月別アーカイブ: 11月 2020

物理は数学を具現化している。

物理と言うものは、数式(数学)を用いて記述されている。なので物理を研究する時には、どの数学が使えるかと言うことが焦点になる。しかしこのような考えでは、物理が主で数学が従となる。このような意識は、物理の最も根本的な分野(素粒子論や超弦理論)においても同じである。しかし物理の最も根本的で本質的な部分を追究する時、果たしてこのような意識のままで良いのかと僕は疑問に思っている。

僕が最近感じているのは、数学を現実世界(自然宇宙)に具現化したものが物理ではないかと言うことである。すなわち、物理の本質を追究するためには、数学の根本的な部分、すなわち公理論的集合論や抽象位相論と言った部分を出発点に置かなければならないのではないかと僕は考えている。すなわち物理はまず数学ありきなのである。

物理(自然宇宙)がたまたま数学によって記述されていると言う認識は間違いだ。数学を具現化したものが物理なら、物理が数学によって記述されているのは当たり前の事である。現在物理の根本を追究する分野として、超弦理論などが活発に研究されている。しかし僕はこのような方向性では最終的な基礎にはたどり着けないのではと思っている。なぜなら非常に数学的だと言われている超弦理論と言えども、数学が従であることには変わりないからだ。

物理の中にも公理論的に構成する動きはある。例えば場の量子論にしても、公理論的場の理論と言う分野がある。とは言え、このような公理論的物理にしても数学的に見ればまだまだ基礎的だとは言えない。数学が使える数学的な物理と言う意識から、完全に公理論的数学の具現化としての物理と言う意識を持つ事が、物理の根本的・本質的部分を追究するためには必要ではないだろうか。そしてこのような意識を持つ事は、物理から逆に数学の根本的原理を導き出すと言うことも可能になると僕は考えている。

やはり出すべきだ。

僕は11月3日のブログで、「菅内閣は間違いなく短命に終わる。」と言う記事を書いた。しかし色々考えることがあって、一回ブログに載せながらもすぐに非公開に戻してしまった。それはやはり僕の弱さだったと言うべきであって、今考えるとそのまま載せるべきであった。そして今考えても載せるべきだと思うので、再び掲載することにした。なので下に記事のリンクを貼っておくことにする。

菅内閣は間違いなく短命に終わる。(11月3日)

やはり権力に動ずることなく主張をすべきであり、心理的に長いものに巻かれてはいけない。とは言え僕の考えすぎなのかもしれないが、このようなスタンスはこれからも変化させずに持続していくつもりだ。

今アメリカではバイデン氏が次期大統領候補となることがほぼ確定した。大統領選挙は今もゴタゴタが続いているが、民主主義国家の盟主として民主主義のあるべき姿を示してほしいものである。僕はバイデン氏に大きな期待を寄せている。

そして何よりバイデン氏のすごいところは、78歳になっても大統領職を行おうとするバイタリティーである。日本の平均的な定年は65歳くらいであろうか。中には40代で早期リタイヤしてして余生を過ごそうとする人もいる。もちろん若い頃に大きなことを成し遂げてやり切ったと言う人もいるだろうから何とも言えないが、何歳になっても生涯現役を貫こうと思っている僕にとってはバイデン氏はある意味理想の姿である。僕は余生(悪く言うと惰性)と言うものなどはなくても良いと思っている。もちろん、これまで事を為していない僕にとっては、これから事を為さないと何も残らないので、惰性で生きてなんていられない。

民主主義の歴史はそれなりにあり、民主主義は熟したと考える人もいるだろうが、僕は民主主義の発展する余地はまだまだあるように思える。建前の民主主義ではなく、内容のある本質的な民主主義を確立させることが重要であると僕は考えている。単に多数決をすれば民主主義なのか?僕はそれは決して違うと思う。一人ひとりの民衆に寄り添う政治、それが民主主義ではないだろうか。

体罰ではない!犯罪です。

悲しい、またこのような事件が繰り返された。体罰、いや暴行事件である。熊本県の小学校で、教師がけんかをしていた小学生の足を蹴って骨折させたと言う。僕はこれまで何度か学校での体罰を取り上げているが、同じく何度も言っているように「体罰」と言う言葉を使うのはやめなければならない。これらは明らかに「暴行」、つまり犯罪である。考えてもらいたい。学校の外で大人が小学生を蹴ったらどうなるか?即逮捕である。しかし学校内で教師が行えば、「体罰」の一言で片づけられる。つまり社会の暴行基準が完全にダブルスタンダードになっているのである。

僕はむしろ、教師の暴行事件の方が一般の市民の暴行事件より重い問題だと考えている。学校の教師は生徒を守るべき存在であらなければならない。しかし教師による暴行と言う、それと全く反対の事が起こっているのである。社会の常識的に考えると、暴行教師は即懲戒解雇にすべき事案である。今のままでは学校が生徒にとって危険な場所になってしまう。そんなことにしては決してならない。

これもこれまで何度か取り上げたが、僕は小学生の時、暴行教師の被害に遭ってきた。それも一年間ほぼ毎日。蹴る殴るは当たり前。僕が学校と言うものに嫌悪感を持っているのはその影響かもしれない。そんな被害者を二度と出してほしくない。そのためにも暴行教師に対しては厳しい処分で対処しなければならない。

一部の人はこう言うだろう。「生徒も悪かったのではないか」と。しかしそれは暴行教師の言い訳の常とう手段であり、今回の熊本の事件のように小学生同氏がけんかをするなんてことはむしろ普通の事である。それを暴行によって抑え込んでよいはずがない。さらに言えば、何の落ち度もない生徒が嫌がらせのために暴行を受けることもある。僕の場合がそうであった。一年間ずっと。

体罰と言う言葉は「罰」と言う言葉が含まれているように、生徒に落ち度があると言う意味合いがある。なので体罰と言う言葉を使うことによって暴行教師の行為が正当化される。暴行が正当だったかなどと言うのは全く見当違いである。教師が暴行を行った時点で教師の罪は100%なのである。もうこのような暴行事件は本当になくなって欲しい。そして暴行教師は教育の現場から一刻も早く消え去って欲しい。

お金の教育。

日本では学校でお金に関する教育を受けることはほとんどない。しかし海外では学校でお金について授業することは普通の事だと言われている。ではなぜ日本ではお金に関する教育が全く行われないのか?それは日本人のお金に対する意識、そして本音が関係してくる。

お金を得ると言うことは、日常生活を送るうえでも非常に重要な事だ。しかし日本人はお金に関することにこだわることを汚いことだと捉えている人が多い。しかし本音は、ほとんどの人が1円でも多くのお金を得ることにこだわっている。まさしく本音と建前が乖離しているのだ。そして社会や教育の現場では、建前の方が勝ってしまうのだ。

ネット高校のN高の投資部では、村上世彰氏が特別顧問となって投資教育を行っていると言う。これは日本では画期的なことかもしれないが、もしかしたら海外では普通の事なのかもしれない。村上氏は投資・お金の酸いも甘いも身をもって体験してきた人だ。そのような生きる教材が次世代の人間へお金の本質を伝えることは非常に重要でなことであるし、生徒にとってもそれは後々まで生きる財産になるであろう。村上氏ほどではなくても、お金の本質を伝えられる大人は沢山いるはずだ。それこそビジネスの世界をリタイヤしたシニアが小学・中学・高校へ赴き教育を行えば、それは生徒だけではなく日本全体の財産になる。

1980年代バブルに湧き、しかしそれを生かせず失われた二十年を過ごした日本。そのような結果になった原因の一つは、国民がお金の本質を知らなかったことにあるのかもしれない。もし投資などの教育を受け、その仕組みなどを熟知していれば、極度のバブル崩壊は免れていたのかもしれない。おそらく当時の大人もお金の本質を理解していなかったのだろう。そのような失敗を二度と繰り返さないためにも、子供の頃からお金や投資の教育を行うことは重要なのではないだろうか。

学歴について考える。

人はなぜ勉強するのだろうか?もちろん学問そのものを究めると言う理由が一番だが、学校に入って学歴を身に付けるためだと言う人も多いだろう。そのように考える人が多いのは、もちろん学歴と言うものが社会的・世間的に評価されていると言うことが原因である。ではなぜ学歴が評価されるのか?それはその学校でしっかりと学問に取り組んできたと言う証になるからである。

しかし実際は、大学に行ったからと言って必ずしも学問にまじめに取り組んできたとは限らない。僕はこれまでそのような人を多々目にしてきた。そして逆に、学校に行っていなくても学問や社会の問題に取り組み、また様々な技術を身に付けてきた人もいる。すなわち、学歴を評価するのはそれはそれでいいのだが、しかし学歴で全てを評価するのではなく、評価の一材料に留めておくべきだと言うのが正しいであろう。

では僕は何が言いたいのか?僕が言いたいのは、衣ではなく人間そのものを見るべきであると言うことである。学歴は必ずしもその人の能力や人間性を表していない。ましてや受験勉強などは単なるパズルもどきだと僕は考えている。もちろん受験勉強が全く意味がないとは言わない。しかし重要なのは、そこで身に付けた知識を入学後に縦横無尽に生かすことだと僕は考えている。

もちろん考えは人それぞれだ。学歴は就職のためだと割り切っている人も多いし、学歴にふんぞり返っている人も少なからずいる。しかし僕自身に関して言えば、学歴を身に付けたくて大学・大学院に行っていたわけではない。数学や物理の研究をしたくて大学に行ったのである。しかし理論系の研究と言うものは必ずしも学校に行かなければできないものではない。部屋に閉じこもって独学でも十分にできるのである。大学はそのきっかけを与えるに過ぎない。大学全入時代の今、もう学歴にこだわりすぎるのは考えが古いのではないだろうか。

菅内閣は間違いなく短命に終わる。

菅内閣発足当初、僕自身は菅氏に対して初めから良い印象は持っていなかったが、しかしまだ何も始まっていない時点で不支持を決め込むのもおかしいと思い中立な立場で菅内閣を眺めることにしていた。しかしまだ二か月ほどしか経っていないが、悪い意味で菅内閣は僕の想像した方向性へと進んでいるように思う。とは言え、もちろんまだ菅内閣が実行したことは数えるほどしかないが、その数えるほどしかないことだけ見ても、菅内閣不支持を決め込むには十分である。

今、日本学術会議を巡って問題が起きている。この問題は誰が見ても菅氏が自分に都合の悪い人物を排除しようとしていることが原因であることは明らかだ。もちろん菅氏自身がそんなことを認めるはずはない。しかしその弁解はどれも苦し紛れのものばかりであり、そのような弁解を見ても総理としての資質が全く感じれられない。前総理の安倍氏は良い悪いは別として、少なくとも総理としての資質は(政権末期は別として)大いに感じることができた。しかし菅氏はどう見ても総理の器ではない。答弁がどれもせこいものばかりに感じられ、そして何より国民の事を考えて政治をしているようには思えない。さらに総理就任初期からこれほどまで保身に走る総理は見たことがない。国会答弁を見ていると、常に下に視線を向け、官僚の作った答弁書をなぞっているだけと言うことは見ていると誰でも感じられる。

答弁などを見ていると、菅総理の仕事は官房長官の延長線上でやっているようにしか感じられない。確かに総理に従属する官房長官の仕事は菅氏には適任であったのかもしれない。しかし総理になるべき人間ではない。自分の都合の悪い人間を排除しながら、その理由も述べられない。野党が言っているように、もう支離滅裂である。

僕は個人的に菅氏に恨みがあるわけでは全くない。しかし中立的に見ても擁護できる点は一点もなく、完全に総理になるべき人間ではない。全く総理の器ではない。自民党総裁選では石破氏は完全に敗れ去った。しかし僕がこれまで石破氏を支持してきたことは間違ってはいなかったと確信している。