月別アーカイブ: 1月 2019

羽生善治九段は何を見ているのか?

前年末の竜王位陥落によって、羽生善治氏は無冠になった。とは言え、無冠になったから羽生氏は衰えたのかというと、決してそうではない。無冠になった今でも羽生氏は最高位の棋士の一人であることは間違いない。

最近、羽生善治氏のことが書かれた記事をいろいろ見て、少し思うところがあった。それは「羽生善治氏は将棋に何を見ているか?」ということだ。普通の棋士だと対局に勝つことに最大限の気力を注ぐだろう。それは羽生氏だって例外ではないと思う。しかし羽生氏は必ずしも勝利だけを見ているようではない。将棋の盤上に何かの世界を見ようとしているように思えてならないのだ。

将棋には最善手という概念がある。言葉通り、最も有利になる手の事である。当たり前の事であるが、最善手を指し続けることにより勝利が見えてくる。逆にミスは命取りになる。しかし羽生氏は最善手ではなく“実験手”を打つことがあるという。将来の可能性を探り広げるために、実験手を打ち新たな道を開拓するのだ。とは言え、実験手は確率的に言えば最善手ではないのかもしれないが、将来の可能性まで考えると羽生氏における、あるいは将棋界における最善手なのかもしれない。

話しを、羽生氏は何を見ているかということに戻そう。なぜ僕が羽生氏の見ている世界に興味があるのか?それは世界を見るということは、あらゆるプロ分野において言えることではないかと感じるからである。物理や数学においても、ただ計算しているだけではなく、構想と一連の計算による構築によってその人独自の世界が見えてくるからである。それは視覚的に見えるという意味もあるし、精神的に見えるという意味もある。そうだからこそ、トップ棋士の羽生氏には盤上にどのような世界が見えているのかが気になるのである。

もしかしたら、プロとアマチュアの違いは、そのような世界が見えるかどうかということなのかもしれない。おそらく世の中にあるほとんどのプロには、“視覚的”に世界が見えているのである。世界が見えると哲学が生まれ、ただ勝利する、あるいは結果を出すというだけでなく、その先にある広大な大地を切り開くことが出来るのであろう。

万人に理解されようとするな!

万人に理解されるような人生ほど薄っぺらくて退屈な人生はない。万人に理解されるということは、当たり障りのない事しかしていないということであり、現状維持だと言える。しかも現状維持を掲げて現状維持できることはほとんどない。飛躍を起こそうと思えば、万人の理解を超えることに挑戦しなければならない。

山中伸弥教授がiPS細胞誕生以前に、「皮膚細胞から万能細胞を作る」などと言ったら万人から鼻で笑われたであろう。そのような万人から理解されない状態から山中教授はiPS細胞作製という偉業を成し遂げた。もちろん人から理解されないことをすれば大きな成功を成し遂げられるかと言えばそうではない。むしろ失敗する確率の方が圧倒的に高いと言える。問題はそのような失敗をどう捉えるかだ。失敗を絶望と捉えるか?次への希望と捉えるか?それによってその後が大きく変わる。

実は人生なんて、本質的な部分では皆そうは変わらない。しかし現実は人によって天と地ほど違うように見える。その理由はいくつかあるかもしれないが、最も大きな部分は精神的な部分だ。とは言っても精神論を持ち出すわけではない。もっと単純に楽観的か悲観的かという類のことである。

頭脳の仕組みなんて、皆大きく変わらない。アインシュタインの脳が現存しているそうだが、どこを調べても大きく変わるところはないという。例え計算力が圧倒的に高くても、それだけで数学の研究ができるわけではない。結局は人生をどう捉えているかとかいう部分にたどり着く。人生をどう捉えるかということと数学の研究がどう結び付くか?多くの人はピンと来ないかもしれないが、そのような人生に対する精神的なモチベーションが学問の研究には大きく関わってくる。

万人に理解される生き方の方が圧倒的に楽かもしれない。しかしそれは何ももたらさない。人の理解からはみ出たところからイノベーションは生まれるのである。そこを理解しないと、何に対しても当たり障りのない現状維持に終始してしまう。そしてその先にあるのは没落である。

知の爆発。

芸術家の岡本太郎が「芸術は爆発だ!」と言ったことは有名だ。僕には芸術がどう爆発するのか理解できないが、一流芸術家の岡本太郎がそう叫んだのなら、そういうこともあるのだろう。

芸術とは違うが、知も爆発する。それは個人レベルでもそうだし、社会レベルでもそうだ。しかし何もないところに知が爆発することはない。爆発するまでに知の蓄積が脈々と受け継がれて積み重なった所にしか知の爆発は起きない。だから何か爆発的な結果を出すためには地道に努力するしかないし、社会においても知を寛容に受け入れないと知の爆発は起きない。

物理学における知の爆発と言えば、誰もが20世紀初めの量子論・相対論革命を思い出すだろう。しかし量子論も相対論も、何もない所に降って湧いた訳ではない。それらが誕生するための基盤が着々と固められていたのである。そこにハイゼンベルグだとかシュレーディンガー、そしてアインシュタインがとどめを刺したということだ。

知の爆発はそんなに頻繁に起こる訳ではない。しかし常に知の爆発を起こすための努力はし続けるべきである。そしてそのためには、山中伸弥教授の言うVW(ビジョン&ハードワーク)が必要なのは言うまでもない、努力は必要だが、それだけでは生まれない。ビジョンが必要不可欠なのだ。日本人はハードワークは得意だがビジョンがないと言われ続けてきた。そして今ではそのハードワークまでもが失われつつある。そのような時代なのだと言われればそれまでであるが、個人が自分の立てた目標を成し遂げようとするときにはハードワークは必要だ。もちろんハードワークをしない自由もある。それはすべて自己責任と言える。

知の爆発を起こすべく、個人も社会もVWを掲げたいところだが、片一方が出来る人はそれなりにいても両方が出来る人はそうはいないのかもしれない。山中教授はiPS細胞という知の爆発を起こすことに成功した。そして生命科学の分野ではゲノム編集などの知の爆発が立て続けに起きている。他分野の人間はそれらを指をくわえて見るのではなく、周りの人に指をくわえさせるような知の爆発を起こさなければならない。

なぜバカな生き方を求めるのか?

僕は賢い生き方はしないと心がけている?バカな生き方をしようと思っている。ただ間違ってはならないのは、何も考えないでバカな生き方をするのと、考え抜いてバカな生き方をするのとは、意味が180度違うということである。バカな生き方をするのなら、賢い生き方をするのより何倍も考え抜いて生きなければならない。

では、なぜバカな生き方をしようとするのか?それは「生きるために生きる」ということをしないためだ。生きる事には意味がある。その意味を常に考え抜かなければならない。自分の生きる意味は何か?何のために生きるのか?そのことを考えて実行することによって、生きることに哲学が生まれる。

確かにお金は大事だ。しかし最近社会で話題になるのは、老後資金を蓄えるとか、“賢い”貯蓄の仕方、そしていかに効率良く“賢く”お金を儲けるかだ。そのような“賢い”生き方は何をもたらすのか?もちろんそれによって人生が有意義に意味のあるものになるのであれば言うことはない。しかしそれらの“賢い”生き方が「生命の浪費」というだけになってはないだろうか?

人間が生きるとは多様性の追求だと言える。そうならば多様な意味、多様な可能性も求めるべきではないだろうか?そのためにたどり着いた一つの結果が「バカな生き方をする」ということである。

一般的に言われる“賢い”とは、決して“知的”という意味ではない。本当の知性とは、生きる意味を明確に認識して、その人生の意味を最大限に発揮するために生きるということである。そのような事を考えると、今の社会はあらゆる意味で迷走しているのではないだろうか?

装飾とは?

「インスタ映え」という言葉が流行って久しい。インスタ映えを求めるということは一種の装飾と言えるが、人間の装飾は何かと言えば、その代表例はもちろん服装である。また、持ち物で装飾したり、人間関係で装飾したりといろいろあるが、何で装飾するかはその人の人間性が最も表れるところである。

目に見えるもので装飾することは全然悪い事ではないが、それ以上に大切なのは目に見えない装飾である。例えば人間そのものが醸し出す装飾や生き方から感じられる装飾、そして主義主張から感じられる装飾などである。それらの装飾は人間そのものであると言え、これらの人間性による装飾がないと、服装などの外見装飾は張りぼてになる。逆に言うと、魅力的な人間装飾が存分にあれば、外見装飾はそれをより一層輝かせることが出来る。

外見装飾とは副次的なものと捉える人もいるが、時には外見装飾が主役になることもある。世の中には装飾がないと成り立たないことも多い。多くの人間は外見装飾に行動を左右されるのはその表れである。しかしそれらの外見装飾に気を取られて人間装飾を磨くことを怠っては本末転倒だ。

結局は人間性から醸し出される装飾と外見装飾をバランスよく保つことが、人間をより魅力的に魅せるには重要であろう。もちろん外見装飾などに見向きもせずに人間装飾を圧倒的に輝かせるのは圧倒的に魅力的である。そのような人物には尊敬もするし、憧れもする。その一方、外見装飾も豊かにし、わかりやすい魅力も発揮したいという欲望にもかられる。しかし人間としての本質をしっかりと心得ていれば、そのように外見装飾にそれなりに力を入れるのも悪くない。

コーヒーとの付き合い方。

飲食との付き合い方は体や頭のコンディションを左右し、極論を言えば人生を左右する。飲食との付き合いのうちで一番重要なのは、アルコールとの付き合い方だろう。以前は適量のお酒は薬になるとよく言われていたが、最近の研究結果によるとお酒は微量でも悪くなることはあれ、良いことはないということがわかったらしい。確かに依存レベルになると誰が見ても問題があるとは思うが、たまに適量を飲むことによりストレスが解消されるのならそれも良いとは思うのだが、実際はかなり意識していないとアルコールの量が増えて行ってしまう。

プロスポーツ選手は食べ物の栄養にこだわっているという話はよく聞く。僕はアスリートではないので、食事がどれくらいアスリートのコンディションを左右するのかはよくわからないが、そのような食事に対する意識はある意味プロ意識の表れだと言えるだろう。

飲食の体に対する影響は分かりやすい話だが、体だけではなく頭脳への影響も非常に重要な話である。頭脳へのアルコールの影響は言うまでもないが、僕は最近コーヒーの影響に敏感になっている。コーヒーにはカフェインが入っており、適量のカフェインなら頭脳を覚醒させると言われるが、やはり度が過ぎると良くないようだ。もちろん人によって適量は変わってくるであろうが、何事も適量に抑えることが重要になる。

頭脳を最高のコンディションに保つためにはどうすれば良いか?適量のコーヒーと、適量のチョコレート(糖分)、そして適切な睡眠であろう。そうは頭では認識していても、これら三つを上手くまとめるのは意外に難しい。過度に気を使って疲れてはどうしようもないが、ある程度の健康マニアになることはメリットが多いのではないだろうか?

自己マインドコントロール。

マインドコントロールと言えば、日本では某大事件により非常にネガティブなイメージで捉えられているが、自分をマインドコントロールすることは非常に大切な事である。自分をマインドコントロールする、すなわち自分で自分を操れないと、目標へ近づくことはできない。

逆に自己をマインドコントロールできない状態は非常に危険である。自己マインドコントロールできないと、周りからマインドコントロールされる危険性が増える。他者からのマインドコントロールが危険な事は、過去の某大事件からも明らかだ。他者からマインドコントロールされないためにも、自己マインドコントロールをしっかりとすることが必要だ。

各分野でプロと言われるくらいのトップアスリートは、おそらく自己マインドコントロールが高度なレベルで取れている。そしてスポーツ選手だけでなく、あらゆる職業でも同じことが言えるだろう。欲望は時には必要だが、打ち込むべき事に打ち込む時は、欲望に流れるのではなく自己マインドコントロールによって統制されていなければならない。もちろん時には爆発することも必要かもしれない。しかし自己マインドコントロールされているかいないかで、爆発する質も方向も180度変わってしまう。

自分の掲げる高い目標に到達するためには、まずは自己マインドコントロールによって自己を統制することが必要であることに気付く。自己マインドコントロールができる状態は、人間性を高度に保った状態だと言える。自分が人間らしく、そして自分らしく個性を出すためにも、自己マインドコントロールは非常に重要である。

主義・主張を掲げる。

主義とは何か?それは信念の主張である。日本人は主張が下手だとよく言われる。日本ではなあなあの雰囲気で物事が決まる中、自分の意見を主張するとわがままだとか協調性がないと言われる。野茂英雄氏がメジャーリーグに挑戦した時、日本では野茂氏をわがままだとけなし酷評する人が圧倒的多数だった。無言の野茂氏がそれを跳ね飛ばすことが出来たのは、実力を発揮し結果を残したことによるのは言うまでもない。自分の主張に対する批判を跳ね飛ばすのは、結果を出すしかないのだ。

主義主張の背後には覚悟があり、それをわがままだと一蹴するのは早計だ。その一方、主義主張を勘違いする人も出て来ている。単に楽をしたいからとか自分の都合の良い解釈を言い放つのは主義主張とは言えない。野茂氏のメジャー挑戦は明らかに厳しい道への挑戦であり、自分の都合だけを通した訳でも何でもない。まさしく野茂氏の強い覚悟を感じる。

近年は日本でも個性が重要だという雰囲気も出来つつあり、昔に比べれば主義主張がしやすい環境になってきた。そのような中でも、主義主張を貫くにはエネルギーもいるし、人生に対するリスクや金銭的リスクも伴う。時には命に係わることもあるであろう。しかし自分の信念に嘘は付けない。とは言え、信念だけで物事が成功する訳ではない。そこには成功への明確なビジョンがなければならない。そして実力もなければならない。それらが一つにつながった時、主義主張に基づく挑戦は達成されるのである。

野茂氏のようなパイオニアがポンポン出てくる訳では決してない。しかしパイオニアとして挑戦しようとする若者、あるいは中年かもしれないが、それらの人が厳しい挑戦に立ち向かい、リスクを取りながら成し遂げようとする意志には、大きな敬意を払いたいと思う。

アナログ回帰。

近年押し寄せている社会のデジタル化の波は非常に大きい。スマホを始め、身の回りの物のほとんどがデジタル化され、最近はIoT(Internet of Things)という言葉も流行している。その一方、一部ではデジタル回帰とも言われる動きが見られる。例えばiPadなどを始めとする電子機器などでの書類管理が進んでいるが、個人レベルでは紙(ペーパー)の魅力を再発見することもある。紙の書籍は今でも電子機器などでは得られない魅力と効果がある。またアップルウォッチなどのスマートウォッチが普及する一方、機械式時計がブームを起こしている。

僕自身も今、一部アナログ回帰しようと取り組んでいる。しかし一度デジタルの世界に慣れてしまえばアナログ回帰をすることは容易ではない。かなり意識しないとついついデジタルの世界にどっぷりとはまってしまう。無意識の内にどこかでネットとつながっている。確かにネットは非常に便利だが、依存症になるほど浸かるのは問題だ。現実世界を強く意識し、リアルで周りの人とつながることが大事である。

そんな僕も、現在使っている旧型のiPhoneを新型に買い換えたいという衝動は凄くある。スマホを買い換えるのも良いし、ネットを駆使するのも良いと思う。ただ現実世界に生きていることを忘れてはいけない。あるいはもしデジタルやネットの世界に浸かるのなら、徹底してそれらを駆使するという手もあるのかもしれない。例えばゲームにはまるのなら、ゲームをするのではなくゲームを作るというようにだ。またデジタルを駆使することによって無駄な時間を大幅削減するというのも手だ。間違ってもネットがネットを呼ぶように雪だるま式に時間やお金を浪費してはいけない。

アナログに生きながらも、デジタルを上手く駆使すれば時間もお金も有用に使えることが出来るだろうし、自分の打ち込むことにも効率的に取り組むことが出来るであろう。そして人との連絡や出会いも大きく増やせるかもしれない。しかしその塩梅が難しい。現代社会に生きている限り、デジタルな世界を無視することはできない。だからと言ってアナログ世界は必要ないかと言えば、それはそれで今でも魅力的な所はいくつもある。デジタル世界である現代社会の中で生きながら、いかにアナログの魅力と利点を取り入れられるか?これは簡単そうで非常に難しいスキルが必要である。デジタル回帰は一筋縄では行かなさそうだ。

孤独死の何が悪い!

近年問題になっていることの一つに、孤独死がある。孤独死が起こるたびにニュースが流れ、孤独死が問題であるような論調で語られる。しかし僕には孤独死の何が問題なのか理解できない。僕自身も死ぬ時は人に見取られたいと思ったことは全くなく、むしろひっそりと孤独死をしたいと思っている。

孤独死の問題は、孤独に死ぬこと自体が問題ではなく、生きがいが持てないことにあるのではないだろうか?大きな生きがいを持って生きていれば、今いかにして全力で生きるかということに力を尽くすことが大事であって、どのような形で死ぬかなどということは些細な事であることが分かる。さらに言えば、孤独死を問題にしてしまうような意識の方がはるかに問題ではないのかと感じる。

もちろん人によっては、死ぬ時の形にこだわる人もいるだろう。もしかしたらそのような人の方が多いのかもしれない。しかし繰り返すように、死ぬ時の形よりも生きる形の方がはるかに重要であり、死に方を考えるくらいなら「それまでいかにして生きるか」ということを考えた方がはるかに有機的である。

人生とは惰性で生きる事では決してない。もちろん皆真剣に生きているとは思うが、生きる行為が惰性になった途端、生物学的には生きていても精神は既に死んでいる。そして孤独死にこだわることは生物学的な死に焦点を当てたものであり、大事なのは生物学的な死の直前までいかに“精神的”な生命力を発揮するかということである。

死は誰にでも訪れる。そういう意味でどのように死ぬかということは誰もが考えることかもしれない。しかしそれは孤独死を問題視しすぎる事では決してないはずだ。死に方よりも、いかにして死の直前まで自分という人間の精神活動を行うかということに焦点を当てるべきだ。