書」を読んで思考力から浄化することをお勧めする。

哲学書と言っても様々で、最近本屋さんの店頭に平積みされているような入門解説書から本格的なものまでいろいろある。その中でも僕は歴史ある原著を読むことをお勧めする。岩波文庫などはその最たるものであろう。

岩波文庫に並べられているような名著は、ほとんどが少なくとも百年以上の歴史がある。ギリシャ哲学物であれば、二千年以上の歴史があることになる。そして名ある哲学者のほとんどは人格者でもある。そのような人格者に名著を通じて心を浄化してもらうのはなかなか良いものである。しかしそれは簡単ではない。哲学書と一字一句格闘しなければならないからである。

哲学書の原著の一番良いところは、解釈は自分次第であるということである。だから人それぞれによって解釈は全く異なってくることも多々ある。しかしそれは誰かが間違っているのではなく、全て正しいのである。重要なのは「自分の頭」で考えて解釈を導き出すという過程なのである。

個人的にはローマの哲人皇帝マルクス・アウレーリウスの「自省録」などが良いと思う。ローマ時代の哲学者であり、ローマ皇帝でもある人物である。ローマ時代には哲学者が皇帝になるのが一番理想的であると言われたそうだが、それが唯一実現したのがこの人物なのである。

最近の僕は数理物理で結果を出さなければと焦るあまり、哲学が疎かになっていた。心が廃れていた。そこでもう一度心を浄化して再生させるために、今一度哲学書を再読しようと思った次第である。

数学が最も自由な学問だと言われる訳。

「数学は非常に自由な学問である」と言っても、ほとんどの人はその言葉に反対し抗議するであろう。なぜならば、ほとんどの人がやってきた(やらされた?)小学校の算数から高校までの数学は、ガチガチに決まったルールがあり、決まった解き方があり、ただ一つの答えがある。おそらくそういう印象を持っている人が多いだろう。

では、数学の自由性とは何か?これにはいくつかの理由がある。最も認知されている自由性は、「解き方はいくつもある」ということではないだろうか。これに関しては高校数学レベルの問題でも感じられる自由性だ。

しかし数学者たちはそれよりももっと大きな自由性を感じている。それは「ルールは自由に変えることができる」というものだ。このことに関しては、大学で数学を学ぶレベルでないとなかなか実感しづらいことであるが、これこそが数学の神髄なのである。

数学者は取り組むテーマに応じて設定(つまりルール)を変えており、時にはルールを強め、時にはルールを弱めたりして、それに対してどのような結果が出るのかと探っている。ルールは非常に自由に変えられるものなのである。

例えば誰でも当たり前だと思っている、

1+1=2

という足し算。こんな式でさえも数学者たち(特に代数学者)は

1+1=0

と考えることがよくあるのである。ちなみにこのような足し算の世界は専門用語で「標数2の世界」と言う。

余談であるが、物理などは数学よりも自由性が少なく、縛りが強い。なぜなら物理の場合は、物理学者がどんなことを主張しようが、自然(宇宙)がその主張する法則と違えばその主張は間違っていることになるからである。

数学の自由な世界、そのような世界に数学者は魅了されているのである。

役に立つ科学は、役に立たない科学から生まれる。

とある科学雑誌で、今年のノーベル医学・生理学賞受賞者の大隅良典さんの特集をやっていた。その中で、大隅教授の弟子の研究者が、最近の学生は「役に立つ科学をして社会に貢献したい」ということを強く主張するということに嘆いていた。

僕も以前のブログで、科学では、「役に立つかどうかということ以外の物差しを持つことが大切だ」と書いた。これはどういう意味か。

役に立つかどうかということは誰が見ても非常によくわかりやすい。しかし「科学的価値」というものは役に立つかどうかということとは全く別であり、それを理解できる人は意外にも非常に少ない。

役に立つ科学とは、科学技術など工学や医学のことであって、純粋科学の価値と役に立つかどうかとは無関係である。もちろん去年ノーベル医学・生理学賞を受賞された大村さんなどは、発明した薬によってアフリカを中心とする多くの人々を救った。この様に、役に立つということは非常に素晴らしいことは言うまでもない。

しかし、基礎科学・数理科学に取り組んでいる人にとって「それは何の役に立つのですか?」という問いほど悲しいものはない。なぜならそのような問いは科学的価値が全く認識されていない表れだからである。

現在、山中伸弥教授が発見したiPS細胞が医療や創薬において非常に大きな力を発揮し、役に立つ科学の代表のように言われている。そのようなことからiPS細胞は役に立てるために開発されたと勘違いしている人が多い。しかし山中教授がiPS細胞を開発した本来の目的は、「各臓器に分化した細胞にも、分化する前の受精卵と同じ全ての情報を無くさずに保持している」ということを示すことであった。その証拠に、2012年のノーベル医学・生理学賞での山中教授の他のもう一人の受賞者であるガートン博士は、そのことをカエルで証明したことを評価されての受賞である。山中教授はそれをマウス、そして人間でも同じであることを示したのである。

話しは変わるが、20世紀初めに打ち立てられた物理の量子論は、純粋に自然の根本的な仕組みを理解するためだけに研究された。量子論のような原子レベルの理論が人間の役に立つと思った人は、当時は皆無であったであろう。しかし科学技術の基に成り立っている現代社会において、量子論を利用することは必要不可欠である。そういう意味で「役に立つ科学は、役に立たない科学から生まれる」と言えるのである。

真の科学的価値を判断できるセンスを持った人が少しでも増えることを願うばかりである。