月別アーカイブ: 1月 2021

自由は健康あってのもの。

今コロナ禍にあって、自由を取るか?コロナ対策を取るか?と言う選択の間で世界が揺れている。特に欧米では自由に対する意識が非常に強いので、外出の自由やマスクをしない自由を声高に叫んで自由を死守する動きが目立っている。日本においてはほとんどの人がマスクをしているものの、飲食などを巡って様々なところで対立が起きている。

自由と言うものは非常に重要である。自由から様々な独創的なものが生まれ、また自由に行動移動をすることにより観光や様々な活動が可能になる。しかしそれらの前提として、健康だから出来ると言う事があるのではないだろうか?健康だからこそ様々なところに移動出来るのであり、また健康だからこそ取り組める物事も少なくない。例えば病院に入院している身では、県外に旅行することもできない。

平時であれば徹底的に自由にこだわるのも良い。しかし今は完全なる非常時である。誰もがコロナに感染する危険性がある。なのでそのような可能性を極限まで下げる必要がある。そして皆がコロナ感染の危険性を避けるため、ある程度(あるいはかなりの?)自由が一時的に束縛されるのも受け入れるべきではないだろうか?コロナを全く気にせずに行動飲食をすることが自由だと思っている人も少なくない。しかしそれはあくまで平時に限ったことである。例えば自由に飲食行動をすることによって自分が、あるいは皆がコロナに感染してしまえば、それによって極度に自由が制限されるのである。なので皆が自由を享受するためにも、今は一人一人が我慢することが必要なのではないだろうか?今少し自由を制限することが、長い目で見れば大きな自由につながるのである。

自分が健康であることによって大きな自由を享受することができ、他人をコロナから守ることによって皆が自由を享受できるのである。今短期的な自由にこだわるのではなく、長期的な大きな自由を獲得するためにも、様々な物事を大局的に捉え判断する事が必要なのではないだろうか?

ワクチンで世の中は変わるのか?

僕の結論から言うと、「圧倒的に変わる」と言う事だ。しかしそれには条件がある。国民のほとんどがワクチンを接種することだ。

その根拠を述べよう。まずワクチンを接種する目的は何か?それは大きく二つある。一つ目は、個人がワクチン接種することによって免疫ができ、コロナに感染する確率を大幅に低減できることだ。そして二つ目は、多くの国民がワクチン接種することによって集団免疫を獲得することだ。そこで重要になるのが、ワクチンの有効性はどのくらいなのか?そしてどれだけ多くの国民が接種するのか?と言う事だ。ファイザー製などのコロナワクチンの有効性は極めて高い。具体的に言うと、90%超にもなる。これがどれだけ高い数字かと言う事をインフルエンザワクチンと比較すると、インフルエンザワクチンの有効性は60%~70%と言われている。なのでインフルエンザワクチンを接種してもインフルエンザに感染する人は結構出て来る。しかしコロナワクチンのように90%を超えると、数値的にはほぼ感染しないと言ってよいレベルだ。しかしもちろん100%ではないので絶対感染しないとは言えないが、ワクチン接種による感染防止効果はかなり高いと考えられる。

しかし一人がワクチン接種しても、社会的効果は発揮できない。より多くの人が接種することにより集団免疫を獲得することができ、感染者数を減少することができる。その増減の分かれ目のラインが何%なのかはまだはっきりしないが、90%を超える人がワクチン接種すれば確実に集団免疫を獲得することができる。国民の内90%以上の人が、有効性90%を超えるワクチンを接種すれば、効果は絶大であることは間違いない。

しかし現在、ワクチン接種に前向きな人は6割から7割と言われている。これでは集団免疫獲得によってコロナを制圧するための効果は激減する。なのでこれからの課題は、いかに多くの人にワクチン接種をしてもらえるかにかかっている。

おそらく最大の懸念は、ワクチンの副作用であろう。しかしここでメリットとデメリットを天秤にかけなければならない。僕自身の考えではメリットの方が圧倒的に大きいと考えているので、接種可能になれば即座に接種を受けに行こうと思っている。しかしワクチンの副作用を考える時に難しいのは、普通の薬は基本的に病人に投与するのに対して、ワクチンは基本的に健康な人に打つ事である。なので仮に副作用が現れると、打たなければ健康なままだったのにとなってしまう。

ここで重要になってくるのは、マスコミの報道である。仮にワクチン後に死亡したとしたとき、それを何の検証もせずにワクチン接種後に死亡したと安易に報道してしまえば、ワクチン忌避が起き集団免疫獲得が出来なくなってしまう。膨大な数の接種が行われれば、偶然その後に(副作用ではなく)他の病気などで死ぬ人が出て来るのは当然考えられる。なのでその死者が、あるいは副作用と思われるものが出た時は、それは本当にワクチンの副作用なのかと言う事を慎重に検証しなければならない。

今年前半の政府の最大の仕事は、いかに多くの人にワクチン接種をしてもらって国民に集団免疫を付けられるかと言う事である。しかし何も積極的施策を行わなければ、前述したように7割弱に終わる可能性がある。なのでGoToなどにお金をばらまくのではなく、いかに積極的にワクチンを受けてもらえるかと言う事にお金をかけるべきである。例えば接種を受けてくれた人には集団免疫獲得に力になってくれたお礼として1万円給付するのも良いと思う。もし一早く集団免疫獲得に成功すれば、経済的にもそれ以上のメリットはあるであろう。そしてその結果、必ず世の中は大きく良くなると僕は強く思っている。

知識の量ではなく、思考の深さ。

昔、ジャーナリストの立花隆氏が自分の事を「異常知識欲者」と言っていたのを思い出す。しかし立花氏の場合は習得した知識を見事に昇華させ、偉大なアウトプットに変えていた。そこから「田中角栄研究~その金脈と人脈」と言う研究が生まれ、見事に田中角栄内閣を退陣へと追い込んだ。立花氏は習得した知識を単なる知識で終わらせず、その知識を基に徹底的に思考と追究を重ね、一国を動かすにまで至ったのである。

しかし多くの人は、知識を習得することには熱心だが、それを基に思考を重ねる事には無頓着であるように思える。知識を習得するだけであれば、それは単なる文字の羅列以上のものではない。雑学がなぜ意味がないのか?そして速読がそれだけではなぜ意味をなさないのか?それはそういう意味だからである。

もちろん僕自身も膨大な書物を所持しており、とてもではないがそれを全て読みこなすことは時間的にも不可能だ。もしかしたら読むだけなら速読ができれば読みこなせるかもしれない。しかし僕は速読をしようなどと言う事には全く興味はない。むしろ僕の場合は遅読と言ってもいいほどだ。しかし問題は、読んで得た知識を基にどれだけ深く思考するかと言う事なのである。速読などは出来ると便利だが、しかし便利以上の何物でもない。百の知識より一の思考なのである。

20世紀の偉大な数学者・岩澤健吉の部屋には、数えるほどの書物しかなかったと言う。しかしそれは彼がいかに深く徹底的に思考していたかと言う事の裏返しである。僕にはとてもではないが、岩澤博士のような離れ業はできない。僕には大量の本に囲まれ、気が向いた時に本を手に取って思考する事しかできないのである。しかし人にはそれぞれのスタイルがある。岩澤博士のようにではなくとも、自分が最も快適に思考できるスタイルを築くことが非常に重要なのである。

9月入学を考えるとき。

コロナ禍は悪化の一途をたどっている。その悪影響は医療・経済など様々なところに及んでいるが、1月から始まる入試シーズンへの影響も取り沙汰されている。今関東地方では、緊急事態宣言の発令が検討されていると言う。もちろんコロナに県境などはないので、今日の都心は明日の地方と言う事になり、影響は遅かれ早かれ全国に広がるものと思われる。

もし緊急事態宣言が発令されれば、入試シーズンを直撃する。入試を強行するのにも危険性があり、しかしもし入試が中止されれば次年度の入学者を迎え入れることができない。菅政権が早い段階で緊急事態宣言を出すことができていれば、入試への影響だけでなくクリスマス、そして正月を直撃せずに済んだ可能性は高い。

しかし過ぎたことは仕方がない。問題はこれからどうするかだ。入試を強行するのもしないのも問題があるのならば、残された解決策は9月入学だけだ。これからのワクチン行政が上手くいけば、夏に入試を行い9月入学すると言う事が一番の解決策になるように思える。しかも9月入学を取り入れることによって、海外と教育について足並みをそろえることができる。日本人学生の海外留学が進まないと言う問題がたまに取り沙汰されるが、これによって海外留学に対する足かせが取れることにもなる。

コロナ禍は確かに大きな災いだ。しかし災いだからと言って全てをネガティブに進めるのは間違っている。これを機に9月入学を取り入れることによって、教育環境を大きく発展させることが可能になる。転んでもタダで起きてはならないのである。いま入試だけでなく、学校教育を強行するのにも大きなリスクが伴う。そしてこのような状況では教育を満足に行うこともままならない。今の子供たちの教育環境を整えるためにも、今政府は9月入学を導入するかどうか本気で検討すべき時ではないだろうか。

人生、爆発の予感?

明けまして、おめでとうございます。

ところで、人生においては調子が良い時もあれば悪い時もある。悪い時は何をやってもうまくいかず、このような時には忍んで耐えなければならない。昭和天皇の敗戦時の玉音放送にも、「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」と言う有名なお言葉がある。もちろんそのような状況が長期に渡れば心身共に持たないであろうが、長い人生の中にはおそらくほとんどに人にはそのような時期があるだろう。僕だってそのような時はあった。

そしてそのような時とは逆に、何もかもが上手くいくような絶好調な時もあるかもしれない。僕はと言うと、絶好調であっても「何もかも」とは行かないものである。しかしそのように絶好調な時には、全てを爆発させればいい。岡本太郎は「芸術は爆発だ!」と言ったが、僕は「人生は爆発だ!」と言いたい。そしてそのような自分の全てを爆発させる時が、今年であると思っている。いや、そうでなければならない。

今、コロナ禍によって多くの人が苦しい立場に置かれている。その一方、日本の株価はかなりの高水準を記録していると言う。今はコロナ禍で苦しさばかりが強調されるが、苦しい人がいる一方、絶好調な人も多くいるのだ。そしてそれは今だけの事ではなく、いつの時代も同じだ。人生においても好不調の波はあるが、それはある程度社会的なものにも左右される。今のコロナ禍で金銭的に追い詰められればそれは自分の人生の不調にもつながって来るであろうし、もしコロナに感染してしまえば健康的な不調にも追い込まれる。

逆に今まで不調だった人には、今は逆転するチャンスだ。このような時だからこそ、ゲームチェンジャーになれる。報道などを見ると、これまで豊かだったがコロナ禍で追い込まれて苦しい思いをしている人がいることを強調するが、世の中にはこれまでずっと苦しかった人もいるのである。例えばホームレスの人であったり、あるいは日本だけでなく海外にまで目を向ければ明日の命さえも確かではない人もたくさんいる。そのような苦しい人たちがコロナ禍を逆手に取って、ゲームチェンジャーになってくれることを強く望む。そして僕自身も研究においてゲームチェンジャーになるべく突き進んで行こうと思う。