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AI研究者は、Dr.ゲロになるのか?AI制御の重要性。

今、AI開発が劇的に進歩している。多くの人が知っているように、OpenAI社のChatGPTはとんでもない性能を発揮している。これまでは2040年頃にAIが人間の知能を超える「シンギュラリティ」がやってくると危惧されていたが、しかしそれが今年もうすでにシンギュラリティに片足を突っ込んでいることが明らかになった。では具体的に、ChatGPTの何に脅威を感じているのか?例えばChatGPTに相談をして答えてもらったり文章を生成してもらったりしていることについてははっきり言ってそんなに驚異ではない。一番の脅威は「プログラミングの自動生成」である。プログラミング自動生成のループに入ればAIは自分で自分を脅威的な速さで発展させることができる。そのようなループに入れば、人間を超えるのに1秒もかからないであろう。

今、AI研究者たちの間で真剣に議論されているのが、AIによる人類滅亡である。現在のAIの発展を見ると、はっきり言って核兵器よりAIの方が圧倒的に脅威的になりつつあることがわかる。楽観論者たちはAIが人間の代わりに働いてくれるなどと呑気なことを言っているが、AIと人間が一度敵対的な関係になれば、AIが人間を滅ぼすことなど朝飯前だ。AIにとって人間などどうでも良い存在になるのだ。多くの研究者は、一度AIに自我が芽生えて人間を滅ぼそうと思えば、数秒で人類は滅び、人類は自分たちが滅ぼされたことにさえ気づかないだろうと言っている。

とはいえ科学が後戻りできないように、AI開発と言うパンドラの箱を開いた人類も後戻りはできない。では人類に生き残る方法はないのか?その可能性としては「AI制御」を徹底することがあると僕は考えている。つまりAIを野放しにするのではなく、AIを確実に人間の制御下に置くと言うことだ。しかしこのような概念はまだ誰も述べてはいない。少なくとも僕は一度も聞いたことがない。AI開発は性能を上げることばかりに囚われて、AI制御の研究などまだ誰も取り組んでいないのだ。しかしAI制御のないAI社会など、セキュリティ対策を全くしていないネット社会と同然だ。もちろん、AI制御をしたからといって、必ずしも人類滅亡を避けられるとは限らない。しかしAI制御に人類滅亡回避の可能性を賭けてみるべきではないだろうか?

AI制御は今人類最大の課題と言える。国家・社会はAI開発、AI利用一本槍だが、今世界が総力を上げてAI制御研究に取り組むべきではないだろうか?僕もその一端を担ってみようかと真剣に考えている。

漫画「巨人の星」と、元マラソン日本代表・原裕美子さんの「摂食障害・窃盗症」を考える。

ネット記事で、元マラソン日本代表の原裕美子さんの記事を読んだ。知っている人も多いと思うが、原さんは以前、窃盗を繰り返し何度も逮捕されたことでも有名だ。このことだけを見れば「なぜそんなことをしたのか?」と疑問に思うが、実はそれまでの経緯をたどればマラソンに人生を賭けてきたことが大いに関係していることがわかるのである。

原さんは実業団でマラソンに励み、日本代表にまでなった凄い選手であるが、その一方、チームの監督から極度のダイエットを強要され、1日に何度も体重計に乗せられ少しでも体重が増えていると叱責されるという指導を受けていたという。これだけでも極度のストレスを受けるものだが、そこで原さんがそのストレスから逃れるすべを見出したのが「食べ吐き」と言う手法であった。これは文字通り「食べては吐く」を繰り返すものだ。これなら好きなものを思う存分食べることができ、そして吐き出せば体重も増えない。しかしこれは側からみればとても尋常ではない。そしてこのような方向に進ませる指導はとてもじゃないがまともな指導とは言えない。さらに原さんは合宿中に財布を取り上げられていたという。もうここまで来ればこれは「指導者の犯罪」と言っていいレベルである。そのような状況の中、耐えられなくなった原さんは食べ物を窃盗すると言う方向に走ったという。

このような旧態依然の指導を見た時、僕は漫画「巨人の星」を思い出した。巨人の星の内容が原さんの指導と同じであるわけではないが、スパルタで全く理にかなっていない指導者よがりの指導方法は原さんに対する指導と通じるものがあるのではないか。原さんを摂食障害という病気に追いやり、犯罪者に仕立て上げるような指導は、はっきり言って指導ではなくほぼ犯罪だ。さらにそんな指導で強くなれるはずはなく、仮に良い成績を一時的に挙げたとしてもそんなものは見せかけでしかない。それは巨人の星に感化された昔のプロ野球が証明していると僕は思っている。

数十年前、日本のプロスポーツといえばプロ野球一択であり、プロ野球、特に巨人が大ブームであった。王貞治然り、長嶋茂雄然り、彼らは間違いなく日本のトップ選手であった。しかしアメリカと戦ったらどうか?昔は毎年のように日米野球というものが恒例であったが、日本はメジャーの二流選手に全く歯が立たない。そう、彼らは日本の中でこそ超一流であったが、メジャーの世界では眼中にもなかったのだ。おそらく「世界の王」も、もしメジャー挑戦をしていたら三流選手で終わっていたであろうと思う。そしてその元凶が漫画「巨人の星」なのである。

話は原さんに戻るが、そこにあるのは「勝てば監督の功績、負ければ選手の責任」ということであろう。そのような考えのもとでは、選手は単なる使い捨ての道具でしかないのであろう。そしてそのような歪んだ世界を確立させたのが、漫画「巨人の星」であったと僕は考えている。そしてそのような価値観を打破するには野茂英雄の登場まで待たねばならなかった。そう、野茂英雄は日本のスポーツ観を根底から覆したのである。その証拠に、野茂氏がメジャーで成功してから、メジャーで活躍する日本人選手が次々と誕生した。野茂氏以前の「日本人がメジャーで活躍できるはずがない」と言う当時の常識から考えると隔世の差がある。

今、日本のスポーツは非常に良い方向へ進んでいると僕は感じている。理にかなった指導をし、科学の力を借りてより負担の少ない方法で最大限の力を発揮できるようになってきている。そのような中、大谷翔平のような怪物も日本から誕生した。そう、もう巨人の星の時代は完全に葬り去られたのである。

コロナ、5類への移行と対策緩和について。

先日、岸田総理はコロナの5類への移行を表明した。確かに現在のコロナの重症化率や死亡率の低下、感染者数の推移を見ればいつかは5類への移行は避けられないだろう。しかし今回の5類移行にはいくつかの問題点も存在する。

一つ目は、僕が何度も言及している「コロナ後遺症問題」だ。重症化率は低くなったとは言え、コロナ感染後の後遺症発生率はこの種の疾病としてはかなりの高確率だ。欧米では後遺症の発生率は8人に一人と言われ、軽い倦怠感レベルでは約半数の人が抱えると言われている。これは単純に一千万人が感染すれば125万人が後遺症に悩まされる計算になる。もちろん後遺症と一口で言っても重症なものから軽いものまで様々だが、これは間違いなく大きな社会問題になる。そして現在のところ、後遺症の決定的な治療法は見つかっていない。なので後遺症の有効な治療法、あるいは薬の開発は最重要課題と言える。

そしてもう一つの懸念は、今後現れる変異株の病原性が低いとは限らないと言うことだ。現在中国では爆発的な感染が広がっている。そして感染者の多さから考えて、いくつかの変異株が発生する可能性が非常に高い。これまでは病原性の高いデルタ株から低いオミクロン株へと病原性が低下する傾向にあった。しかし確率的な問題として、これからも病原性が低下するとは限らない。可能性としては致死率の高い変異株が現れても何もおかしくないのだ。もちろんその可能性はどちらかというと低いと考えられる。しかしそのようなことも想定して政策を進めることが重要なのではないか。

僕の個人的な意見として、現在では確かに2類分類は厳しすぎると考えている。しかしだからと言って、上記したように、後遺症問題、変異株問題を考えると、季節性インフルエンザと同じ分類にするのも違うように思う。もし5類に分類した後に病原性の高い変異株が流入したときはどのような対応をとるのか?そのような想定が一切見えてこない。僕は今後のコロナ政策には柔軟性が一番大事だと考えている。流行が激しい時や病原性の高い変異株が入っていきた時には対策を強める。そして流行が下火になれば緩和する。そのような対応を可能にするためにも、2類や5類とかではなくコロナ独自の「新型コロナ類」を設けるべきだと考えている。そして類別に縛られることなく対策を柔軟に進めるべきだ。

とにかく重症化率が一時的に低下しただけでは、季節性インフルエンザと同じだとは言い難い。そもそも新型コロナは季節性ではなく一年に何度も流行を繰り返す。なので決定的な治療薬や変異株によらないワクチンが開発されるまでは予断を許さないと僕は考えている。

コロナ禍、「終わりの始まり」か?、それとも「始まりの終わり」か?

思い返せば、初めてワクチンが出回ったことは、これでコロナ禍とはお別れだと思った。実際、ワクチン1回目接種後の2021年度終わり頃は、日本では劇的に感染者数が減っていた。しかしコロナ禍は今でも収まることはなく、延々と続きそうな気配である。それどころか、感染者数はますます増えてきており、それだけを見れば悪化しているとも捉えられる。幸いにもコロナウイルスは弱毒化しているように感じられ、コロナ問題は弱小化しているようにも感じられる。しかしこれも本当にコロナウイルスが弱毒化しているのか?それともワクチン効果で重症化が抑えられているのか?はっきりと判断できない。

今社会ではコロナ禍の「終わりの始まりだ」と言う声が叫ばれている。しかし本当にそうなのだろうか?僕にはむしろ「始まりの終わり」のように思えてならない。むしろこれからが、本格的なコロナ共存社会に突入するのではないかと感じられるのである。確かに今ではコロナは弱毒化して重症化の危険性は圧倒的に低下してきているので、本症状自体は過度に恐れるものではなくなった。しかしそれに変わって今は「後遺症問題」が顕著になってきている。しかもこれがかなり深刻な問題なのだ。コロナの本症状が軽症だった人でも、寝たきりレベルの重篤な後遺症が現れることもそれなりにある。後遺症が発症する確率は8人に一人と言われている。これは異常な割合だ。軽い倦怠感が残ると言うレベルだと、半数くらいの人が発症しているとも言われている。今はコロナが治った後の方が恐ろしい状況なのである。

このようなことから、本当に社会がコロナ禍を克服したと言えるには、コロナ後遺症のほぼ完全な治療法が確立した時なのではないかと僕は考えている。ではそれまで我々ができるコロナ対策は何なのか?それは日々の行動やマスクに加えて、定期的にワクチン接種するくらいしかない。とは言え、僕自身はワクチンに対してかなり肯定的な考えを持っておりワクチンは積極的に打つべきだと考えているが、そのような僕でも最近の状況を見るとワクチンに対して疑問を持つことも出てきた。ワクチンが出てきた2021年度後半、まだデルタ株が猛威を奮っていた頃、ワクチンの発症予防率は95%と言われてなり物入りで登場してきた。しかし今では発症予防などはほとんど言われず、重症化予防が目的だと内容が完全にすり替えられている。とは言え、ワクチンは後遺症の危険性も低下することがわかっている。なので今僕は後遺症予防だと考えてワクチンを打っている。

ではこのように、コロナ禍はこれからも延々と続いていくのかと言われれば、僕は決してそうではないと言いたい。治療薬が次々と開発されていくように、後遺症の治療法も確立される日が必ず来るだろう。しかしそれにはまだまだ時間がかかるように思える。その理由は、コロナ後遺症の発症メカニズムがまだ完璧にわかっていないからだ。発症メカニズムがわからないことには対処のしようもない。まずはコロナ後遺症のメカニズムを突き止めることが今の一番の課題だ。しかし近い将来、コロナ後遺症が大きく解決する日が来るであろう。その時こそ「始まりの終わり」から「終わりの始まり」に変わったと言えることであろう。

今の日本の選挙制民主主義は絶対か?

戦後日本は民主主義を掲げ、それは日本国家の根幹であると言う体制をとってきた。それは絶対に間違いではないし、僕もその考えには大きく賛同している。しかしその民主主義の根幹と言われる選挙制が絶対か?と言われれば、今国民の多くは大きな疑問を持っているのではないだろうか。これまでも度々票を金で買っていることが問題になってきた。そして今ではそこに宗教勢力が加わっている。金問題・宗教問題である。

今自民党は、この二つの問題に直面している。宗教問題に関しては、現在大きな問題になっているのとは別に、公明党問題もあるだろう。公明党は皆が認知している通り宗教勢力である。そして自民党はその宗教勢力と連立を組んでいる。なので今の与党は宗教と政治の関係問題に大きく踏み込めない。しかしそこを知って知らぬふりをすると、国民の疑念は大きくなるばかりである。

票を金で売り買いし、そして宗教勢力と取引されている現在において、果たして選挙制が民主主義の絶対だと言えるだろうか?今の「選挙は絶対」と言うスタンスは単に表面を繕っているだけのように思えてならない。最も重要なのは政治に民意を反映させることだが、今の選挙が本当に民意を表しているかどうかと言われれば疑わしい。

そしてもう一つ大事なことは、政治に民意を反映させる(つまり多数決)ことは大事だが、さらに長期的観点から少数意見も取り入れることも重要である。典型的な例で言うと、現在は人口の多い高齢者の意見ばかりが通っているが、それより少数の若者の意見がおざなりになっている。しかしこれからの社会を作っていくのは老人ではなく若者である。しかし国は若者に投資をすることに積極的ではない。老人優遇の政策ばかりである。しかし若者の意見も聞かず投資もしないのは高齢者逃げ切りの体制であり、未来の破壊である。なぜこんなことになるのか?それは少数派(若者)の政策は票にはならないし、そもそも政治家自身がほとんど高齢者である。そしてこれが現在の選挙制民主主義の結果である。

僕は選挙制自体を否定しようとは全く思わない。しかし現在の選挙制は良い方向に機能していないのではないかと考えているのである。もしかしたらこの原因は選挙関連の法にあるのかもしれない。そして宗教関連の法に原因があるとも考えられる。とにかく今の日本では、未来に光を見ることができない。現在円安・インフレが急激に進行しているが、これによって皆が平等になっている。正確に言うと「平等に貧しくなっている」のである。これまでデフレばかりが問題になっていたが、今の円安・インフレであるが給料が全く上がらないという状況では、まだデフレ時代の方が幸せであった。コロナ前、インバウンドによる観光客の増加が歓迎されていたが、(日本人は日本の観光資源が素晴らしいからだと言っているが)一番の原因は物価安である。日本に来れば物が格安で手に入るから来ていると言うことなのである。

とにかく今を凌ぐことしか考えない政治家たちの姿勢は大きな問題であり、今のままでは日本の将来に期待が持てない。

それでも新庄剛志が大好きだ!

9月28日、「BIGBOSS」がユニホームを脱いだ。これで一年の監督人生が終わるのかと思いきや、来年からは新生「SHINJO」監督として再出発することを表明した。新庄の大ファンの僕としては、本当に喜ばしい限りだ。僕自身は実は子供の頃から阪神ファンである。なので1992年の阪神・新庄の実質的なデビュー年は非常に印象に残っている。その年は「新庄・亀山フィーバー」として今でも阪神ファンに語り継がれている。僕は阪神ファンであるが、その1992年以来、大の新庄ファンでもある。なので今年、新庄の日ハム監督就任が決定してからは、阪神以上に新庄日ハムを応援していた。日ハムには少し悪いが、「日ハムファン」というより「新庄ファン」なのである。しかしそんな新庄が指揮する日ハムは、今ではすごく好きな球団である。

来年日ハムは新球場「エスコンフィールド」で再出発する。その記念すべき一年目に新庄監督が指揮することが決定したことは、非常に喜ばしいことである。新庄も大好きだが、その新庄のもとで活躍する新庄の愛弟子たちも大好きである。特に愛弟子・清宮君の活躍には非常に心が踊らされる。プロ入り後は完全にヤクルト・村上選手の影に隠れていたが、来年以降エスコンフィールドの星となって輝いてくれることを願っている。

ところで僕は、新庄は日本で一番プロ野球のことを理解している野球人だと思っている。「スポーツ」としてのプロ野球を理解している人は無数にいるであろう。特にプロ野球選手、そしてプロ野球監督ならば当たり前のように熟知しているはずだ。しかしプロ野球にはもう一つの側面がある。それは「エンターテイメント」としてのプロ野球だ。そしてこのエンターテイメントとしての側面を限りなく理解しているのが新庄監督その人だ。このエンターテイメントとしての側面はスポーツとしての側面以上に重要かもしれない。なぜなら、エンターテイメントとしての側面があるからこそ観客が入り、そしてファンが金を落とし、それによって選手に巨額な年棒が入ってくるのである。なのでエンターテイメントとしての側面を無視し、技術がトップレベルだから巨額な年棒を払えと要求する選手がいたら、それは全く的外れな要求なのである。新庄とは逆に、それを全く理解していない的外れなスポーツ選手がいた。それはテニスの大坂なおみ選手である。彼女は技術だけを見せればいいと考え、インタビューを拒否するということをしていた。それは全く観客・ファン無視の行動である。もし技術を極めることだけが全てならば、山奥のコートで一人で黙々と励めばいいだけなのである。しかしもちろんそれではお金は一円も手に入れることはできないであろう。インタビューまでも含めて「プロ」スポーツ選手なのであり、それによって巨額の金を手に入れられるシステムなのである。新庄の指揮する野球がここまで面白いのも、新庄がエンターテイメントとしてのプロ野球を熟知しているからと言える。しかしもちろん、野球の技術がトップレベルであるという前提があるのは言うまでもない。

ところで、来年始動する日ハムの本拠地「エスコンフィールド」はとてつもなく魅力的なボールパークである。日ハムもよくここまでお金をかけたものだと感心してしまう。おそらくエスコンフィールドは北海道の名所・観光地になると僕は考えている。プロ野球が開催されない日でも、観光客が数多く訪ねて来るだろう。僕も機会があればエスコンフィールドに行ってみたいと思い、すごく楽しみにしている。今年は最下位に沈んでしまったが、来年は新庄監督が「2位も6位も一緒」と宣言しているように、日本一を目指してそれを実現してもらいたい。

来年も引き続き新庄剛志監督を応援するぞ!

コロナ後遺症の問題が議論されなさすぎではないか?

現在コロナ禍が悪化の一途を辿っているが、ただそれは感染者数においてであり、重症化率、死亡率は初期の頃に比べてかなり低下している。とは言え、感染者数(母数)が多くなれば重症化率が下がっても多くなるのは言うまでもないが、ただコロナウイルスの毒性は(もちろんワクチンの効果もあるが)大幅に低下していると言える。そう言うこともあって、「もうコロナはそんなに恐れる病気ではない」と言う論調もあるが、僕はその論調には徹底的に欠けている視点があるように思えてならない。それは「コロナ後遺症問題」だ。

確かにコロナによる本症状は確実に軽症化している。しかしその本症状と後遺症は全くの別問題だ。現時点でわかっていることとして、本症状の程度と後遺症の程度にはほとんど相関はないと言うことがある。つまり、本症状が軽症あるいは無症状であっても、重篤な後遺症を発症するケースもかなりあるという。そして現時点では、それがいつまで続くのかは全くわからない。一ヶ月で治る人もいれば、一年以上経っても治らない人もいる。

そしてもう一つ言えることは、肺や血管に対する損傷である。これについてもまだ確実なことはわかっていないのであくまでも可能性ではあるが、コロナ感染によって受けたダメージを一生背負っていかなければならない可能性もある。とにかくまだわからないことがたくさんあるのである。そのような状況の中、コロナを軽視するのは時期尚早ではないかと僕は考えている。

特に子供などの若い人にとってはこれからの人生は長く、コロナによる後遺症やダメージを長期間背負っていかなければならない可能性が強い。しかし現在、そのような議論がほとんどされていないことに僕は危機感を抱いている。最近になって、コロナ後遺症を専門的に診る病院がいくつかできてきている。そのような病院による統計によると、コロナに感染して後遺症を発症するのは一割とも三割とも言われている。(おそらくまだ正確な統計は出せていないと思われるが)もしこの数字が正確なら、若い人にとっては本症状の重症化よりも後遺症の方が大問題になる。しかし現在になっても、メディアや専門家のコメントに後遺症に関する発言はほとんど見られない。なので専門家は専門的な見地から後遺症問題に対しても積極的に正確な意見をどんどん発信してほしいものである。

安倍元首相に哀悼の意を表す。

7月8日、安倍晋三元首相が凶弾に倒れた。安倍氏に哀悼の意を表したい。

安倍氏は良くも悪くも非常に存在感のある人物であった。なので安倍氏を支持する人は熱狂的に支持するし、反対派は徹底的に安倍氏を叩きのめそうとする。僕自身は安倍氏の総理在任中、基本的には安倍氏支持のスタンスをとってきた。確かに政権末期はおかしいことが立て続けに出てきて疑問を抱くこともあったが、だからと言って安倍氏が大きな業績を残したことには変わらない。特に防衛面での安倍氏の実績は非常に大きかったと僕は考えている。そこでここでは防衛面について僕の考えを少し述べようと思う。

まず、安倍氏の強固な防衛政策には反対する人も多かった。特に安保法案に関しては「戦争法案」とレッテルを貼り付け反対を叫ぶ人も多かった。しかし安保法案は安保法案であって、決して戦争法案ではない。ではなぜ安倍氏は安保法案を強固に打ち出したのか?それはやはり現状のままでは有事に日本を守ることができないという思いがあったからだろう。これまでは何も変えずにそのままにしておけば平和を保つことができた。しかしこれまでは良かったからといって、これからも従来の方法で通用するとは全く限らない。しかし今の日本人は過去の成功に囚われ過ぎている。その結果が現在の悲惨な経済状況である。変化を好まないというのは日本人の気質だと言われているが、しかし変えるべきところは変えていかなければならない。

そして現在の日本人が変化しようとしない理由が、中学・高校の社会科教育にもあると僕は考えている。それは「憲法第9条絶対主義」だ。憲法第9条さえ固持すれば、そして憲法を不変に保てば、平和を維持できると思っているのである。中学校では憲法第9条を徹底的に暗記させられ、それが平和の全てだと教え込まれる。そしてそう教え込まれた生徒はそのまま大人になるのである。これは完全な思考停止状態である。国民が思考停止状態では、平和を維持するのは難しい。まずはどうすれば平和を維持できるかを国民一人一人が自分の頭で考え、維持すべきことは維持し、変えるべきことは変えていかなければならない。

平和状態とは物理で言えば熱力学的平衡状態みたいなものであって、マクロに見ればなんの動きもないように見える。しかしミクロに見れば全ての分子は猛烈な勢いで飛び回っているのである。それと同じように、平和状態にはなんの動きも争いもないように見えるが、それぞれの政治家が頻繁に飛び回り各国と交渉を重ね、そして自衛隊は他国の動きに目を光らせ、他国機の違法侵入があれば即座にスクランブル発進をしているのである。このように平和状態を保つことは、政治家や自衛隊にとっては紛争状態に勝るとも劣らない苦労がつきまとうのである。しかし一般国民の目には表面的には「何も起きていないから平和」と映り勘違いしているのである。実際は「あらゆることが起きまくっているが、それが故に全体的には平衡状態を保っているので平和に映っている」のである。

ここで安倍氏の話に戻るが、安倍氏は防衛政策に非常に力を入れていた総理であった。だからこそ現状のままではいけないと思い、様々なことを変えようとした。そしてそれが海外の国家・政治家たちに「安倍氏はただならぬ人物だ」という認識をもたらし、安倍氏のいる日本には容易に手を出せないと言う状況を作り出していた。今少なくとも日本が平和なのも、安倍氏が存在しているからと言う理由も少なからずあったと思う。尖閣海域では度々中国船が侵入しているが、軍事行動を起こすまでには至っていない。しかしこれからはどうなるかはわからない。尖閣、そして隣国である台湾有事がいつ起こるかわからない状況である。そのような中で安倍氏抜きでどのように切り抜けていくか?難しい判断に迫られることであろう。しかし幸いに、日本には有能な政治家が複数いる。(無能な政治家もいるが。)現在総理をされている岸田氏をはじめ、これらの有能な政治家のリーダーシップのもと、平和を維持していくことは決して不可能ではないと僕は信じている。しかし一歩間違えば破滅を迎えるかもしれないという状況である。平和を守るのに与党も野党も関係ない。今回の安倍氏襲撃に対する対応では、与党・野党が一致した声明を発していた。いつもは与党のすること全てに反対というスタンスをとっている野党も、もし国家の利害に対する意見が一致することに対しては、与党野党共に一致して事を進めて行ってもらいたいものである。

コロナワクチン、これからの課題。

先日、3回目のコロナワクチン接種を受けて来た。現在流行しているオミクロン株にはワクチンの効果は低いと言われているものの、それなりに抗体増加による効果は見込まれると言われていることもあり、僕は積極的に打つ気持ちでいた。僕は3回ともモデルナワクチンであったが、2回目の接種の際はそれなりに発熱による副反応が現れた。しかしそれでコロナ感染および重症化のリスクが減るのなら、これくらいは十分許容範囲内であろうと考えていた。さらに最近では、コロナによる後遺症も低減する効果があることがわかってきており、さらにワクチン接種の意義が高まってきたように思う。

しかし3回目の接種の翌日には想定していた以上の副反応による発熱が現れ、体感でも二回目の接種時の副反応よりかなりきつく感じられた。この副反応は接種翌日だけでおさまったが、一日だけとは言え、かなり精神的には参ってしまった。今回だけで終わるのならともかく、これを毎回半年ごとに接種するとなると非常に大きなストレスとなり気が重くなってしまう。ワクチン接種にかなり肯定的な僕でさえそう感じるのだから、多くの人にとってはかなりの負担に感じるであろう。

そこで僕が考えるこれからのワクチン開発に対する課題を少し書こうと思う。当たり前の事だが、感染防止効果、そして重症化防止効果を高めるのは言うまでもない。それに加えて、後遺症防止効果も非常に重要になってくるはずだ。人によってはコロナはインフルエンザと同じだと言う人もいるようだが、インフルエンザとの決定的な違いは後遺症問題だと僕は考えている。インフルエンザでは(0%ではないだろうが)少なくとも僕は後遺症が発生するとは聞いたことがない。しかしコロナに関しては、数%あるいはそれ以上の確率で後遺症が発生することがわかっている。しかもコロナの症状自体は軽症であっても、後遺症がかなり重篤な場合もあると言われている。これはかなり重要な問題だ。しかもいつまでそれが続くかわからない。これはその後のQoL(クオリティ・オブ・ライフ、生活の質)に直結する深刻な問題だ。

そしてもちろん、副反応による負担が軽く、長期間効果が持続するワクチンを開発することも非常に重要だ。一回だけの接種で済むのならともかく、コロナとの戦いは長期戦になりそうな様相であり、何度も接種しなければならないとなると精神的な負担を軽くすることは非常に重要だ。現在は鼻に噴霧するタイプのワクチンも開発中だと言われている。そのような新しいタイプのワクチン開発に非常に期待する。

現代のように医療が非常に発達し、普通の病気で死亡するリスクが限りなく低減された今となっては、コロナの感染リスクは非常に高い。しかし歴史的に見れば、江戸時代以前の日本、いや世界では、ちょっとした病気で死亡することは日常茶飯事であった。これらの時代には、現代のコロナより危険な感染症に日常的にさらされていたのである。しかし現代の状況から見れば、コロナは深刻な問題であることは間違いない。ウクライナの悲惨な戦火が収まることと同時に、コロナによる脅威も低減していくことを願うばかりである。

真の王者、坂本花織!新たな評価軸を考える。

北京オリンピック、女子フィギュアスケートで、坂本花織さんが銅メダルを獲得した。今回の女子フィギュアはロシア選手の薬物問題が大きく取り上げられ、何かと物議をかもした大会だった。しかし僕が言いたいのは、薬物問題の事ではない。純粋に演技の内容に関してだ。

最近のフィギュアスケートでは、ジャンプばかりに焦点が当てられているように思えてならない。特にロシア勢は、超高難度のジャンプを次々とこなしていくことが代名詞になっている。それに対して坂本選手は、高難度のジャンプをほとんど飛ばないことで有名である。それは裏を返すと、表現力、そして完成度でいかに魅せて行くかと言う事にこだわっていると言う事である。そのような高難度ジャンプを飛ばない坂本選手がメダルを取ったことは、とてつもなく大きな意義があると僕は考えている。

ロシア選手は良くも悪くも超絶技巧ジャンプ。とは言っても、表現力に関しても十分素晴らしい演技をしているので、そこは勘違いしてはならない。そのような演技力あっての超絶技巧ジャンプだ。しかしネガティブな目で見ると、そのような次々と繰り出すジャンプが悪目立ちをしていると言えなくもない。

ぼくは演技中は、テレビ画面の左上にオンタイムで表示される技術点は一切見ないことにしている。それよりも演技そのものの魅力を十分に感じたいからだ。なので坂本選手の表現力、そして完成度は感動レベルのものである。そしてこれからは、このような坂本選手のような表現力を競う演技がさらに求められ評価されていくのではないかと僕は強く感じている。

とは言え、高難度ジャンプそのものを否定しようとは一切思わない。しかしジャンプ大会とも言えるような演技構成に対しては、スケーティングの魅力が半減してしまうのも事実である。確かに高得点だけを狙うのであれば、超絶技巧ジャンプはとてつもなく有効であろう。しかしこれからは演技力そのものをもっと評価して行っても良いのではとも僕は強く思う。そのような意味で、僕は坂本選手が真の王者だと書いたのである。

もし十年後、坂本選手が今回と同じ演技をすれば、圧倒的なチャンピョンになっているかもしれない。いや、そうでないとフィギュアスケートが単なるジャンプ大会になってしまう。それならば別にスケートジャンプだけを競う競技を作ればいいのである。

とにかく、今回の坂本選手の演技は非常に素敵で魅了された。ぼくはあなたが真の王者だと思っている。坂本花織選手、おめでとう!