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五輪開催だけが菅首相に評価をもたらすのか?

今、五輪を開催すべきかどうかと言う事で世間が揺れている。しかし揺れているのは「世間」であって、政府にとってはどうやら「開催ありき」の選択肢一本しかないようだ。もし五輪を開催しそれが成功すれば、政府そして菅首相の評価はうなぎのぼりになるであろう・・・。とは僕は思わない。そもそも現在の民意は五輪回避にすべきだと言う意見であるように思えてならず、もし菅氏が五輪を強行すれば菅氏は民意を無視したと言う事になる。しかも菅氏は「五輪開催=成功」と言う等式しか眼中にないように見えるが、しかし「五輪開催→失敗」と言う事も十分にあり得る。最悪は、「五輪開催→コロナ患者が急増→五輪中断」と言うパターンであろう。五輪失敗に終われば菅氏の政治生命は完全に断たれるわけであるが、では何をしてもダメなのかと言うとそういう訳ではない。現在の状況であれば、「五輪開催断念」と言う決断をすることは、五輪を強行すると言う決断以上に英断と言えるだろう。

菅氏にとって、国民の命より五輪開催による自身の支持率向上の方が重要なのか?そう思えてならない。緊急事態宣言が5月11日までと言う非常に中途半端なのも、その直後のIOCバッハ会長の来日に合わせてのものだと言われている。これまでの緊急事態宣言もそうだが、菅氏の決断は何もかもが中途半端に思えてならない。結局二兎追って一兎も得ずと言う事になるのではないだろうか?そもそもこのような国民の事を考えない政治家が首相になること自体、完全に間違っていると僕は強く思っている。

もちろん五輪を強行して成功する可能性も十分にある。そして菅氏はそれを期待して強行しようとしているのだろう。ではそのような可能性があるにも関わらず、なぜ多くの国民は菅氏の判断に従えないのか?それは菅氏の後ろ姿に誰もついていけないと言う事であろう。僕は意外に大きかったのは、菅氏のステーキ会食問題であったと考えている。たかが一会食だと思うかもしれないが、トップは自分の行動によって国民に取るべき道を示すべきであるのだが、そのトップがそのような姿しか示せないようであれば誰もそのようなトップについて行こうとは思わない。

今回の五輪開催の問題は、それが成功するか失敗するかに関わらず、菅氏が国民の方を全く見ていないと言う事を示すものであった。僕は必ずしも五輪を否定しようとは思わない。選手にっては4年に一度の五輪であって、その一度に人生を懸けている選手も少なくないであろう。しかし首相が実行を決断するのであれば、その根拠を明確に示すべきである。「強行したらたまたま成功した」と言う事でしかないのなら、例え五輪が成功しても菅氏には誰もついて行こうとは思わない。菅氏は「五輪が成功すれば、皆自分を支持する」と思っているようだが、僕はそれは全く違うと考えている。成功した暁に支持率を高めようと思うのならば、その開催強行の根拠を示さなければならない。そうでないと開催しようがしまいが菅氏にとってはこれからは茨の道になるであろう。

スマホ後の革命ツールは自動運転車だ!

ここ十年程、社会の革命はスマホが担ってきた。スマホの性能は格段に良くなり、革命的スマホツールがいくつも現れ我々を驚かしてくれた。しかし現在はどうだろう。CPUの性能がどれだけ上がっただとか、カメラの画素数がどれだけ上がったとか毎年話題にはなるが、しかし一般ユーザーとしてはそのような性能向上を実感できることはほとんどなく、一部のガジェットマニアとガジェットレビューアーが喜んでいるだけに見える。もうスマホの革命は頭打ちであり、一般ユーザーもこれまでのように性能アップを望んでいないように思える。

ではスマホ革命後のこれから、世の中を変えるツールは何か?それは間違いなく自動運転車だと言える。自動運転車は単に自動で運転してくれるだけでなく、考えれば考えるほど、想像すれば想像するほど夢があふれてくる。では自動運転車の何がそこまで夢を見させてくれるのだろうか?

まず必ずしも家にいる必要がなくなる。そして移動するにも、そして通勤するにしても、朝起きてそのまま車に乗り込み、車の中で着替えをし食事をすればよい。一人で乗れば他人の目を気にする必要はない。そして目的地に着くまでiPadで読書や情報チェックができる。そして夜は飲み屋でたらふく飲み、無人の自動運転車に迎えに来てもらい家まで帰ることができる。学生なら自動運転車に学校まで送ってもらい、帰る時には無人の自動運転車を呼び出せばよい。

しかしこれらの事だけなら従来の車から運転者がいなくなっただけの話だ。実は夢はさらに広大だ。一言で言えば「車に住む!」、これが究極であろう。最近ホンダのレジェンドと言うセダンの車がレベル3の自動運転を実現したことが話題になった。しかし例えレジェンドがレベル5の完全自動運転になったとしても、車に住むのは難しいであろう。僕が想像しているのは、マイクロバス級、あるいはそれ以上の大きさの自動運転車に住むことだ。バスくらいの大きさがあれば書斎もベットもおけるだろう。そしてトイレも完備すれば完璧だ。そうなればもう家など持つ必要はない。もし家でゆっくりとしたいと思えばその時だけホテルにでも泊まればいい。

とは言え、車に浴室を付けるのは難しい。もしかしたらトイレを付けるのも嫌だと言う人もいるかもしれない。洗濯機を置くことも難しいだろう。そこでだ。そのような自動運転車で暮らす人たちのために「自動運転車ステーション」を至る所に作ればいい。自動運転車ステーションには銭湯やトイレはもちろんあり、クリーニング店を併設してそこで洗濯してもらえばよい。もちろん車がステーションに入れば自動課金される。そして全てのステーションに水素ステーションを完備すれば、水素燃料車も普及するだろう。今日は鹿児島のステーション、そして寝ている間に翌日には仙台のステーションに着くと言う事も夢ではない。

こうなれば、車に住むのは家がない人だと言う固定観念が崩れる。いやむしろ、お金がある人の方が積極的に車に住むかもしれない。住所不定、いや、住所は車!そんな生活が訪れることを僕は夢見ている。アップル社はiPhoneを世に出しスマホ革命を起こしてきた。そして現在、またもやアップル社による自動運転車の計画が世に知られるようになり革命を起こそうとしている。僕は数年後に出される「アップルカー(iCar?)」は間違いなく人々の生活様式を変えてくれると考えている。アップルカーが発売されたときには、真っ先に僕もアップルカーを購入できるようにお金を貯めておきたいと思う。そしてゆくゆくはアップル製自家用自動運転バスの中に書斎や寝室を完備して住みたいと思っている。このような世の中に大きな夢を感じるのは僕だけではないはずだ!

メリットとデメリット。

現在、ワクチン接種をするかどうかの判断が問題になっている。ワクチンに限らず、どんな薬でもどんな医療でもリスクはつきものであり、少なくともゼロリスクと言うものはあり得ない。そこでそのようなリスクをどう評価するかが問題になってくる。するか?しないか?の判断を下すとき、人間なのでどうしても感情的な事やイメージなどが入り込んでくる。そのような事抜きで判断する事は実際非常に難しいことだ。しかしそのような判断をするときに最も大事なのは、メリットとデメリットを天秤にかけてどちらが大きいかと言う事を比較することだ。

何度も言うが、ゼロリスクと言うものはあり得ない。道端を歩いていても、車が突っ込んでくる可能性もゼロではない。しかしほとんどの人はそんな危険性など考えずに気軽に道を歩き回っている。それはなぜかと言うと、道を歩いて事故に遭う危険性と、家に籠って自由に歩き回れないデメリットを無意識に比較しているからだ。そしてほとんどの人は、家から一歩も出ないことによるデメリットの方が大きいと判断する。さらに言えば、家に車が突っ込んでくる可能性もゼロではないので、家にいることが必ずしも安全だとは限らない。

ワクチンのメリットデメリットを判断する時に最も重要になるのは、副反応(副作用)が起こるかどうかではなく、どれくらいの確率で副反応が発生するかだ。この確率が高ければワクチンの危険性が高いと言う事なので、接種しないと言う選択肢も十分にあり得る。しかし重篤な副反応が100万人に一人の確率で発生するとどうだろう。この100万に一人と言う確率はそのままではイメージしづらいが、満員の甲子園の収容観客人数が約5万人なので、甲子園を20個満員にしたときその中から一人発生すると言う事だ。2020年の交通死亡事故人数が2839人なので、去年交通事故で死亡する確率は、約42000人に一人ほどだ。そして2021年4月10日時点の情報では、コロナによる国内死亡者数は9364人。これを割合で表すと、国民約13000人に一人である。現在アストラゼネカ社のワクチンによって血栓ができると言う副作用が報告されているが、その割合は(イギリス国内の統計では)約2000万回接種して死亡者が19人。なので単純に計算して(一人二回接種することを考慮して)約50万人に一人である。なのでコロナに感染して死亡する危険性の方が圧倒的に高い。

そしてもう一つ大事な事は、副反応と思われるものが本当にワクチン接種と因果関係があるのかと言う事である。ワクチンを接種しなくてもその時期に死亡する人は当然存在する。そのような人が偶然ワクチン接種の時期と重なったと言う可能性は十分にありえる。もちろん100人くらいの集団ならそのような可能性はほぼ皆無と言っていいが、数千万人の集団接種となればそのような人が何十人と出て来る事はむしろ当然のことである。なのでワクチンとの因果関係ははっきりと追究しなければならない。そしてメディアには、単にワクチン後に死亡したと言う事例をセンセーショナルに伝えるのではなく、因果関係がどれくらいあるのかと言う事をはっきりとさせて正確な情報を伝える義務がある。もしメディアが視聴率だけを考えて因果関係がはっきりしない死亡例をセンセーショナルに伝え続けてしまえば、結局最後には国民の首を絞めることになる。

今国民一人一人が、メリットデメリットを正確に判断できるかと言う判断力が試されている。学校で習う勉強が実際には社会で全く役に立たないと言う声をよく聞くが、ワクチン接種の判断をする上では大アリなのである。生物学的な知識、社会的な知識、そして何より数学的(特に確率的)な思考力が大きくものを言ってくる。そのような知識を総動員して正確な判断が出来ないと、回り巡って自分の不利益として跳ね返ってくる。それはもしかしたら命にかかわることかもしれない。そのように考えると、基礎的教養としての学問がいかに大事かと言う事が思い知らされる。