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令和の人間として生きるために。

2019年4月30日、平成最後の日だ。明日から始まる令和という時代にどう生きるか?そのような事を考える一つの区切りになる。もちろん、令和になったからと言って自分自身や世の中が突然変わるわけではない。しかし、平成という時代に思うように生きることが出来なかった自分にとっては、明日から始まる令和という時代の中に自分の存在する場所見つけ、しっかりとした足取りで一歩一歩進んで行かなければならないと思っている。

平成と令和という時代の変わり目は、ちょうど僕の人生の変わり目に一致していると思っている。偶然か?と言えば完全に偶然である。しかし偶然と言えども、ちょうどその変わり目が一致したことは事実だ。いや、そのような事実にしなければならない。時代が変わるのと同じように、僕の人生も変えなければならない。そしてそのように変える自信がある。

平成から令和に変わるというこの区切りを、全ての日本人は前向きに捉えるべきだと思う。平成を思うように生きれなかった人は、令和こそは自分のものにするぞ!そして平成が自分にとって輝かしい時代であった人は、令和にはもっと輝くぞ!と。幸運な事に、今回の改元は祝福ムードの中で行われる。皆明るい気持ちで新しい時代を迎えることが出来るのだ。令和の時代は、平成の時代より明るい時代にならなければならない。世の中も、自分自身も。

僕は心に決めていることがある。それは、僕は昭和に生きる人でも平成に生きる人でもなく、令和に生きる人になるという事だ。自分の生命が終わる時、胸を張って令和を全力で生きたと言いたい。令和は絶対に良い時代になる。僕はそう信じている。そしてそのような令和という良い時代の人間になるためには、まずは積極的に人生を前に進める必要がある。時間は自動的に勝手に進む。しかし自分の人生というものは、自分で能動的に進めないと全く進まない。まずは平成から令和へと人生を前に進めなければならない。

自分の取り組む分野の当事者としてどうあるべきか?

ここ2年程、将棋界では藤井聡太七段の活躍に沸いている。僕自身は将棋界の当事者でも何でもないので、一観衆として藤井七段の活躍を楽しんでいるが、プロ棋士にとっては他人事ではない。谷川浩司九段は若手に対して「君たちは悔しくないのか」と発破をかけているが、藤井七段以外のプロ棋士にとっては屈辱以外の何物でもないはずだ。藤井七段のような凄い棋士が出てきたと喜んでいるプロ棋士はいないはずだ。

多くの人は何かしらの専門分野に取り組んでいる。そしてその中の一部はプロと言われる人であろう。そのような自分の取り組んでいる専門分野のプロにとっては、凄い同業者に対して手放しで褒め称えて良いはずがない。凄い同業者がいれば、それを超えるために腕を磨くことに専念しなければならない。

僕自身も、学生時代までは同じ分野を専門とする一流学者に対して憧れを持っていたことがある。そして過去の偉人に対して尊敬の念を抱いていた。しかし今は違う。同じ専門分野に憧れの人などいない。凄い人がいれば、それを越えなければならないと思っている。学問は決して順位を争うものではない。しかしだからと言って現在の地位に甘んじていいはずがない。やはりその分野に打ち込むからには、どのような分野であっても頂点を目指すべきだ。

ここ数年、僕はこのような意識が強くなってきている。普通は歳を取ればそのような意識がなくなっていくものかもしれない。しかし僕は以前、調子を壊したりして思うように打ち込むことが出来なかった。しかし今は万全の状態に近づいている。そして今なら自分の目指す所へ届くことが出来ると思っている。だからこそ、今は同じ分野に憧れの人などいない。もちろん、他分野には尊敬している人はたくさんいる。山中伸弥教授や大谷翔平選手、そして大坂なおみ選手などだ。そして自分の打ち込んでいる分野でそれらの人に引けを取らないくらいのプレーヤーにならなければならないと思っている。こんなことを言うとバカにされるかもしれないが、僕は本気だ。

もちろん、頂点を目指したからと言って、全ての人が頂点に立てるわけではない。トップに行けるのは一握りの人だけだ。しかし初めからそんなのは無理だと思っていれば、100%達成できない。しかしバカになって本気でそこを目指せば0.1%くらいは可能性が開けるかもしれない。この0.1%を高いと見るか?低いと見るか?その見方次第で後の人生が大きく変わる。0.1%を1%に、そして10%、50%と上げて行くために努力を続ける。そのような先の見えない努力が出来るバカであることが、目標を達成するための一番の資質だと思っている。

本屋を巡る。

僕は本屋巡りをほぼ毎日の日課としている。専門書や洋書は大型書店やAmazonで購入するので、近所の本屋さんでは新書や文庫本、雑誌などをメインに立ち読みしたり購入したりしている。最近は新書の購入が多いが、新刊本をチェックしたり掘り出し物を見つけるのは日常のささやかな楽しみである。

人間の興味などは突然変わるものではないので、本屋に行くと大体毎回同じコーナーに陣取る事になる。それはそれでいいのだが、少し気分を変えて普段自分が足を運ばないようなコーナーに行くのも非常に良い。意外とそういう所に新しい発見があったりして、新しい世界が広がることがある。僕ならば最近は経済書コーナーや法学書コーナーに足を運ぶことがあるが、以前はそのようなコーナーは無視していたところであり、そこに足を運ぶことにより新しい見地を得られることになった。興味のレパートリーを増やすと抱えるものが多くなり大変であるが、その重さは自分の人間性の幅に比例するものであり、それを抱え続けることにより知的基礎体力が付いていくことになる。

気になった本は、お金が許す限りどんどん買えば良いと思っている。僕もこれまで相当な量の本を買い、本棚には専門書をはじめ様々な本が並んでいるが、例えそれらの本を全て読まなくても、背後の本棚に広がる本たちは自分の知性のバックグラウンドだと思っている。本棚を見ると、大体その人の興味や嗜好、知性がうかがえる。そしてそれらの本は、いざという時に自分の窮地を救ってくれる相棒でもある。

近年は極度の出版不況であると言われている。出版不況という事はそれだけ人々が本を買っていないという事であり、それは国全体の知性の低下につながってくると考えられる。お金がない時に何を節約するか?それは人それぞれ様々であろうが、もしかしたら多くの人はそのような時に本代を節約するのかもしれない。しかし自分の人間性の立脚する基礎となるものは書物であり、本代は決して無駄にはならないと考えている。節約する中でも、本代は何が何でも死守したいものである。

加点法か?減点法か?

評価の仕方には大きく分けて加点法と減点法がある。それに伴って、加点法の世界で評価される人間と減点法の世界で評価される人間は全く違うと言っていい。どちらが良いかという話ではないかもしれないが、僕自身は加点法の世界で身を立てようと思っている人間であって、減点法の世界では全く生きることが出来ないと思っている。

減点法の世界の代表は、何と言っても公務員であろう。公務員の世界ではどれだけ失敗をしないかが評価の対象になる。キャリア官僚の世界の出世競争は熾烈だが、トップに君臨する事務次官がどのような実績を残したかわからない人がほとんどだ。極論を言うと、公務員に大きな実績は求められていない。どれだけそつなくこなすか?それが出来る人が公務員として有能な職員だと言えるだろう。

数学や理論物理の研究の世界は、圧倒的に加点法の世界だと僕は思っている。とは言え、研究ポストなどの選考では減点法が幅を利かせているようにも感じるが、研究者としての研究能力の評価は100%加点法だと思っている。ただ、加点法によって評価されようと思っているのならば、中途半端な成果では話にならない。圧倒的な成果を上げないと加点法によって圧倒的な評価を勝ち取ることはできない。平均的な研究レベルの研究者に対しては、むしろ減点法で評価されているように感じる。

加点法の一番の魅力は、ホームランが可能な事、再チャレンジが可能な事だ。減点法の世界にホームランも再チャレンジもない。しかし日本の社会は広く減点主義が取られているように感じる。大した実績がなくても、失敗をしない人が大きな顔をして道の真ん中を歩いている国だ。そのような現状を見て、大人から若者まで如何にして失敗しないで乗り切るかという事ばかり考えている。それは逆に言うと、大きな挑戦を全くしないという事である。もちろん、日本でも大きな挑戦に挑む若者は少なからずいる。しかしそれらの人は、その大きな実績を挙げるまで全く見向きもされないことが多い。支援もない。孤軍奮闘である。

日本において加点法で生きて行こうと思えば、相当の覚悟がいる。しかし加点法で生きて行こうと思っている人は、何とか苦しい中間地点を乗り切ってその先にある風景を目にしなければならない。それは生きるか死ぬかの究極の勝負である。しかし、そんな極限状況であっても、それが刺激的でやめられないのが加点法の世界でホームランを打とうと打ち込む挑戦的人間ではないだろうか?

得るために捨てるもの。

人間は全てのものを得ることはできない。時には二つのものを得ることも許されず、一つのものを得るために捨てなければならないものがある。そのような時、どちらを取ろうか迷うこともあるかもしれないが、自分にとって一番大事なものが何かをしっかりと認識していれば、それに迷うこともない。

得るべきものを得るには、時間も労力もかかる。しかしそのような時間と労力も含めて財産になるのだ。それを認識していないと、なぜこんなに苦労をしなければいけないのかと悩むことになる。

得るべきものを得るための過程は、苦しくて楽しいものである。時には脇見をして周りの人間をうらやましく思うこともあるかもしれないが、自分が一番大切だと思ったことに進んでいるのなら、その大切なものを得た暁にはそれ以上のものが待ち受けている可能性がある。そう思うと、今の苦しくて楽しい道のりが快感にもなる。結果を楽しみにするのも大切だが、できれば道のりも楽しみたいものである。

人生とはある意味投資である。将来の成功、将来に得るべきものを得るために、時間、労力、お金を投資する。そして得るために捨てるものも投資だと言える。投資とは、自分が目指す未来の自分になるためにつぎ込むものであり、そして投資であるからにはつぎ込んだもの以上のリターンを得なければならない。全てが上手く行くとは限らないが、失敗さえも次の成功へと結びつけるたくましさが必要である。

得るために捨てるべきものを捨てることが大事だが、もし二兎追うべきだと判断したのならばそれもありだと思うし、それは非常に挑戦的な取り組みだ。大谷翔平選手のように二兎追って二兎得ることは非常に困難な挑戦だが、長い人生的スパンで考えれば三兎でも百兎でも追えばいいと思っている。

大問題に取り組んで見えること。

学問においては、問題に取り組み解決することが一つの目標になる。問題には大きなものから小さなものまで様々あるが、大問題に取り組むことは大きな覚悟がいる。大きな問題であるほど難しい問題であることが多く、したがって簡単には解決できない。もし解決できたとしても、それまでの道のりは長く時間もかかる。問題によっては人生を懸けるというくらいの覚悟がないと立ち向かえないものも少なくないであろう。

しかし当たり前の事であるが、大きな問題であるほど、解決した時の評価や実績は大きくなる。もちろん、大問題に立ち向かいながら小さな問題に取り組むことも出来るし、また大問題を解くに当たってもその過程は小さな問題の解決の積み重ねである事も多い。フェルマーの大定理を証明したワイルズも、それに取り掛かるに当たっては相当な覚悟があったと何かで見たことがある。大問題に取り組めるかどうかは、才能云々というよりも、覚悟だとか楽観性だとかいう人間性に大きく関わってくるものだと強く感じる。

大問題に取り組んでみると、それまでとは全く違った世界が見えてくる。それは学問的な事であったり、日常において見える景色、そして人生観の変革といったものだ。問題が解決した時、景色がどれだけ変わるかは解決してみないとわからないが、取り組むだけでもあらゆるものの見方が変わってくる。それに伴って人生も変わる。自分がどのように生きて行くべきか?そのような人生目標も明確に見えてくる。大問題なんて難しくて解けるわけがないと取り組む前からあきらめるのではなく、まずは問題に取り組まないと何もわからないし何も見えてこない。問題に真剣に向き合えば、解決への道筋が見えてくることもある。取り組むかどうか考える前に、まずは実行してみることが大事である。

もし何に取り組むか迷っているのならば、そこは迷わず難しい方を選ぶのも手だ。なぜなら難しい問題であればあるほど、見えてくる景色や世界観が広くなるからだ。もちろん、難しいか?という以前に、重要な問題である必要はある。難しく重要である問題に秘められている世界は、底なしに深いものである。どこまで深く迫れるか?それは非常にエキサイティングな挑戦であり、人生を懸けるに値する問題である。

物事を確率で考える。

物事を考える時、成功するか?失敗するか?あるいは良いか?悪いか?と二者択一で考えてしまうことが多い。しかし多くの物事は二者択一で考えられるほど単純ではないし、黒か?白か?ということに対してはほとんどの場合グレーである。しかし、グレーと言っても、白に近いグレーから黒に近いグレーまで色の濃さは様々である。ではグレー領域を判断するにはどうすれば良いか?それは正確に確率を読むことである。

金融の世界では、商品が上がるか?下がるか?という判断は確率によってされる。金融に携わる人にとっては確率論は必須の知識であるし、金融の世界で判断する際には確率微分方程式が使われると言われている。(アメリカの金融街、ウォールストリートで一番有名な日本人は、数学者(確率論)の伊藤清だと言われている。)

単純に考えれば、実行するかしないかの判断の分かれ目は、50%ラインにあると考えられる。しかしそれはあくまで非常に単純に考えた時の話で、成功率が99%でないとしてはならないこともあれば、1%に賭けるべき時もある。しかしどちらにしろ、確率を正確に読まなければならないことには変わりはない。

もちろん、日々の生活の中で全ての事に対して確率で判断して行動すべきだとは思わないが、物事を思考する時に確率的な考察を取り入れる事は多くの場合有用だと考えられる。と言う僕は、意外と確率的な判断はあまりしないような気がする・・・・。

確率論とは数学の一分野であり、数学的理解なしには確率的考察は出来ない。もちろん、専門的なルベーグ積分を使って、とまでは言わないが、日常で数学的思考が有用であることはこのような事からも理解できるであろう。

リスクの取り方。

リスクとは一言で言うと危険ということかもしれない。しかしリスクという危険には、それを乗り越えた時に大きなメリットがある。人間にはリスクを取れる人とリスクを取れない人の二通り人がいる。僕は圧倒的にリスクを取る人間である。とは言っても、投資などの金銭的なリスクを取る訳ではない。もちろん広く考えると金銭的なリスクも取っているのだが、それ以上に人生のリスクを取ることを心がけている。

何に対してリスクを取るのか?それは人それぞれ様々であろう。仕事でのリスク、日常生活や人付き合いでのリスク、あるいは恋愛でのリスクかもしれない。もちろん、普段から常にリスクを取り続ける必要はないかもしれない。しかしここぞという時にリスクを取れるかという事は、自分の人生を確立するためにも必要である。

ではリスクを取らなかったら失敗しないか?と言えばそうではない。実はリスクを取らないという事は、大きなリスクになりうる。それならば同じ危険性を背負うのならばリスクを取って挑戦したほうが良い。挑戦して仮に失敗しても、悔いは残らないであろう。

リスクを取る時、躊躇をすることは多々ある。しかし中途半端にリスクを取ってしまえば、危険を背負いながら失敗するという最悪な結果になってしまう。リスクを取る時には全力で取り組むことが必要である。そのためには、念入りな準備が必要だ。リスクを取るからには、何が何でも成功をしなければならない。そのための努力を惜しんでは絶対にダメだ。

リスクといった事を考える時には、どうしても負の側面を考えがちだ。しかし現在自分が置かれている立場を脱却するためには、リスクを取ることが不可欠な事もありうる。それは人生を進めるにおいてかもしれないし、金銭的な事かもしれない。そのような人生の危機において、悲観的になるばかりではなく、ある程度楽観することが必要だ。そして人生を楽しむ事、自分が取り組んでいる事、自分が懸けていることを楽しむ事、これが重要である。しかし楽しむ事というのは決して楽な事ではない。時には楽しむためにその何倍も苦しむこともある。しかしその上で掴んだ自分の人生は格別なものである。その格別な人生を手に入れるため、今苦しんで努力すればいいと考えている。

分析だけでは解決しない。

勝負に敗れた時、その敗因を分析しようとする。分析することは確かに重要だ。しかし分析をどれだけしても解決しないこともある。例えばスポーツで敗れた時にもその原因を分析しようとするであろう。しかし自分の力を強くしないと根本的解決にはならない。分析三割、実行七割というのが原則であろう。

21日、統一地方選挙及び衆院補選があった。衆院の二つの補選では両方で自民党が敗れることになった。安倍政権の下で圧倒的な強さを誇った自民党であったが、今回の敗戦にはそのほころびが見える。二階幹事長は「敗因分析を急ぐ」と言っているそうだが、僕にはこの敗戦が分析によって解決するかといえば疑問に思う。なぜなら、分析によって解決するのは下層部への問題であって、より上部の問題に対しては分析だけで簡単に解決できるものではないからだ。

敗因分析以上の効果をもたらすのは、根本的理念の変革、及び根本的制度の変革である。しかしこれらの改革は大きな効果をもたらす可能性がある一方、大打撃を与える可能性もある。諸刃の剣である。理念に関してはそう簡単に変えるべきものではないし、その理念を貫き通すことによって信用も生まれる。今回の敗戦に関しても、理念の変更が大きな原因になったとは僕は考えてはいない。むしろ根本的制度の改革が裏目に出たのではと考えている。もちろん、社会的制度の変革などもあるが、一番大きなのは自民党総裁任期の変更であろう。もちろん、これ以外にもいろいろと原因はあるかもしれない。しかし次期参院選までに立て直すのは至難の業であろう。さらに分析だけで乗り切ろうと思えば、これは不可能だと言わざるを得ない。

自民党が次期参院選で立て直すには、分析以外の取り組みが鍵になって来る。特にインパクトのある標語的な政策を打ち出すのなら、それは次期参院選では効果的かもしれないが、持続性という観点で見れば賢い策とは思えない。もちろん、外的要因によって情勢が大きく変わる可能性もなくはない。これから政府与党がどのような動きに出るのか、注目してみたい。

判断に必要な「勘」とは?

勘で物事を判断することはよくある事だ。しかし一言で「勘」と言っても、それには色々な種類がある。勘と言えばもちろん直感に基づくものだが、しかしそれは決していい加減な判断ではない。もちろん、何の根拠もなく判断するようなことを「山勘」と呼ぶが、重要なのはそのような根拠のない勘ではなく、論理と計算に基づく勘だ。

論理と勘とは一見相反するようなことに思えるかもしれないが、優れた勘とは経験と論理に基づいていることが多い。論理による緻密な計算が、勘をより冴えたものにする。勘で判断する前までは、綿密な論理と計算によるシミュレーションが必要だ。最終判断をする際に総合的に判断する根拠を勘と言うのである。従って、最終判断の場面だけを見ればその判断の根拠が見えず、一見何の根拠もないいい加減な勘に見えるかもしれない。しかしそれは傍から目線であり、判断をする本人にとっては決してそのようないい加減な勘であってはならない。

数学や物理においても、勘が重要な判断基準になることがよくある。右に行くべきか、左に行くべきか?学問においてはそのような事は論理で決定されそうに思えるが、意外と研究者は鋭敏な勘を働かして判断をしている。もちろん、研究者の勘は根拠の塊からできている。何十年という論理的訓練の末に出来上がるのが、研究者の鋭敏な勘というものだ。もちろん、それが100%正しいとは限らないが、そのような鋭敏な勘の連続が最終地点までの重要な道標になることが多い。

数学や物理において、勘というものに非常に近い感覚が「美的感覚」である。数学理論、物理理論にも美しいという判断基準がある。美しい理論は大概真理を物語っている。よく美しい理論の代表として取り上げられるのが、相対性理論だ。アインシュタインの美的感覚は非常に鋭いものがある。美しいかどうかという判断に基づいて理論を構築することは決して不可能ではない。もちろん、細部を埋める計算は泥臭いものになるが、完成品は美的な光にあふれている。一般相対性理論のアインシュタイン方程式は、シンプルで力強く、そして非常に美しい。

勘を磨くことは決して容易な道ではない。計算も経験も必要であり、感覚も研ぎ澄まさなければならない。そしてある程度天性のものもあるかもしれない。しかし、物事を極めようとすると、そのような勘を磨くことは避けて通れない道である。そしてそのためには、徹底的に論理と計算を究めなければならない。