月別アーカイブ: 9月 2016

「どちらが良いか」ではなく、「どちらがより悪くないか」という判断も大切だ。

最近、高速増殖炉「もんじゅ」を廃炉にするという方向性が決まったようだ。もんじゅについては既に一兆円以上のお金がつぎ込まれており、今まで引くに引けない状態だったのではということは容易に想像つく。しかし、大金をつぎ込んだからやめるのはもったいないという考えでズルズル引きずれば、損失は大きくなるばかりだ。

このもんじゅについての判断で欠けていたのは、「どちらがより悪くないか」という判断ではないか。「どちらが良いか」という判断は、精神的にも比較的判断しやすい。しかし窮地に立ち判断を迫られたとき、どちらがより悪くないかという思考をするのには勇気がいる。どうしてもそれまで取り組んできたことを引きずりがちになってしまうからだ。

この様な判断は、もんじゅについてだけではない。一般によく言われていることでもあるが、選挙でも同じことである。どの候補に投票しようかと考えた時、まずどの候補がより良いかという判断をしようとする。しかし多くの場合、良いと思える候補が一人もいない。そこで「どの候補もいいと思わないから投票しない」ということではなく、「より悪くない候補に投票しよう」と思うことが大事だ。そのほうがはるかに積極的で建設的な行動である。

現在、若者の投票離れ、政治離れが問題になっている。政治に関する関心は、教育と密接に関係している。学校では政治の仕組みについては詳しく学ぶであろう。そして「良いと思う候補者に投票しなさい」と。しかしなぜ一言「良いと思える候補者がいない場合は、より悪くない候補者に投票しよう」と言えないのか。このような思考の欠如が巡り巡って、もんじゅに対する対処判断にまで影響している。

もったいないとかいう感情的判断ではなく、何より建設的論理的判断をすることが必要である。そしてそれを行動に移して意思表示をする。そのようなことをしっかりすれば、権力をもった老人が若者を見下す態度も少しはましになるであろう。

二兎追い二兎仕留める大谷翔平の凄さ。日ハムの優勝を完封で締める。

9月28日、プロ野球の北海道日本ハムファイターズがリーグ優勝を決めた。先発のマウンドに上がったのは大谷翔平。その大谷は最後までマウンドを降りることはなかった。まさしくパーフェクトと言っていい完封勝利だ。

それにしてもこの若者はいったい何者だろうか。普通は一つのことに打ち込み頂点にのぼるのが最高だと誰もが思うだろう。しかしこの若者はそれよりも上があることを示した。二つのことに挑んで、両方で頂点を取る。現在のプロ野球で最高のピッチャーが大谷であることを疑う人はいないだろう。そして打者としても最高レベルである。その大谷が「完封」で優勝を決める。もう、何か持っているというレベルの話ではない。

大谷がドラフト1位で日ハムに入団した当時、専門家たちは誰もが二刀流で極めるのは無理だと断言していた。名将野村元監督でさえ絶対に無理だと断言していた。しかしただ一人二刀流の可能性を信じていた人がいた。大谷を入団へと導いた日ハム・栗山監督だ。まさしく大谷の二刀流は栗山監督あってのものだといっても言い過ぎではないだろう。

ただ、大谷の成功を見て、普通の人が二刀流に挑戦するのはほとんどの場合無謀だろう。もちろん、普通に二つのことに取り組むというレベルのことならあり得るかもしれない。しかし、二つで頂点を極めるとなると話は別だ。

野球界に限らず、大谷翔平のように二刀流双方で頂点を極めた人は思い浮かばない。大谷の後に大谷は生まれないような気もする。大谷翔平の二刀流は、今まで誰もが想像しなかったことだ。

我々はまず一つのことをコツコツと進めていくしかない。そこで才能がかなりあり、限りない努力をすれば、一つのことで頂点を狙える可能性が出てくるかもしれない。調子に乗って二刀流で頂点などということは考えない方がいい。二刀流で頂点は、大谷翔平に任せよう。

われわれ外野は調子に乗って、「メジャーでも二刀流で頂点を」と欲を出してしまう。しかし、この大谷翔平という若者なら無理ではないかもしれない。こんなことを考える僕はバカであろうか。

なぜ、医学・生物学関係は不正(捏造)論文が多いんだ?

20日の読売オンラインで、22本の論文において不正操作されていたという記事が載っていた。東大を中心とする、医学・生物学関係の研究に関してのことだ。

ところで不正論文・捏造論文と言えば、最近は(今に始まったことではないが)、医学・生物学関係と相場が決まっている。これらの分野の成果が本当かどうかを確かめるためには実験をするしかなく、また他研究機関による追実験においても、技術的な問題や誤差などの問題によって、再現できなかったからと言って必ずしも論文が嘘だとは言い切れない。そこに不正の温床があるのだろう。

僕は大学から大学院にかけて数学・理論物理関係の勉強・研究をしてきたが、これらの理論系においては計算・論理をたどれば(原理的には)誰もが成否を判断でき、不正の余地がほとんどないといってよい。とは言え、誰もが計算・論理をたどれば判断できるといっても、これが一筋縄でいかないことも多い。世間でも話題になった、ペレルマンによるポアンカレ予想の解決、ワイルズによるフェルマー予想の解決に関する論文に関しては、それが正しいと判断されるまでに世界トップクラスの数学者が審査しても1年以上かかっている。

この様に、分野が違えば状況も全く異なるので、とやかく医学・生物学の世界のことを言うべきではないのかもしれないが、少なくとも論文不正をするような研究者は研究をする資格はないと断言できる。もちろん間違いはよくあることだ。しかし故意による不正は断じて許せない。

人間の臓器と、セイコーの時計に共通する機構と精神。

山中伸弥先生と山中先生が発見したiPS細胞に非常に興味を持っており、先日、iPS細胞の現状を解説する動画を見ていた。iPS細胞の話はいつ聞いても非常に将来性のある、非常に魅力的な科学技術だ。改めてiPS細胞の凄さと山中先生の成した偉業に感嘆した。

ところでiPS細胞は万能細胞であるから、心臓や筋肉の細胞にも分化できる。しかし心臓や筋肉は鼓動や運動を行うわけであるから、何かしらの刺激を与えて動かしてやらなければいけない。その信号が電気信号である。

脳からの指令は電気信号として目的の臓器へと伝わる。iPS細胞から作成された臓器の卵にも、電気信号を与えることによって鼓動などの運動をさせることができる。即ち人間の体は電気信号によって高度に制御されているのだ。

この様な話を聞いてふと思い出したのが、日本が誇る世界的時計企業セイコーの腕時計だ。時計の歴史は簡単に言うと、昔からある機械式、1960年代にセイコーが開発して一気に腕時計の主役に躍り出たクォーツ式がある。ゼンマイで動く機械式に対して、電気信号で非常に正確に制御をしているのがクォーツ式である。

そしてセイコーは1990年代、機械式とクォーツ式のいいとこどりをした新機構「スプリングドライブ」を発明した。簡単に言うと、動力はゼンマイから得て、その動力によって微弱な電流を起こし、クォーツ式の原理で制御しようと言うものだ。これは世界でもセイコーにしかできない画期的最先端技術だ。(最近になって、ピアジェが似たような機構を開発した。)

ところで人間の臓器とセイコーの時計をなぜ取り上げたかというと、この「繊細な電気信号で動きを制御する」という機構が臓器と時計で非常に似ていると感じたからだ。物を作るだけなら作れるかもしれない。(いや、実際は時計を作るのは非常に難しいが。)しかしそれを自分の力(すなわちゼンマイ)で電気信号を起こし、制御するという機構は、時計界ではセイコーだけが、そして医療界では日本発の技術であるiPS細胞が大きくリードしている。

この時計作成と臓器作成、全くの異分野に思えるが、その根底に流れる思想の一部は共有しているのかもしれない。これこそジャパニーズスピリット、世界をリードする原動力である。

20年後の情報社会のリーダーになりたいのなら、「量子情報技術」に注目だ!

現在、情報社会を生き抜くため、あるいは高いポジションに就くためには、情報技術・コンピュータースキルは欠かせないと言われている。特に最近の親たちは、子供たちにコンピュータープログラミングのスキルに力を入れることに必死になっているようだ。コンピュータースキルの重要性は明らかだ。

しかし、一般の市民がコンピューター(パソコン)を買えるようになった1980年代はどうだったであろうか?当時パソコンは一部のマニアの間での機器でしかなかった。それに当時数十万円するパソコンに価値を見出せる人はほとんどいなかった。それから30年以上経ち、一般家庭にパソコンが行き届き、さらにスマートフォンのようにコンピューターが携帯できる時代になり、ようやく市民も情報技術・プログラミングスキルの重要性に気づき始めた。とは言え、それらの人たちも情報技術・プログラミングそのものの知識をどれだけ持っているかと言えば多少疑問であり、「プログラミングブーム」に流されている感もぬぐえない。

20世紀中ごろ、コンピューターの黎明期にあったような状況が、現在も起きているのではないかと僕は思っている。それは何かというと「量子情報・量子コンピューター」の分野である。はっきり言ってこれまでの「古典的情報・コンピューター」は成熟の域に達し、原理的部分は完成しきっており、市民はパッケージングされたソフトやアプリなどの末端的操作のスキル向上に励んでいる。

しかし量子情報・量子コンピューターは全く違う。量子分野では基本的素子を作る技術でさえまだまだ初歩的段階であり、現在は技術より理論が大きく先を行っている。逆に言うと、量子的な技術はこれから爆発的に発展する可能性があり、今から量子情報・量子コンピューター技術に取り組めば二世代先のトップランナーになれる可能性があるのである。その頃になっておそらく一般市民は量子の重要性に気づき、「量子プログラミングブーム」が起きるかもしれない。しかし現在は20世紀中ごろのコンピューターと同じように、市民はほとんどその可能性に気づいておらず、子供に量子情報技術を身につけさせようという親は全くといって存在しない。

現在ほとんどの人が可能性に気づいていないからこそ、量子情報技術の分野には大きなチャンスがある。さらに黎明期から取り組めば、根本的技術に対する知識の理解度も全く違うので、他と大きく差を付けられる。

もちろん、現在はまだ量子コンピューターは存在しない(量子コンピューターもどきと言われるものは存在する)。量子コンピューターを完成させるという大きな夢を持てるのも、現在の子供たちの大きな特権だ。

これから20年後・30年後には必ず量子の時代がやってくる!

努力することは素晴らしく、何かを成し遂げるためには必須だが、美化されるものではない。

何かで成功を収めるためには、何かで勝つためには、努力は避けて通れない道だ。多くの分野において、努力は必須のものである。もちろん個人差はあるが、努力は成功の出発点だ。

とは言え、努力をしたからといって、必ず成功するとは限らない。しかしその逆は言える。つまり「成功した人は必ず努力をしている。」

もうずいぶん前の話になるが、当時中学生だった岩崎恭子さんがバルセロナオリンピック競泳で金メダルを取った時は衝撃的だった。しかし岩崎さんに大人から浴びせられた言葉は冷たかったという。「努力をしないで金を取っても価値がない」「苦労もしないで」というような類の言葉を浴びせられたという。少し考えれば、岩崎さんが「努力をしないで」なんてことはありえないということくらいはわかるはずである。なんと愚かな大人たちであろうか。努力というものは、人に見せるものではない。人の見ていないところでコツコツとすることが努力である。

努力したからと言って、必ず結果がついてくるとは限らない。そこが単純ではないところであるが、しかし努力をしないと出発点にも立てないのである。

岩崎さんに冷たい言葉を浴びせた愚かな大人たちは、おそらく努力を本気でしたことはないのではないかと疑ってしまう。それとも「苦労」を努力と勘違いしているのか。愚かな大人たちには、努力の大部分は他人には見えないと言うことくらいはわかって欲しいものである。とは言え、努力そのものは美化されるべきものではない。成功者に対して後から勝手に美化されているだけなのである。

それから最後に一言、

「努力をバカにするな!」

オバマ氏、フィリピン大統領に一本取られたか。自首の順番待ち状態。

「現在、フィリピン大統領が国内の麻薬撲滅運動で、殺害も含む非常に激しい取り締まりを行っている。その激しさに、人権問題に敏感なアメリカのオバマ大統領が注文を付け、それに激怒したフィリピン大統領がオバマ氏を激しく罵った。それに対して、オバマ氏はフィリピン大統領との首脳会談をドタキャンした。」

上記のようなニュースが現在メディアを沸かせている。確かにフィリピン大統領の強引かつ残虐な取り締まりには、人権的に問題がある。しかし取り締まりのあまりの激しさに、フィリピンでは麻薬取引関係者の自首が殺到し、自首の順番待ちが起きているという。半分笑い話のようだが、フィリピン大統領の劇薬は非常に強烈な効果があったようだ。

確かに麻薬取引関係者に対する見境のない殺害はどうかとも思うが、麻薬取引関係者・マフィアによる治安悪化を考えれば、取り締まりによる治安向上による一般住民のメリットは非常に大きいかもしれない。おそらく麻薬関係マフィアによって多数の市民が毎年殺害されていることが推測されるからだ。

これに対してオバマ氏は内政干渉ともとれる注文を付けたが、現在の自首の順番待ち状態はフィリピン大統領の政策の劇的効果を表し、オバマ氏も一本食らわされた感がする。

「毒をもって毒を制する」という手段に出たフィリピン大統領、どこか次期アメリカ大統領候補のトランプ氏と似た臭いがするが、二人の写真を並べると顔もそっくりに見えるのは僕だけであろうか?

保育園建設問題。幼児が幼害なのか、老人が老害なのか、それとも・・・

近年の保育所待機児童問題に関連して、最近、保育園建設問題が各地で発生しているようだ。保育園建設予定地周辺住民が、幼児の声が騒音になると建設を反対しているようだ。もちろん周辺地域の幼児を抱えている親たちにとっては保育園建設にはすがる思いを抱いているようだが、多くの住民、特に静かな環境で生活したい老人たちには「騒音問題」以外の何物でもないようだ。

確かに幼児の甲高い声はうるさいととらえられるかもしれない。実際、子供の声は非常に気になる周波数の音らしい。しかしだからと言って幼児・子供の存在を「幼害」ととらえるのはいかがなものだろうか。

これからの未来を背負って立つのは現在の子供たちである。老人たちは確かに現在の発達した社会の創生には貢献したかもしれない。しかしだからと言って、子供の未来をないがしろにしていいのだろうか。子供の存在を敵視する老人たちははっきり言って「老害」である。

問題なのは、幼児・子供の存在の小さなマイナス面だけとらえて、大きなプラス面を全く無視していることだ。子供の存在は地域に活性を与える。さらに園児を送り迎えする親たちのコミュニティが生まれる。地域が活性化されコミュニティが生まれることによって、緊急時・災害時に老人たちを支えるバックアップ体制も生まれるだろう。そして何よりも治安の向上にもつながる。

そして個人的な事だが、僕は子供が大好きだ。変な言い方かもしれないが、昔から大人が嫌いだった。正確に言うと「大人の考え」が嫌いだ。園児の声がうるさいのは否定しないが、何よりも子供の明るい声には心が癒される。街が明るくなる。老人だけの街に明るさがあるだろうか。

最近始まったことではないが、高齢者が社会であまりにも力を持ちすぎ、若者の声がなかなか通らない。しかしこの原因は明らかだ。「選挙の投票率」である。若者より高齢者の投票率の方が圧倒的に高い。それに伴い、為政者たちは票になる高齢者の声を取り上げ、若者の声を軽く扱う。しかし裏を返せば、若者たちが選挙を軽く見、投票に足を運ばないわけであるから、選挙に行かない若者の方にも責任がある。

即ちこのような現状を打破するには、若者が投票に足を運ぶしかない。声を出す前に一票を投ずる。たかが一票されど一票。政治家が国を変えるのではなく、国民が政治家を変えるのである。

将来ある子供たちの明るい未来を創るのは、われわれ大人の「義務」である。そのために必要なのはお金だけではない。「気持ち」なのである。

マンションのクワガタムシ

8月の最後の日、マンションの高い階で、一匹のクワガタムシを見つけた。コクワガタだ。それにしても、街中の高層マンションに、今では見つけるのも難しいクワガタがいたことには驚いたものだ。見つけたコクワガタはYシャツの胸ポケットに入れて家に持ち帰り、今日一夜を共にして山に返すつもりだ。

クワガタの中でも「黒い宝石」とも言われ、何万円もするオオクワガタは数年越冬するそうだが、コクワガタが越冬できないのは知っている。即ち、このコクワガタは長く見積もってもあと数か月の命なのだ。

このコクワガタと出会ったのも何かの縁、今晩だけはコイツに満足してもらおうと、梨の小片を与えてやることにした。それにしてもクワガタがこんなにペロペロとおいしそうに梨を舐めまくるのにはびっくりした。クワガタの舌は意外と長い。

出会いとは何も人間だけではない。虫との出会いもなかなかいいものだ。コイツと出会えて何だか幸せな気分になってきたぞ。明日山に帰って、元気に生きぬいてこい!