月別アーカイブ: 6月 2019

変えるべき事と、変えてはならない事。

物事を進める時、何を変えるか?あるいは何を変えないか?という事が大きな問題になる。しかし多くの場合、決断者が変えるべきだと決断すれば全てを変える方向へと動き、変えてはならないと決断すれば全てを変えない方向へと動く。しかし一番重要な事は、変えるべき事と変えてはならないことを区別することだ。

実は「変えない」という決断も非常に勇気のいる決断だ。なぜなら多くの人は問題にぶつかった時、変えるという前提で物事を進めがちになるからだ。なのでなかなか「変えないべきだ」という決断が出来ない。もちろん、変えるべきであることも多々ある。そのような事に対してはどんどん変えていかなければならない。

伝統というものは、不変であることを前提にしている。なので、伝統を変えるという事は非常に勇気のいる事だ。もちろん、伝統というものはそう簡単に変えるべきではない。なので伝統に関して考える時は熟考しなければならない。しかし、伝統と言えども決して不変なものではない。伝統も時代によって常々軌道修正されている。そのような軌道修正は、意識的にされることもあるし無意識的にされることもある。

人生というものは、毎日軌道修正の繰り返しである。日常において目にしたことを基に軌道修正し、あるいは本を読んで仕入れた知識を基に軌道修正することもある。しかし軌道修正するくらいならあまり決断はいらないが、時には大きく変革しなければならない時もある。しかし変えてはならないことまで変革してはいけない。そのような判断力を身に付けるためには読書も役に立つこともあろうし、あるいは専門分野の専門的思考が威力を発揮することもある。しかし、ただ知識を仕入れるだけではダメだ。そこに思考という加工を加えないと知識は自分の手足とはならないのだ。

広く、深く!

知見を追究する時、広く浅くか、狭く深くの二極に大別されることが多い。しかし実際には狭く浅く、そして広く深くというものももちろんある。狭く浅くは論外だが、意外と広く深くという選択肢は見落とされがちだ。もちろん、広く深くを追究することは容易なことではない。しかし、広く深くを追究することは人生において最もエキサイティングなチャレンジだ。

もちろん、全ての事に対して深く追究する事は、人間の寿命が有限であることから不可能だ。しかし、専門の事においては徹底的に深く、そして一般的な事に対しては徹底的に広くという事は可能である。もちろん、専門は一つのことだけでなくてもよい。第二専門、第三専門があってもよい。第一専門が数学と物理なら、第二専門が哲学・思想、第三専門が歴史学・社会科学などとしてよい。そこで大事な事は、第一専門では誰にも負けないナンバーワンになることだ。第一専門で徹底的な深さを身に付けることが、あらゆることに対してのジェネラリスト、すなわち広さを身に付ける原動力になる。

「広く」と「深く」は決して相反することではないし、大谷翔平の二刀流のように両立しうることだ。しかしプロ野球の世界で二刀流に成功しているのが現時点では大谷翔平だけであるように、決して簡単ではない。しかしそれは出来ないことの理由にはならない。なので、広く深くを目指そうと思えば、それなりの覚悟と行動、そして努力が必要である。もしかしたらリスクも取らなければならないかもしれない。しかし、それに成功した時にはそれなりの対価が得られるはずだ。とは言え、対価を得ることが一番の目的ではなく、自分に対する人間としての挑戦が一番の目的である。

あらゆる分野で、スペシャリストかつジェネラリストであるような人間がボコボコと出て来るようなことがあれば理想だが、それには社会がもう少し寛容である必要がある。大谷翔平選手がいた日本ハム球団が二刀流に寛容であったように。日本においては厳しい状況ではあるが、広く深くという究極の挑戦に挑んでみよう!

大切な書物。

僕は人に比べてかなり多くの書物を持っている。絶版になっている専門書などはかなり高額になることも多く、そのような書物を全て売り払えば高級車が買えるのではないかと思う。しかし何があっても生きているうちは書物を売り払うことはないであろう。なぜなら、書物は僕の人生の生命線であり、それらの書物を売り払うことは命を売り払うのに等しいからだ。

なぜ書物がそんなに大切なのか?それは、数学や物理の研究をするのには専門書や論文が必須だし、生きる上では社会に関する様々な情報を仕入れることが必要だからである。そのような知識を仕入れるのに必要な書物は、ない金を払ってでも購入するが、必要のない本や雑誌は適当に立ち読みなどをして済ませる。

その人の本棚を見ればその人の人となりが分かると言うが、さらに言えば、本棚はその人の第二の脳だと言える。本棚に置かれた書物達は、その人の脳の中身をさらしているのである。そして例え自分の記憶の中に残っていなくても、手に届く位置にある本を手にとって知識を確認できれば、それはその人の保持している知識であると言える。

失われた30年と言われる不況につられて、現在も出版不況だと言われている。不況時代において何を節約するかと言った時に、まず節約するのがどうやら書籍購入代であるようだ。それに対して、スマホなどの通信費は年々増加している。情報化社会と言われる現代においては、そのような傾向は避けられないのかも知れない。しかし数千円の専門書一冊あれば、それだけで一年分の知識を補えると僕は思っている。もちろん、ちょっとした読み物であれば数時間で読み切れてしまうが、一年かけて一冊の専門書を読むことによって身に付けられる思考力は、百冊の読み物にも勝ると思っている。人生のバイブルに一冊の専門書を指定して過ごすのも悪くない人生だと僕は強く感じる。

どん底を忘れない。

短くない人生を生きていれば、山あり谷あり、様々な状況に出くわす。その中でも、谷にいる時の方が感受性が高まり、少しの事に対してもその大切さ、幸せを感じることが出来るような気がする。そしていつかは山にたどり着くこともあろうが、そのような時に谷、いや、底にいた時の苦しみを忘れずに、取り組むべきことに取り組めるありがたさを感じ、猛烈に突き進みたいものである。

谷と闇は違う。闇にいては先が全く見えないが、谷からは山の頂上が見えることがある。あるいは頂上が見えなくても中腹ぐらいは見えるかもしれない。そして運が良ければ頂上までのルートも見えるかもしれない。ルートとはすなわち展望である。ただ、ルートが見えていても、その道を登るための登山技術が必要だ。そしてそのようなスキルは、山が高くなればなるほど高度なものが求められる。そしてスキルを身に付けるためには努力しかない。

もし頂上が見えているのならば、日々コツコツと積み重ねるに当たってのモチベーションにもなる。そして時には、どん底の頃を思い出し、今取り組める状態である事が恵まれている事に気が付く。今は山の中腹かもしれない。しかし頂上が見えているのならばもう少し頑張ってみよう。頂上を見失わないように。頂上に行くまでは実感は湧かないが、もしかしたら今は頂上に非常に近いところまで来ているかもしれない。何とか今を切り抜けてみよう!

「知ること」ではなく、「創ること」。

現在は情報過多社会であると言われている。知りたいことがあればネット検索によって瞬時に表示することが出来る。そして社会においてはビッグデータというものが大きな価値を持ち、社会の行方まで決めてしまいそうな勢いである。では現代において情報の価値は上がったのか?それとも下がったのか?

もちろん、情報と言っても様々であるので、一括りで「情報の価値」と言ってもこれまた様々である。ただ一つ言えることは、ネット検索で瞬時に得られる情報などは何の価値もないと言う事だ。しかしそのような何の価値もない情報を価値のある情報に変えることも可能である。それは、得られた情報に思考という作業を加えて創造することである。従って「情報を知る」のではなく、「新たな情報を創る」のである。それが出来ると、ありふれた無価値な情報も、自分独自の価値ある情報へと変貌する。

得られる情報などは、国家機密とかでない限り誰でもそう変わりはない。ネット検索によって得られる情報は言うまでもないが、書籍に載っている情報も基本的には誰もが手に入れられる状態にある。なので得られる情報自体には何の価値もないことが分かる。ただ。書籍に書かれている情報を得るためには、ある程度の能動的なアクションが必要である。まずは書籍を手に入れて、そして「読む」というアクションを起こさなければならない。そういう意味では、ネット検索で得られる情報よりも書籍を読んで得られる情報の方が若干価値があると言えないこともない。しかしそれは、ネット検索によって得られる情報の価値が0.1くらいだとしたら、書籍を読んで得られる情報の価値は0.5というくらいのものである。しかしそこに「思考」という加工を加えると。その価値は100まで跳ね上がる。そのような事を繰り返し行っているのが、数学や物理学という学問だと言える。

「知ること」から「創ること」への脱皮は簡単な事ではないかもしれないが、小学校から大学まで繰り返されていることはこのような事であると思う。知ったかぶりには何の価値もない。しかし「創ったかぶり」(と言う言葉があるかどうかは知らないが)になることを目標にして生きるとこには大きな価値があると考えている。ビジネスも学問も創ったかぶり競争である。そしてそのような創ったかぶりな人間を、独創的人間と言うのである。

他人ではなく、まずは自分がどう納得するかだ!

社会の中で生きている限り、他人からの評価からは逃げられない。学校での評価、会社での評価、人間関係の中での評価など、他人からの評価はいたるところに存在する。なのでどうしても他人の眼というものは気になるものだ。もちろん僕だって気にはなる。しかし過度に他人の眼を気にすることは、自分の進むべき道を誤らせるのではないかと考えている。

他人からの評価と言う以前に、まずは自分自身によって評価をしなければならない。どんなことも、まずは自分が納得できなければそこから大きく進展させることは難しい。自分が納得して、初めて他人からの評価へと移れるのである。自分が納得するためには、まずは自分が納得できることに取り組まなければならない。しかしそのためには、自分で物事を判断し、評価できる眼を持たなければならない。しかしそのような眼、そのような判断力を身に付けるためには、自己思考力を持たなければならない。何事も、自分の頭で考えるという事が初めの一歩になる。

世間の評価とは、意外と偏見に満ちている。あるいは流行にとらわれていると言って良い。そしてもちろん、自分の判断というものも偏見にとらわれている。偏見というものは人間の存在するところならどこにも存在する。偏見をなくそうとはよく言うが、正しくは「偏見を克服する」と言った方が良いかもしれない。しかしそのような偏見に押しつぶされそうになることも多々ある。そのような時に力になるのが、自分自身による自分自身の評価だ。自分自身の評価が正しくされ、それに納得できていると、それが窮地を切り抜ける羅針盤となる。自分がどのような方向へ進めば良いのか?四方八方ある方向性の中のどちらに進めば良いかということは難しい判断であるが、自分自身の自己判断力によってある程度絞り込まれるはずだ。

他人からの評価と自分自身の評価というものは、社会を生きるに当たっての、そして自分の人生を進めるに当たっての両輪である。しかし世間の眼や流行ばかりに目を奪われていると、正しい自己判断が出来なくなる。そして自分が他人を正しく判断するためにも、まずは自分を正しく判断できる人間にならなければならない。そして自分自身で正しい判断を行い、自分自身が納得できると、後になってそうは後悔することはないはずだ。

マイナーリーガー。

マイナーリーガーという地位は非常に微妙だ。マイナーリーガーもプロ野球選手とは言われているが、その待遇はある意味素人より厳しい。あるマイナーリーガーは、「球場でプレーしている選手より、球場でポップコーンを売っているアルバイトの方が給料が良い」とも言っている。そして現実に示されている給料を見ると、全くその通りである。メジャーリーガーの平均年収は数億円とも言われているが、マイナーリーガーはバイト以下である。しかしこのことは、アメリカンドリームと言われるものが今でもアメリカに根強く存在する証だとも言える。

自分が取り組んでいる事においてプロになろうと思えば、どの業界でもマイナーリーグ的な所を通らなければならない。マイナーリーガーとは可能性の塊である。しかし、マイナーリーガーになろうと思えば、かなりの覚悟も必要である。実力云々と言う以前に、覚悟の問題で脱落する人がほとんどだ。なので、まず強い覚悟を持つという事が一つ目の大きな実力であると言える。バイト以下の状況に耐えられるか?そこがプロへの出発点である。

しかし日本はある意味かなり甘い。ほとんどの人が中間層にひしめき合っている。一昔前は「一億総中流社会」とも比喩されていたが、今では全てがその二割減であると言えるかもしれない。しかしその二割減のレベルにほとんどの人がひしめき合っている。そこから上はほとんどいないが、下はそこそこいる。そのような状況であると言えるのではないだろうか?しかし中流でもそこそこ食べて行ける。しかしプロを目指そうと思うと、マイナーリーガーを経なければならない。しかしマイナーリーガーになることはリスクが高すぎる。なので中流的ポジションを維持しようとする。

この様に自分で選んで、そしてリスクを避けて中流にいるにもかかわらず、上流への批判意識は強い。もちろん、上流の人たちが全て大きなリスクを取って来たかと言えばそうではないとは思うが、少なくともプロと言われる人はかなりリスクを取って来たはずだ。

僕は、まだ明確には先が見えていないマイナーリーガーから、メジャーのトップが見えてその足場にいるマイナーリーガーになることが出来た。あとは足場を一歩一歩構築して行き、枠組みを埋めて行くだけだ!

明日死ぬかもしれないから、今日やらなければ!

別に明日死ぬことはないとは思うけど、明日死ぬ確率は誰しもゼロではない。もちろん60年後まで生き延びているかもしれないが、確実に言えることは、人間の寿命は有限なので、誰しもいつかは死を迎えるという事だ。だからそれを前提に物事を進めなければならない。しかし成し遂げるべきことが、今日一日で出来る訳ではない。一日一日の積み重ねが成し遂げるべきことへの成果として表れる。だから「明日死ぬかもしれないから、今日積み重ねるべきことを積み重ねることが大事だ」と言えるのかもしれない。

しかし、一日一日物事を積み重ねるという事は、根気がなければできない。あるいは鈍感であることも必要かもしれない。僕はかなり鈍感なので、あまり気にせずに一日一日積み重ねることが出来ると思っている。鈍感力というのも意外と力になるものだ。

もちろん、一日一日積み重ねるためにはゴールが見えていないといけない。ゴールが見えていないと何をしてよいのかも判断できない。そしてゴールまでのビジョンを持つことも大切である。しかしゴールはそれを達成した時、スタートに変わる。そのようにゴールとスタートを繰り返すことが出来れば、物事はどんどん上手く回って行くものだと思う。

すべきことを毎日積み重ねるだけであるが、そのような繰り返しを実行できることが強さに結び付くのだと思う。毎日の繰り返しと言うと退屈に思えるかもしれないが、それが自分のすべきことだと認識していれば、それがやりがいにもなる。物事を成し遂げるためにはそのようなルーティンが大切である。「継続は力なり」という“継続”の必要性をどこまで認識し、どこまで実行できるか?そこに未来の自分がかかっている。

屁理屈でも、理屈が無いよりマシだ!

世の中では、物事を論理的に説明しようとすると、「それは屁理屈だ」と反論する人がいる。では、その様に反論する人がより道理的な事を言っているかと言えば、ほとんどの場合全く理に適ったことを言っていない。むしろ、理に適ったことを言えないので、「屁理屈だ」という言葉でそれまでの相手の論理を全否定しようとする。

しかし僕は、「屁理屈でも、理屈が無いよりマシだ」と思っている。なぜなら、屁理屈は理屈への出発点であり、理屈は論理の原点であるからである。理屈が言えない人は皆、論理を語ることが出来ない。

しかし人間社会においては、論理で語れないこともたくさんある。世の中や人間関係は論理ではない。しかしそのような論理でないところを理解するためにも、論理的思考力は必要である。論理的に物事を考えられない人は、論理で語れないことも理解できない。僕自身、普段は物事を論理的に考えることを出来るだけ避けている。そして論理で語れないことを大切にしている。しかしそう考えられるのも、自分に論理というバックグラウンドがあるからだと思っている。

論理的に考えられない人が論理でないことを語り出したら、全てが崩壊する。論理的であること、そして論理的でないことを全て成り立たせるためにも、論理的バックグラウンドは必要である。もし論理など必要ないと言うのなら、人間とその他の生物の違いもなくなってしまう。もしそうなら、人間はオオカミと同じ生活をしているはずだ。しかし現実には人間には独自の生活様式が存在する。その根源は、理性、知性というものを人間が保持している事にあり、理性や知性は論理、すなわち理屈なしには語れない。屁理屈に始まって、それを知性にまで高めることが出来れば、物事の捉え方が大きく変わるはずだ。

世の中が無難になりつつある。

「無難」と漢字で書けば、「難が無い」という意味で良い事のように聞こえるが、それ以上に「当たり障りのない」という意味を感じるのではないだろうか?近年ますます世の中は無難になりつつある。それは「難が無い」という意味でも、「当たり障りがない」という意味でも。

なぜ世の中はこんなに当たり障りのない世の中になってしまったのか?おそらく多くの人は当たり障りのない無難な世の中を望んでいるのだろう。しかしその一方、少なくない人たちが当たり障りのない世の中に息苦しさを感じているのだと思う。僕もそのうちの一人であるが、結局無難社会の原点を探って行くと、「失敗を許さない世の中」というものにたどり着くのだと思う。一つの失敗を過度に叩きつける。その結果、失敗しないようにと可もなく不可もなくという生き方を取るようになる。もちろん、そのような生き方の人に挑戦を取りに行くようなことを望むのには無理がある。そして世の中から挑戦者が消えて行く。果たしてそれでいいのだろうか?

実は多くの人が無難な生き方を出来るのも、一部の挑戦者が行動しているからだと言える。世の中を変えて行くのは間違いなく挑戦者である。しかし挑戦者がいなかったら現状維持が出来るかと言えば、それは大きく異なる。良く変えようという力を働かせていても負の力というものは非常に強く、後退して行くことになる。それはなぜかと説明するまでもなく、現実社会を見ていれば明白である。

現実が「総無難化社会」になりつつある現代において、やはり希望は一部に挑戦者が存在することだと思う。挑戦者がいればいる程、無難な社会が成り立つのである。しかし、社会の全てが無難になった時、社会は崩壊すると僕は思っている。皆が皆、挑戦者になれるわけではないと思うが、皆が安心して暮らせる社会になることを望むばかりである。