投稿者「木原 康明」のアーカイブ

普段、触れない分野に接して。

普段触れるものはどうしても、専門の事ばかりに偏ってしまう。例えば、読む本と言えば専門書に偏り、小説を読むことは最近は皆無になっていた。

先日のブログで書いたが、カズオ・イシグロさんの小説を買って読み始めた。ノーベル文学賞を取ったから読むというのもいかがなものかとは思うが、これも新しい分野に触れるきっかけとしては十分にありではないかと思う。

まだ全部は読んでいないが、話の本質はそこそこ深い。小説であってもただ表面的に流せばいいというものではもちろんない。その背後にある本質、そして描かれている世界の文化、イシグロさんの小説の世界観はこれまでに僕が全く体験したことのないものだ。

小説、それも特に僕からは遠い世界観にある小説を読んで、少しだけ世界観・人間観が広がるように感じている。正直、イシグロさんの小説を理解する自信はなかったし、どれだけ深く掘り下げることができるかわからないが、きっかけはどうであれ、読後に読んでよかったと思える可能性が少しは出てきたように感じる。

科学は間違いを犯しながら発展していく。

科学と言うと、「正確なもの」「絶対的に正しいもの」だと思われがちだが、科学のこれまでの歴史は間違いを修正していく歴史でもある。

例えば、物理学はニュートンにより打ち立てられ、自然の法則を寸分の狂いもなく表すものだと思われていた。ところがそれから200年以上経ったころに、それはアインシュタインにより否定される。そのアインシュタインの理論も現在では完全だとは思われておらず、量子重力理論などのアインシュタインを超える理論の出現が期待されている。

とは言え、物理学は科学の中でも特に精密な部類に入る。生物学や地学などでは修正どころか前時代の理論が完全否定され、全く反対の事が正しいとされることがよくある。

しかし、科学が間違っているととらえるのは間違っている。多くの科学は非科学的なものよりも圧倒的に正しく正確だ。しかも科学には根拠(理論)が存在する。なので、基本的には科学に基づいた考えを受け入れるのが原則である。

もし現在の科学が100%正しいのならば、科学の発展は完全に止まってしまう。現在の正しい科学から、「より正しい科学」へと脱皮していくのが科学の発展というものである。

科学者の探求心は常に深いレベルへと向けられ、継続的発展が行われることになる。

僕には文学的感性はあまりないが。

昨日、本屋に立ち寄ると、さっそくノーベル文学賞受賞者、カズオ・イシグロさんのコーナーが設置されていた。まだ十分に仕入れができていないせいか、本の冊数は少なかったが、五タイトルほどの小説が揃っていた。

何気なくイシグロさんの小説を手にとって眺め、裏表紙にあるあらすじを読んでいると、「日の名残り」という本がなんとなく気になった。しかもこの本は文庫で360ページほどで、決して分厚くなく(もちろん薄いわけでもないが)読みやすそうだったので、ノーベル賞を受賞されたことも読むきっかけにはちょうどよいと思い、この本を購入することにした。

最近は小説とは無縁の生活を送り、ここ数年、小説などは全く読んでいなかったのだが、以前小説を読んだのはいつだろうかと考えると、何年も前(たぶん十年くらい前)に島本理生さんの「ナラタージュ」を読んで以来全く読んでいないことに気付いた。もう少し読んでいたと思っていたのだが・・・

半年ほど前に、ナラタージュが映画化されることを知って、これが公開されたら観に行こうかと思っていたのだが(最近公開されたみたいだ)、僕自身、映画は全くと言っていいほど観ないので、行くきっかけがなくてどうしようか迷っている。僕は映画に対する感性もあまりないと思っている。そして映画の料金がいくらするかということも、千円台くらいということしかわからない。

話しは初めに戻るが、イシグロさんの「日の名残り」を読んで面白かったと思えるのかどうかわからないが、読んでよかったと思えることを期待している。

本当に重要なのは、日本で活躍する外国生まれ・外国籍だ!

今年のノーベル文学賞に決まった、カズオ・イシグロさん。彼は日本生まれの英国人だ。日本生まれの外国人受賞者は、青色発光ダイオードの中村修二さん(米国人)、素粒子論の南部陽一郎さん(米国人)がいる。彼らは日本生まれの元日本人だと大きく騒がれた。

しかし、本当に重要なのは「日本で活躍する外国生まれの外国籍」だ。中村修二さん、南部陽一郎さんはいわば頭脳流出組であり、厳しく言えば「日本を見限った」と言える。

これから重要になってくるのは「いかに海外の優秀な人物を日本に受け入れるか」だ。優秀な外国人に、「日本に行きたい」と思わせるような国にならなければいけない。

もちろん、研究の分野に限らず、ビジネスマンなど様々な分野に関してだ。世界の中から日本が選ばれる、そのような国を作り上げることが、これからの日本の発展には欠かせない。

迷った時には、苦しい方を選べばまず間違いない。

進路に迷った時、どちらを選ぶか?もちろん人それぞれの考えがあり、時にはより楽な方を、時にはより苦しい方を選ぶであろう。もちろんどちらが良いとは単純に断定はできず、ケースバイケースで選べばいい。

僕はどちらに進むか迷った時、最終判断としては、楽な方より苦しい方を選ぶことにしている。これは単に自分の信念に基づいたものにすぎないが、ただ経験則として、苦しい方を選べばまず間違いない。特に長い目で見ればそのことは顕著に表れる。

ただ苦しい方を選び続けるのは本当に苦しい。それは僕だって同じだ。本当に苦しい。ただ投げ出そうとは思わない。とは言え、自分に合っていないと思ったことは、早い時期に投げ出すこともある。

今の僕の現状も非常に苦しい。しかし、だれよりも希望にあふれている。そして今すべきことは、その希望を実現するために一歩一歩突き進むことだ。

できない気がしない。できる気しかしない。今の苦しみも、そこへと進む道のりの過程にすぎない。あとは時間との勝負だ。しかしだからといって、焦ってむやみに急ぎ過ぎてはいけない。どっしりと腰を据えて取り組んでいくことが大事である。

ゲスの極み乙女。川谷絵音氏は、僕よりも二枚も三枚もうわてだった。

先日、「ゲスの極み乙女。」の川谷絵音氏らが、週刊文春とコラボして、文春本社で撮影をしたという。川谷氏と週刊文春と言えば、川谷氏のスキャンダルを週刊文春が紙面で暴露したという因縁の関係だ。僕自身はこのニュースを見た時、週刊文春の行為は明らかにプライバシーの侵害であり、川谷氏が週刊文春を訴えてもおかしくないのではないかと思っていた。

しかし川谷氏はそれを逆手にとって、週刊文春とのコラボに出るという大技に出た。川谷氏のこの柔軟な発想と戦略には、僕も本当に脱帽だ。川谷氏は僕よりも二枚も三枚もうわてだったのである。

川谷氏の今回の行動を見て、川谷氏に対する見方が大きく変わった。以前、川谷氏らの音楽を聞いて、素人の僕にも川谷氏の音楽の才能には非凡なものがあると感じていたが、川谷氏はビジネスマンとしても一流であると今回感じた。

これから川谷氏は世の中に対してどう出るのか?注目したいものである。

楽しむこと、結果を出すこと、勝負に勝つこと。

勉強・仕事・物事に取り組むとき、まずは楽しむことが大事である。「好きこそ物の上手なれ」という言葉があるように、楽しむということは最大の武器である。

しかし、楽しんでばかりではいけない。勉強でも仕事でも、結果を出すことが求められる。楽しむことは最大の武器だと書いたが、時にはストイックに苦しむことも必要だ。しかし、ストイックに打ち込むということは、必ずしも苦しいだけのものではなく、これが快感になる。

そして、時には勝負に出ることもある。勝負ではもちろん勝つことが求められる。例え負け続けても、最後に勝てばいい。最後の勝負が重要である。

楽しむことから始め、そこから結果を出し、そして勝負に勝つ。僕自身このようなことが実践できているかと言えば、はっきり言って心もとないが、これを理想の形として求め続ける姿勢は常に持ち続けたい。

アマチュアの発想と、プロの実行力。

プロと言えども、豊かな発想を持ち合わせている人はあまり多くない。逆に、アマチュアが面白い発想やアイデアを出すことがよくある。ではアマチュアとプロを分けるものは何か?それは実行力である。

例えば、アインシュタインが特殊相対性理論を打ち立てた時、ある哲学者が「私は相対主義者だ。だから私に数学的才能があれば、私が相対論を発見していた。」と言ったという。相対主義というのが相対論を発見するアイデアだとは到底思えないが、百歩譲ってそれがアイデアとする。しかしプロ(物理学者)がプロである所以は、アイデアを実行に移す(数学的な構成を行う)ことにある。相対主義だけで終わらせれば、それは物理でも何でもない。

しかし、豊かな発想を次々と打ち立てるアマチュアがいる。もちろんアマチュアだからその後が続かないわけだが、プロは豊かな発想をするアマチュアを見習わなければならない。

豊かな発想を持ち合わせたアマチュアの感性と、それを構成するという実行力を持ち合わせたプロの技術、その双方を持ち合わせた人間が、新しい境地を切り開いていく開拓者となりえるのである。そのどちらか一方が欠けても大きな成功を成し遂げることはできない。

他分野・他業種の人の話を聞くのが面白い!

勉強でも仕事でもそうだが、普段接する情報は自分の専門領域の事に偏りがちになる。もちろん、専門領域に関する情報は重要であるが、そのようなものは水や空気のようなものである。

そのような時、全く他分野の人の話を聞くと、刺激にもなるし面白い。もちろん視野も広くなる。

誰もが24時間、専門の事だけで生きているわけではない。時間の空いた時には街に出かけることもあるだろう。そのような生活の中で、専門外の世界と触れることは多々あるのだ。従って、自分の世界観・人間観を広げるためにも他分野・他業種の人間と接することは必要だ。

さらに、他分野の話だから自分の専門とは関係ないかと言えば、そうでもない。他分野の情報から、自分の専門に関するヒントを得られるときもある。すなわち、知識に深みと幅を持たせることは、自分の専門に対してもメリットが大きい。

現代は何かと多様性が大事だと言われるが、このように知識にも多様性を持たせることは非常に重要である。

問題を“見つける”ことの大切さ。

学問でも仕事でも、つい「問題を解くこと」ばかりに目が行きがちになるが、それと同じくらい、いや、それ以上に大切なのが「問題を見つけること」である。この「問題を見つけること」の大切さは、成長すればするほど、あるいは極めるほど、その重要性が身に染みてわかってくる。

優秀な受験生が、必ずしも優秀なビジネスマン・研究者になれない一因は、これにあると感じている。入試問題・試験問題というのは、「問題を解くこと」しか評価していない。すなわち、「問題を見つけること」に関してはほとんど手付かずなのだ。入試というものは才能の半分(それ以下?)しか判断していない。そういう意味では、入試というのは‘‘所詮’’入試でしかないのだ。

世の中には、高学歴でなくても優秀な人は数えきれないほどいる。その一方で、学歴しかない人もたくさんいる。優秀な人物は、問題を見つける能力が高い。もちろんそれに問題解決能力があれば百人力だ。

問題を解く力だけではなく、「問題を見つける」というクリエイティブな視点を常に持つことが非常に大切である。