月別アーカイブ: 11月 2019

知能を持つ事と、意志を持つ事。

数学の研究をするうえで、何が必用だろうか?高度な知能か?もちろん、知能は非常に重要である。しかし数学は、あるいは更に広く学問は、知能と同時に明確な意思を持つ事が非常に重要になる。例えば目の前の計算をするだけなら、そこそこの知能があればできるだろう。そして複雑な計算ならば高度な知能があればできるかもしれない。それこそスーパーコンピューター京ならばどんな計算でもできるかもしれない。しかし数学の本質は計算だけではない。数学の研究を進めるためにはビジョンを持たなければならないし、そのビジョンに基づいてどのような方向へ進むかと言う判断は、計算以上にどのような意思を持っているかが重要になる。

最近、毎日のようにAIが話題になる。そこでAIを理解するためには、AIには何ができないか(できるかではなく)と言うことを理解することが大事である。AIは人工知能と言う言葉からも、まぎれもなく知能である。知能であるからには計算ができる。しかしAIは知能は持っているが、意志は持ち合わせていない。最近のAIを見ると一見意志のようなものを感じることがあるが、実際は膨大な計算による最適化である。AIは意志を持っていないので、ビジョンを持つ事ができないと僕は考えている。従って、計算に基づく判断はできても、ビジョンに基づく判断はできない。

これから何がわかるか?つまりこれからの人間において重要になるのは、計算ではなくビジョンである。少なくとも現在は人間にしかビジョンは持てない。しかし計算だけなら既に何十年前からコンピューターは人間を凌駕している。従って、計算力を武器にしようと思っても、100%勝ち目はない。そして‘‘単なる’’知能だけなら、コンピューターはかなり高度なレベルのものを持っている。

では、これからの人間は何を持つべきか?それは‘‘意志に基づく’’知能である。意思に基づく知能ならば、これからまだまだ人間は勝ち目はあるし、意義がある。もしかしたら、意志と言うのは究極の知能なのかもしれない。意思に基づく知能によってビジョンを築き、それに基づいて未来を開拓していく。それがこれからの人間の進む道ではないだろうか。

フィギュアスケートの華。

僕はスポーツ観戦が大好きだが、特に冬になるとフィギュアスケートの大会が待ち遠しくなる。近年、日本のフィギュアスケートは非常に高いレベルにある。男子で言えば羽生結弦、宇野昌磨のツートップがダントツだが、僕は特に女子選手のスケーティングが非常に好きだ。

女子フィギュアスケート選手にはそれぞれいくつかのタイプに分かれると僕は考えている。フィギュアスケートの王道は紀平梨花、ジャンプ大会の王道はロシア勢というように。そして僕が特に思っているのが‘‘女子’’フィギュアスケートの王道である本田真凛だ。僕は紀平梨花選手のスケーティングが大好きだ。特に先シーズンのフリースケーティングのプログラムであるBeautiful Stormは超名作である。紀平梨花選手に比べ、最近は本田真凛選手の低迷ぶりが話題になっているが、僕は本田真凛選手も紀平梨花選手に負けず劣らずの名選手だと思っている。

本田真凛選手がどう名選手なのか?それは彼女が女性でしか出せない魅力的なスケーティングを最高に表現しているところだ。よく言われているように、本田真凛選手のスケーティングには華がある。これは誰もが認めるところで、おそらく女性の華という点では本田真凛選手に匹敵する選手はいない。彼女の柔らかい滑り、美しい表現は見る者を魅了する。彼女はフィギュアスケートの王道ではないかもしれないが、まぎれもなく‘‘女子’’フィギュアスケートの華だと僕は思っている。

近年、特に女子選手において、フィギュアスケートがジャンプ大会化していると言われている。もちろん高度なジャンプをするためには高い技術が必用であるし、それは認められるべきであろう。しかし最近はジャンプばかりが注目を浴びており、本来のスケーティングの魅力が過小評価されているように感じる。そういう意味で、本田真凛選手はもっと高い評価を受けるべきである。彼女はロシア選手のような4回転ジャンプはできないかもしれないが、ロシア選手は本田選手のような華は出せない。

フィギュアスケートはあらゆる要素があり、それらの総合力で争われる。しかし最近は、過度にジャンプが評価されているし、見ている人もジャンプに注目しすぎているように感じる。僕はこのようなジャンプ大会に対して、非常に退屈を覚える。そのような状況だからこそ、本田真凛選手が新鮮に魅力を感じるのだ。紀平梨花選手も大好きであるが、本田真凛選手にはそのような華を極めるスケーティングで勝負して上位に食い込んでほしいと強く願っている。

本質を見抜いているから、本質的でない所をスルーできる。

当たり前のことだが、物事の本質を見抜くと言うことは非常に重要だ。世の中には物・事があふれている。もし自分一人でそれらの物・事を全て理解しようと思っても、とてもではないが人生千年あっても不可能だ。だからこそ自分にとって必要なもの、重要な事をピックアップして取り組むことが必用だ。

しかし、それらをピックアップする時に、もしかしたら重要ではない事を選んでしまうかもしれない。そのような事を防ぐためにも、物事の本質を見抜き重要な事を定めることが必用だ。そして本質を見抜くことができれば、本質的でないことをスルーすることができる。重要な事に取り組み、重要でないことをスルーすることは、気力と体力を効率的に発揮するためにも必要である。

もし人間の命が無限にあるのならば、手あたり次第何でもかんでも取り組めばよいが、残念ながら(と言うより僕は幸運な事だと思っているが)人間の命は有限である。そして人間は自分一人ではない。周りに沢山の人がいるからこそ、適材適所で自分のできない事苦手な事を周りの人に任せればよい。(僕はそのような事が苦手なので、何とか自分でしようとしてしまう。)

学問に取り組むと言うことは、本質を見抜く目を養うのに絶好だ。数学とは数的世界の本質を見抜く研究であるし、物理は自然(宇宙)の本質を見抜く研究である。経済学は社会の本質を見抜くものだと言えるし、哲学は人間の精神の本質を見つめる。おそらく、本質を見抜いている人と見抜けない人では、見えている世界が全く違うはずだ。人間としての視野を広げるためにも、本質を見抜く目を養うことは非常に重要である。