月別アーカイブ: 12月 2018

才能、努力、運。

大きなことを成し遂げようと思えば、才能、努力、運の全てが揃っていなければならない。しかしこの三つは独立したものではなく、全てが連動している。才能とは努力ができる力であり、努力をすることによって運が巡ってくる。そして運を掴む才能が必要である。

先日、フィギュアスケートのグランプリファイナルがあり、女子シングルでは紀平梨花さんが優勝した。紀平梨花さんのスケーティングの才能は誰もが認めるところだが、その才能はおそらく努力の賜物であろう。そしてそのような努力と才能によって、グランプリシリーズ三戦全勝という運を掴み取ったのだと思う。

繰り返し言うようだが、運とは偶然ではない。努力ができない人間には200%運は巡ってこない。しかし努力ができるという才能を持った人には70%くらい運が巡ってくる。100%ではなく70%であるところが「運」という所以なのだ。そして自分の努力次第ではこれを80%、90%へと高めることができる。

人生は一筋縄ではいかない。そこが苦しく面白いところである。「努力は嘘をつかない」とよく言われる。これが100%本当かどうかは僕にはまだわからない。ただそれが本当であろうと嘘であろうと、今自分にできる事は努力しかない。努力が必ず報われるとは限らないから努力をしないというのは最もナンセンスな行為だ。少なくとも努力をした後には努力が残る。あとは自分を信じることができるかどうかだ。努力をしない人間は、自分を信じ抜くことができないのであろう。自分を信じ抜くことができるというのは大きな才能だと思う。

紀平梨花さんの活躍に刺激を受けて、自分の取り組んでいる事、自分の進むべき道を自信を持って進める事ができれば、それも自分という人間の大きな力だと思う。

自分は面白い人間か?

僕は常に面白い人間でありたいと思っている。では僕の言う面白い人間とはどのような人間か?それはお笑いのような面白さもあり、面白い生き方をしていることでもあり、また研究で重要な結果を出せる人間でもある。それ以外にも、お洒落な人間であることや挑戦し続けていることなど、言い出したらきりがない。

面白い人間は総じてリスキーである。なので無難な生き方をしたい人には、面白い生き方を薦めることはできない。面白い生き方をするためにはそれなりの覚悟がいる。僕はお金のギャンブルは一切しないが、人生のギャンブルは常にし続けている。お金のギャンブルをする人間ほど面白くない人間はいない。面白さとは先の見えない未来を開拓して行くことによって感じられるものなのである。

今僕は非常に面白い問題に取り組んでいる。その問題の解決に成功できれば、非常に面白い事になると思っている。そして面白さが面白さを呼ぶように、さらに面白い人間になれるのではないかと思う。ある意味、面白さを追求することは、人生を掘り下げる事でもある。別にお笑い芸人のような面白さがある必要はない。ただ人間としては非常に面白い人間であるべきだと思っている。

面白い人間になり切る前夜、どのように人生を模索して行くか?面白い人間の度合いは、それまでどのように人生を送って来たかにかかっている。

自分を克服する。

今僕が克服すべきものは、自分自身だと思っている。世の中には味方がいれば敵もいる。そしてそれは自分自身に対しても同じだ。自分が自分の一番の味方であると同時に、自分の中にも自分の敵がいる。そのような自分の中にいる敵を克服することは、緊急の課題である。

自分の外にいる敵は最悪そこから逃げればいいが、自分の中の敵からは絶対に逃げられないので、自分の中の敵は克服するしかない。自分の中の敵を克服することは決して簡単な事ではないが、自分自身を克服した先にはさらに高いステージの人生が待ち構えている。そのように一歩一歩ステージを上げて行く先から見える風景はどのようになっているのか?そのようなことを考えると、苦しいながらもわくわくした気持ちになる。

自由には二種類ある。一つは他人や社会から解放される自由、そしてもう一つは自分自身による束縛から解放される自由。意外と自分自身の思考が無意識のうちに束縛されていることが多い。しかしそのように自分自身の思考が束縛された状態では自由な発想が生まれるはずもない。

今自分が何かの目標に向かってそれを成し遂げようと思っているのならば、自分自身を徹底的に自由にしなければならない。そして自由の意味と生きる意味、そして目標に向かって生きていく意味などあらゆることを考え抜いて、自分だけの人生というものを構築して行きたいものである。

命が大事なのか?経済が大事なのか?

社会の機能において、経済の重要性は言うまでもない。現代社会においては、お金が回らないと生活そのものが成り立たなくなる。すなわち、経済が人の命を握っていると言っても過言ではない。

では、「人の命と経済のどちらが大事か?」と問われれば、ほとんどの人が人の命の方が大事だと言うだろう。このことは誰が考えても異論はない。しかし現在のエネルギー政策においては、必ずしもこの答えのように進むとは限らないようだ。人の命よりも経済の方が優先されることはよくある。このことは道義上は明らかに間違っている。しかし経済が多くの人の命を救う可能性があるということを考えれば、経済の重要性も考慮に入れなければならない。とは言え、無駄な犠牲を強いることは決してあってはならない。

エネルギー政策に携わっている政治家たちは、物もお金も、そして人間もマクロなレベルで考えることになるので、どうしても現場というものが見えにくくなるのかもしれない。もちろんそのような事を避けるために政治家は視察を頻繁に行っている。しかしそれで十分かと言われれば決して十分とは言えない。経済学にマクロとミクロがあるように、人間の動きにもマクロとミクロがある。この双方の視点を併用して施策を打ち出すことが大事であるが、実際にそれができる政治家は少数派であろう。

又聞きであるが、東日本大震災の時にビートたけしがこんな言葉を言っていたらしい。それは「2万人が死んだということが一件起きたのではない。一人が死んだということが2万件起きたのである。」確かにマクロ的な視点では、震災という出来事を一件の大きな事件とまとめようとしてしまう。しかしミクロ的な視点で見ると、そこには2万件という膨大な事件が日本各地で同時発生していたのである。何を主眼に置いて見るかによって、物事の捉え方は大きく変わる。何事も複眼的に見て判断しなければいけない。

時代の変化。良いのか?悪いのか?

時代の認識は常に変化している。昔良かったことが現在では悪い事だと言われることは多々ある。その逆もあるだろう。悪い事が時代が進むにつれて正されることは良い事だろう。しかし「なぜそうあるべきなのか?」という考察を全くせずに流れや雰囲気だけで変化して行くことには危険な事も多い。時には改悪されることもよくある。

そして最近の風潮で僕が危険だと思うことは「拡大解釈」だ。数学や物理では拡大解釈、あるいは一般化ということはよくされる。しかし拡大解釈や一般化をするに当たっては、その根拠、すなわち裏付けが必要である。同様に社会の風潮でも根拠や裏付けに当たる深い考察は絶対的に必要だ。考察のない拡大解釈は、多くの場合改悪につながる。

社会の方向性は良い方を向いていると思いたいが、現代社会の中にある風潮や認識を見ると、多くの改悪がなされていると言わざるを得ない。また、良い方向へと向かっていたとしても、度が過ぎると非常に生きづらい世の中になる。

メリットとデメリットは多くの場合同時に表れる。重要なのは、メリットとデメリットを天秤に掛けて判断することである。メリットだけを視野に入れメリットが1増えるとしても、デメリットが10増えればそれは本末転倒だ。物事は大局的に見て判断しなければならない。

僕がなぜこのような記事を書いたのか?それは現在の世の中が非常に生きづらい社会になっているのではないかと感じているからだ。確かに現代社会は非常に“便利”な世の中になっている。しかし便利だからと言って“生きやすい”という訳ではない。例えば昔はスマホもなく不便であるが故に一期一会を大切にしていた。しかし現代社会では安っぽい出会いが増えている。もちろんネット上でも大切な一期一会は存在するが、そのありがたみをなかなか感じられないでいるのではないだろうか?

技術は常に発展し続けている。しかしその技術の利用の仕方を間違えたり過度に依存しすぎると、本来人々を便利にさせるための技術が人々を生きづらくさせてしまう。そしてそのような事は技術だけではなく、風潮や人々の認識、そして規則にも言えることだ。

短期計画と、長期的展望。

焦っている時などは、つい目先の事ばかりに気が行ってしまうことがある。もちろんその時々の目先の事を処理することは非常に大事だ。目先の事をこなさないと次に進むことができないことも多い。しかし物事を長い目で見ることも非常に重要だ。特に大きなことを成し遂げようとしている場合は、目先の事に一喜一憂せずに長期的展望を持って物事を底上げすることが大事だ。

では目先の事とその先にある事ではどちらが大事か?言うまでもなく両方大事だ。短期計画と長期的展望の双方を照らし合わせて前に進むことが重要である。

長期的展望に基づいて実行するということは、ある意味持久走である。瞬発力だけでは大きなことは成し遂げられない。その一方、長い目で見て、どこでスパートをかけるか?そのように状況を読み、スパートをかける時はそこで全てをつぎ込む。そのような思いっきりの良さを持たなければならない。しかしスパートをかける時を間違えると、ゴールまでたどり着けない。つまり情熱と冷静な分析力を駆使して自分をコントロールしていかなければならない。

人生とは“送る”ものではなく“切り開く”ものだと僕は考えている。受動的に人生を送るのか?能動的に動いて人生を構築して行くのか?人生のオリジナリティというものは、能動的に動いてこそ発揮するのだと思う。

面白い、実に面白い。

人生も学問も、実に面白いものである。人生の何が面白いのか?学問の何が面白いのか?それは予想もしない展開が現れることである。人生も学問も、先が見えていれば実につまらないものである。結果が分かっているクジほどつまらないものはない。次の展開が読めないからこそ、努力をしてより良い展開を繰り広げようとするのである。

苦しい事と楽な事のどちらがいいか?と問われれば、多くの人は楽な方が選ぶかもしれない。楽して楽しい思いをすることができればそれはそれでいいのかもしれない。しかし本当に面白い事というのは、多くの場合苦しみから生まれる。「楽しみながら苦しむ」と表現すればよいだろうか。確かに無駄な事で苦しむ必要はない。しかし人生を懸けようとしている事で苦しむことはある程度必要である。

そしてもう一つ大事な事は「挑戦」である。挑戦のない人生程つまらないものはない。人生をレールに乗せるのではなく、人生というレールを作っていかなければならない。挑戦とは開拓なのである。人の背後で風を避けながら付いて行くのか?それとも常に先頭に立ち風を全身で浴びながら進んで行くのか?人それぞれ好きな方を選べばよいが、先頭に立ち全身で風を浴びないと見えない風景と喜びがある。そのような喜びを感じることができれば、人生も学問も実に面白いものになる。

先頭に立ち人生を開拓し、学問も開拓して行く。確かに苦しいことではあるが、そのように常に挑戦し開拓して行く姿勢を忘れずに進んで行きたいものである。

ピンチをチャンスに変える!

ピンチをチャンスに変えるとは、ネガティブ思考をポジティブ思考に変えるということだ。「ピンチの後にチャンスあり」とはよく言う言葉だが、同じことが起こっても、それをピンチのままで終わらす人とチャンスに変える人がいる。それは全てものの捉え方、思考の仕方の違いから来るものである。

ピンチになった時は、しばらく悩み苦しむことが多い。そしてそのような時に、その事ばかりを考えていれば、永久にピンチから脱することができない。ピンチの時に一度他の苦境のことに思考の対象を移すのである。すると、その苦境がなんてことないことのように思える。そのように他の苦境が解決すると、現在起きているピンチの事も自然に解決することがある。ピンチの時にそのピンチを脱する思考のルーティーンを確立することができると、精神を一段と強くすることができる。

こんな事を言いながらも、僕はかなり苦境に陥ることが多い。そしてそのような時にはネガティブになり悩むことが多い。しかしピンチを脱する思考のルーティーンが大分出来上がっているので、意外と早期にピンチを脱することができる。

確かに思考のルーティーンを確立するのは簡単な事ではないかもしれない。しかし試行錯誤してそのようなルーティーンを確立するための努力をすることは決して無駄ではない。そして思考のルーティーンを確立することができれば、ピンチが起こった時に「これはむしろチャンスだ」と思えるようになる。

数学は文明の根幹か?道楽か?

数学に対する認識ほど、人によって大きく異なるものはない。数学の本質は科学の根幹であり、文明の根幹であるということだ。確かに最先端の数学がどのように社会の役に立っているかということは分かりにくい。しかし現代社会は応用科学抜きでは語ることはできず、応用科学は基礎科学抜きでは語れない。そしてそれらの基礎科学は数学抜きでは語れない。従って数学は現代文明の最も根幹に位置するところにあり、人間の文明レベルは基礎科学、そして数学に対する認識に由来するものであると言っても過言ではない。

しかしその一方、数学や基礎科学に対する研究を「道楽だ」と言い放つ人もそれなりにいる。日本においてそのような風潮が顕著に表れているのか?それとも世界的にそのような風潮なのか?どちらにしても日本においてそのような風潮があることは事実である。

日本におけるそのような風潮は、江戸時代にまでさかのぼることができる。江戸時代の日本の数学である和算は、世界的に見てもかなりレベルの高いものであった。しかし和算は世界の主流になることはなかった。その理由はいくつかある。一番大きな理由は、和算が個別の特殊性を帯び、体系的に構築されることがなかったということである。それに対してヨーロッパの数学は非常に体系的に構築され、高い継続性を帯びていた。和算の体系性のなさの多くは日本の和算家に責任があるのかもしれない。

しかし和算の継続性のなさにはもう一つの理由があると僕は考えている。それは日本市民が和算や数学に対して役に立つもの、あるいは意義のあるものだという認識に乏しく、大きく社会や産業界に広がっていかなかったからではないのかと考えている。もちろんそのような数学に対する認識は、ヨーロッパにおいても大きく言えることなのかもしれない。しかしそれが社会の中で体系的に共有されることはなかったのではないだろうか?そのような認識が日本の中で(あるいはヨーロッパでも?)数学に対して道楽という位置づけをするということに結び付いたのではないだろうか?

数学が文明の中でどのように共有されているかということを、明白に捉えることは非常に難しい。数学を専門に扱っている数学者でさえ、数学の文明の中での位置づけを明確に主張できる人は多くないのではないかと思う。しかし古くはギリシャ時代から、数学が文明の根幹を担っていたということは紛れもない事実である。数学に対する認識一つで文明のあり方が大きく変わってくるのではないだろうか?

世の中から科学に対する関心・感動がなくなってきている。

十年くらい前からだろうか。世の中から科学に対する関心・感動がなくなってきているように思える。なぜ十年前か?十年前というとちょうどスマホが世の中に出た頃だ。スマホに対する技術は凄い。そして現在もスマホに対する技術は年々向上している。しかしそのような新しい技術を凄いと感じたことはあるだろうか?ほとんどの人は「また新しい便利な機能が追加されたな」というくらいにしか思っていないと思う。

なぜ、世の中は科学に対する関心・感動を無くしたのか?それは現在の科学技術のほとんどがブラックボックス化されているからだ。技術の原理を知ろうにも、理解できるものではない。専門家でも畑が違えば理解することが困難だ。そういう意味で、スマホの科学に対する功罪は共に大きい。

一昔前までは、新しい技術が出れば「よくこんなものが出来たな」と感心したものだ。しかし現在は新しい技術が出来るのは当たり前となり、何の感動も覚えない。幼児でもスマホのスクリーンをタッチし、何の疑いも持たずにスクリーン上のキャラクターを操作している。

世の中の多くの人は、現在の科学技術の原理を微塵も知ろうとしない。スマホのように利用できて便利ならそれでいいのだ。科学の原理なんてどうだっていい。そう思っているのではないだろうか?

皮肉なことに、新しい技術が世の中に出る度に、世の中の人は科学技術に対して無関心になっていく。厳密に言うと二極化しているということだろうか?科学に大きく関心がある人、そして科学に全く関心のない人。この二極化は日を追うごとに顕著になってきている。

科学に無関心な人ほど、科学で何でもできると思っている。しかしそんなことは断じてないのだ。科学にできないことは山ほどある。科学を理解するとは、科学には何ができないかを理解することだ。コンピューターにできないことも山ほどある。まずは科学の限界と現在地を明確に理解し、ブラックボックスを覆う布を一枚でも多く剥いでいかなければならない。