月別アーカイブ: 6月 2019

転んでもただでは起きぬ、鋼のメンタル。

転んだり失敗した時にどう思うだろうか?もちろん、転んだらそこから起き上がろうとする。その時どこを目指して起き上がろうとするのか?多くの人は転ぶ前の状態を目指して起き上がろうとするのではないだろうか?もちろん、それでも大きな復活と言えるのかもしれない。しかしそのもう一段上を目指すのも大きな手ではないだろうか?

そのもう一段上とは、転んで復活する時に、転ぶ前よりさらに上を目指すという事である。転ぶ前と同じなら、転ばなかったのとそう大差はない。しかし転ぶことによって学ぶこと、気づくことはいくつかあるはずだ。それらの事を生かすと転ぶ前よりステップアップすることは不可能ではないはずだ。

ただ、そのためには鋼のメンタルが必要だ。僕自身、特に鋼のメンタルを持っている訳ではないが、今鋼のメンタルを持っていないからと言って、そのような事が不可能だとは思っていない。今持っていないのならばこれから身に付ければ良い。もちろそれは簡単な事ではない。しかし不可能ではないはずだ。

転ばないでそのまま行けば、鋼のメンタルを身に付けるきっかけは訪れない。すなわち転んだことは、鋼のメンタルを身に付けるチャンスなのである。もちろん、一回の失敗だけで大きくメンタルを強化することは難しいかもしれない。それなら失敗を繰り返せばいい。失敗を繰り返すことによって、その度メンタルを強化すればよいのである。

失敗は大きなチャンスである。しかし失敗をネガティブな事と捉えている人があまりにも多い。失敗をどう捉えるかによって、その後の人生は大きく変わる。いくつもの失敗を一つの大きな成功へ結びつけるために、失敗を飛躍のきっかけにしたいところである。

失敗ドンと来い!

最初なのに、最後の力を振り絞っているような・・・。

力を振り絞ると言っても、毎日全力で力を出し切れている訳ではない。調子が良い時は大きく前に進むが、調子が良くない時はどうしても停滞してしまう。人生なんて山あり谷ありなので、常に絶好調という訳には行かない。

人間というものは二つに分けられる。これからの人か、これまでの人か。この事に年齢は関係ない。歳を取っていてもこれからの人は少なからずいる。その一方、年齢は若くてもこれまでの人はかなりいるように思える。では、これからの人とこれまでの人は何が違うのか?それは挑戦をしているかどうかという事だと思う。あるいは向上するために努力をしているかどうかだと思う。もちろん、これからの人の未来は明るい。そしてこれまでの人のこれからは余生あるいは惰性なのかもしれない。

人間には寿命があるので、年齢が全く関係ないとは言えない。歳を取っていると、死ぬまでの年月は確実に少なくなっている。しかし死ぬまでの時間が少ないからと言って、未来がないという訳ではない。目標を持ち、それに突き進んでいれば、未来は自ずと明るくなる。もちろん、体力的にも精神的にも苦しいかもしれない。しかし自分の選んだ道を進んでいるのなら、明るい未来が一層明るく見えてくる。

結果を出せれば、そのことについては初めての結果になる。そしてその先もあるのでそれだけでは終われない。しかし何だか最後の力を振り絞っているように思える。ここで力を振り絞って結果を出さなければ、その先には何もない。なので力を振り絞るということ以外の選択肢はない。僕の精神は最近ますます若くなってきているようだ。

最適解と厳密解。

科学を理解するとは、科学には何が出来ないかを理解することである。科学を理解している人は、科学には何が出来ないかを理解している。しかし科学を理解していない人は、科学で何でもできると思っている。これはAIにも言えることであり、AIを理解している人は、AIには何が出来ないかを理解している。しかしAIを理解していない人は、AIで何でもできると思っている。では現在のAIには何が出来て、何が出来ないのだろうか?

数学や物理学は、“厳密解”の学問である。数学者は数個の定義から多くの事を厳密に導いて行く。これは完全論理である。この様な事は人間だからできることであり、AIにはほとんどできない。それはなぜか?それを知るにはAIの仕組みを知らなければならない。しかし難しい事はいらない。僕だってAIの専門家である訳ではない。概要を知るだけでもかなりのことが分かる。

AIを動かすには、まず膨大なビッグデータが必要である。このデータの数が多ければ多いほど精密な結論を導くことが出来る。このような道筋は数学とは対照的である。数学が厳密解の学問であるのに対し、AIはビッグデータから“最適解”を導いているのである。よって、AIに数個の定義を見せても、そこからは何も出来ない。意外とAIは論理に弱いのである。

AIと言えば、最近は将棋AIが話題になる。この将棋AIもやはり最善手と言われる最適解を探しているのである。なので厳密解ではないから、AIだって負けることがある。もちろん、人間の棋士だって厳密解を出せるわけではない。もし厳密解を出せるのなら百戦百勝である。

AIで何でもできると思っている人は、AIの事を何もわかっていない。現在ではむしろ人間の方が万能なのである。人間は物を持ち上げることも出来るし、数学も文学も出来る。そして料理も出来る。まだまだ人間も捨てたものではない!

自分のプラットフォームを持つことが大事!

現在、世界のシステムを支配していると言われるGAFA(Google、Apple、Facebook、Amazon)に共通するのは、この全てがインフラのプラットフォームを握っているという事だ。プラットフォームを握るとは言い換えると、物事の根幹を握るという事だ。根幹とはある意味本質であり、すなわち現代社会の本質を知ろうと思えば、GAFAが何を支配しているかを知らなければならない。GAFAの力が圧倒的に大きくなりすぎた現在の社会システムには大きな批判があるが、このような状況を変えるためにもGAFAの支配するシステムを知り尽くさなければならない。

現代社会のプラットフォームはGAFAであると言えるが、自分という人間に対しても明確なプラットフォームを持つことは重要だ。これはすなわち、自分という人間の根本的枠組みであり、そのような枠組みをはっきりと形成しないと人間性という中身を埋めて行くことはできない。

しかし、このような人間的枠組みというものは、はっきりと認識することが難しい。少なくとも簡単に目で見えるものではない。目で見えないものをどう捉えるか?という事が非常に重要になる。人間的プラットフォームを認識できなければ、どうしても表面的な事に終始してしまうことになる。すなわち根幹ではなく枝葉末節的なことにとらわれてしまうのである。枝葉は根幹から伸ばさなければならない。根幹のない枝葉などはすぐに枯れ落ちてしまう。

根幹をしっかりと形作るか?枝葉などの表面的な事を繕うか?そのどちらを選ぶかは自分自身にかかっている。自分という人間のプラットフォームを構築することが出来ると、中身は自然と埋まって行くはずだ。自分という人間を豊かなものにしたければ、まずは明確な枠組みを構築することから始めなければならない。

山里亮太さん、結婚おめでとう!

お笑い芸人の山里亮太さんと、女優の蒼井優さんが結婚をされた。僕は以前から山里亮太さんが大好きで、テレビで見せる山里亮太さんの多彩な顔にはいつも引き込まれる。山里亮太さんの結婚には、一ファンの僕としても非常に嬉しく、祝福を送りたい。

山里亮太さんは非常に多彩な人だ。お笑い芸人でありながら、硬派な話題にも鋭く対応する。軟派な話題から硬派な話題まで幅広くこなす山里さんの対応力には舌を巻いてしまう。

山里さんは様々なテレビ番組に出演されているが、僕が一番好きな番組は、金曜日の夜中(関西地方)に流されている番組だ。その番組では、山里さんと池上彰さんが生徒と先生のような形で議論するという形式で進められてるが、山里さんが質問する際にも視聴者がその話題の問題点が分かるように話される。山里さんの話は非常に分かりやすいのだ。ただお笑いの話を延々とするのではなく、問題点が非常に整理されている。この様に整理して話せる人はなかなかおらず、山里さんは非常に聡明な方だという印象を強く受ける。

今回の結婚によって山里さんの話術と話の中身のレベルが一層高くなることを楽しみにして、これからの活躍を強く願うばかりである。

強度を上げる。

先ほど、全仏テニス・錦織圭対ナダルの試合を少しだけ観た。そこで解説者が、「ナダルは非常に強度の高い練習をしており、本番より練習の方が入らないくらいだ」と言っていた。これはおそらく、練習で120%の力を出して、本番で100%の力を発揮するためではないかと思う。やはり練習をまともにできない者が、本番で100%の力を発揮することはありえないのだと思う。

調子の良い時は物事がはかどるが、調子の乗らない時はどうしてもはかどらない。はかどる時は徹底的に推し進めて120%の力を出せばいい。しかし調子の乗らない時にどのように取り組むかが問題である。調子の乗らない時でも100%の力を発揮したい。いや、80%でもいい。何もしないよりはましだ。とにかく少しでも前に進めたい。しかしどうしても、調子の悪い時は一度休んで、調子が良くなった時に全力を出せばいいと思ってしまう。しかしそのような考えだと、調子が戻った時も100%の力を出すのは不可能だ。いつも全力で最善を尽くしたい。

その一方、野球の先発投手では常に100%の力を出すことは不可能だ。むしろ平均で70%くらいの力をコンスタントに出すことが求められる。とは言え、ここぞという時は120%の力を出すことが求められる。それが実行できるのが、ヤンキースの田中将大投手であり、巨人の菅野智之投手である。先発投手のように長期戦になるとそのようなペース配分が重要であるが、それはもちろんいつでも120%の力を出せる事が前提だ。

プロスポーツ選手から学び取れることは沢山ある。純粋にスポーツ観戦を楽しむのもよいが、自分の専門をプロとして極めようと思うのならば、同じプロとしてプロスポーツ選手から取り組み方や戦略の立て方を学び取るのも一つの手である。そして何事もそのような視点で物事を見ることが大切であると思う。

川崎の無差別殺傷事件について。

現在、川崎での無差別殺傷事件について広く議論されている。なぜ容疑者はこのような事件を起こしたのか?事件を防ぐ手立てはなかったのか?この事件について考えるべきことは尽きない。

今一番問題になっている意見は「自殺するのなら一人で死ねばいい」というものだ。この意見がどのように問題なのか?これに対する僕の意見を書いてみる。

この事件の容疑者は、事件後自殺をした。従って初めから自分は死ぬつもりで事件を起こしたと思われる。ではそれなら、この容疑者は一人で死ねば問題はなかったのか?それは全く違うし、問題の争点が完全にずれている。なぜならこの事件が起きたのは、この容疑者を自殺にまで追い込んだことにあり、「容疑者の自殺=無差別殺傷事件」という構図が成り立つからである。すなわち事件を防ぐためには、そもそも容疑者の自殺を防ぐことが必要であったのだと考えられる。

ならば、容疑者を自殺へと追い込んだものは何だったのか?家庭の事情、社会的事情、それとも容疑者の人間性なのか?それは今となっては分からない。しかし一つの事情だけでなく、これらの複数の要因が重なって起きたのではないかと考えられる。この中で最も考えなければならないことは、社会的事情であろう。社会の在り方次第では、家庭の事情や人間性の問題も乗り越えられた可能性がある。特に日本は再チャレンジが非常に難しいという固有の事情がある。このことは、多くの人間を追い詰める原因として十分だ。これは言い換えると、たまたま上手く行けば全てが上手く行くが、たまたま上手く行かないことがあると全てが上手く行かない可能性があるという事だ。もちろん人によっては、何度上手く行かなくてもめげずに何度も立ち上がれる人がいる。逆に、些細な失敗が原因で立ち上がれない人もいる。どちらの人間が素晴らしという事ではなくて、これは人間の多様性の問題であり、多様性が存在することは非常に重要な事である。現在は少子化が問題になっており、至る所で子供を産むことが重要だと言われているが、そのような社会の中でも子供を産まずに色々と貢献できる人も社会にとって大事である。さらには社会貢献だけでなく、学問、芸術などで独自の存在感を発揮する人もいる。このような全ての人が大事なのである。

川崎の事件はただ単に容疑者だけの問題でなく、社会の問題だと考えなければならない。「一人で死ねばいい」という世論は、巡り巡って自分の首を絞めることになるのではないかと僕は考えている。容疑者を追い詰めている要因は、社会に生きる全ての人を追い詰める要因である可能性が高い。このような世論は、度々取り上げられる「自己責任」という世論にも通じるものがある。これらの事は自分には関係ないと思うかもしれないが、社会全体を支配する圧力を通じて自分にも影響を与える問題であると認識することが重要ではないだろうか?

氷山の一角から、その下を暴き出す。

社会においても学問においても、目に見えている部分は氷山の一角だ。研究者はその氷山の一角を見て、その下はどうなっているかという事を追究するのが仕事だ。もちろん氷山と同じで、その下の見えない部分の方が圧倒的に大きい。しかし水面に出ている1割から水面下の9割をどう暴き出すか?そこが研究者の腕の見せ所である。

高校までの数学は、水面に出ている1割に過ぎない。なので本格的に数学を追究しようと思えば、大学レベルの数学を勉強することは必須だ。その中でも、大学一年で学ぶ線形代数と微積分はそれらの全ての土台となる。そしてそれらを縦横無尽に使いこなして水面下へと迫ることになる。

水面下の氷山はどのようになっているか?多くの場合、それは驚くべき形態を取っている。水面上とはまるで違う表情をしているのだ。ただはっきりと言えることは、違う形態を取っているとは言え、水面上の見える部分とは連続的に繋がっている。これは数学に限らず、全ての学問に言える。もしそこが繋がっていなければ、水面下を追究すべき手が無くなってしまう。しかし必ず何らかの形で繋がっているのだ。

現在、人間が認識している数学は果たして全数学のうち何割か?1割なのか?1%なのか?もし数学に無限の広がりがあるのならば0%という事になる。これらの事は答えようのない問いである。何に取り組んでいても、水面に見えるところだけを見ていては本質は掴めない。本質を掴むためにどこまで水面下に迫れるか?学問とはそういうものであると僕は考えている。

微妙に現実的なラインを突いてくるほど、くだらないものはない!

何かを求める時に、そのラインは現実的かどうか?そのような事を考えることは重要である。現実的ではない、絶対に無理な所にラインを設定しても、目標にも何にもならない。しかし世の中を見ていると、そのような事があまりにも多い。そして高い所にラインを設定するのにも、“他人”から見て現実的な所に落とすのも非常にくだらないと思っている。とは言っても、やみくもに非現実的な所を目指せと言っているのではない。重要なのは“他人”から見て非現実的な事が、“自分”にとって必ずしも非現実とは限らないという事だ。

僕は何を言いたいのか?それは「他人が非現実的だと思うような事でも、本気で成し遂げようと思い、そして実際に成し遂げる事が重要だ」ということだ。例えば自分の年収や結婚相手に対する希望年収を「微妙に現実的なライン」に置いてはないだろうか?例えば、「500万は少し少ない。しかし1億は絶対に無理だ。非現実的だ。だから1000万を求めよう」と。僕自身、収入に特にこだわりがある訳ではない。しかしそのような中途半端なこだわりや希望は非常にくだらないと思っているのである。

なぜこのようなことを書いたのか?別にお金の事を言いたいのではない。自分が人生を懸けている目標について言いたいのだ。中途半端な目標を持つのは非常にくだらない。他人が非現実的だと言うくらいのレベルの事を成し遂げる事に価値があるのだ。他人が非現実的だと言うのならば、それは非常に価値がある事に取り組んでいるのだろう。もちろん、それが自分にとっては現実的であることが重要だ。

今僕は面白い問題に取り組んでいる。数理物理の大きな問題だ。他人は非現実的だと思うかもしれない。しかし僕には解決への道のりが見えている(と自分では確信している)。苦しいが楽しい道のりである。日々ペンと紙で格闘し続け、非現実を現実に仕上げなければならないと思っている。

結果を出すまでは飲まなくてもいい!

僕はお酒は結構好きな方だ。しかもかなり強い。なので飲もうと思えばかなり飲める。しかしお酒などは飲まないに越したことはないと考えている。なので、最近はたまに飲むくらいに留めている。しかし、このたまに飲むのが厄介者だ。最近は体質的に依存傾向が強く、二日連続で飲んだだけで苦しくなる。量的にはそんなに飲んでいない。缶ビール一本とかそのくらいだ。

体質的にこのようになったからには、お酒との付き合い方も考えなければならない。一週間に一回だけでも、数日間は苦しい。なので、思い切って断酒することにした。幸い、現在は依存症でも体の病気でも何でもない。はっきり言って最近はかなり健康だ。そのような健康なうちに、断酒を決行すべきだと考えた。

もちろん、体への影響だけを考えてのものではない。今やるべきことは、数理物理の研究で結果を出すことだ。そのためにまず改善すべきことは何か?と考えると、今はお酒は飲むべきでないという結論にたどり着く。少なくとも、結果を出すまでは一滴も飲まないと決めた。もしお酒を飲みたいのならば、結果を出してから飲めばよい。極めて簡単な論理である。

お酒を飲んでいる時間は楽しい。しかしお酒を飲むことによって犠牲にしていることがあるのならば、そこは考え直した方が良い。お酒を飲むことによるメリットとデメリットを秤にかけ、メリットが大きい方を取るべきだ。そしてメリットが大きい方は、お酒を飲まない方だと僕は結論を出した。

とにかく少しでも早く今取り組んでいることで結果を出して、その時、高級ワインの一本でも開けよう!