月別アーカイブ: 5月 2020

出来る気しかしない!

今は出来る気しかしない!正確に言うと、実感はないけど自信はあるのだ。出来る気しかしないのだが、それを成し遂げるためにはいくつか条件がある。それは心身共に好調を保って、そして何より努力をすることだ。このように一言で言うのは簡単だが、しかしそれを実行するのは結構むつかしい。

心身の調子は、食べ物飲み物などである程度コントロールできる。逆に言うと、そこを疎かにしては心身の調子を保てない。いくらお酒が好きだからと言って、毎日ビールを浴びるように飲んでいてはその先が見えている。僕自身もビールは大好きだが、普段は飲んでも缶ビール一本で抑えている。コーヒーもカフェインが入っているからか、意外と調子を左右される。そして睡眠にも影響が出て来る。近頃はコーヒーは健康に良いと盛んに宣伝されているが、やはりこれも適度にと言うことが重要であり、適度に嗜むのが肝である。

そのように心身の調子を整えたら、後は努力をするのみだ。しかし最近、日本では悲しむべき風潮が一部で漂っている。努力をしても必ず報われるとは限らないから、努力などしない方が良い。あるいは努力をするだけ無駄だと言う風潮だ。もちろん目標に向かっている多くの人はしっかりと努力をしている。とは言え、もちろん運と言うのも存在するが、そのような運をつかめるかどうかは日ごろの努力にかかっていると僕は考えている。なので努力をして損をするなどと言うことはないと僕は考えている。

元プロ野球選手の新庄剛志さんのことを多くの人は天才と呼ぶ。しかしそこには大きな誤解が含まれている。新庄さんと言えば見かけはチャラ男で、常に遊んでいると多くの人は思っている。そして練習もせずに遊んでばかりだが、試合になれば結果を出す恵まれた人だと思われている節がある。僕も昔、新庄選手を見ていてそのように感じていた時があった。しかし実際は全然違うのである。現役時代、他の選手がトレーニングをしている時はチャラチャラ遊んでいながら、選手が皆帰った後人一倍トレーニングをこなしていたと言う。人の前で努力する姿を見せるのが嫌いなのだそうだ。新庄選手は人一倍努力家なのである。

新庄選手を見ても分かるように、努力をしない天才などはいないのである。なぜなら努力できることが最大の才能であり、努力ができないと言うことは才能がないのと同じなのである。なので「才能はあるが努力をしない」と言う言葉は存在しない。ただ問題を難しくしているのは、成功者は皆努力をしているが、努力をしたからと言って必ず成功するわけではないと言うことだ。そのような不確実な将来に対してそれでも努力ができるか?その判断によって人間と言うものは二つに分かれるのだと僕は思っている。今僕は出来る気しかしないのだから、後は思う存分努力するだけだ!

名著を読む。

情報は絶対に新しいものの方が良い。では、書物は古いものよりか新しいものの方が良いのか?確かに多くの場合新しいものの方が良いが、古くから残っているいわゆる名著と言われるものに限っては、古いものではあるが大きな価値を保っているのである。逆に言うと、最新の書物、最新の論文と言うものは、その多くが三年で古びてしまう。言わば上辺だけの価値しかないのである。いくら最新のものが良いと言ってもそのような薄っぺらい本を読んでも得る物はあまりないし、最先端の研究結果だと言ってもすぐに古びてしまう結果などはほとんど価値はないと言ってよい。

もし何の本を読もうかと迷ったときには、迷わず名著を手にとって読めば良い。名著と言うものは、長い間の風雨に耐えてきた頑丈なものである。だから簡単には価値は下がらない。多くの研究者は最先端の結果にこだわるが、数十年前の結果であっても現役選手として頑張っている理論は沢山ある。経済学ならマルクスの資本論は絶対に外せないはずだ。どの分野でも名著は存在する。しかも名著は現在では比較的安い文庫本で手に入ったりするものも多い。(例えば岩波文庫に収納されている膨大な名著のように。)岩波文庫一冊買って、それを一年かけてじっくりと修得するのも非常に良い選択だと思う。少なくとも自己啓発本数百冊読むよりかはよほど得る物はあるであろう。

読書と言えば、多読とか速読にこだわる人が非常に多い。しかし僕はそんなものに少しも魅力を感じないし必要もないと思っている。そもそも速読多読して知識を習得するだけなら、コンピューターにでも任せておけばよい。人間には本を読むことによって何かを独創することが求められている。

なぜ軽い本ではなく重い内容の本を読むことが必用なのか?それはその重さが質の深さに直結しているからである。一冊を数時間で読み終えるような本なんて、はっきり言って何の価値もないと思っている。数学書なら一冊を一年以上かけて読み通すことが普通である。名著を読むべきと言ったが、あるいは堅い専門書を一冊読むのも良い。少なくとも、本屋に並んでいる本を何百冊読んだとか言う勘違いな読書だけは絶対にしてはならない。

近くの本屋に行ってみた。

緊急事態宣言が出てから、近くのショッピングモールも一部の店舗(スーパーやドラッグストア)を除いて全部休業していた。その間、スーパーに買い物に行くと二階から上が全てシャッターで閉まっており、いかにも感染症が蔓延していますと言うような雰囲気が漂っており、その風景を見るだけでも気分が滅入りそうになっていた。もちろん、人通りもポチポチと言うくらいで閑散としていた。

21日、ついに僕の住んでいる兵庫県も緊急事態宣言の解除が決定した。それに合わせて今日から近くのショッピングモールも全店再開することとなった。そこでさっそく三階にある本屋さんに足を延ばしてみることにした。

人通りは以前の三倍から四倍くらいあり、本屋さんもなかなかにぎわっているような気がした。もちろん現在も三密には気を付けなければいけないので、人でにぎわっていることには不安はあったが、それ以上に明るい雰囲気に心が安らぐように感じた。雑誌を手に取って眺める喜びが何よりも格別だ。やはりAmazonだけに頼っていると、必要最小限のものしか手に取れないので、いわゆる無駄(良い意味で)である一般雑誌を気楽に読めるのはありがたいものだ。

ただ緊急事態宣言が解除されたからと言って油断してはならない。ほぼ確実に第二波はやってくる。なのでマスクは手放せないし、人との距離も取らなければならない。非常に憂鬱な状況ではあるが、そのような気持ちがちょっと緩和する本屋のひと時であった。

数学は文章力を鍛えてくれる。

僕は普段から数学や物理の専門書を読んでいるが、時々何が書かれているのかわからなくなることがある。しかしその文章をよく読んでみると、数学的な理解力が問題なのではなく、国語的な理解力に問題があることに気づく。わかってしまえば何てことないのだが、文章をそのまま正確に理解すると言うことは意外と難しいものであることに気づかせてくれる。

これは特に日本語に言えることだ。英語では構文がかなりはっきりとしているので、英語に由来する間違いと言うものは圧倒的に少ないように思える。それは圧倒的に英語力のない僕が専門洋書や論文を読みこなせていることからも分かる。つまり問題は日本語にあると言える。日本語で書かれた数学書(和書)は、論理的な日本語の理解力をかなり鍛えてくれると僕は感じている。

数学書に限らず、科学の専門書を日本語訳したとたん、突然わかりにくい文章になると言う声はよく聞く。生物学・医学書においても、日本語に翻訳された専門書は日本語的におかしいと言う話はよく聞くし、もちろん数学書でも原本が洋書ならば日本語訳書ではなく原本の洋書を読んだ方が圧倒的に良い。そして専門用語も日本語に訳すのではなく、英語のまま覚えた方が圧倒的に役に立つ。(そもそも日本語訳がない専門用語も多い。)

英文学においての文章力がどうかと言うことは、とても僕には及ばない。そもそも海外の子供が読むような児童文学でさえ、語学的には科学論文英語よりもはるかに難しい。とは言え、英語は日本語に比べて構文の構成がシンプルなため、英語が苦手な僕のような者でもなんとかなる。しかし日本語は非常にあいまいであり、しかも日本人しか読まないので、おそらく著者も少し凝った表現をしたくなるのかもしれない。そして数学の和書ならば、数学的論理思考力が問われる。そのような事もあって、日本語で書かれた数学書を読むと、文章力がかなり鍛えられるように実感することが多い。日本語を知りたければ、科学的文章を読むのが非常に良いように思えるのである。

活動の幅を少し広げてみる。

現在コロナ禍によって、多くの人が究極的に活動の幅が狭くなっていることと思う。僕自身も多くの日を家で過ごし、オンラインで出来ることはオンラインでこなし、買い物に行くのは最低限に留め、ジョギングも人のほとんどいないコースを選んで走っている。現在はできるだけ外出しない、つまりStay Homeが基準だが、しかしそうは言ってもずっと家にこもるわけにもいかない。外に出ないとできないことは絶対にあるし、外出することによって建設的な生活を行うことができる。

これまで僕は、極力家にいることを心がけていたが、緊急事態宣言の解除をめどに外出の頻度を少しづつ増やそうと思う。コロナは恐ろしい存在だが、そう言って家にずっとこもるわけにもいかない。僕だってやはり本屋さんにはすごく行きたいし、街の空気も吸ってみたい。なので、コロナの危険性をしっかりと認識しつつ、活動の幅を少しずつ広げて行こうと思う。

しかし対策的には、解除前の外出より解除後の外出の方が危険性は高い。なぜなら解除前の方が外出している人間が圧倒的に少ないからだ。では一人くらい外出しても良いのではと思うかもしれないが、皆が一斉に行動を自粛してこそ効果があるのである。昨日のブログに書いたように、これからはハンマー&ダンスの状態がしばらく続くであろう。なので再び緊急事態宣言が発動される可能性は非常に高い。その時はその時でまた自粛するだけの事である。

隣の韓国では、外出解禁になって再び感染者数が増大している。そのようなダンスが起こることは日本でもほぼ確実だと言える。しかしそのようなダンスを最小限に抑えなければならない。しかしこれは、政府の宣言と言うより皆の意識によるところが大きいい。自分だけならいいだろうと言う人が多数現れれば効果は半減する。僕自身通常は非常に自分勝手な人間ではあるが、今回のコロナ禍の中においては、緊急事態宣言に従って自粛し、解除されても抑えた外出活動に留めようと思う。なぜなら人間の命にかかわることなのだから。

コロナとの共生。

現在、新型コロナによるパンデミックの出口は見えてこない。それもそのはずである。まだ人類と新型コロナとの歴史はたった半年。まだワクチンの開発も始まったばかりだし、少しずつコロナ治療に効果的な既存薬もポチポチと見つかってきつつあるところだ。しかしこのような状況が永遠に続くわけではないし、どこかで出口が見つかることはほぼ確実(97%くらい)だ。

しかしその出口がいつになるかはまだ確実に見通せてない。ワクチン開発は一年程で完成するはずだと言われているので、一年半後くらいには解決している可能性は高い。しかしそれも希望的観測である。もしかしたら数年数十年コロナとの戦いが続くかもしれない。どちらにしても、パンデミックが解決するまではコロナといかにうまく付き合うかと言うこと、つまり共生を考えなければならない。もちろん、気分の良い共生では全くないが。

では共生とは具体的にはどのような事であるか?それは一番には、感染者の数を常に医療のキャパシティ内で収めると言うことだ。最近「ハンマー&ダンス」と言う言葉が生まれている。つまりハンマー(都市封鎖によって抑え込む)とダンス(都市封鎖の解除による自由によって感染者が増加する)を繰り返すことによって、感染者の数を医療のキャパシティ内で収めるモデルだ。感染の数理モデル的に、民衆の大部分が抗体を持つまでは流行が収まらないことがわかっている。そして抗体を持つには二つの方法しかない。一つは感染すること、そしてもう一つはワクチンによって人工的に抗体を作ることだ。そしてこのように多くの市民が抗体を持つまで、ハンマー&ダンスを繰り返すことが必要になる。その間は、いかにうまくコロナと付き合うかと言うことが一番重要な課題である。

ただ、ワクチンができないと何も解決しないかと言えばそうではない。有効な治療薬が現れるという可能性も十分にあるからだ。つまり治療薬によってコロナは恐ろしい病気ではなくなり、もし感染してもほとんど死ぬことはなくなると言うことだ。しかしこれもあくまで治療のための手段であって、予防するワクチンとは役割が質的に違う。しかし近い将来、新型コロナが季節型インフルエンザ的な認識になる可能性は十分にあるし、もしかしたら天然痘のように絶滅させることもできるかもしれない。しかし楽観論だけではいけない。ウイルスには突然変異がつきものである。いつコロナが強毒化するかもわからない。未来のことは確実に見通せないが、パンデミックが終息するまでは可能な限り良質(つまり被害の少ない)共生をすることが求められる。

5Gで完結する可能性と、5Gの危険性。

今、ネットの世界(移動通信システム)が4Gから5Gへ変わる過渡期にある。5Gに対しては非常に大きな期待が寄せられ、実際に具体的な応用に対するビジョンはかなり明確であり、それらのどれを見てもかなり大きな革新が成し遂げられるように思える。具体的には自動運転、遠隔操作による医療(手術)、さらにエンターテイメントの世界において内容が具体的に詰められている。それらのビジョンがいつどのくらい現実化されるかはまだ未定ではあるが、色々な話を聞いてみるとどれも近い将来(2、3年後?)にはそれなりの形になっているのではとも感じられる。

このような5Gに対するビジョンから感じられる威力を見て、一部の世界では早くも6Gに取り組もうと言う話が出てきている。しかし僕は今から6Gに取り組むことにほとんど意味はないのではと考えている。その理由は、6Gに取り組む事に対する動機である。5Gに関しては、自動運転を始め具体的な動機が数多くある。しかし6Gを考える動機に具体性がほとんどなく、ただ現在の5Gのインパクトに刺激されて、6Gを先取りすれば巨大な利益を得られるのではと言うそれのみのように感じられてならない。それは自己啓発本を読んで大きなビジネスに取り組もうと考えることと大して変わらないように思える。

そして僕が現在思うのは、5Gでほとんどの事が完結するのではと言うことである。少なくとも現在、5Gに対する欠点は聞こえてこない。例えば4G以前の時代では、通信量の制限に関してはずっと不満の声があった。それが5Gではリミットレスになる。ただ5Gに何も問題がないのかと言えば、一つだけあると僕は考えている。それはセキュリティ問題である。24時間ネットにつながっていることから、個人の行動などがダダ漏れする危険性がある。つまり事実上、24時間監視される危険性をはらんでいるのである。ただ現在、このようなセキュリティに関する危険性の声はあまり大きくは聞こえてこない。しかし5Gが普及すれば、いずれはこのような事は問題になると僕は考えている。

なので、もし6Gを本格的に考えるときが来れば、その中心はセキュリティ問題になると僕は考えている。それはプライバシーの問題、そして自動運転などの際一番の危険性になるハッキングなどの問題である。なので6Gではビジネス的な視点だけでは全く進められないのではと僕は思っている。しかし現在一部で進められている6G構想は、ほぼ全てビジネス的観点、そして支配的観点からの視点からである。しかしもし5Gの問題を克服しようと思えば、国と言う国境は無意味になるし、階級と言う視点も無意味になるかもしれない。このように考えるとますます現在の6G構想が無意味に思えてならない。

「迷惑をかけてはいけない」の裏返し。

多くの日本人は、子供の事から「人様に迷惑をかけてはいけない」と強く言われて育ってきたのではないだろうか?日本人にとって人に迷惑をかけないと言うことは大きな美徳であり、それが立派な大人かどうかの大きな判断基準にもなっている。確かに「人に迷惑をかけない」と言う部分だけを切り取って見れば非常に良いことのように感じるかもしれないが、実はこのような考えが社会として大きな危険性をはらんでいると僕は感じている。

人に迷惑をかけないと言うことを裏返せば、それは人から迷惑をかけられることに対しては許さないと言うことでもある。実際、日本人は人からの迷惑に対して非常に厳しい。電車で子供が泣いているとあからさまに迷惑な態度を取る人が多いし、電車が数分でも遅れようなものなら駅員に対して罵倒する人も見かける。人に迷惑をかけてはいけないと言う考えは、人からの迷惑を許さないと言うことを経て、非寛容な社会を生み出している。

以前ドイツに住んでいる日本人が書いた記事を読んだが、ドイツでは人に迷惑をかけることは当たり前の事であり、日常茶飯事であるらしい。これは裏返せば、周りから迷惑をかけられても大丈夫だよと言う考えにつながる。つまり迷惑をかけたりかけられたりすることはお互い様だと言うことであり、これが寛容な社会、寛容な心を生み出しているようだ。

ヨーロッパでは電車が数分数十分遅れることはよくあると聞くが、それに対して怒る人がいるとは聞いたことがない。日本の新幹線は秒単位で制御されており、一分でも遅れると一大事のように扱われる。そのような日本の感覚でヨーロッパの電車事情を見るとびっくりするかもしれないが、その根底には寛容な思想・社会があると考えればむしろそっちの方が健全なように思える。

日本では最近、自分たちを自画自賛する風潮が強くなってきている。しかしそれは非常に危険な状況になっているサインであるように思える。新幹線の運行が正確だと自画自賛し、絆の心が美しいと自画自賛している。別に新幹線の正確さや絆の心が良くないとは全く思わないし、むしろそれは良いことであるかもしれないが、それらの心の裏を考えてみると非常に恐ろしいように思える。自分たちに同調する人たちには絆の心を持ち助け合うが、少しでも考えの違う人や違う行動をする人に対しては村八分状態である。現在のコロナ禍においてもそのような行為はニュースなどで頻繁に見かける。思いやりや絆、そのような言葉だけを切り取ると一見美しいように感じるが、実はその裏に非常に非寛容な心がべったりと張り付いていることを強く感じる。今日本人に欠けているのはまさしくこのような寛容さであると言えるのではないだろうか?

数学以外では、完璧を目指さない。

世の中には完璧主義者と言われる人たちがいる。何事も完璧でないと気が済まない人たちだ。完璧と言うと素晴らしい事のように思えるが、僕はむしろ完璧を目指すことから来る弊害と言うものは非常に大きいように思える。何事もちょっと緩い方が良いと僕は感じるのである。そもそも何事も完璧であると息苦しい。そもそも全ての事に対して失敗しない人はおそらくいないと思うし、それに失敗をすることによって気づくこともたくさんある。もし成功してしまえば(極論的に言えば)それで終わりである。失敗するからこそ次があるのである。そういう意味で、僕はどれだけ失敗し、そこから立ち上がっていくかと言うことが非常に重要だと考えている。

しかし完璧でないといけない学問がある。それは数学である。数学は完全論理の世界であり、虫の穴一つ見逃してはいけない。もしかしたら虫の穴くらいは見逃しても良いのではないかと思うかもしれないが、数学においてはその虫の穴が致命傷になることが多いのである。重箱の隅を突いているようなことが、実は重大な意味を持つ事があるのである。そして当たり前の事のように思えることが、実は全然当たり前ではなく反例が出て来る。そしてそのような反例から新しい数学が生まれるのである。

数学に比べると、物理学と言うものは幾分いい加減である。そこが良いところでもあり良くない所でもある。数学の極度な完璧性に音を上げて物理に進む研究者がいる。昔の僕も、物理の適度に緩いところが良いと思っていた。しかし今は数学の完璧性のとりこになっている。物理でも数学的な完璧性を目指す数理物理をやっているのもそういう理由があるのかもしれない。そしてそのような完璧性を突き詰めて行くと、やはり最終的には数理論理学(数学基礎論とかロジックとか言う)に行きつくのではないだろうか。究極的にはやはり宇宙と言うものを論理学的に構成したいものである。

僕は日常においては全く完璧主義者ではない。と言うよりむしろ平均的な人よりも緩いと思っている。そしてこれまで様々な数学者を見てきたが、意外と日常においては緩い数学者が多いように思える。やはり数学における完璧性と、日常における緩さを使い分けることが非常に重要だと思う。なので数学以外の事は完璧を目指さない方が良いと僕は感じている。

本とは紙ではなく情報を売っている。

最近、電子書籍を積極的に活用し始めた。初めはやはり紙の本にこだわり、電子書籍では頭に入らないのではないかとも強く思っていた。実際、電子書籍を読み始めた頃は、やはりパソコンやスマホ上で本を読むことに少し慣れなかった。しかししばらく電子で読んでみると意外と普通に読めるし、寝る前のベットの中でスマホで読書したり、さらには持ち運びにも非常に便利だ。ただ現在はコロナ禍で外に持ち出す機会はほとんどないが。

そもそも本とは紙自体を売ることが目的ではなく、本の中に書かれている情報が目的だ。もちろん、紙の本を所有することには一種の満足感を覚えるし、紙には紙の良さもある。ただ紙と電子の良さを天秤にかけた時、どちらの方がメリットがあるのかと言う問題だ。だから電子の方が良いと思えば電子を読むし、紙の本が欲しいと思えば紙を買う。

では、紙の本が良いのはどういう時か?僕は専門書に限っては紙の本が良いと思っている。パラパラとめくって全体像を確認できるし、実感としては紙の本の方が集中できる。しかし一般書に関してはこれからは電子で読んでいくことになるだろう。

昔、僕が学生時代だったころ、僕は専門書を買いまくっていた。ある意味「専門書コレクター」と言う感じであった。しかし意外にも、今となってそれらの本が威力を発揮している。数学や物理の専門書は数年数十年で色あせることはない。それどころか、最新の本よりも昔の名著の方がはるかに得る物があることが多い。当時、果たしてコレクターであって良いのか?と悩んでいたが、今となってはそれで良かったと強く思っている。しかし本の本質はその中にある情報である。だから紙の現物にこだわることは的を得ていない。 これからは、今まで集めた本に込められている情報を基に、具体的な結果を出していくために進んで行くだけだ!