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‘‘何”が安心・安全なのか?

菅氏そして政府は、オリンピックを「安心・安全なものにする」と繰り返し述べている。しかしそもそも「‘‘何”が安心・安全なのか?」と言う事が全く述べられていない。もちろん、コロナが広まらないことが安心・安全であることは誰にでも分かるが、しかしどれくらい収められれば成功で、どれ以上広まれば失敗なのか?と言う事が全く述べられていないのである。つまり数学で言うところの、安心・安全の「定義」が全くなされていないのだ。このままだと、例えどれだけコロナが広まり問題になろうがうやむやにされる可能性があるし、また例えコロナが広まっても「想定内だ」と言い逃れされてしまう。つまり菅氏をはじめとする政府は、初めから言い逃れできる状況を作り出そうとしているのである。

もちろん、コロナの抑え込みに成功して大会を終えることができる可能性もゼロではない。おそらく政府もそうなれば儲けものと思っているのであろう。しかし現段階でも、ウガンダ代表のコロナ感染問題など既に問題が表面化している。しかし政府は対応を自治体に丸投げして責任を擦り付けようとしている。

そもそもトップ(首相)とはどうあるべきか?トップとは責任の最終所在地である。なので問題が起きた時、最終的に責任を取るべきなのはトップ(首相)なのである。そのために首相には最大限の権限が与えられている。つまり民主主義国家において、権力と責任はセットであると考えなければならない。しかし現首相の菅氏には、権力を振りかざすことしか考えていないように見える。「責任」とは口には出すが、口だけであって全く責任を取るようなしぐさがない。つまり「義務を果たさず、権利だけを主張する」独りよがりな老人にしか見えないのである。

改めて言うが、安心・安全の定義をはっきりさせることは非常に重要だ。これをはっきりさせないと、国民はどこを目指して取り組めば良いかわからない。つまりどれだけ自粛すれば良いのかわからないのである。そのような状況で「頑張って自粛しなさい」と言われても、従う気になれない国民が多いのも当然だ。そもそも自分の行動を背中で見せなければならない総理がステーキ会食をして政局にうつつを抜かすのが現日本の政府の実態なのである。今の菅氏の行動・発言を見れば、政治家の資質と言う事以前に、人間そのものの資質が疑われる。

評論家とは究極的に無責任な存在だ!

今メジャーリーグで大谷翔平選手が爆発している。打者としての爆発が目立っているが、投手としても半端なくレベルの高いプレーをしており、ただ単にリリーフ陣の崩壊によって勝ち星がなかなか付かないだけのように見える。現在どの評論家も大谷選手の事を手放しで褒めたたえているが、二刀流の挑戦を始めた時の評論家の発言はどれも酷いものばかりであった。代表的なもので言うと、「そんなに甘くない」「どっち付かずになってしまう」と言ったものであろう。そしてそのような発言を今見返した時、あらゆる意味であきれ返ってしまう。それは大谷選手の活躍を見通せなかったからではなく、そのような発言を見た時、どれもド素人でも言えるような発言しかしていないことに驚きあきれ返ってしまうのである。もし元プロ野球選手の評論家なら、あらゆる側面からの分析によって評論してもらいたいものであり、そのような分析でも予見できなかったとなれば我々も納得し、大谷選手の凄さをさらに実感できるのである。そう考えれば、上の二つの発言のような評論は、超ド素人レベルの超無責任発言にしか思えない。

もちろん、これまで誰もやってこなかったようなことに挑戦・開拓する人に対しては、無責任な批判はつきものである。そしてもし失敗すれば「それ見たことか」と皆が笑う。なので新しいことに挑戦・開拓する時は、困難は取り組む対象だけでなく、世間の白い目とも戦わなければならない。世の中と言うものはしばしば不条理だと言われるが、しかし不条理が世の常だからと言って平気で無責任な発言をする人に対しては僕は怒りを隠せない。僕も今、数理物理(数学・物理)の研究で、誰もが成し遂げなかった(誰も取り組んでこなかった?)ことに挑戦している。そして結果を出せる自信は大いにある。しかし周りの目はかなり冷ややかだ。確かに今までの過程を見ると、そう思われるのは仕方ないのかもしれない。しかしこれまでの過程、これまでの人生に関しては人それぞれ特有の事情があり、これまで上手くいかなかったことに関してもその人の事情があるのである。しかし今までできなかったからと言って、それはこれからもできないと言う理由にはならない。もちろんこれまでずっと成功できなかった人のほとんどは、これからもできる見込みはないと思うのが常識なのかもしれない。しかしその人の常識を他人にまで押し付けるのはやめてほしい。さらに言えば、挑戦もしない人が人の挑戦に対して否定するのは明らかにおかしいしバカバカしい。それこそ無責任の極致である。

だいたい百年に一人の人間になろうとする人は世の中にはほとんどいない。しかし百年に一人の人間になろうと努力している人に対して外野から非難するのは究極的に卑怯でもある。大谷翔平選手は百年に一人の選手になろうと挑戦しているのである。並みの元プロ野球選手にはそのような事を全く理解できないのかもしれないが、超一流メジャーリーガーのイチロー氏は大谷選手がメジャーに挑戦する時「大谷は打者ではホームラン王を取れる可能性があるし、投手としてはサイヤング賞を取れる可能性がある」と二刀流を後押ししていた。やはり超一流の選手の事は、超一流の選手にしか理解できないのかもしれない。

結果を出すまではバカと言われ続けられるのかもしれない。ならば結果を出せばいいのだ。結果を出してしまえば誰も文句は言わない。僕も今、大きな挑戦をしている。そして結果を出すまではバカと言われ続けることを覚悟している。しかし結果を出すことは僕にとってゴールではない。それは僕の人生、そして研究者としてのスタートであると考えている。結果を出して満足するのではなく、結果を次のさらに大きな結果へと繋げなければならない。そして僕は死ぬまで挑戦し続ける覚悟である。

本!本!本!

最近、かなり調子が乗ってきた。僕が調子が良い時は、一つの顕著な傾向が現れる。それは本を買いまくると言う事だ。とは言っても、数十冊も買う訳ではない。しかし数学書や物理学書などの専門書は一般の本に比べてかなり高額になる傾向がある。なので数冊買っても一万、二万円を超えることはよくあることだ。なので漫画で言うと二十冊分くらいの額になるのではないだろうか。

最近調子が良いことをいい事に、先日も本を数冊買ってしまった。僕は普段はそんなに浪費する方ではないが、専門書になると途端に金銭感覚が狂ってくる。ではなぜそのような事になるのか?それは本を買うことは自己投資だと考えているからだ。一般の人でも自己投資だと言ってお金を出すことはよくあるだろう。そしてそれらの人はおそらく僕が本に投資をする額よりも高額の投資をしていることが多いと思う。そう考えると、僕が本に自己投資するお金は極端に高額ではないのではないかと僕は思っている。

そこで最近、本をどのように買っているかと言う事を少し書こうと思う。おそらく最近は、多くの人がAmazonで本を買っていることだと思う。僕自身もここ十年くらいはAmazonで買うことが非常に多い。特に専門洋書は一般の本屋では売っていないので、Amazonで買うしかルートがない。なので数学や物理の専門洋書はAmazon一択であるが、専門和書についてはAmazonかジュンク堂の店舗のどちらかで買うことが多い。特にジュンク堂などの店舗で買うメリットは、本の実物を手に取って確認できることだろう。そして最近本屋がどんどん潰れていると言われて久しいが、そのような本屋の実店舗を支援する意味合いでも、店舗で買えるものは店舗で買うことにしている。もちろんそのような本屋を応援する意味合いなら、街にある小さな個人書店などで買う方がいいのかもしれない。しかし個人書店では専門書まで置いているところはほとんどないのが現実である。

最近、楽天経済圏に参加し始めた。楽天銀行に口座を作り、楽天カードも作った。そしてスマホの二回線目としてiPhoneのesimに楽天モバイルの回線を入れた。そのような事をすると、楽天市場でのポイント額がかなり上がったのである。なので書籍もAmazonで買うより楽天ブックスで買う方がかなりポイントが付くのである。なので最近は専門和書を買う時はAmazonから楽天ブックスにシフトした。これからは楽天ブックスにはかなりお世話になりそうである。

余談だが、ジュンク堂を利用する時はジュンク堂のアプリである「honto with」が便利である。Amazonで品切れ(絶版)になっている本でもhonto withなら全国のジュンク堂書店の在庫を確認でき、近くの店舗に取り寄せることができる。僕は最近よくこの機能を利用している。

とにかく、本は思考的活動をする上では欠かせないものである。学問を研究しようと思えば、本や論文は必須である。とは言え、確かに僕のように本を買いまくる必要はないのかもしれない。しかし本を買いまくるのが僕の研究スタイルである。もちろん専門(数学・物理)以外の本も買いまくっている。とにかく本と言う存在は僕の心を非常にワクワクさせてくれるものである。

立ったままの河野太郎氏。腰痛であるとのことだが。

国会の委員会での答弁での事だが、河野太郎氏は答弁を終えても席に戻らず、立ったまま受けると言う場面があった。普通はそのたび席に戻り官僚からのメモを受け取るなりして準備するのだが、立ったまま席に戻らないとなるともちろんそのような事はできない。すなわち河野氏はその場その場で質問に対して即座に考え答えなければならない。今回は腰痛で椅子に座れなかったとのことだが、それはともかくこれにはもちろん政治家自身の資質や才能がもろに現れる。河野氏はそのような場を難なくこなしていた。

以前僕は、「河野太郎氏は信用するに値する政治家だ」と述べた。そして今回の河野氏の答弁を見て、その確信に誤りはなかったと感じた。もちろん河野氏以外の政治家でもそのような受け答えをできる人はいるだろう。しかし様々な事を総合的に考えると、河野太郎氏こそ総理に最もふさわしい人物だと僕は実感している。

僕が今信用している政治家は二人。石破茂氏と河野太郎氏だ。そして現在の立ち位置などを考えると、河野氏こそ首相にふさわしく、また最も首相の座に近い人物ではないかと僕は考えている。河野氏は頭脳だけでなく、海外に対する様々な振る舞いなどを見ても怯むことなく明確に答えを出し対応している。そのような河野氏を見ていると頼もしくも思えてくる。

現在、五輪を開催すべきか中止すべきかと言う事で国内が揺れている。しかしさらに踏み込むと問題は五輪そのものではないと僕は考えている。問題の本質は、様々な決定権を持つ首相がどのように考えどのように結論を出すかだ。しかし現在の無策無能総理のままであれば、五輪を実行しようが中止しようが良くはならないと僕は考えている。なぜなら実行するにしろ中止するにしろ、単に決定すればよいと言う問題ではなく、様々な過程を経て様々な対処をしなければならないからだ。なのでそれを誰がするかと言う事が重要になる。もし河野氏が首相であれば、五輪を実行するにしろ中止するにしろ良い結果をもたらすだろうと僕は考えている。今後、河野太郎氏首相待望論が沸き上がって来る事は間違いないと僕は考えている。

現状打破!

最近、いやそこそこ長い期間だったが、僕はかなりの不調であった。なんとなく勢いがない。鈍い。そのような状態が続く中、僕は何とかこの状態を脱出しなければならないと考えていた。これまで様々試行錯誤を行ってきたが、解決には至らない。そして次にどうしようかと考えた時、最後の残ったのが生活の一部を思い切って変更する事であった。長年、いや、かなりの長期間続けて来た習慣を思い切って変えることにした。これまで必要だと思っていた習慣を変えることはかなりの勇気と覚悟がいるものだ。もしかしたらそれが凶と出るかもしれない。しかしもし良くなる確率と悪くなる確率が半々なら、その良くなる半分に懸けてみるしかない。しかしそれが良い方向へと向くと、僕の調子はかなり上がると感じていた。なので僕はそのような習慣を思い切ってやめることにした。

すると結果はすぐに表れた。全てが明快に見える。これならこれから良い方向へと向かい、結果も近いうちに出せそうだ。今取り組んでいる数学(数理物理)の問題がある。その問題にはここ数年取り組んでいるが、調子も良くなったこともあり、解決への見通しがついてきた。よし、結果が出るまで頑張ろう!

僕は学生時代は数学と物理だけをやっていれば良いと思っていた。もちろん今でも生活の中心はこの二つである。ただこの二つの重心は変わってきた。昔は物理の方に重心があったが、最近はかなり数学寄りになって来ている。その理由は、科学の本質がよりはっきりと見えるようになってきたからだ。科学の本質を追求して行くと、最終的には数学にたどり着く。それが僕のたどり着いた結論だ。

そしてもう一つ変わったことは、昔は数学と物理だけしか眼中になかったのだが、今はあらゆる学問に興味が出てきたことだ。科学分野でも生物学、化学、そして医学、コンピューター科学。科学以外でも歴史学、経済学などあらゆる学問が面白い。もし新しい興味を発見したらどうするだろう?その対応は大きく二つに分かれる。一つはこれまでやっていたことを止め、新たな対象に取り組む。もう一つはこれまでやっていたことに加えて、新しい対象の取り組む。そして僕は後者を選択した。なので面白い対象が次々と加わって来るので、やることが膨大になってくる。社会の定石は狭い部分に特化してまず小さな結果を出すことであろう。しかし僕はそれに完全に反旗を翻している。全てで結果を出すことに邁進することにした。もちろん全てで結果を出すことには膨大な時間がかかるであろう。しかしそんなことはお構いなしだ。面白いと思ったら何でもやるのである。そしてそれらの事で結果を出す自信はある。とは言え、根幹は数学と物理にあることには変わりない。

人間が人間である所以は何か?それは自分の頭で考えることである。なので人間は自分で考えることを放棄したら終わりだ。今巷ではAIが話題になっている。僕はディープラーンニングなどのAIのメカニズムを理解することは重要だと思っている。しかし自分で考えることをAIに丸投げすることは絶対に違うと考えている。なので僕は自分の頭で考えることにとことんこだわる。しかし社会はどんどんAIに任せようと言う方向へ向かっている。その先にあるのは人類の没落、そして滅亡ではないか!AIの開発をするのが技術者の仕事なら、AIにとことん抵抗するのは科学者、そして知識人の使命ではなか!そのためにはAIとは何か?と言う事を知りつくさなければならない。AIを知らずして、AIに抵抗できない。なのでAIの事を理解していない人ほど、AIで全ての事が解決できると思い、AIに全てを丸投げしようとする。

これから科学者、そして知識人はどうあるべきか?ただ目の前の狭い問題だけを見るのではなく、幅広い視点て包括的に物事を捉えるべきではないだろうか。

「プロ論」・大坂なおみ選手の発言について考える。

プロテニスプレイヤーの大坂なおみ選手が、試合後のインタビューを拒否すると宣言して物議をかもすことになった。テニスに限らず、確かに様々なインタビューを見ていると的外れな質問も多く、中には選手自身の人格を否定するものも存在する。そのような状況を考えると、大坂なおみ選手のようなトッププレイヤーが訴えかける事は非常に意義がある。しかし、インタビューを完全に拒絶するのは全く違うと僕は考えている。インタビューを受けることもプロ選手にとって試合を行う事と同じくらい重要な事だと思うからだ。それはなぜか?プロ選手がお金を稼げるのは直接的には体を動かしてプレーしているからではない。選手がプレーしている姿を“客やファン”が応援し、それに対してお金を投じているからだ。ファンがテレビを見ていることもスポンサーを通じてお金に変換される。そして一部のスポンサーが選手に多額の契約金を払えるのは、テレビなどに映る自社のロゴや使用している自社製品が広告となるからだ。決してプレーしている行為自体がお金を生み出しているのではない。そう考えると、インタビューも多くのファンが楽しみに注目しているのであり、それもプロとしての立派なプレーの一部と言える。

僕が大学院時代にお世話になった数学者は、当時の僕にとっては意外に思えることを言っていた。それは「自分は数学の研究によってお金をもらっているのではなく、(授業やゼミなどの)教育を行うことによってお金をいただいている」と言うものだ。もしかしたらその数学者の研究力について誤解する人もいるかもしれないので付記するが、その数学者は現在、東京大学の教授になられている世界的な研究者だ。確かに数学の研究で結果を出したところで直接にはお金には結びつかない。そういう意味では、教育によってお金を儲けているとは的を得た発言だ。

もし大坂選手が本当にプレーの技術だけを磨きたいのならば、プロになるのではなく客のいないテニスコートで黙々とプレーするしかない。そうすれば誰も口出しする人もいないし、自分の思い通りにプレーできる。しかしもちろんそれではお金は一円も入ってこない。どれだけ最強であっても、客の前でプレーしなければスポンサーもつかないであろう。すなわち大坂選手の言っていることは、「義務を果たさずに権利だけ主張している」と言える。

そして最後に大坂選手のメンタルについてだが、問題発言後になって、大坂選手がうつ状態だと言う事が言われるようになった。そのことについてはもちろん気の毒であるが、しかしプロ選手にとってメンタル面のスランプが体のケガとは別物だと言う訳ではない。もし大坂選手がうつで不調なのならば、療養などして万全の調子になって戻って来てほしいと願っている。プロの世界でうつだから大目に見てくれるなどと言う事は全くないのである。そこは自分の力で、そして時には他人の力も借りて這い上がって来るしかない。大坂選手は強靭な体を持っており、そして強靭な精神力の持ち主だ。それは大坂選手の実績が示している。ここまでかなり厳しいことを書いてきたが、僕自身も大坂選手の大ファンであり、これからもグランドスラムを制覇するような活躍をすることを強く願っているし、応援もしている。大坂なおみ選手、頑張って!