月別アーカイブ: 8月 2019

“特殊”な何々。

最近、報道などで気になっている言葉がある。それは事件などが起きた時に、「特殊な何々」によってなされたという言葉だ。例えばある事件が、「コンピューター」によってされたと報道されたとする。すると、「コンピューターでそんなことができるのか?」と驚く。しかし、「“特殊”なコンピューター」でされたと報道されると、「特殊なものだから出来て当然だろう」と何も驚かない。このようなことに僕は危機感を感じている。なぜ危機感を感じるのか?それはここに思考停止がみられるからだ。

「特殊」という言葉はある意味魔法の言葉だ。「特殊」という言葉を差し込むだけで何も疑問を感じなくなる。この「特殊」という言葉が思考停止を招いているのだ。しかし、もしそれが特殊であるのならば、本来はどう特殊なのかを知りたい。原理を知りたい。しかし多くの人は「特殊なのだからできて当然だよね」となってしまう。例えば、iPS細胞によって治療が可能になったと聞けば、「iPS細胞はそんなこともできるのか?」さらには、「iPS細胞によってどのような原理で治療が行われるのか?」と次々と興味がわいてくる。しかし「“特殊”な治療法によって行われた」と聞けば、「そうなんだ」とそれで終わってしまう。

このようなことから、「特殊な」という言葉は極力避けた方が良い。報道する側も、また日常において何かを説明する人も、内容・原理を詳しく説明する方が良い。それができるかどうかは、その人の知識レベルにかかっている。「特殊な」という言葉を使って説明する人は、実は何も分かっていないに等しい。

実はこのような言葉の綾は様々なところに潜んでいる。言葉の綾に惑わされて何も理解しないで過ごすのではなく、さらに疑問を持ち、内容・原理を確実に理解することが重要なのである。

科学技術から距離を置く。

「現代社会を支配するものは何か?」と問われれば、おそらく多くの人は「科学技術」と答えるだろう。その答えは間違っていない。しかし完全に正しいとは言えない。世の中には科学技術では解決できない問題は沢山あり、そのような事を理解するためにも科学技術至上主義にどっぷりと浸かることは避けなければならない。

そのためには、一つのことを理解しなければならない。それは「科学と科学技術は根本的に違うものである」ということである。しかし、このことをしっかりと理解している人は非常に少ない。ほとんどの人は「科学=科学技術」だと思い込んでいるのである。

そもそも、科学と科学技術は目的が違う。科学の目的は「真理への探究」であり、科学技術は「役に立つことを発明すること」である。それに加えるのなら、科学技術は「ビジネスの手段」だとも考えられるのではないだろうか。

iPS細胞の研究を例にとると、山中伸弥教授の第一発見、つまり「山中ファクターと言われる四つの遺伝子を細胞に組み込むと細胞が初期化される」というiPS細胞の原理の発見は、完全に科学である。しかし、網膜再生などのiPS細胞を使った再生医療は科学技術である。それぞれ非常に意義のある大きな研究であるが、そのどちらに大きな価値を見出すかはその人の基本的価値観に大きく左右される。

人間社会は経済なしでは語れない。つまり科学技術によるビジネスがあって、世の中は回るのである。しかし、そのような科学技術の根源は純粋な科学である。もちろん、科学と科学技術の線引きをどこで行うかは難しい問題であり、また明確に分離できるものでもない。しかし、科学技術が社会・経済の根源であるとすれば、科学は人間の思考の根源である。科学技術が人間の生活を支えているとすれば、科学は人間の頭脳を支えているのである。

しかし、科学技術が高度に発達した現代社会においては、純粋な科学が過度に軽視されているように思える。その原因は、科学と科学技術を区別できていないことにある。今一度、科学の本来の意味というものを深く考える必要があるのではないだろうか?「役に立つ」は分かりやすい。「お金になる」も分かりやすい。しかし、「真理を探究する」という心は簡単には分からない。しかし、そのような心を理解できれば、物事の本質を見抜くことができるようになる。そしてそれは、巡りめぐってビジネスにも大きな貢献をするはずだ。iPS細胞のように。

社会はますます不自然になって来ている。

「改善」という言葉がある。文字通り、物事を善くするために改めることだ。しかし改善したからと言って、必ずしも良くなるとは限らない。改善したつもりが、時には悪くなっていることもある。すなわち「改悪」だ。いま社会全体を見渡してみると、このような改悪に進んでいる事が多いように思える。そしてこのような「改悪問題」の解決を難しくしている理由は、当時者たちはそれを良かれと思ってしていることだ。

なぜ、改善が改悪になってしまうのか?それは、物事を画一的にしか捉えていないことが大きな理由だ。物事を局所的に画一的に捉えてしまうと、大域的にはどうしても不自然なところが出てきてしまう。すなわち、一部の人にとっては良くはなっているけど、その他の大勢の人にとってはかえって悪くなっているということだ。

数学で言うと、細かい厳密な計算にとらわれ、理論全体の姿を見失っている状態だと言える。逆に全体像が見えていると、部分の計算を見るまでもなく調和のとれた理論を構成することができる。意外と大風呂敷を広げられる人の方が、自然な理論を構成することができるものだ。

とは言え、数学なら計算をすれば間違っているかどうか厳密に確認できる。しかし社会問題となると、そうは簡単に検証できない。何年、何十年と実行して、それで不自然なところが大きく露呈して、初めて問題になる。しかし物事の本質的な問題点を捉えられる人にとっては、大概初めから問題点が見えているものだ。しかし日本は民主主義国家である。一言で言えば、多数決の社会だと言える。だから一部の人の意見が正しくても、多くの人がそれらの問題点が見えていなければ間違った方向へと突進してしまう。しかし、民主主義に変わる理想の社会像があるかと言われれば、まだ答えを出し切れていない。もちろん、様々な理想像が提出されている。しかしどれも決定的だとは言えない。

世の中を良くしようと思って変えていることが社会を不自然にし、そこで暮らす人々を息苦しくしている。現代社会は「檻の中の自由」だとも言えないこともない。そしてそのような傾向はますます拍車がかかっている。もちろん、その根底にあるのは、高度な情報社会である。この社会の情報化は進むことがあっても退化することはない。なので、国をリードすべき政治家が強い基本的指針を持っていないと誤った方向へ進んでしまう。だからと言って、政治家だけが正しければいいかと言えばそうではない。我々一般市民にも正しい判断力を保持することが求められる。そのためにも、確固たる教養を持つことが必要なのではないだろうか。教養と実行力を持つことによって自分の道を切り開くことができるし、一億分の一の力によって国を動かせることができるのだ。

自分に対する言葉なんです。

僕はこのブログで「どうすべきだ!」ということをよく書いている。もちろんそれは自分の主義主張に基づくものであるが、それは誰に対して書いているかと言えば、一番は自分に対して言っている言葉なのである。もちろん、他人に対して言いたいこともたくさんあるが、主義主張や生き方は人それぞれであり、自分の生き方とは反する生き方もあって当然だ。何しろ、現代は多様性が重要な社会なのだから。

最近、僕が自分に課しているテーマがある。それは「心臓に毛を生やせ!自分を守るな!」である。何事にも動じない精神力、そして心に余裕を持った生き方をするためにも、心臓に毛を生やすことは非常に重要だ。そして、何事にも挑戦し続ける生き方をするためにも、自分を守ることは基本的に考えてはいけない。間違っても保身に走るということはあってはならない。

頭が固まっている時というのは、どうしても自分を守ることを考えがちだ。そして身動きが取れなくなる。自由に考えて自由に行動するためにも、自分を守ることではなく自分が前面に出ていく姿勢が重要である。

科学的思想というものは、地球上だけでは収まらない。科学的思想は宇宙をも飲み込むのである。なのでこのような桁違いのスケールの思想を身に着けることができれば、桁違いのスケールの大きな人間になれると僕は考えている。

頭髪は一般的には歳を取るごとに少なくなっていくと言われている。そして多くの人間は心臓の毛も少なくなっていくようだ。しかし心臓の毛を増やすことは不可能ではないと僕は考えている。そしてそのための手段の一つが「自分を守らない」という生き方をすることだと僕は考えている。心臓の毛の豊かさは、人間の器の大きさに比例する。

これからどのような指針に基づいて生きていくか?このような人生の指針を持つことは非常に重要である。そしてそのような指針は、その時々で自分を救ってくれる。自分を守らない生き方が自分を救ってくれるとは意外だが、人生とはこのようなものである。自分を守れば守るほど窮地に陥っていく。なので、自分の身の安全などあまり考えずに徹底的に前に進んで行く方が、人生トータルで考えると圧倒的に多くのものを生み出せるものである。これからもいろいろなものを生み出すために、徹底的に前に進み挑戦し続けようと思っている。

学問の世界を全て制覇する!

学問の世界を制覇するとはなんだかおかしな言葉だが、学問を理解し新しい結果を出して行くとは、学問を制覇して行く道のりだと考えられる。もちろん、学問を制覇したからと言って、学問を意のままに変えられる訳ではない。物理学であれば、自然法則は人間の存在に関わらず存在する訳であって、それらの物理法則を人間が変えられる訳ではない。数学に関しても、数学は人間の創造物だと主張する人もいるが、僕は数学とは一種の実在法則だと思っている。だから人間の存在の有無にかかわらず、数学の定理は存在する。古代ギリシャ時代の数理的哲学者もそのように考えていたようだ。

スペシャリストになることとジェネラリストになることはどちらが重要か?もちろん人によってその答えは変わって来るとは思うが、僕はどちらも大事だと思っている。そしてこの両方を成し遂げる事こそ、学問の世界を制覇すると言う事である。そのためにはやはり専門と言う足場を作らなければならない。そしてその足場を軸に活動の範囲を広げて行かなければならない。決して専門の殻に閉じこもってはならない。

日本では、高校あたりから理系・文系と分けられることが多い。これは日本の悪習だと僕は思っている。なぜ理系・文系に分けられるのかと考えると、それは受験対策を効率的に行うという理由以外にない。従ってその結果、受験至上主義が蔓延する事になる。受験生であれば受験しか目に入らなくなることも理解できない訳ではない。しかしいい歳した大人が学歴だけで人間を判断する事ほど恥ずかしいものはない。そのような人は、物事を多角的に判断するという能力が欠如していると公言しているみたいなものだ。特に日本においては、学歴がその人の知力を表していると勘違いされることが多いが、学歴はあくまで入学時のペーパーテストの成績を表しているだけだ。学校に入学してからどれだけ勉学に打ち込むかと言う事が最も重要なのである。そして卒業してからもその知力を維持し深める事、それが非常に重要である。

人間の人生というものは、多くの人にとっては大人になってからの時間の方が長い。そして知識というものは、学生時代に身に付けた知見を基に大人になってからどれだけ身に付けるかと言う事にかかっている。学問が小学・中学・高校・大学の16年だけで身に付けられると考えるのは大きな間違いである。その16年は学問を身に付ける基盤を固める時代であって、それを基に自分の中でどれだけ学問を昇華させるかと言う事にかかっている。学問と言うものは、学生時代だけで完結するほど浅いものではない。さらに学問を制覇するためには、大学を卒業してからどれだけ深められるかと言う事にかかっている。

コーチは必要か?無用か?

ある記事で、元プロ野球選手の広澤克実氏が、共に高卒プロ二年目の日本ハム・清宮幸太郎選手とヤクルト・村上宗隆選手を評して、「清宮選手はコーチが必要なタイプ、村上選手はコーチが不要なタイプ」と言っていた。確かに共に球界を代表する若手選手だが、タイプとしては全く正反対のタイプの選手のようだ。

野球に限らず、このような事は色々な分野、色々なプレイヤーに当てはまるのではないだろうか?学問においてもこのことは顕著に表れる。大学院生なら指導教官が必要なタイプと不要なタイプ、研究者なら共同研究者のサポートが必要なタイプと一匹狼のタイプ、などだ。昔は大学院生に対しては放置プレイと言われ、好き勝手にやらせることが多かったようだが、現在は指導教官がテーマからゼミまで手取り足取り関わることが多い。そしてそのような「面倒見の良さ」を売りにしている。

しかし先述の村上選手のように、コーチが不要なタイプ、指導教官が不要なタイプのプレーヤーも少なからず存在する。そのようなプレーヤーに対しては、そのようなコーチや指導教官の指導はむしろ害悪でしかない。自分で明確な構想・ビジョンを持ち、それに向けて自力で進もうとしているのに、コーチは「いや、これはこうだ。こうしなさい。」と横やりを入れてくる。そしてそれに従わなければ文句を言ってくる。極めて迷惑な話である。そのようにして、自力で進もうとするプレーヤーの才能を削ごうとする。

僕は完全にコーチのいらないタイプ、指導教官が不要なタイプだ。はっきり言って、教官の指導なんて害悪以外の何物でもない。院生時代は非常に迷惑な思いをしたものだ。大学学部生時代の指導教官は僕の好き勝手にやらせてくれて非常に感謝しているが、院生時代の(一人目の)指導教官に対しては今でも思い出すのが嫌になるほどだ。(二人目の指導教官にはかなり自由にやらせていただいて感謝している。)

何でもかんでも丁寧に指導すればいいというものではない。それは現在の村上選手が示している。そして僕自身もそれを示さなければならないと思っている。今の時代はあまりにも面倒見が良すぎる。しかしそれが裏目に出ることもある事を十分に知っておかなければならない。自由な発想は、自由な環境から生まれるものなのである。

コード決済で楽しむ。

最近、コード決済が何かと話題だ。7payの不正アクセスが社会問題になったが、PayPayやLINEPayなどが着実に勢力を伸ばしているみたいだ。僕は現在、PayPay、ファミペイ、d払い、の三種のコード決済を利用している。しかし実際は、利用していると言うより楽しんでいるという感じだ。

コード決済で何を楽しむのか?と言われそうだが、コード決済を駆使して還元ポイントを貯めるのが結構楽しい。いかにして多くのポイントを貯めるか?という遊びをしているのだ。

確かに貯まるポイントはそんなに巨額ではない。しかし色々とやっていると決して小さくはないのだ。還元ポイントが20%ならば、コンビニで買い物をしても数百円単位で貯まる。もちろん、還元ポイントで稼ぐと言う事は出来ないが、ちょっとした遊びにはなる。スマホゲームで課金して遊ぶとかなりのお金が飛ぶらしい(僕は全くやっていないのでわからないが)。しかしコード決済遊びは小さいながらもお金が戻ってくるのだ。なのでちょっとしたお得感もある。

とは言え、現在はキャッシュレス決済戦国時代である。ここ一年で次々と新しいキャッシュレス決済が誕生している。これから、勢力を伸ばす決済、廃れて行く決済が現れるだろう。おそらく三つくらいの決済に収束するのではないだろうか。開発側からすれば、7Payのようなミスをすれば命取りである。何しろ利用者のお金を扱っているのだから。

10月から消費税が増税される。それに伴ってキャッシュレス決済争いは更に激化すると言われている。それは消費者としてはもちろん歓迎であるが、これからも便利さとお得さ、そして高度のセキュリティーを保ったサービスが持続してくれることを強く願っている。

数学の全貌。

一体人類は数学の全貌のうち、何%を理解したのであろうか?50%か?1%か?あるいは0%か?もし数学の世界が無限に広がっているとすれば、いくら人間が頑張ったとしてもそれは有限なので0%と言う事になる。

しかしこればっかりは現在の人間にはわからない。そして将来、それが分かるかどうかも分からない。はたまた「ゲーデルの不完全性定理」という規格外の定理もあり、「数学の全貌」というものが定義できない可能性もある。

19世紀末、物理学は全て出尽くして、もうやる事はほとんどないと言われていたという。しかしそのような認識を打破したのがアインシュタインの相対性理論であった。そして量子力学がそれに続いて行き、相対論と量子論という二本柱が確立し、物理学はとてつもなく深い世界へと入り込んで行く。

では数学はどうか?数学もその時々、革命的な事象を起こしている。書き出したらきりがないが、20世紀に起こされた最大の数学的革命は、グロタンディークのスキーム論ではないだろうか?その他にも、ミルナーの7次元エキゾチック球面の発見、さらに時代をさかのぼればカントールの集合論も革命的であろう。

現在の状況を見てみると、数学はまだまだ終焉を迎えそうにない。もちろん、部分を見ると完成しそうなものはあるが、それをもって数学の完成かもしれないと思っているのならば、それはその数学者の妄想、あるいは大域的知見のなさなのかもしれない。

ただ、ある時、何となく取り組んでいる分野の全貌を垣間見る時がある。もしかしたらそれも妄想かも知れないが、一瞬世界が広がる時があるのである。そして再び闇へと戻る。しかし一度輝く世界を見ると、研究の指針が確立する。そしてその一瞬垣間見た数学的世界へと近づくことが出来る。数学の全貌は見ることはできないが、数学の一分野くらいはその全貌を垣間見ることは不可能ではないのではないだろうか。

お金と価値。

「お金は価値」である。これは誰もが認めるところであろう。しかし「価値はお金」か?人によってはお金こそ絶対的な価値であり、「価値=お金」と豪語する人もいるであろう。しかし多くの人は、価値は必ずしもお金ではない、価値とお金は重なる部分はあるものの、別物であると認識しているのではないだろうか。

お金と価値は重なる部分がある。あるいはお金は価値の真部分集合であるとも考えられる。しかし本当に大事なのは、お金と価値の重なる部分ではなく、その重ならない部分、すなわちお金ではない価値ではないだろうか。このお金ではない価値というものは、人生の充実感に大きく関わってくる。そしてお金ではない価値を保持しているからこそ、お金自体の価値もより大きなものになる。

お金ではない価値の部分が大きい人は、お金を含めて価値の総量は圧倒的に大きくなると僕は考えている。例えば、人生を懸けるようなものがあれば、それはお金ではないはずだ。しかしもちろん、そこにお金が関わっていても全然良い。お金が関わる、すなわち人生を懸けているものを仕事にすると言う事は、最高にチャレンジングなことである。例え現在はまだお金になっていなくてもいい。しかし将来、その人生を懸けていることが大きなお金となって帰ってくるのならば、それを目標に挑戦し続けるのもいいではないか!

お金は決してバカにしてはならない。しかしお金が全てになってもいけない。お金の威力を存分に発揮しながらも、お金ではない価値を守り抜き、そして謳歌する。これが僕の目指す人生像の一部だ。もちろん、人それぞれ多様な人生像があってよい。人によってはお金が全てだと言う人もいるだろうが、それはそれで良いと思っている。そのような人はお金を得るために大きなチャレンジをしているかもしれない。それはそれでエキサイティングではないか!

僕は学問と言う最大の価値を発見した。それに人生を懸けてみようと心に決めている。紆余曲折あってまだ結果は出ていないが、もうすぐ出せるはず!そう強く感じている。

素敵なパソコン♪

スマホが圧倒的な存在感を示す現在においても、何か作業をするとなるとパソコンは欠かせない。スマホもコンピューターである事には変わりないのでスマホでもできない事はないが、やはり作業効率から言うとパソコンにはまだまだかなわない。

パソコンを買う時、どのような基準で製品を選ぶであろうか?男性ならスペックを重要視する人が多いであろうし、女性ならデザインを重要視する人が多いようだ。僕自身、確かにスペックは非常に考慮するが、最近はそれ以上にデザインを重要視している。そしてもう一つ加えるのならばコスパかも知れない。

作業効率だけを考えるとスペックだけを考えれば良いと思うかもしれないが、しかしデザインは作業効率を上げる大きな要素だ。なぜならお洒落なパソコンを前にして取り組めるかどうかと言う事は効率にも大きく関わるし、さらにクリエイティブな事に取り組むのであればそこでの気分などが大きくパフォーマンスを左右する。さらに人前でプレゼンをするとなると、パソコンのデザイン一つで聴衆の受けるイメージは大きく変わるかもしれない。なので、デザインがお洒落かどうかと言う事は、非常に重要なポイントである。

昨日、新しいパソコンを注文した。「HP Spectre x360 13」というタイプのパソコンだ。なぜこのパソコンを選んだかと言うと、スペック、デザイン、コスパの全てが最高であると感じたからだ。特にデザインは秀逸である。以前のブログで、次はMacを買おうと思うと書いたと思うが、それをも吹き飛ばすくらいのお洒落なデザインである。スペックは、CPU:Core i7、メインメモリ:16GB、ストレージ:1TB SSD、だ。スペックもかなり最強である。そして価格もかなり頑張ってくれている。買う前に実物を見ようと梅田ヨドバシカメラに足を運んだが、その時はまだ他のモデルと迷っていた。しかし実物を見て店員と色々と雑談をした後は、もうこれしかないと即決であった。

パソコンが家に届くのはもう少し後になりそうだが、商品が家に届いたらパソコンをレビューしてみようかと思う。ああ、商品が届くのが待ち遠しい・・・。