月別アーカイブ: 10月 2020

ゲームチェンジャー。

最近はコロナの影響で、社会が重い空気で覆われている。あたかもコロナによってすべてが悪くなったと言う空気だ。確かにこれまで大量の株を持っていた人は株価の大幅下落で大きな損失を出したであろうし、失業した人も少なくない。一言で言うと、これまで成功した人、あるいはこれまで普通に生活が送れた人が窮地に立たされていると言っていい。しかしこのようなニュースはほとんどこれまで上手くいっていた人に焦点を当てて語られる。しかし世の中は上手くいっている人ばかりではない。これまで苦しい思いをし続け、これまで上手くいかなかった人もたくさんいる。そしてそのような人に焦点を当てた時、必ずしも暗い話ばかりではないはずだ。

例えば先ほど、株価の暴落で大きな損失を被った人がいると言ったが、逆に今株価が下がり切ったときに株を買い占めて、後に株価が上がり大きな利益を得る人も出て来るはずだ。これまで上手くいかなくて苦しい思いをした人が、コロナをきっかけに成功する人も多々いるはずだ。そう考えると今は全てが悪くなっているのではなく、ゲームチェンジが行われているのである。これまでの成功者からこれからの成功者へ。だからこそ、これまで上手くいかなかった人はいかにしてゲームチェンジャーになるかと言うことを考えなければならない。

ではなぜこのようなゲームチェンジが行われているのか?それは世の中のシステムが大きく変わったことに由来する。世間ではコロナ禍によって全てが悪くなったと言われることが多いが、長い目で見るとコロナ禍は単なるきっかけに過ぎず、変化を早めただけと言われるかもしれない。なのでこれまでと同じことをしていては勝ち目はない。いかにしてこれからのシステムを理解し、それにマッチしたことを行うかと言うことである。

日本人は変化を嫌う人種だと僕は考えている。だからこそ前例主義が大きく幅を利かせているのである。なので日本が大きく変化するためには、外部からの大きな力が必用だ。戦後の大きな経済発展も敗戦と言う外部からの大きな力がもたらしたものだ。そして今回もコロナと言う外部からの大きな力が働いている。敗戦もコロナもどちらも大きな災いであることには間違いない。しかし災難が起きたからもう終わりだと言っていては何も始まらない。災難は既に起きてしまってもう変えられることではないのだから、ここからはそれを逆手に取っていかに変化していくかにかかっている。

入口なんてどうでもいい!

先日、プロ野球のドラフト会議があった。阪神が一番人気の佐藤輝明選手の一位指名に成功し、これからの大山・佐藤のクリーンアップ形成に期待がかかる。プロを志望している選手からすると少しでも上位で指名されることを望むのは当然であるが、しかし指名順位によって大きく影響されるのは契約金だけであり(もちろん初年度年棒や待遇も変わってくる)、スタートでの差などその後の活躍によってすぐに埋まってしまうと考えて良い。逆に上位指名によって一番大きな利益を得られるのはプロで活躍できない選手であると言え、そういう意味ではドラフトと言う入り口での順位にこだわるのは、考えようには自分の実力のなさを認めていると言ってよい。

もちろん、プロで圧倒的に活躍する自信があって上位にこだわる選手もいるが、実は本当に実力があるのなら、ドラフト順位にこだわる必要はほとんどないのである。過去の例を見ても、イチロー氏はドラフト4位、ミスタータイガースの掛布雅之氏はドラフト6位だ。それでも球界トッププレーヤーにまで上り詰めている。最近では、育成出身の選手が一軍で活躍する例も多々生まれている。ドラフトと言う短期的展望ではなく、入団してからどのようにプレーするかの方が一万倍重要なのである。

これまではプロ野球のドラフトについて述べたが、世間(社会?)である意味入り口での評価対象になるのが学歴であろう。どこの高校を出ているか?あるいはどこの大学出身か?しかし僕はこのような学歴も希望の会社に入るためにはかなり重要かもしれないが、プロ野球選手と同じく入ってからどう仕事するかの方が一万倍重要だ。なので学歴にこだわることは、就職した後に一度リセットした方が良い。もし研究者になりたいのなら、それこそ実力が100%である。いや、他の研究者はどうかわからないが、僕は常にそう考えて取り組んでいる。

とは言え、世間では入り口(学歴)にこだわる人はかなり多い。そして周りの目も人間ではなく学歴を見ていることは多々ある。しかしそんなくだらない奴はどうでもいいのだ。周りの目に自分を合わせるのではなく、自分が見据えている所を目指して一歩一歩進めばよいのである。しかしそのためにはまずは努力して実力を身に付け、そしてその実力を基に結果を出していくしかないのである。

コーヒー問題。

コーヒー問題と言っても、社会問題でも何でもない。ただ単に個人的な問題であるが、コーヒーをどれくらい飲めば、自分の調子が一番良いかと言う問題である。僕自身コーヒーが大好きなので、これまで湯水のごとくコーヒーを飲んで来て、多い時は一日十杯くらい飲んでいたのではないかと思う。しかし、このコーヒーの量が自分のその日の調子を大きく左右しているのではないかと前から感じていた。飲む量を減らした方が調子が良くなるのではないかと思っていたが、ついつい何杯もコーヒーを飲む日々を送っていた。

しかし、調子を良くするためならどんな努力でもすると決めていたので、コーヒーの量も思い切って減らすことにした。本当なら完全に断つのが良いのかもしれないが、寝起きはどうしても無性にコーヒーが欲しくなるので、寝起きの二杯は飲むことにして、その後は寝るまで一切コーヒーを飲まないことにした。するとやはりすぐに調子が良くなってきた。コーヒーを飲んで頭が鈍る感覚も(これはもしかしたら普通の人と逆ではないかと思うが)ほとんどなくなった。一日が非常に爽快になった気分である。

健康を考えた時、コーヒーよりも問題があるのはお酒ではないかと思う。しかし以前(コロナで緊急事態宣言が出ていた頃)、一か月ほどお酒を断った時期があったが、その時はむしろ調子が乗らなくて物事があまり進まなかった。なので今は、お酒は適量(よりもう少し多いくらい)をちょくちょく飲むことにしている。もちろん飲み過ぎには気を付けないといけないが、健康を害しない程度なら飲み続けようと思う。

しかしコーヒーを我慢するのは本当に悲しい。しかしこれも目標を達成するためだ。背に腹は代えられない。本当なら寝起きのコーヒーも止めるべきかもしれないが、そこだけは緩めようと思う。とは言え、調子が良くなるのなら、もしかしたら寝起きのコーヒーも断つ日が来るかもしれない。

プロとはなんだろうか?

プロとは何か?その答えは一つだけではないだろうし、人によっても様々だと思う。一般的な答えとしては「それによってお金を得ている人」と言うことではないだろうか。確かにそれはある意味間違っていないとは思うが、それでは対象が広すぎる。例えばプロ野球選手と一般会社員をただお金をもらっていると言うだけで同列に扱うのはおかしい。ではプロと言うものをどう定義すべきか?

僕にとってプロとはなにかと考えた時、確かにそれによってお金を得ていると言うことは非常に重要だと思う。では一般会社員の例とは逆に、全くお金を得ていなければプロではないのかと言うと、それはまた違うと思う。お金を得ているか?得ていないか?と考えた時、それは現在までの過去において、あるいは現時点でお金を得ているか?と言う問いになる。すなわちその答えには未来がごっそり抜け落ちている。例えば今まで二十年間それによって稼げなかったけど、来年それが実って一億円獲得したとする。それはある意味これまでに一年平均500万円稼いだのと同じになる。そう考えると、お金と言う観点は大事だが、ただ現時点だけの稼ぎだけを見て判断するのは早計だと思う。

では他にどのような観点があるか?まず意志・思想的な観点がある。どのような意思や思想を持って取り組んでいるか?これは非常に重要である。例えばプロ野球選手を目指している、あるいはプロ野球選手になるような人の意志はおそらく一般的な人間よりはるかに強固である。そしてもちろん覚悟も強い。何しろプロになれなかったら全てが無駄になる可能性もあるからだ。一般会社員がそこまで覚悟を持って生きているか?もちろん全ての会社員がとは言わない。覚悟を持って仕事をしている会社員ももちろんいる。しかし多くの一般会社員の覚悟はプロ野球選手には大きくかなわないと思う。逆にそこまで覚悟を持って仕事をしている会社員は、ある意味プロだと言える。

そして言うまでもないが、プロはトップレベルのスキルを持っている。プロ野球選手の野球スキルは、全ての野球選手のトップ0.0・・%であろう。まさしく桁違いである。高校野球で活躍した田中将大投手は世界のトップレベルまで上り詰めたが、田中将大投手に投げ勝って甲子園制覇を果たした斎藤佑樹投手はプロの世界では鳴かず飛ばずである。プロとはまさしくそう言うレベル、そう言う世界である。

科学者は科学のプロと言われている。果たしてそうであろうか?ポストを維持するために必ず出ることがわかるような(平均的な?)結果をコンスタントに出し続ける学者もいる。いや、そのような学者の方が多数派である。もちろんそれもプロとしての一つの形かもしれない。しかし僕の目指しているプロ科学者像はそんなものではない。もしかしたら僕のプロ観と言うものが一般のそれとは大きく違っているのかもしれない。僕のプロ観は一般のそれとはレベルも形も違う。僕はそのようなプロ観に基づいて登り続けて行こうと強く思っている。

記憶力の悪さが武器だ!

僕ははっきり言って記憶力が悪い。しかし記憶力が悪い事はそんなに悪いことではないと思っている。とは言え、確かに記憶力が良い方が圧倒的に便利な事が多いし、おそらく物事も早く進むだろう。しかしだからと言って、今さら記憶力が良くなりたいとは全く思ってはいない。

「記憶力が悪いから出来ない」とか言う人は非常に多い。それはある意味合っている部分もあるだろうが、僕は決してそうは思わない。なぜなら記憶力が悪ければ他の部分で補えばよいと考えているからである。記憶力が悪ければ、思考力や構想力で勝負すればいい。僕は初めから記憶力なんかで勝負しようとは全く思っていない。しかし記憶力が悪い分、徹底的に思考しなければならない。そう、記憶力が悪いからこそ、徹底的に思考することができるのである。

僕も子供のころから記憶力が悪かったわけではない。大学に入ったころまではかなり記憶力が良かったのである。しかしその頃調子を崩して記憶力がかなり悪くなった。しかし思考力に関しては、ある意味今の方が質の良い思考ができていると考えている。宇宙(自然科学)の本質が非常に良く見えるようになった。物理学とは宇宙の本質をどこまで追求できるかと言うことである。そしてそれに欠かせないのが、数学的宇宙との結びつきである。今は宇宙(物理)と数的世界(数学)との結びつきが非常に明確に見えている。

日常生活を主眼に考えると、記憶力は非常に大きな力を発揮するかもしれない。しかし科学を追究するためには記憶力はあると便利だが主ではない。あくまでも思考力・構想力が主なのである。僕にとってそれらの重みの比は1:99だと言っていい。記憶力に物を言わせた研究などは、科学においては(分野にもよるであろうが)無力である。生物学においても、記憶力が物を言う時代は過去のものとなっている。もし科学を究めたいなら、記憶力などはあると便利だと言うくらいの認識に留めた方が良い。必要なのは徹底的なる思考なのである。

なぜ朝型が善で、夜型が悪なのか?

世の中は夜型人間に対して風当たりが厳しい。世間では早寝早起きが推奨され、夜更かしと言う言葉はしばしば悪い意味で使われる。僕自身はと言うと、完全な夜型である。そしてさらにロングスリーパーだと言ったら、まさしく世間の標準からはみ出ていると言える。実際このような僕にとって、普通に生活をすること自体かなりしんどい思いをする。

ではなぜ朝型が善とされ、夜型が悪とされるのか?それは歴史に負うところが大きいと言える。昔、電灯などがなかったころ、夜は暗闇であり、農作業などの仕事をするのが困難であった。なので様々な活動は日が昇ると同時に始まり、日が沈むと同時に終えることとなった。このような時代だと実質的に朝型でないと何もすることができない。しかし現代は、夜になっても至る所で明かりが灯っており、街に行けばネオンがこれでもかと言うくらい街を照らしている。このような時代において、夜に仕事や活動をすることは何の困難もない。なので夜型人間は夜に学業なり仕事なりを思いっきり打ち込めば良いと思う。

しかし現実は、学校は朝の8時頃に始まり、多くの企業も基本は9時5時と言うところが多い。僕は数理物理の研究を行っている。理論系の研究なら夜も朝も関係ない。なので自分の好きな時に好きな事ができると言えるが、それでも朝型を強制する周りの圧力には非常にストレスを感じてしまう。本音を言うと、日が沈むと同時に活動をはじめ、日が昇ると同時に寝たいくらいだ。まるでドラキュラであるが。

このように夜型人間を朝型に強制することによって、日本は、いや世界は人的資源を失ってはいまいか?夜型人間は夜に最大限の効率を持って仕事をさせれば、社会もさらに利益を得るのだと思うのだが。夜型が悪だと言う扱いをしばしば受けるが、何も夜型人間の心に悪が潜んでいるわけではない。夜型人間にとっては、ただ単に生きるだけでも非常に疲れる世の中である。

模様替え。

今日新しい本棚を買ったので、本棚を設置して本を収納すると同時に部屋の模様替えをした。やはり綺麗になった部屋は気持ちがいいものだ。少し前に「整理整頓はしなくていい」と言うブログ記事を書いたばかりだが、そうは言っても僕も整理する時は整理する。ただ無理に強制的に整理整頓をさせるべきではないと言うことである。

本が仕事道具の僕にとって、本棚は必須アイテムだ。イメージ的には書斎で暮らしていると言う感じだろうか。今回楽天で本棚を買ったのだが、結構リーズナブルな値段でしっかりとしたお洒落で良い本棚を買うことができた。机のすぐ右手に本棚を設置したのだが、重要な本は手を伸ばせばすぐに取り出せる位置に、そして少し離れるにしたがって重要度が下がっていくように配置している。本の配置一つで結構効率が変わって来るものだ。

ただ地震が起きた時、本棚が倒れるのが心配だ。そのために本棚が倒れないように壁に固定しなければならない。地震国に住む我々には必ず考えなければならないことだ。僕自身も阪神大震災を経験しているので、大地震の怖さは少しは分かっているつもりだ。しかしもう二十五年経っているので地震の記憶もかなり薄れている。しかし日本に住んでいる以上、いつ大地震に遭うかはわからない。明日地震が来るかもしれないと言う覚悟を持ち、備えなければならない。

部屋を模様替えして気分一新となり、これが研究にも良い影響をあたえることを願っている。もう時間がない。明日結果を出さなければ明後日の命がないと言う境地だ。明後日以降も生きれるように、少し気分を変えて本や論文と格闘しよう。

トップを目指す者に、学歴の衣は似合わない。

40代になれば、人生も後半に入りかけたと言えるだろう。その後半の人生をどう生きるか?多くの人は若さに価値を見出し、若い頃に戻りたいと言う人も少なくない。しかし僕は、人生後半こそ本当の勝負だと思い、これからの人生に全力をささげようと思っている。

日本は学歴社会だと言われている。もちろん日本よりも極度の学歴社会に陥っている国も存在するし、学歴に物を言わせたい人は勝手にやればよいと思っている。しかし確実に言えることは、学歴が物を言う世界は低レベルな世界であり、学歴に物を言わす人間は低レベルな人間であると言うことだ。学歴に物を言わすのは就職活動くらいで終わらせなければならない。40歳も過ぎて学歴にこだわる奴は最高にカッコ悪い。

日本、いや、世界トップの医学者は誰か?間違いなく山中伸弥教授だ。その山中教授が学歴にこだわっていれば、確実に医学研究の世界に残れなかったどころか、医学研究の世界に足を踏み入れることもできなかったであろう。ノーベル化学賞を受賞した田中耕一氏は大学院さえ行っていない。もちろん、高学歴のノーベル賞受賞者は沢山いる。しかし学歴にこだわるノーベル賞科学者を僕は見たことがない。僕はトップを目指す者に学歴の衣は最高に似合わないと思っている。100%、いや200%実力勝負なのである。

学歴にこだわると言うことは、その人が既にトップからずれ落ちているか、あるいはその社会が低レベルであると言える。もしトップを目指そうと思えば、まずは学歴の衣を捨て去ることから始めなければならない。学歴と言うものは、ある意味結果論であって、手段ではないと僕は肝に銘じている。

専門外の事に走るのは、逃げなのか?教養なのか?

最近何かと専門外の分野に走ることが多い。生物学(特に理論進化遺伝学)、化学、コンピューター科学、経済学、日本史・世界史など、興味の向く分野はかなり広い。もちろん僕の専門は数理物理(数学と物理)なのだが、中途半端に調子がいい時とかは何かと専門外の事に目が向いてしまう。学生なら専門外の勉強をすることは教養だと言い訳できるが、僕の場合どうも逃げに思えてしまう。専門外の分野に取り組むことは、世間一般で言うと「趣味」に当たるかもしれないが、もし僕の行っていることが趣味ならば、それは99%逃げである。

では、趣味(逃げ)で終わらせないためにはどうすればいいか?それはその分野も研究レベルまで究めて一本の論文でも書くことだろう。なので理論進化遺伝学も経済学も、少なくとも一本は論文を書くことを目標にしている。もしそれができれば僕のやっていることが正当化できるだろう。

僕は何が何でも教養で終わらしたくないのである。教養で終わらすのは甘いと思えて仕方がないのだ。ただ現時点の状況で言うと、まだまだその域には達していない。しかしそこまで達する自信はかなりある。根拠のない自信か?それとも本当にそれだけの力があるのか?それは結果を出せるかどうかにかかっている。もちろん、数理物理で自分が納得できる結果を出すことが大前提であるが。

その到達点は、僕が以前から言っている「ジェネラルサイエンティスト」である。すなわち、全ての科学的分野でプロレベルに到達すること。野球で言うと、大谷翔平の二刀流か?そんなことを言う僕に対して、バカにしたい者はバカにすればよい。自分はその道を突き進むだけである。

「数学」とは何か?

数学とは何か?と言う問いに答えるのは、数学者にとっても意外と難しい。多くの人にとって数学は、小学校(算数)の頃から取り組んでおり、かなり身近にある存在だと思う(好きか嫌いかは置いておいて)。数学とは何か?なんて、誰でも分かると思っているかもしれない。しかしそのような「数学とは何か?」と言う問いに厳密に答えることは、そんなに簡単ではない。

数学には「ゲーデルの不完全性定理」と言う定理が存在する。この定理は普通の数学の定理とは毛色が違い、数学そのものについて述べた定理である。分野で言うと、数学基礎論、あるいは数理論理学と言う分野に属する定理である。数学科の学生なら一度は聞いたことのある名前であるが、そのような学生に不完全性定理と何か?と問うてみると、ほとんどの人は「数学は不完全であることを証明したもの」であるとか、あるいはもう少し詳しく「数学には真(正しい)とも偽(間違っている)とも証明できない命題が少なくとも一つは存在する」と答える。しかしそもそもここで言う「数学」とは何を示しているのか?それをはっきりしないと「数学は・・・」と言う説明は意味を持たなくなる。

数学の理論を構築する時、必ずその出発点となるものを定めなければならない。その出発点となるものが「公理」と言われるものである。公理を基に定理を証明する。これが通常の数学である。そこで何を公理とするか?と言う違いによって、その後の展開が変わってくることは容易に想像できる。すなわち、何を公理とするかによって、様々な数学ができる訳である。通常取られる公理系は、ZFC(ツェルメロ(Z)・フランケル(F)の公理系に選択公理(C)を加えたもの)が採用される。

ZFCからC(選択公理)を省いた公理系を取ることもできる。そうすればまた違う数学が構成されるとも言える。このような事を考えると、どんどん数学の沼にはまっていく。しかしこの数学の沼にはまるのも数学者としては悪くない。そこをとことん突き詰めた数学基礎論と言うものは、数学を根本的に理解するためには不可欠だ。ただほとんどの大学数学科でも、数学基礎論の講義は全くないし、あるいは無視されている。僕自身も数学基礎論のカリキュラムは受けたことがない。しかしだからと言って、数学基礎論を無視することはできないはずだ。