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90%の失敗。

9月20日の半沢直樹も非常に熱かった。次回が最終回のようだが、今から心がワクワクして止まらない。

ところで半沢はする事する事が全て(最終的には)成功している。もちろん途中経過として失敗することはあるが、最終的には全ての物事が成功しているのである。半沢の成功率は100%?もちろんこれはドラマだから出来ることなのではあるが、しかし多くの人はできるだけ成功率を上げたいのではと思っているのではないだろうか?

しかし僕は自分の成功率にはあまりこだわっていない。だからなのか、僕の物事の成功率は非常に低い。もちろん、僕だって成功しようと努力はしている。しかし数字は結果論であるので、あまりこだわらないようにしているのである。そして成功を糧にする人がいれば、失敗を糧にする人もいる。僕はもちろん後者。ただ僕は成功の数にこだわるのではなく、成功に質に非常にこだわっている。では成功の「質」とはいったい何なのだろうか?それは根幹的な部分に位置することである。枝葉は数多く散っても、幹は確実に守り成長させる。また幹を成長させて守るためには、多くの枝葉を切り落とさなけらばならないこともある。すなわち僕の数多くの失敗は、将来の幹の構成の布石だと考えている。失敗しないやつに幹を為すような成功は為せない。失敗しないでそれができるのは半沢直樹くらいである。

そして失敗を恐れない意志と言うものが非常に重要になる。そのような意思を持って行った失敗は前向きな失敗となるが、恐れて失敗してしてしまえばそれは後ろ向きの失敗にしかならない。僕の90%、いやそれ以上の失敗のほとんどは意志を持った前向きな失敗だ。だからこそ何も卑屈にならず、それどころか確信を持つ事ができるのである。後はそれらの失敗のなす根幹的な成功まで生きること、それが重要になってくる。そのためにもこれからも頑張って生きよう!

僕がこのブログで本名を明らかにしていることについて。

僕の名前(本名)は木原康明。このブログのタイトルの通りだ。なぜ有名人でもない僕がブログのタイトルで本名を明らかにしているのか?理由はいくつかあるが、一つは名前(僕の姿かたち)を隠して発言したくはなかったからだ。世の中の事についてニックネーム(偽名・匿名)で物事を発言している人は多い。しかし僕にはそれは卑怯なのではないかと思うのである。もし正論を言うのならば、自分の姿かたちを堂々と明かして声高に叫べばよい。しかし実際は自分の姿かたちを隠してこそこそとネガティブキャンペーンをしている人も少なくはない。

最近世の中では、ネット上での誹謗中傷が問題になっている。そしてそれらの誹謗中傷をやっている人のほぼ全てが偽名・匿名で攻撃を行っている。もし誹謗中傷をしたければ、首相や大統領に対して本名で行ってみればよい。しかしそれらの人はそんな勇気は全くないであろう。弱者には強く、強者には弱いのである。今、菅義偉氏が日本国の総理大臣に就任した。まだ就任したばかりなので良いとも悪いとも言えないが、官房長官時代の菅氏を見て(安定感は圧倒的だが)、僕の心証はあまり良くはない。これから良い政策をボンボン打ち出して行って欲しいものだが、もし道理にそぐわないような政治をしようものなら僕は容赦しない。総理であろうと強く非難していくつもりである。

話は元に戻るが、僕が本名を出していることによるメリットはあるのか?今現在だけで見ると全くない。しかし何も考えないで名前を出しているわけでもない。ブログで本名を出しているのは将来への一つの布石でもある。もちろん本名を出したことに対して後悔などは全くない。そいう言えば、一つ良いことがあった。それは海外に住んでいる中学時代の同級生が、僕のブログを見つけてくれて連絡を寄こしてくれた。それ以来、彼が毎年日本に帰国したときは一緒に飲む仲となった。

僕は立派な人間でも何でもないが、ただいくつか心に決めていることがある。弱いものに優しく、権力者に対して厳しい態度を取る。長いものに決して巻かれない。それが木原康明と言う人間だ。それができなくなれば、もう木原康明ではない。と言いたいところだが、やはりどうしても妥協してしまうこともある。優しくしたくても少し強く当たってしまうこともある。そこは僕の人間的な弱さなのかもしれない。しかし匿名・偽名で人を攻撃(誹謗中傷)するようなことは決してしない。今の僕には何の力もないかもしれないが、菅義偉総理は心して身構えた方が良いだろう。

iPad始動。

前からiPadが欲しくて仕方がなかったが、今日ついにiPadを手に入れた。と言っても2019年モデルの無印iPad10.2インチの中古を手に入れたのだが。とは言っても、やはり本当はこの一番安いモデルではなく、iPad Pro12.9インチが欲しいと強く思っている。そしてこの最上級iPad Proは来年前半に5Gとなってフルモデルチェンジすると言われており、その時張り切って20万円出して手に入れようと思う。

このように言うと今回が初めてのiPadだと思われそうだが、実は10年前に初めてiPadが世に出た時、その初代iPadを手に入れていた。なぜその時出たばかりのiPadを買ったかと言うと、これなら論文を見放題ではないかと感動したからだ。しかし当時はiPadの使いこなし方がわからず、結局ほとんど使わないで放置することとなった。そして今回もiPadを手に入れた一番の理由は論文を読むことだが、今ではiPhoneを縦横無尽に使いこなしコンピューターに関してかなり豊富な知識を習得してきたので、改めてiPadを手に入れて使い倒そうと思ったのである。

iPadを手に入れたのは良いが、環境構築にかなりお金がかかりそうだ。その中でも一番重要なのは、もちろんVPN(バーチャルプライベートネットワーク)だ。VPNは世の中にピンからキリまで存在しており、iPhoneアプリなどを見ても無料VPNアプリもかなりたくさん存在する。しかしVPNはセキュリティーとプライバシーの核になるものなので、そこをケチっては意味がないどころか、逆に危険性が増してしまう。世の中では無料VPNアプリ(特に中国系)ほど怖いものはないと言われている。VPNはお金が安全の質に直結してくる。なので徹底的に調べ、さっそく良いと思ったVPNと年間契約(一年で一万円以上)することにした。

あらかじめ論文や電子書籍をiPadに沢山入れておけば、外出先でも読み放題だ。今回の僕のiPadはWi-Fiモデルなのでモバイル通信はできないが、ちゃんとしたVPNを入れておけば外出先でのフリーWi-Fiもかなり安心して使える。

さあ、iPadをどれだけ使い倒せるか?そしてどれだけ研究に生かし結果を出せるか?外出先で論文が読めるのは非常に大きい。できれば来年の前半までに結果を出し、来年発売される20万円以上のiPad Proを手に入れるのが一つの目標である。さあ、頑張るぞー!

取り組むテーマ二つ。

課題(問題)を設定する時、どのようなテーマを設定すればよいだろうか?多くの人は中心になるテーマを一つ決めて、それに集中することだろう。そしてそれは多くの場合正解である。いくつものテーマを掛け持ちしてしまえば力が分散化され、結局二兎追うものは一兎も得ずとなってしまう。しかし自分の実力に自信があれば、二兎追うのも一つの手である。さらに二兎追うことによって、双方が相互作用を起こして二つともに関して良い結果が出ることもあろう。現在二刀流に挑戦し続けている大谷翔平選手は現在苦しい立場に立たされているが、僕は大谷選手の二刀流を熱烈に応援している。そして成功することを祈っている。

学問の研究を行う時、ほとんどの人は専門を一つ定める。そしてその一つの専門に対して深く追究することだと思う。しかし一言で専門と言っても、細部を深く掘り下げるものから物事を大局的に捉えるものまで様々ある。しかし研究に関しても、必ずしもテーマを一つに絞る必要はない。そこで僕は、細部を掘り下げるテーマと大局的に構成するテーマを二つ定めることにした。と言いたいところだが、実際はもっとたくさんのテーマを定めている。現在ではそのようなテーマは十個に近づこうとしている。そしてそれらのテーマの範囲は、専門の数学と物理だけにとどまらない。理論生物学関係からコンピューター関係まで膨れ上がろうとしている。もちろん全て、理論系と言う縛りからは逃れられないのだが。

近年に始まったことではないが、科学はますます細分化してきている。実際、物理の研究者同士でも、隣接する分野の事さえ理解できないことは多いのではないだろうか。しかしそんな時代だからこそ、広く他分野に精通する研究者が必用になって来るのではないだろうか?少なくとも二つの分野、二つの視点を持つ事は非常に重要である。

20世紀前半までは、非常に理想的な時代であった。二度の大戦があったことは不幸な出来事ではあったが、学問の世界では数学においては、ガウス、リーマン、ヒルベルト、ポアンカレなど、あらゆる分野において大きな結果を出す研究者が少なからずいた。しかし現在では、そのような万能型研究者は皆無である。皆自分の専門の事だけでアップアップなのである。もちろん、研究者の質が落ちたわけでは決してない。おそらく学問の大きさと深さが膨大になりすぎたからであろう。しかしそんな時代だからこそ、あらゆる分野に広く深く挑戦する研究者が必用なのではないだろうか?それに挑戦することは非常にエキサイティングな冒険である。しかし非常に大きな危険性も伴っている。自分の命を懸けてでもそのような挑戦に取り組む研究者が一人いてもよいのではないだろうか?

美学は必要か?

「引き際の美学」と言う言葉をよく使われる。まだ余力があるうちに引退しようと言う考えだ。もちろん、美学と言う言葉は様々な事柄に使われるが、学問を行う時、そして何かを行う時、果たして美学と言うものは本当に必要なのだろうか?

引き際の美学に関して言うと、僕自身は全く正反対の考えを持っている。やはりボロボロになるまで粘って、死に体になったときに引退すればよいと思っている。野球で言うところの生涯打率とか生涯防御率などの数字には全くこだわらない。もちろん引退を引き延ばせば、生涯打率はどうしても低下してしまう。しかし積み重ねたヒットの数は絶対に減らないし、長くやれば絶対に一本二本と増えいて行く。イチローの打率は凄まじいものであるが、しかしイチロー自身は常に打率よりもヒットの数にこだわっていた。それは上に書いたような理由からであろうと考えられる。

話を学問に戻すと、数学や物理学の理論には美の基準と言うものが存在する。どのようにするか迷ったとき、多くの学者は美しい方に進む。その最たる例が物理学者アインシュタインであって、彼は常に美と言う観点から理論を構築していったと言われている。一般相対性理論などは非常に複雑な計算の基に成っているが、しかしその完成された姿を見ると非常に美しい形をしている。ここで言う美しい理論とは、不自然なところがなくシンプルだと言うことである。このように、理論系の科学の多くには絶対的に美の観点が必要である。ある意味、美的センスが科学者としてのセンスに直結すると言ってよい。

物事を二者択一で考える人は多いが、僕はそれは多くの場合間違っていると考えている。多くの場合、どちらか一方にこだわるのではなく臨機応変に使い分けて行くことが必要なのである。美的観点が重要な事には美的感覚でとらえ、美など必要ないことに関してはなりふり構わずどんどん進んで行けばよい。しかし美を無視するにしても、そのような判断をするためには美的感覚と言うものは必要になってくる。なので美学を自分の中に持つと言うことは、非常に重要な事なのである。