月別アーカイブ: 12月 2020

人生44歳からや!

僕は人と話すとき、「人生44からや!」とよく言っている。それは嘘でも何でもなく、本気でそう思っているからだ。確か去年は、「人生43からや!」と言っていたような気がする。そしてもしかしたら来年は「人生45からや!」と言っているかもしれない。しかしそれはそれでいいと思っている。どちらにしろ人生はこれからなのである。よく「自分の栄光は20代の頃だった」と言う人がいる。しかし僕の20代は悲惨であった。そして30代もかなり鳴かず飛ばずの状況であった。なので人生40代からでないと、全く人生が成り立たないのである。

しかしもちろん今は非常に面白い状況である。苦しくはあるが、面白くもあるのである。毎年人生これからだと思って行けたら、それは非常にエキサイティングである。40代よりも50代、そして50代よりも60代の方が面白くエキサイティングでありたいと思っている。

今年コロナで亡くなった志村けんさんは70歳だった。しかし志村さんはいつの時代も面白く活力があった。僕が小学生のころから志村さんはバカバカしく非常に面白くあったが、それを20年30年続けて来たことは非常に尊敬に値する。もしかしたら志村さんも、今年より来年の方が面白いと思って生きて来たのではないだろうか?もしかしたら70代よりも80代の方が面白いと確信して夢見たのかもしれない。そして未来の方が面白いと確信しつつ、コロナで倒れたのかもしれない。僕も常に未来の方が面白いと思いつつ息絶えたいものである。

今年も残すは一日だけとなった。とは言っても別に今年を回想しようとは思わない。今年を回想する暇があったら、来年どう面白くしようかと言う事を考えたい。来年は絶対に面白い。いや、絶対に面白くしなければならない。自分の人生を面白くするのは自分以外の何物でもないが、そうは言ってもコロナは早く終息してほしいものである。ワクチンが急速に出来上がっているが、世の中にはワクチンに不安があり否定的な人も多いみたいだ。そのような時、メリットとデメリットを天秤にかければよい。そう比べた時、僕はワクチンを打つべきだと判断した。だから来年、ワクチン接種が可能になった時は一番乗りでワクチンを接種しようと思っている。そしてそのワクチンには、来年面白い年にできるかどうかがかかっている。

今、コロナ医療従事者に最も必要なのはお金だ!

今、コロナ医療現場が疲弊している。それは病床や医療機器などのハードも、そして医者、看護師たちの人材も、完全に疲弊しきっている。特にコロナ医療従事者の精神面の疲弊は一見して見えない部分であるが故に、我々が思っているよりもはるかに疲弊している可能性がある。それを救う方法はないのか?僕はもうお金しかないと思っている。現在のコロナ医療従事者の報酬は賞与カットなどもあり、仕事の対価として全く見合わないものになっている。もしコロナ医療従事者最低賃金などと言うものがあれば、ほとんどのコロナ医療従事者はその最低賃金に届かないであろう。

何しろコロナ患者と向き合う限り、コロナ感染の危険性は常に付きまとい、言わば命の危険性までもさらしていると言える。そしてそれは医療従事者本人だけでない。家族などの同居人に対しても強い制約をもたらしている。そして理不尽な事に、コロナ医療従事者に対しての社会での風当たりも強い。全く割の合わない仕事である。

小池都知事は小中学生に対して医療従事者に感謝の手紙を書くように呼び掛けたと言う。ふざけるな!強制的に書かされた感謝の手紙を受け取って喜ぶ人がどこにいる!小池都知事の無神経ぶりは本当に理解不能である。今唯一医療従事者を精神的に救うものがあるとすれば、それはお金しかない。我々にできることはそのお金を差し出すことだ。人生はお金ではないと言う人は多いが、時にはお金以上のものがない時もあるのだ。それが今だ。ではそのお金をどう捻出するか?以前、国民一律の10万円給付金があった。それを9万円にして、残りの1万円を全てコロナ医療従事者に集めればよかったのである。そうすればコロナ医療従事者に通常の二倍三倍の給与を与えることができたはずだ。しかし既に給付金配布は終わってしまったので、来年度に国民一人当たり一万円のコロナ医療従事者給付税を集めればよい。それを全てコロナ医療従事者に給付すればよいのである。

医療従事者に対して、使命感ややりがいなどを口にする人がいる。しかしそれは医療従事者本人が言う言葉であって、我々が押し付ける言葉では全くない。もしそんなことを言う人がいれば、勘違いも甚だしい。一般国民ができることは、お金を差し出すことしかないのである。もちろん病院で医療従事者に配慮して診察を受けることは言うまでもない。菅氏、そして二階氏たちはGoToキャンペーンに熱心である。そしてそれによって生み出されるコロナ患者によって医療が崩壊しようとしている。そもそもお金の配置の仕方からして間違っていたのである。これは利権・既得権益がもたらした最も酷い悪例になってしまった。もう時はかなり過ぎてしまったが、せめてこれから出来る事だけでも医療従事者の献身に対して国民は報わなければならない。

苦しい事と楽しい事は両立する。

多くの人は苦しいことを避けたいと思っているかもしれない。そして「苦しいこと=楽しくない」と思うかもしれない。しかし僕は必ずしもそうではないと感じている。それどころか、苦しいことを楽しく感じれることは究極のやりがいだと思っている。

プロ野球選手になるためには、想像を絶する練習と訓練を行わなければならない。しかしそれを耐えたからと言って、必ずしもプロ野球選手になれるとは限らない。プラス卓越した才能も必要だし、強い意志を持つ事も必要だ。しかしそれらをすべてクリアしたとしてもプロになれるとは限らない。ではプロ野球選手はなぜそんなに苦しい思いまでしてプロになろうとしているのか?それは究極の苦しみを究極の楽しみに変えているからだと思う。もちろん皆が皆そうとは限らないと思う。しかし僕はそう感じるのである。

野球と同じで、物理や数学の研究も長い年月をかけて取り組まないと研究者にはなれない。しかしそれは必要条件であって、十分条件ではない。例え猛烈に取り組んでも、結果が出せない時は出せない。努力と同時に才能ももちろん必要だし、何に関しても運も必要かもしれない。しかしここで勘違いをしてはならない。ここで言う運とは宝くじとは違って、自分でつかみ取る運だ。ボーっとしていたら運さえもつかみ取れない。

小学生の頃、テレビゲームで遊び、それはすごく楽しいものだった。しかしその場は楽しくても、それは僕の求めている楽しさではないと感じていた。その頃から僕の求めている楽しさは数学や物理(当時は理科と言うべきか)の中にあると感じていた。それから長い年月が過ぎ、非常に苦しい時期を送ったときもある。苦しい理由はいろいろあるが、一番苦しかったのは調子を崩して数学や物理に対して十分取り組めなかった時である。なので数学や物理の研究ができると言う事は、僕にとっては至福の時である。とは言ってもやはり苦しい時も多々ある。しかしそのような苦しみは全然嫌ではないのである。苦しみの中に究極の楽しみを見つけることができた時、それは一つの悟りとでも言うのではないだろうか。

前例がない!

日本人と言うものは何かと前例にこだわる。もちろん裁判などにおいて前例を踏襲することは法の下の平等においても非常に重要な事であるが、人間の人生において前例にこだわることは本当にバカげていると思えてならない。自分の人生と言うものは自分と言うオリジナルの存在そのものであり、それをわざわざ人と同じものにする理由が僕にはさっぱり理解できない。しかし人と同じ生き方にこだわる人がかなり多いのが現実だ。

もし誰も成し遂げたことのない形で、誰も成し遂げたことのない事をしようと思うのなら、前例を無視すると言う一択しかない。前例を踏襲した時点で、それは既に二番煎じでしかないからだ。それは僕の人生においても同じだ。もちろん部分的には誰かと同じものになることは十分あり得る。しかし意図して同じものにしたのでないのなら、それを気にする必要は全くない。なぜならそれはたまたま人と同じになったオリジナルだからだ。

とは言え、最近はネット検索で簡単に情報が入る世の中になったこともあり、オリジナルかどうかと言う判断は非常に難しくなっている。最近では東京五輪のエンブレムが他人のデザインの盗用だと言われたことが記憶に新しいが、実際はたまたま同じようなものになってしまったと言う可能性も否定できない。数学や物理においては一番乗りしか結果として認められないので盗用などは考えられないが、人文社会系の研究では同じ論や類似の論が出て来る可能性は十分ある。それは逆に言うと、盗用の余地も生まれてくるとも言える。意図的に盗用したのなら論外であるが、たまたま類似のものになってしまったものに対しては非常に気の毒な話である。

また全く違ったものであっても、見ようによっては同じように見えることも多々ある。それは解釈にもよるが、そんなことを言ったら全てが類似のものになってしまい身動きが取れなくなってしまう。生むのは非常に骨の折れる作業だが、批判したくて悪意をこじつけるのは非常に簡単だ。それこそネット検索で一分もあればできてしまう。

とは言え、僕は徹底的にオリジナルにこだわる。数学と物理において誰も成し遂げたことのない事を成し遂げ、人生においても誰も歩んだことのない道を歩む。これは確かに非常に気力の使う生き方であるが、しかしそこから得られるやりがい、生きがいも非常に大きい。確かに今の僕は体力的にも精神的にも非常に苦しい状況だ。しかし体力的にも精神的にも活力は誰よりもあると感じている。そこから絶大な自信も生まれてくるのである。まだ結果も出していないのになぜそこまで自信があるのか?と問われれば、理由はそういうことである。あと少しか?それとももう少し長い道のりを進まなければならないのか?そこははっきりと断言できないが、しかしそう遠くではないことは確かであると確信している。

発信の幅を広げる。

五年ほど前からTwitterのアカウントを開設しているのだが、今まではブログ記事を自動リンクしているだけでほとんど開店休業状態だった。しかしSNSなど発信に利用できるものはできるだけ利用すべきであると考えて、Twitterでもこれから積極的に発信していこうと考えている。このブログではしっかりとした記事を届け、Twitterでは些細な事やちょっとした意見などをつぶやいていけたらと思っています。なのでこれからはTwitterの方もチェックしてくれると嬉しいです。

木原康明さん (@Kihara_Yasuaki) / Twitter (Twitterのリンクです)

それからもう一つ、YouTubeのチャンネル開設も計画しています。内容はサイエンス関連の動画を出していこうと考えています。できれば来年の初め頃には始められたらと考えていますので、開設したときはよろしくお願いします。

人生には守りの人生と攻めの人生がありますが、僕の場合99%攻めて、1%守るくらいがちょうどいいと思っています。守るのは守るものができた時で良い。とにかく第一に数理物理の研究でとことん攻めて前進しなければならない。そしてその周辺としてTwitterやYouTubeなどで様々な事を発信していこうと思っています。とは言え、これからもこのブログがメインの発信であることは変わらないので、これからもこのブログをよろしくお願いします。

仕事がもたらしてくれるもの。

仕事とは何か?この問いには様々な答えが存在するだろう。お金を稼ぐ手段、人生にメリハリをもたらしてくれるもの、あるいは人との出会いと言う人もいるかもしれない。もちろんこの中でもお金を稼ぐと言う事は一番重要かもしれないが、ただお金が入ってくれば何でもいいのか?と言えばそうではない。もちろん割り切って、お金をくれれば後はどうでもいいと言う人もたくさんいるかもしれないが、僕は仕事と言うものはお金以上に、お金を稼ぐ過程によってもたらしてくれるものの方が大きいのではと思っている。

もしかしたら、百万円稼ぐ過程よりも、一千万のお金の存在の方が大きいと言うかもしれない。それはその通りである可能性は高い。なぜなら、仕事によってお金を稼ぐ過程がもたらしてくれるものというのは、大きな金額がかかっているほど過程も大きくなると考えられるからだ。だから百万円の過程と一千万円のお金ではなく、一千万円同士で考えればお金の存在より過程の方が大きくなる可能性は十分ある。

当たり前の事であるが、お金が入ってくるまではどうしてもラグが出て来る。たいていは一か月とか長くても三か月と言うところだと思うが、中には一年、あるいは十年と言う場合も出て来る。これをどう見るか?十年もラグがあれば、その間は周りから見れば仕事をしていないように見えるかもしれない。もちろんお金がなくては生きて行けないので、何らかの手段、あるいは副業でしのぐことが求められる。しかしその十年、お金が入ってこなくてもその取り組みはれっきとした仕事なのである。十年お金が入ってこなくても、十年後にそれが実って一億円入ってくればそれは年平均1000万稼いだことになる。

宝くじで一億円を当てることに憧れる人は多い。その一方、宝くじを否定する人も多いが(僕もその一人である)、なぜ宝くじで当てるのは良くないのか?テレビなどでは浪費して失敗した人などが取り上げられるのでそのような意味で否定する人も多いが、僕が思う致命的な点は、宝くじには稼ぐまでの過程が全く存在しないことだと思っている。自分で稼いだ一億円ならばそれまでの過程によってそれが二倍、三倍の価値を生むが、宝くじの一億円は過程がすっぽり抜けていることによって数分の一、あるいはマイナスになることもあるだろう。

なぜこのような話題を取り上げたか?それは僕が今非常に充実を感じ、とてつもなく大きなやりがいを感じているからである。もちろんその研究の仕事には大きなお金がかかっている。とは言え、失敗すればゼロである。なぜこのような充実感とやりがいを感じることができるのか?それはやはり結果を出すまでの過程が充実感、やりがい、そして幸福感をもたらしてくれるからである。既にお金を手にしているのならばそのお金がもたらしてくれているとも言えるが、今僕はこの仕事に関してはまだお金はゼロである。そしてやはり失敗すればお金はゼロである。とは言え、もちろん僕は成功する自信があるのでその問題に取り組んでいる。その中で、仕事の過程と言うものの重要性を学ぶことができた。ただ単に楽しむだけなら仕事ではなく趣味でやればいい。仕事と趣味は根本的に大きく違うものなのである。なので僕はお金に関する事以上に仕事と言う形に大きくこだわっているのである。

学歴を超えられるか!

僕は学歴などは取るに足らないものだと思っている。しかし学歴を否定しようとも思わない。重要なのは、学歴を超えられる人間になれるか?と言う事である。昨今は巷では東大神話みたいなものが出来上がっている。とは言え、僕は東大を否定したいわけでは全くない。重要なのは、東大を出た人が東大と言う学歴を超えられるか?と言う事である。言うまでもなく、東大と言う学歴を超えることができていればその人は非常に優秀で立派なものだ。しかしいつになっても学歴にしがみついている人間を見るのは見るに堪えない。菅首相の初めの高支持率は100日間のハネムーン期間だと言われているが、学歴に物を言わすのも就活生の一年間のハネムーン期間だと思った方が良い。

前首相の安倍氏は、良いか悪いか?とか、好きか嫌いか?と言う話は置いておいたとして、首相としての任務遂行能力を見れば非常に有能な宰相だったと思う。これは僕に限らず多くの人が認めるところだと思う。はっきり言って、学歴がどうと言うレベルの話ではない。安倍氏は成蹊大学卒だが、そんじゃそこらの東大卒の人間などは安倍氏の足元にも及ばない。確かに安倍政権末期には問題が山積していたが、前期から中期にかけては安倍首相の政権運営は卓越したものであった。別に僕は安倍氏を称賛したいわけではない。冷静に中立的に見れば、誰もが認めるところだと思う。

三菱UFJ銀行の次期頭取に半沢氏が就任することが決まったと言う。リアル半沢と世間では言われているが、常務からの13人ごぼう抜きであるらしい。半沢氏は直樹とは違って非常に物腰の柔らかな人であって、非常に優秀な人だと言われている。優秀なところは直樹と同じで良いが、「倍返しだ!」とか言う人でなくてホッとしている。そして今回の人事は、実力主義を押し進めたものだとも言われている。優秀な人間が真っ当な評価を受け出世していく。日本ではこの当たり前の事がなかなか実行できない社会であったが、半沢氏への評価がこの殻を破る社会への起爆剤となって欲しい。そして半沢氏が東大卒だから優秀だなどと言う次元の低いことは言わない方が良い。

とは言え、日本には、いや世界でもそうかもしれないが、学歴主義的なところはまだまだ残存している。会社で学歴なしに大きく出世するのはまだまだ難しい社会だ。しかし僕はそのような評価システムの外にいると思っている。なぜなら物理や数学の研究の世界の評価は純粋に研究成果で評価されるからだ。昔で言えば医学の野口英世がそうであり、物理のファラデーがそうである。もちろんポストを選ぶとなれば、学歴に対する主観が入ってしまうことは普通にある。しかし研究結果は学歴に左右されない。だからこそ僕は研究に邁進することができるのである。そしてそれを実証することが僕に任された使命だと思っている。

キューバ危機において、深く思考する人間がいたからこそ人類は全面核戦争を免れた。

NHKスペシャル・映像の世紀プレミアム 第17集「人類の危機」の動画を観た。この映像の世紀シリーズのテーマ曲「パリは燃えているか」は非常に荘厳な曲であり、僕はこの曲が大好きだ。そして何よりこのシリーズのテーマ曲として非常にマッチしている。

今回観た動画は100年前のスペイン風邪のパンデミックからチェルノブイリ原発事故による危機まで扱っていたが、中盤ではキューバ危機を扱っていた。我々日本人は歴史の授業で「キューバ危機によって全面核戦争直前の状態にまで追い込まれた」と習うが、しかしそれがどれほどの危機だったかについてはいまいち実感がない。僕自身も知識としては知っていても、実感はそれほど感じていなかった。しかし今回観た映像の世紀によって、このキューバ危機による13日間がいかに極限まで追い詰められていたかが分かり、それと同時に愕然とした。結果的には全面核戦争は回避されることになったのだが、現実は核戦争を回避できたことがある意味奇跡であったと言えるくらいの危機であったようだ。

ここでキューバ危機において発生した二つの危機的状況を取り上げる。一つ目はアメリカ統治下の沖縄で起きた危機だ。当時沖縄には核兵器発射基地があった。キューバ危機時、沖縄の核兵器発射基地に4発のミサイル発射命令が下った。しかしそれはおかしなものであった。一発はソ連を狙ったものであったが、その他の3発はソ連以外の国を狙ったものであったと言う。もし基地の司令官が命令に忠実なイエスマンであったのならば、躊躇なく核ミサイルを発射し全面核戦争に突入していたであろう。しかし基地の司令官は、3発が他国へ向けられていることに対して明らかにおかしいと考え、真偽を見極めようとしたと言う。そしてその命令は誤報だと言う事が明らかになった。

もう一つはソ連の潜水艦における出来事だ。ソ連軍の潜水艦がキューバ周辺で活動していたのだが、アメリカ軍はそれを察知し潜水艦周辺に爆雷を落としたと言う。これは潜水艦に対して浮上せよと言う合図であり、アメリカは事前にソ連に対してこの爆雷の意味するところを伝えていたと言う。しかしこの潜水艦の艦長にはその意味が伝わっていなかったのだ。そこで艦長は戦争が始まったと思い、自分たちが自滅することを覚悟で核魚雷を発射しようとした。しかし核魚雷を発射するためには、もう一人、副艦長の許可も必要であった。そこで副艦長は、もし自分たちを攻撃しようとしているのならば簡単に攻撃できるはずで、それをあえてしないのは何かの合図かもしれないと考え潜水艦を浮上させたと言う。

この二つの出来事は、いかに自分の頭で考え判断することが重要であるかと言う事を示唆している。沖縄のアメリカ軍司令官が、あるいはソ連軍の潜水艦の副艦長が何も考えずに核発射命令を出していれば、今頃人類は存在していなかったかもしれない。一人の人間の思考が、人類の存在さえも左右するのである。

日本では特に、学校では教師の言う事を、そして会社では上司の言う事を忠実に聞いて従うことが重要だと教えられ、それに従わないと反抗的だと非難される。しかしそれでは自分の頭で考えられる人間が育たない。日本でも自分の頭で思考し判断する事の重要性をもっと伝えなければならないのではないだろうか?今の菅総理は自分の頭で考えられる人間ではない。なので周りの人間がそれをサポートしていかなければならないが、現状を見るとおそらく側近は全てイエスマンであろうことが想像される。もし今の日本政府がキューバ危機と同じような状況に遭遇すれば、確実に人類は滅亡するであろう。キューバ危機はいろいろな事を教示してくれているが、そのうちの一つとして自分の頭で考え判断することがいかに重要であるかと言う事も示していると考えられる。

数学の真の姿と、物理の本質。

数学と物理の結びつきは昔から非常に強い。微分積分法はニュートンの力学に対する考察から生まれたものであるし、近年では素粒子論、特に超弦理論の研究から新しい数学の理論が次々と生まれている。

では、物理と数学の関係をどう見るべきか?一つは「数学は物理の道具である」と見る事、二つ目は「数学≒(ニアリーイコール)物理」と見る事、三つめは「数学=(厳密なイコール)物理」と見る事。僕が最近たどり着いた結果は、三つ目、つまり数学と物理は厳密なイコールであると言う事だ。そしてこれは一部、つまり末端に言えることではない。最も根本的な部分においてイコールだと言う事だ。なので数学の最も本質的な部分は、物理の根本的部分への考察によって得られる。

物理の根本的な部分の研究と言えば素粒子論、特に最近は超弦理論が担っていると言われる。しかし僕は素粒子論や超弦理論の考察からは物理や数学の真の姿にまではたどり着けないと考えている。それらの理論は物理においては(今では)最も基礎的かつ根本的な部分であると言われているが、近い将来必ず根本的物理理論に対する全く違うアプローチが生まれると考えている。具体的にはどのようなものか?それは数学で言うと、数理論理学や公理論的集合論、そして数学基礎論的なアプローチだ。つまり現在の素粒子論、超弦理論とは全く違うアプローチである。

物理とは数学の具現化である。つまり物理を追究することによって、数学の本質に迫ることができる。もう物理と数学を異分野として分けることは古いのである。今必要なのは、物理と数学の一体化である。

権力を上手く使いこなせていない!

権力とは諸刃の剣である。良識のある優秀な人物が権力を持てば世の中は良くなるが、もし知識のない凡庸な人間が持てば世の中は悪化の一途をたどり、民は苦しい思いをすることになる。古代ローマでは、一番の理想は哲学者が皇帝になることだと言われていたと言う。そして実際に一人だけそれを実行した人物がいる。マルクス・アウレリウスである。アウレリウスは「自省禄」と言う非常に素晴らしい書籍を出しており(哲学書と言えるかどうかわからないが、哲学書と言われることが多い)、人間としても一流である。アウレリウスが権力を持った当時のローマ市民はもしかしたら非常に幸福であったのかもしれない。

初めに言ったように、権力とは諸刃の剣である。それが良い方向へと行った例としてマルクス・アウレリウスを取り上げたが、逆はどうであろう?そう、今の日本がそうであると言える。菅氏は権力の使い方がわからず、全てが裏目裏目に出ている。アウレリウスのような優秀な権力者の常として第一に国民・市民の事を考えるが、凡庸な権力者の常として自分の実績にこだわり保身に走る。僕はこれまで菅氏をかなり批判してきたが、菅氏が逆転をする方法がひとつある。それは自分が犠牲になることを厭わないことだ。菅氏の現在の失敗は全て自分の保身に由来することだからだ。

権力とは権力者のためではなく、民のためにある。しかし日本の、いや世界共通かもしれないが、ほとんどの指導者が権力と言うものを勘違いしている。特にそれを助長しているのが、権力の世襲であろう。しかしこれには市民(有権者)にも責任がある。なぜなら世襲政治家に票を入れているのは一般市民に他ならないからだ。もちろん世襲が全て悪いとは言わない。世襲議員が良い政治を実行してくれるのなら大歓迎だ。だからこそ小泉進次郎氏にも期待してしまう。世襲政治家が悪いのではなく、何も考えずに単に有力政治家の後継者と言うだけで票を入れてしまうことが良くないのだ。

今まで批判してきた菅氏は世襲政治家ではない。しかし首相と言う政治家のトップにまで上り詰めた。いや、このような表現は良くないかもしれない。トップまで上り詰めたとか言うと、競争社会での争いであるように聞こえる。いや、現実として政界は熾烈な競争社会であることには間違いないが、しかし本来は政治家は市民の代弁者であり、極論を言えば市民に対する奉仕者だ。なので市民の方に顔を向けていない政治家など論外だ。しかし菅氏は今どこを見ているのか?二階氏の方を向いているのか?どちらにしても現在の菅氏は政治家とは本来どうあるべきかと言う事を完全に見失っているように思える。