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メリットとデメリット。

現在、ワクチン接種をするかどうかの判断が問題になっている。ワクチンに限らず、どんな薬でもどんな医療でもリスクはつきものであり、少なくともゼロリスクと言うものはあり得ない。そこでそのようなリスクをどう評価するかが問題になってくる。するか?しないか?の判断を下すとき、人間なのでどうしても感情的な事やイメージなどが入り込んでくる。そのような事抜きで判断する事は実際非常に難しいことだ。しかしそのような判断をするときに最も大事なのは、メリットとデメリットを天秤にかけてどちらが大きいかと言う事を比較することだ。

何度も言うが、ゼロリスクと言うものはあり得ない。道端を歩いていても、車が突っ込んでくる可能性もゼロではない。しかしほとんどの人はそんな危険性など考えずに気軽に道を歩き回っている。それはなぜかと言うと、道を歩いて事故に遭う危険性と、家に籠って自由に歩き回れないデメリットを無意識に比較しているからだ。そしてほとんどの人は、家から一歩も出ないことによるデメリットの方が大きいと判断する。さらに言えば、家に車が突っ込んでくる可能性もゼロではないので、家にいることが必ずしも安全だとは限らない。

ワクチンのメリットデメリットを判断する時に最も重要になるのは、副反応(副作用)が起こるかどうかではなく、どれくらいの確率で副反応が発生するかだ。この確率が高ければワクチンの危険性が高いと言う事なので、接種しないと言う選択肢も十分にあり得る。しかし重篤な副反応が100万人に一人の確率で発生するとどうだろう。この100万に一人と言う確率はそのままではイメージしづらいが、満員の甲子園の収容観客人数が約5万人なので、甲子園を20個満員にしたときその中から一人発生すると言う事だ。2020年の交通死亡事故人数が2839人なので、去年交通事故で死亡する確率は、約42000人に一人ほどだ。そして2021年4月10日時点の情報では、コロナによる国内死亡者数は9364人。これを割合で表すと、国民約13000人に一人である。現在アストラゼネカ社のワクチンによって血栓ができると言う副作用が報告されているが、その割合は(イギリス国内の統計では)約2000万回接種して死亡者が19人。なので単純に計算して(一人二回接種することを考慮して)約50万人に一人である。なのでコロナに感染して死亡する危険性の方が圧倒的に高い。

そしてもう一つ大事な事は、副反応と思われるものが本当にワクチン接種と因果関係があるのかと言う事である。ワクチンを接種しなくてもその時期に死亡する人は当然存在する。そのような人が偶然ワクチン接種の時期と重なったと言う可能性は十分にありえる。もちろん100人くらいの集団ならそのような可能性はほぼ皆無と言っていいが、数千万人の集団接種となればそのような人が何十人と出て来る事はむしろ当然のことである。なのでワクチンとの因果関係ははっきりと追究しなければならない。そしてメディアには、単にワクチン後に死亡したと言う事例をセンセーショナルに伝えるのではなく、因果関係がどれくらいあるのかと言う事をはっきりとさせて正確な情報を伝える義務がある。もしメディアが視聴率だけを考えて因果関係がはっきりしない死亡例をセンセーショナルに伝え続けてしまえば、結局最後には国民の首を絞めることになる。

今国民一人一人が、メリットデメリットを正確に判断できるかと言う判断力が試されている。学校で習う勉強が実際には社会で全く役に立たないと言う声をよく聞くが、ワクチン接種の判断をする上では大アリなのである。生物学的な知識、社会的な知識、そして何より数学的(特に確率的)な思考力が大きくものを言ってくる。そのような知識を総動員して正確な判断が出来ないと、回り巡って自分の不利益として跳ね返ってくる。それはもしかしたら命にかかわることかもしれない。そのように考えると、基礎的教養としての学問がいかに大事かと言う事が思い知らされる。

GIGAスクール構想で忘れてはいけないこと。

現在全国の小中学校で、GIGAスクール構想と言うものが進められている。ここで言うGIGAとは我々が日常的に使うギガ(バイト)の事ではなく、Global and Innovation Gateway for All、直訳すると「全ての人にグローバルで革新的な入り口を」と言う意味である。簡単に言うと、児童学生に一人一台コンピューターを与えて、情報技術を身に付けさせようと言うものである。この構想は2019年から5年間かけて遂行される予定であったものだが、新型コロナの影響があって急速に前倒しされ実行されている。

僕自身この構想に関わっているわけではないので特に詳しいわけではないが、ただこの構想に限らず学校での情報技術教育を行う上で忘れてはならないことが一つあると強く考えているので、そのことを指摘したいと思いこの記事を書くことにした。そのこととは、「情報技術をブラックボックスのまま扱わない」と言う事である。多くの人達は、パソコンやスマホを日常的に当たり前のように使っているが、ではその自分が使っているパソコン・スマホの仕組みをどれだけ理解して使用しているだろうか?おそらく多の人が、仕組みを知らず操作の仕方だけをマスターして使っていることだと思う。もちろんそれらの仕組みを全て知ることは(あまりにも複雑すぎて)不可能であるが、しかし最低限の事くらいは知る必要があるのではないだろうか?そして最低限の事を知った次は、さらに1%でも詳しく理解していく必要がある。それはなぜか?情報技術を発展的に利用あるいは開発していくためには、単に操作方法だけではなくブラックボックスの中身を少しでも詳しく知る必要があるからだ。

もちろん操作方法を知りそれらを使いこなせるだけでもかなりの事が出来るようになる。しかしそれらの事は、学校の教師が教えるよりも、自分で使いこなしたり友達同士で教えあったりする方が圧倒的に習得が早い。なので教師が教えるべきことはむしろそのブラックボックスの中身的な事ではないだろうか?プログラミングももちろんその中に入るが、しかし極論を言えばプログラミングだってさらに根本的なコンピューターの仕組みの下に成り立っている。ソフトだけでなくハードを理解することも必要だ。しかし現実はおそらくそれらすべてを教育できる教師はいないだろう。なのでコンピューターの部門ごとに教師に専門を作らせるのも良いと思う。たとえばプログラミングを担当する教師、そしてネットワーク担当、アーキテクチャー担当など、通常の教科のように分担すればよい。コンピューターとはそれだけ深く複雑なものである。

僕自身、学校でコンピューター教育など全く受けておらず、学生時代はTeXと言う論文執筆ソフトを利用したくらいだ。なので今は少しでも詳しく情報技術の知識を身に付けようと勉強している。現在はAIが徐々に浸透してきているので、それらの基になっているPythonと言うプログラミング言語を習得するのも重要かもしれない。今ではPythonはAIだけでなく、これまでC言語が担っていたプログラミング教育の主流になりつつあるので、これからはPython一つであらゆることに応用できるかもしれない。そしてもう一つ忘れてはいけないのが、これから革新的に普及されると思われる量子コンピューター・量子情報技術である。これらもプログラミングのように基本的マニュアルを覚えて利用することもできなくもないが、しかしこれらを深く理解し切り込んでいくためには物理学における量子力学を知ることは必須だ。しかしこれは現在は大学物理学科2年生か3年生で習うような少し高度なものである。しかし量子コンピューターを理解すると言う目的のために教育の仕方を変えれば、もっと早い段階で教育できるかもしれない。

最後に繰り返しになるが、ブラックボックスのままで扱っているようではコンピューターを理解したことには全くならない。ブラックボックスを全て理解することは専門家でも不可能かもしれないが、しかし1%でも深く理解しようとする姿勢が最も重要になると僕は強く感じている。

学問的意義と受験テクニック。

受験とは何のためにあるのか?さらに受験の意義とは何なのか?僕はこれまで受験に取り組むことに対して、学問的意義ばかりに気を取られていた。なのでこれまでのブログにも「受験は無意味だ」などと言う趣旨の事を何度か述べて来た。確かに学問的意義だけを考えると、受験の意義と言うものは非常に小さなものであると僕は考えている。そのような考えは今でも変わっていない。しかし受験と言うものに対して学問的意義だけにとらわれていると、重要な事を見落としてしまう。僕自身もこれまでそのような重要なものを見落としていた。

受験に臨むにあたって、受験テクニックにこだわる人がかなりいる。僕はこれまでそのような受験テクニックをバカにしてきた。しかし現実社会においてどのようなスキルが要求されるのかと考えた時、その場での課題を乗り越えるスキルを身に付けることが重要である。そしてそのようなスキルは意外とテクニック的なものであったり隙間を突く裏技的なものであったり、そのような事が要求されることが多いのではないだろうか?なので受験勉強をするにあたってその学問的意義よりも、いかに要領よく切り抜けるかとか、さらにそこを切り抜けるためのテクニックを駆使すると言う事が重要なのではないだろうか?そのような事を考えた時、意外と受験テクニックと言うものは、社会から要求されるスキルに近いものがあるのではないかと最近考えている。

もちろん学問を究めようと思えば、学問的意義と言うものは最も重要になる。しかし現在の大学と言うものは就職予備校と揶揄されることも多いように、ほとんどの人はアカデミックの世界には行かない。なのでそのような人にとっては受験テクニック的なスキルも重要な力になるのではないだろうか?

以前、大学を研究型大学と就職型大学に分離すると言う話がされていた。僕はこのような分離には(一部)賛成である。なぜなら今の大学は研究を志す人が就職を目指す人に引きずられ、逆に就職を目指している人が本人には無用だと思っている学問を強制されている。しかし考え方を変えれば、研究者と就職者が同じ土俵で学ぶと言う事は多様性を高めると言う観点からは大きな意義があるし、また現在の社会が進む方向性に合っているのかもしれない。なので大学などの教育現場で、研究者と就職者がWinWinの関係を築くことが最も重要なのではないだろうか。

藤井聡太二冠の高校自主退学について。

藤井聡太二冠が卒業間近の今年一月に高校を自主退学していたと言うニュースが流れた。多くの人は「あと二か月いれば卒業できたのに」ともったいないと思うかもしれないが、僕はこの藤井二冠の決断は素晴らしいと強く思う。おそらく現在の藤井二冠にとって、将棋以外の全ての事が無駄だと感じているのかもしれない。もし本人がそう思うのなら高校に一か月でもいることは完全に時間の無駄である。そして将棋一本にこれだけ打ち込み燃えることができることは何よりも素晴らしいことである。

僕の事になるが、僕は高校を一学期で辞めている。しかし勉強が嫌になったわけでなく、むしろその全く逆であった。当時の僕にとって、物理と数学が(ほぼ)全てであった。とは言え、藤井二冠のようにまだ結果を出しているわけでは全くないので、藤井二冠と比較することは恥ずかしい思いであるが・・・。僕は16歳の時に大検を取って18歳で大学に入ったが、大学に入っても数学と物理以外の事にやる意味を見出せず、フランス語の教授と「フランス語をする意味があるのか!」と激論したものだ。

しかしそんな僕も、最近になって様々な分野に興味を持ち、様々な事に挑戦したくなった。学問で言えば、生物学や化学、そして経済学やコンピューター科学など様々な分野に取り組み始めている。そして専門の数学・物理に関しても、これまでとは全く違う分野にまで手を広げ始めている。藤井二冠もタイトルを総なめした後、30代や40代になって様々な分野に興味を持つかもしれない。そうなればその時になってサクッと高卒認定試験を取って大学に入って学べばいい。そうすれば18歳で大学に入るよりもはるかに得る物があるだろう。

学問に取り組むことに、何歳になっても遅いと言う事はない。スポーツと同様、学問も若い方が才能が発揮されると言う声も聞くが、僕はそうは全く思わない。藤井二冠が30代で大学に通い、そして40代や50代で将棋の才能を生かしつつ大学教授などになればすごく面白いではないか!僕は藤井聡太二冠にはそれが可能だと思う。おそらく藤井二冠は今はそんなことは全く考えていないだろうが、とてつもないスケール感を持つ藤井二冠ならそんなこともやってのけるのではないかと強く思わせてくれる。

東京五輪は深い五輪になる。

これほど問題提起された五輪もないだろう。もちろん最大の問題提起はコロナをどう乗り切るかと言う事に尽きるが、数日前の森氏の問題発言についても色々と考えさせられることがある。そういう意味で、(森氏を擁護するつもりはないが)森氏の発言は一定の意味があったと僕は考えている。

コロナによって、五輪の在り方が大きく問われている。一体だれが主役なのか?そしてボランティアはどれだけ貴重でありがたい存在であるか?そして果たしてこれまで通りの商業五輪であり続けるべきなのか?この商業五輪問題に関しては、コロナと大きく係わっている。コロナによって五輪開催がほぼ絶望的な状態であるが、しかし政治家たちがここまで五輪開催にこだわっているのは商業的、あるいは金銭的事情によるところが大きい。何だか主役であるアスリートと国民、そして五輪を楽しみにしている世界市民が置いてきぼりにされているようである。今の五輪主催者たちを見ていると、何だか主役が政治家たちであるように思えていならない。実際、二階氏はボランティア辞退問題に対して、いくらでも代わりがいると言うような発言をしている。ボランティアは単なる使い捨ての駒だったのだろうか?しかしこの二階氏の発言によって、五輪に対する政治家の関わり方を考えさせられる機会になったとも言える。

今は五輪をどう開催するかと言うレベルの問題ではない。開催が100%無理とは言わないが、開催できるかどうかはワクチンなどの外的要因に大きく依存する形になっている。とは言え、絶対に無理だと決めつけるのも僕は違うと考えている。確かに開催できるともできないとも断言できないが、今は様々な問題をどう解決するかと言う事が一番重要だと思う。コロナにどう対処するか?ボランティアなど、国民にどう協力してもらうか?そして森氏の発言に端を発した、男女平等の精神をどう根付かせていくか?考えれば問題は尽きることがない。

最後に僕個人の考えを述べようと思う。結論から言うと、五輪を4年後、あるいは次々回の8年後に延ばすのが最も良いのではないかと考えている。それには大きく二つ理由がある。一つは現在のコロナ禍によって正常に開催できそうにないことにある。もし開催を強行しても、まともに観客を入れることは難しいし、再びコロナを蔓延させるきっかけになってしまう可能性も高い。例え国内でワクチン接種が進んでも、人々は世界からやってくる。経済的に見ても、開催強行によって失うものは大きいと考えている。二つ目は国民感情である。一年前と違って、日本国民は五輪開催を歓迎できる気持ちではない。むしろ開催強行にこだわる政府に怒りを感じている人も多いし、五輪開催にネガティブなイメージを持っている人も少なくないと思う。そのような歓迎できない感情を持った中で開催するのは国民のフラストレーションを爆発させるだけではないか?もちろん開催すれば国民感情も一気に歓迎の方向に向くかもしれない。しかしこればかりは何とも言えない。しかしこのような感情の一番の原因になっているのは、政治家の姿勢であることは間違いない。なのでこのような感情をどう変えるかは政治家の姿勢と手腕・実行に全てがかかっていると言える。しかし政治家に全てを丸投げするのではなく、国民もどうすれば問題を解決できるかと言う事を一人一人が自分の頭で考えることが求められている。

菅氏が三流政治家たるゆえん。

2月10日の報道ステーションで、イスラエルにおけるワクチン接種のニュースが流れた。そのニュースによると、イスラエルでは6割以上の人達がワクチン接種(一回目)を受け終えたと言う。二回目の接種においても2割以上の人達が接種を終えていると言う。まだ一人も接種を受け終えていない日本と比較すると、驚愕的な事実である。ではなぜイスラエルではそのような早期接種が実現したのか?それは非常に単純であって、ワクチンを相場の1.5倍の値段で購入したからである。

それに対して日本はどうか?相場に上乗せすべきお金を全てGoToキャンペーンにつぎ込んでいる。もしそのお金をワクチン購入代金に上乗せしていれば、イスラエルのように早期接種が可能であっただろう。もしGoToにかかる金額以上の出費になったとしても、国民のほとんどが納得するはずだ。イスラエルと日本の運命が分かれたのは、菅氏の無能によるものに他ならない。

もしワクチン接種が三か月早まれば、三か月早く人々は旅行や飲食に出かけることができ、経済的にも大きなメリットになったであろう。それはGoToを行うよりも大きく持続的な効果を生み出すはずだ。そして一番は人々が安心して旅行や飲食に出かけることができることである。GoToで無理やり需要を引き出そうとしても、人々はコロナにおびえながら旅行に出かけなければならない。そしてそれによってさらにコロナ感染を拡大してしまう。

菅氏にはそのような事を想像できる頭は持たないであろう。ならばそのような事を進言する人が絶対にいるはずで、菅氏が公平に意見を聞く耳を持てるだけの器があればそのような事も実行できたはずだ。もしそれができていれば菅氏は二流政治家になれたであろう。しかし菅氏はれっきとした三流政治家に他ならない。

そして報道ステーションではさらに重要なニュースがなされた。アメリカやEUが域外へのワクチン輸出を制限し始めたと言う。それによって日本におけるワクチン確保のめどが立たなくなっていると言う。これらのことも当たり前と言えば当たり前の事だ。自国民を犠牲にして他国民を助けるようなことは普通はしない。しかし菅氏にはそのような事が想像できなかったのであろう。もしワクチン接種が数か月遅れるようなことがあれば、完全に菅氏の失政である。そうならないことを強く願うが、状況は厳しくなって行くように思えてならない。

知を高めたい!ただそれだけ。

「知を高めたい」それだけだ、と言えば嘘になる。生きて行くためにはお金も必要だし、地位や名誉にも興味がない訳ではない。しかし僕の生きる一番の原動力になっているのは、知への欲求であることには間違いない。小学生の頃から数学や物理(理科)に興味があり、素粒子の世界に夢を見ていた。もちろんこれまでに興味の微修正はあったものの、大筋ではその頃と変わりはないと思う。

今、コロナ禍で様々な欲求が抑圧され、これまでの生き方が通用しなくなっている。それはもちろん僕にとっても同じであり、なので新しいことに挑戦して切り抜けようと考えている。そして学問においても、これまで数学・物理一辺倒だったものから、興味の幅を圧倒的に広げようとしている。特に現在はコロナ禍と言う事もあって、コロナに関する科学的情報を身に付けることに力を入れている。

コロナに対する対処として、「正しく恐れることが大事だ」とよく言われる。では正しく恐れるためにはどうすれば良いのか?そのためには敵の情報を正しく掴むことが最も重要だと僕は考えている。なのでコロナを正しく恐れるためには、コロナによる社会的状況だけでなく、コロナに対する科学的知識を身に付けることが非常に重要である。しかし現実を見ていると、感染者数などの社会的情報は頻繁に伝えられるものの、科学的情報が見過ごされているのではないかと強く感じる。人によっては科学的な情報など一般人には無意味だと言うかもしれない。しかし正しい科学的情報が正しい行動へと導くと僕は考えている。

これからはワクチン接種を行っていくと言う段階に入った。そこでワクチンの科学的情報を正しく認識することが重要になってくる。ワクチンの仕組みも知らずに、ただ報道情報に煽られて恐れるのは究極の無知でしかない。とは言っても、ワクチンを接種するかどうかは個人の判断に任される。なのでもしワクチン接種を拒否するにしても、科学的知識に基づいた判断であって欲しいと強く願っている。

コロナが収まったら暴れまくる!

緊急事態宣言が発令して感染者の数は少しは少なくなったが、しかし感染が収まる気配はあまりしない。おそらく緊急事態宣言が解除されればまた増加傾向をたどるだろう。しかし唯一の救いは、ワクチンが急速に実用化され、今年の中頃までには何とか広く行き渡る気配であることだ。ワクチンに関しては否定的な意見があるものの、僕はワクチンの効果は絶大であると考えている。

今、コロナ禍にあって思うように活動ができず鬱々している人は多いだろう。だからと言って今暴れまくってしまえば感染のリスクを増加させることに他ならない。今は我慢の時だ。僕自身も様々な活動を我慢している。しかしだからと言って、何もできない訳ではない。家に引きこもっていてもできることはいろいろある。理論的な研究などは外出しなくてもいくらでもできるし、このコロナ禍を機に新しい活動を始めることもできるだろう。僕自身も今新しいことを始めようと準備している。

ワクチンは多くの人が接種してこそ意味がある。もちろん個人が接種することにもメリットは大きいが、個人が免疫を付けると同時に、国全体が集団免疫を付けることも非常に重要だからである。そしてワクチンが広く行き渡りコロナの危険性が格段に少なくなれば、その時に暴れまくればいいと思っている。その時には僕自身も、研究に、そしてあらゆることに対して暴れまくろうと思っている。

晴耕雨読ならぬ、晴耕コロナ読。今は室内で出来ることをすればよい。もちろん外出せざるを得ない時もあるのでその時は僕も地下鉄に乗って出歩くこともあるが、幸い数理物理の研究は室内で出来る。そしてコロナから解放されたときに暴れまくる準備も徐々に出来つつある。今はその時のために粛々と出来ることをすべき時である。

コロナワクチンに関する僕の私見。

今世の中のコロナ対策は、いかにしてワクチンでコロナを制覇するかと言う段階に入っている。しかし「制覇する」と言う言葉は適切ではないかもしれない。天然痘のようにゼロにすると言うより、新型コロナを季節性インフルエンザレベルにまで危険性を落とすことが主眼に置かれていると思われるからだ。しかしどうにしろ、新型コロナワクチンは医学的にも政治的にも今年最も重要なミッションになることは間違いない。しかし世の中には的確な情報ももちろん沢山あるが、市民の不安を煽るだけの非常に適切でない情報も氾濫している。

ではなぜ医学や生物学の専門家ではない僕がこのような記事を書こうとするのか?確かに医学・生物学の専門家ではないが、そうは言っても普通の市民よりはそれらの知識はかなりある。そして生物学関係の(準)専門的な書物も頻繁に目を通して基礎的知識、そして最新の知識を更新している。さらに今回の新型コロナに対する対策に関しては、生物学・医学的知識だけではなく確率論的思考なども非常に重要になってくる。そのような数学的思考に関しては僕の得意とするところだ。なので僕が新型コロナ及びワクチンに関する記事を書く意義はそれなりにあると考えている。

ワクチンを接種するかどうかと言う判断をするとき、メリットデメリットを天秤にかけることは非常に重要である。そしてそのような事を考える時、自分個人に関するメリットと同時に、家族的レベルから国家的レベルまでの集団的なレベルでのメリットも考える必要がある。個人的レベルで言えば、自分に抗体によって獲得免疫を付けることであり、家族的には自分が感染を防ぐことによって家族にコロナをうつす危険性を下げる事、そして国家的レベルでは集団免疫を付けることだ。

まず個人的レベルで考える時、主題になるのはワクチンの効果と副反応(副作用)であろう。驚くべきことに、医者の中にもでたらめな記事を書いている人が少なくない。なぜこのような医者によるでたらめな記事が出回っているかと言えば、僕が考えるにはおそらくまともな記事よりもでたらめな記事(ワクチンを否定するような記事が中心)の方がセンセーショナルに映り、人々の目を向けられるからだと考えている。なので医者によるでたらめな記事が出回っているほどいい加減な医者はそれほど多くはないと僕は考えている。しかしこのような記事が出回っている限り、我々市民は記事の妥当性を的確に判断しなければならない。

まず新型コロナワクチンの有効性は、日本で中心となるファイザー製が約95%だと言われている。これはプラセボ群(偽薬、つまり生理食塩水を注射した集団)が二十人発症したとしたとき、本物のワクチンを接種した集団は一人発症すると言う事だ。もちろんこれらの人数は割合(確率)を表している。なので単純に危険性が20分の一になると考えてほぼ問題はない。これは非常に大きな効果である。インフルエンザワクチンの有効性が60%~70%ほどだと言われているので、コロナワクチンの有効性の高さがわかるであろう。そしてインフルエンザワクチンが感染したときの重症化を抑えると言う効果があるように、コロナワクチンも重症化を抑える効果があると言われている。

そして副反応(副作用)に関してだが、これに関してもいくつか報告されている。その中で最も大きな副反応として、アナフィラキシー(重いアレルギー反応)は9万人に一人の割合である。これを確率で表すと、0.0011%と言う事になる。そして現時点ではアナフィラキシーを発症した人たちはほぼ全て退院したという報道もある。少なくとも死者は出ていない。

そして多くの人が気になっているのが、ノルウェーでコロナワクチンを接種した高齢者23人が死亡したと言うニュースであろう。この事実にはいくつか解釈がある。大多数の接種が行われれば、その中の何人かは接種するしないに関わらず死亡する人がいることは容易に考えられる。なのでワクチンを接種した時期と死亡した時期が重なったと言うことである。そして次に考えられるのが、持病などで弱っている人が、接種によって負担がかかり死亡したと言う事である。

このワクチン接種による負担は、おそらくワクチンを体に取り入れることによる体内反応によるものと考えられる。ワクチンと言うものは単純に言うと、ワクチンと言う異物を体内に取り組むことによって免疫反応を起こし、体内で抗体を生産することである。なのでこのような反応は絶対に起こるので、多くの人が発熱や倦怠感が一時的に出て来ることになる。しかしこれは多くの人にとって、抗体がしっかりと生成されて免疫が確実に付けられている証だとも言える。

そして無視できないのが、長期的に見た場合の副作用である。しかしこればかりは短期間では何とも判断できないのでイエスともノーとも言えない。しかしこれを例えて言うと、新しい薬が出た時にも同じことが言える。新しい薬の長期的な副作用は不明である。しかし普段は人々はそのような事はほとんど気にしない。なので薬の場合は気にしないでワクチンに関しては過剰に反応すると言うのはある意味思考的にはおかしな話だと思う。

最後に国家的レベルでの話だが、なぜ集団免疫が重要なのか?まずは集団免疫とは何かと言う事を簡単に説明すると、国民(世界市民?)の何十%が免疫を付けたかと言うことだ。これが一定の割合を超えると、国全体での感染者数が確実に減少傾向になる。そして時間が経つと感染者が(ほとんど)いなくなるということだ。しかしもちろんこのためには一定数以上の市民のワクチン接種が必要になる。なのでワクチンの副反応に過剰に拒否反応を示し接種する人が少なくなると集団免疫を付けることができない。そういう意味で、一人一人がワクチンのメリットデメリットを的確に判断して接種すると言う事が非常に重要なのである。すなわち一人ひとりがワクチン接種することは、国民の集団免疫獲得に貢献することでもあると言える。

ここまで様々な観点からワクチンに関するメリットデメリットを書いてきた。この記事を参考にワクチン接種をするかどうかの判断をしてもらえれば幸いである。ちなみに僕はワクチン接種が可能になると、即接種しようと考えている。とにかくコロナ禍が少しでも早く終息することを強く願っている。

石破さんに挽回を望む。

少し前、石破茂さんのフグ会席が問題になった。これに関しては、石破茂支持者である僕にとっても非常に残念な思いをしたし、かなり失望もした。もちろんこの一件だけで石破茂支持を止めようとは思わないが、石破さんに対してはこの一件の失態を取り返すべく、さらに国の向上・安全に取り組んで行ってもらいたいと強く思っている。

確かに人間誰しも失敗することはある。なので石破さんの一件の失敗は仕方がないと思っている。しかしこの世の中、この情勢の中、このような会席を平気で行ってしまうとは、気の緩みが半端ないと思っている。たかが一件、されど一件と言う事で、この一件の失態は非常に重い意味を持っていると僕は考えている。何しろ一般市民との認識のずれが酷すぎる。多くの国民が苦しんでわずかなお金もない人も多い中、会席で一人4万円のフグ料理は市民と感覚がずれまくっている。金銭感覚のずれと言えば麻生太郎氏が有名だが、僕の支持している石破さんの感覚もこうなのかと考えると、本当に悲しい気分になる。

この一件に関しては本当に非常に失望したが、しかし責任を取るとかそういう形ではなく、日本のために積極的に動いてこのコロナ禍を乗り切り、以前よりもさらに良い国にしてもらいたいものである。そうすることによって、「あの時は失態してしまったが、やはり石破さんを支持し続けて正しかった」と思わせてほしいものである。

石破茂さん、僕はまだあなたを見放してはいない。あなたなら必ず国を良い方向に導いてくれると信じている。しかしもしもう一度同じような失態をしてしまえば、国民はあなたを見放してしまうはずだ。だからこそまずは政局において苦しい立場を乗り切って首相になって欲しい。そして首相として思う存分あなたの理想とする国づくりに励んでもらいたいと強く願っている。