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僕が筋トレとジョギングをする理由。

僕は数年前から、天気の日はほぼ毎日筋トレとジョギングを行っている。最近はスマホのアプリでも非常に便利なものがあり、ジョギングコースと距離を記録し、そして速度を計測してくれるものがある。僕はナイキのアプリを利用しているが、毎日記録が残ると非常に励みになるものだ。ジョギングの後は少しクールダウンして筋トレを行う。そしてその後、納豆と豆腐を食べてたんぱく質を補充する。そうすると意外と筋肉が付いてくるものだ。筋肉が付くと、筋トレもさらに楽しくなる。

とは言え、ジョギングも筋トレも決して楽な事ではない。楽をしたければ家で横になっていればよい。ではなぜ、僕は毎日このように面倒で楽ではないことに取り組めるのか?その理由は大きく三つある。

三つ目は体を引き締めるためだ。やはりプヨプヨしているよりも筋肉でビシッと引き締まっている方が見栄えも良い。僕はもともと痩せ型であったので、現在はちょっとした細マッチョだ。この体型はこれからもずっと維持していきたい。

二つ目は健康を維持するためだ。何事も健康でないと思いっきり取り組むことができないものだ。健康は大きな財産であり、大きな才能である。僕自身過去に調子を崩し、大好きな研究を思うように取り組めない時期があった。だからこそ今は何が何でも健康を維持していきたいと思っている。そして健康とは身体の健康だけでなく精神的な健康も含まれる。体を動かしていれば、体だけでなく精神的な調子も良くなるものだ。

そして一つ目、つまり一番重要な事と考えているのは、頭脳の調子である。学問の研究をするためには、言うまでもなく頭脳、つまり思考の調子を極限まで上げなければならない。研究に必要なのは体力と知力である。そしてジョギングと筋トレは、その両方を高めてくれる。なぜ体を動かすと頭がよく働くか僕にははっきりとわからない。もしかしたら医者は知っているのかもしれないが、最近は巷でも運動をすると頭がよく働くと言われている。そして実際、僕自身もジョギングをすると頭の働きが良くなるのである。もしかしたら、ジョギングや筋トレをすることを遠回りに感じる人もいるかもしれないが、急がば回れで実際はそちらの方が近道であり、より高く上り詰めることができるのかもしれない。

このように考えると、ジョギングや筋トレは一石二鳥どころか三鳥も四鳥もあるのかもしれない。これまで理由を三つ述べたが、やはり大きな目標があると言うことは非常に大きな原動力になっている。人生の目標を持っている人は非常に強いし、年齢に関係なく精神は非常に若いはずだ。そして筋トレによって体も若返らせることができる。このように何もかもが芋づる式に良い方向へ向かっていく。確かに現時点だけを見れば非常に厳しい状況である。しかしその先には光しか見えない。そのように明るい将来を見る力だけは誰にも負けないと思うし、実際にそれを成し遂げる自信も強く持っている。

目標があることの強み。

子供の頃は、多くの人がどんな大人になりたいかという目標があったのではないだろうか?しかし歳を取るにつれ妥協せざるを得なくなる。その理由は現実を知ってしまったから?それとも金銭的な事情?色々あるだろう。そして何より好きな事をやり続け究めることは、あらゆる意味で厳しい道である。もちろん一部の少数の人は順調に難なく進めるだろう。しかし多くの人にとって好きな事を究めることはあらゆる犠牲が伴うし、精神的にも金銭的にも非常に厳しい道となる。もちろん何の展望もなく、そして自信もなければ、単に才能がない人間で終わってしまう。しかし明確な展望があり、自信があるのなら、それに挑戦する価値は十分にある。

そして何より、目標があることはそれ自身が大きな強みになる。人間生きていれば、あらゆる困難が次々とやってくる。そしてそのたびにそのような困難を乗り越えなければならない。しかし人によってはそのような困難を乗り切れない人もいる。いや、そのような人は無数にいるだろう。しかしどれだけ困難が来ようと、次々と困難を乗り越える人もいる。ではそのような人は何が違うか?その大きな理由の一つが、目標があるかどうかと言うことであろう。大きな目標があれば、それを成し遂げるためにはどうすれば良いかと必死で考えるだろう。自然人生に対して前向きになる。前向きか後ろ向きかと言うことは、これからの人生を大きく分けることになる。前向きだと40歳を超えようと人生これからだと思えるし、後ろ向きだと20歳であろうがこれからの人生は惰性で生きて行くことになるだろう。

なぜこんなことを書いたか?それはまさしく僕の置かれた状況がかなり危機的であるからである。しかし危機的であるからと言って、それは絶望的であると言うことでは全くない。希望も自信も絶大に持っている。ただ現時点だけを見れば危機的であるに過ぎない。今を乗り越えれば、その先には大きな世界が待っている。現在の社会もそうではないだろうか?今世界がコロナで危機的状況に陥っている。しかしそれは将来に対する絶望では決してない。もちろん人によってはコロナによって将来が絶望的だと言う人も多いだろう。もちろんそれは生き方の違いだと言うふうには簡単に片付けられない。しかし追い詰められた時こそ火事場のクソ力と言うものが発揮される。少なくともぬるま湯に浸かったままでは現在の危機的状況を乗り越えられない。

それは僕だって同じだ。最近ぬるま湯に浸かり過ぎていた。一年二年かけて完成できればよいと言う甘い認識があった。確かにまともに考えれば五年十年、いやそれ以上かけてもできる保証はないことだ。しかし僕はこの現在の6月から8月までの2か月ちょっとで何とか形にしようと思い始めている。それこそ脳の火事場のクソ力だ。しかし今はそうすべき時ではないだろうか?それができないと、現在の社会状況に対してとやかく言う資格は僕にはない。

コロナで社会はどう変わるか?

今年になって、社会は、そして世界は大きく変革してきている。それは良い意味でも悪い意味でも大きな変革だ。もちろん現時点だけを切り取って見ると、ほとんどネガティブのような事柄しか見えない。しかし少ないながらも、ポジティブな変革も見え始めている。そしてそのような少数のポジティブな変革が、今後数年数十年にわたって大きな波となるのではないだろうか?

一番目に見える変化は、仕事のオンライン化、そして街のスーパーやショップで取られているレジなどの前のビニールシートによる隔離だ。仕事のオンライン化は想像もしないような職種にまで広がっている。もしコロナがなければオンライン化など1%も考えなかった職種まで、ありとあらゆる分野まで広がっている。このようなオンライン化は果たして一過性のものなのだろうか?否、これはコロナ禍が去っても多くの職種で根付くであろう。そもそも当たり前のように思っていた通勤と言う概念も、必ずしも必要なものではなかったことが明らかになって来ている。もちろん今後、オンラインから元の対面式に戻る職種もあるだろう。しかし半分くらいはオンラインのまま存続するのではないだろうか?

先日、病院に行く機会があった。小さな診療所だがそこでは医者と患者がビニールシートで隔離されていた。果たしてそこまでする必要はあるのかとも思うかもしれないが、病人と日常的に関わる医者にとっては命に係わる死活問題だ。現在はコロナ対策と言う意味合いがほとんどだが、コロナ禍が去った後でもインフルエンザなどの感染症の予防には大きな威力を発揮するであろう。なのでこのようなビニールシートによる隔離は今後定着していく可能性はおおいにある。

コロナは人々を追い詰め、大きな脅威をもたらしてきた。しかしそれによって人々はこれまでの常識を考え直し、それが常識ではなかったことに気づくこととなった。そしてそのことが次代に向けて大きな変革の波となって行く。コロナで没落する人もいれば、コロナがきっかけで大きく成長する人々も出て来るだろう。そこには常識にこだわるか否かと姿勢が大きく影響してくる。常識にこだわり現状維持にこだわり続ければ、長期的には必ず没落していく。常識を疑いリスクを取って未知の世界に飛び込むことが、危機的状況を脱するには必ず必要だ。さあ、僕もこれからどんどん未知の世界に飛び込んで行こう!

全てにおいて、結果を出すと言うことが大前提。

今、自分の事において夢とか理想、そして大きな希望はあるだろうか?僕は夢も理想も希望も、とてつもなく大きなものを抱いている。子供の頃であれば夢と言うものは見るものであると言う側面は大きいが、大人が見る夢は必ず成し遂げるものである。そうでないと、単なる夢見る乙女になってしまう。

では僕はそれらの夢に対してどこまで成し遂げられているだろうか?確かにまだ結果は出ていない。そういう意味では結果ベースで考えると0%と言えるかもしれない。しかし構想は確実に形成されており、成し遂げるための準備は粛々と進められている。そういう意味では進捗状況は数十%進んでいると言える。もちろん僕自身の意識においては、80%くらい成功すると言う自信はある。後はどう残りの20%を埋め合わせるかだ。

結果を出すためには努力は絶対に必要だが、しかし努力と言ってもただ単に問題に取り組むだけの努力だけではない。体調や頭脳を整える努力。特にいかにしてストレスを押さえるかは僕にとっては深刻な問題である。研究を実行するためには、もちろん体力も重要である。そのような体力を付けるために、ジョギングや筋トレなどによって体作りも怠ってはならない。

もし自己満足だけで十分なら、自分の世界に入り込んで気分に浸るだけで良い。しかしそれを世界に示すためには結果を出すことが全てだ。結果を出すか出さないかは百かゼロである。結果を出すためには時にはリスクにも飛び込んで行かなければならない。金銭的なリスク、そしてそれこそ人生が成り立つかどうかと言うようなリスクまでさまざまなリスクが存在する。僕は金融投資というリスクには全く興味がない。しかし人生に対するリスクは誰よりも取っていると自負している。日々山あり谷ありと波があるのでいつ成し遂げられるかと言うことはなかなか言い切れないが、近いうちに一発目の結果を出せるように全力で前進して行こうと常に取り組んでいる。

物理と化学を繋ぐ。

以前の僕は専門バカと言ってよく、専門の数学と物理以外はほとんど取り組むことはなかった。しかし最近はいろいろな分野にも手を伸ばしており、その中の一つとして化学にも取り組んでいる。しかし化学の醍醐味はある意味実験にあるともいえるが、もちろん僕には実験を行う技術も施設もない。なので化学と言っても理論分野に限られる。しかし理論だけでもかなり広がりがあり、やる価値は十分にある。

理論化学の中でも特にやりがいがあると思われるのは量子化学である。量子化学とは名のように量子力学を化学の理論に持ち込んだものである。すなわち物理学(量子論)と化学を融合し繋ぎ合わせる分野だと言える。このように他分野同士を結び付けると言うことは非常に重要な視点である。福井謙一博士は化学理論にいち早く量子力学を持ち込んだパイオニアで、その功績によってノーベル化学賞を受賞されている。

最近の科学理論は極度に細分化されていると言われている。同じ物理学の研究者同士でも、隣接分野の事になると全く理解していないと言うこともよくある。もちろん研究的教養のある研究者は、他分野の専門家以上の知見がある人も中にはいる。研究者にとっては科学の研究は仕事である。そう考えると自分のテリトリーの中で結果を出し、それによって自分のポジションが確保できれば良いと考えるのも無理はない。しかしそのような研究者は所詮その程度だと言うだけである。

僕はこれまでジェネラルサイエンティストと言う言葉を何度か言ってきた。つまり全ての科学分野に対してその分野のスペシャリスト以上の知見を有する科学者の事だ。もちろん、ジェネラルサイエンティストになれるのは、科学者のうちのさらに一部だと思う。しかしそれに挑戦することは非常にエキサイティングなことである。しかしそれを達成するまでは、あらゆる意味で苦しい状況にさらされる。しかし挑戦の先の極限を目指せば自然にそこへ辿り着くのであって、本当に科学に人生をささげて挑戦するのならば、そこを目指すしかない!

語学も究めようか!

僕はこれまで典型的な理系人間で、語学に関しては極度の苦手意識しかない。英語でさえ平均的な高校生よりレベルは確実に低いし、大学時代第二外国語として取っていたフランス語に限っては、出席だけ取って教室の後ろの扉から逃げ出す有り様だった。今でもなぜフランス語の単位が取れたのか不思議である。

英語が苦手だと言っても物理や数学の論文や専門書は英語で書かれているので、専門の英語だけは何とかなっている。科学論文と言うのは世界中のあらゆる人、つまり英語が母国語ではないインド人や中国人、そしてもちろん日本人の研究者も読むので、誰が読んでもはっきりと意図が伝わるように極度に簡単な英文法で書かれているので僕でも読めるのだ。ただし専門用語は覚えなければならないが、大学院生時代に洋書を読み込んだので用語はむしろばっちりである。

最近、あらゆる分野に対して興味が湧いている。数学と物理は専門なので言うまでもないが、生物学、化学、地学などのあらゆる科学分野をはじめ、日本史や世界史や経済学などにも最近は取り組んでいる。数理物理の研究がなかなか進まない時に、世界史などの教科書を読むとちょっとした気分転換にもなる。そして最後に残ったのが語学だ。

昔は英文を見るだけで蕁麻疹が出そうになるくらい苦手意識があり、そして言うまでもなく大嫌いであったが、最近あらゆる分野に取り組んでいくうちに何だか語学にも取り組みたい気分になってきたのだ。もちろん語学を専門にしている研究者のようにはなれないとは思うが、少なくとも苦手意識をなくし得意分野にしたいと思うようになった。昔の数学の論文の中には、フランス語やドイツ語で書かれた有名な重要論文があり、それらの論文を読むことができれば非常に面白くなるのではと思うのである。大数学者、岡潔博士の書かれた一連の重要論文は、なぜかフランス語で書かれていたりする。そして代数幾何学のバイブル、グロタンディークの書いたEGAはもちろんフランス語である。

人間と言うものは進化するものだと僕は思っている。いや、子供の頃より大人の自分の方が進化していないと恥ずかしい。しかし現実は惰性で生きている人間も多いように感じる。僕がこのように語学に取り組もうと考えるようになったことも一つの進化である。そしてその進化は専門の研究にも好影響を与えるに違いない。プロ野球選手ならば、肉体の衰えによって遅くとも40代で引退するのが普通である。しかし人間の脳は進化する。人によっては老化する人も多いではあろうが、40代になっても進化し続ける人間もいることを僕は示したいと思っている。そのうちの一つの取り組みとして、英語やフランス語などの語学を今からでも究めたいと考えている。