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トップを目指す者に、学歴の衣は似合わない。

40代になれば、人生も後半に入りかけたと言えるだろう。その後半の人生をどう生きるか?多くの人は若さに価値を見出し、若い頃に戻りたいと言う人も少なくない。しかし僕は、人生後半こそ本当の勝負だと思い、これからの人生に全力をささげようと思っている。

日本は学歴社会だと言われている。もちろん日本よりも極度の学歴社会に陥っている国も存在するし、学歴に物を言わせたい人は勝手にやればよいと思っている。しかし確実に言えることは、学歴が物を言う世界は低レベルな世界であり、学歴に物を言わす人間は低レベルな人間であると言うことだ。学歴に物を言わすのは就職活動くらいで終わらせなければならない。40歳も過ぎて学歴にこだわる奴は最高にカッコ悪い。

日本、いや、世界トップの医学者は誰か?間違いなく山中伸弥教授だ。その山中教授が学歴にこだわっていれば、確実に医学研究の世界に残れなかったどころか、医学研究の世界に足を踏み入れることもできなかったであろう。ノーベル化学賞を受賞した田中耕一氏は大学院さえ行っていない。もちろん、高学歴のノーベル賞受賞者は沢山いる。しかし学歴にこだわるノーベル賞科学者を僕は見たことがない。僕はトップを目指す者に学歴の衣は最高に似合わないと思っている。100%、いや200%実力勝負なのである。

学歴にこだわると言うことは、その人が既にトップからずれ落ちているか、あるいはその社会が低レベルであると言える。もしトップを目指そうと思えば、まずは学歴の衣を捨て去ることから始めなければならない。学歴と言うものは、ある意味結果論であって、手段ではないと僕は肝に銘じている。

(再び毎日ブログ更新します。)学校教師の暴行事件について。

ここ半年くらい、ブログの更新の頻度を大きく下げていた。最近は一週間に一度と言うことも少なくなかった。その理由は執筆時間の節約と言うこともあるが、しかし執筆を省き時間を作ったからと言って、その空いた時間を有効に使えていたかと言うと疑問に思う。むしろ毎日ブログを執筆したいた時の方があらゆることが好調だったように感じる。毎日ブログを執筆することによってリズムができる。リズムができるとあらゆることが調子に乗ってくる。そのように毎日ブログ執筆を続けた方が僕自身も得る物が大きいのではと感じ、今日から(出来るだけ)毎日ブログを執筆すると言うスタイルに戻すことにした。なので今日からまた毎日のブログを届けようと思うので、読者の皆様、よろしくお願いします。

ところで今日のニュースを見ると、中学校での体罰のニュースが流れていた。被害を受けた生徒のうちの一人は背骨を骨折したと言う。これはもう体罰ではなく、れっきとした傷害事件である。このような傷害事件を、学校の中で起こったと言うことで「体罰」と言う言葉を使うのは本当にやめてほしい。学校内で起きた「傷害事件」なのである。しかもその教師は過去に三度の処分を受けていたと言う。もう開いた口がふさがらない。三度の暴行が明らかになっていると言うことは、実際にはその数千倍の暴行があったと考えるのが普通であろう。ニュースによれば、わいせつ事件ではほぼ全て懲戒免職になっているのに対して、体罰(暴行)では全く免職にならないそうだ。傷害事件を起こして免職にならないのは世間の常識に照らし合わせても明らかにおかしいし、学校の外で同じことを起こせば確実に逮捕拘留、そして有罪で場合によっては刑務所行きだ。

ではなぜ暴力教師は免職にならないのか?それは「生徒のためにやった」と言う言い訳(暴力教師の伝家の宝刀)があるからだ。そして教育委員会はそれを真に受けて処分しない。そんな言い訳は世間では通用しないはずだ。そう考えると学校と言う世界は非常にゆがんだ世界だ。もうそう言う言い訳は許さないようにしなければいけない。そして今回の事件で個人的に非常に悲しかったのは、その暴力教師が数学の教師だと言うことだ。数学に関わっている人間として非常に恥ずかしく怒りを覚える。

ところで僕は小学校・中学校と神戸市で教育を受けてきた。そして実際にそこで教育を受けた人間から見て、神戸市の教育は全国最低レベルであると感じている。小学時代には暴力教師(体罰教師でさえない)から日常的に暴行・嫌がらせを受け、中学校は(当時は)男子丸刈り強制である。少しでも髪の毛が伸びていようものならまたそこで暴行である。神戸市の学校では日常的に教師による暴行がはびこっている。今はマシになっていると思いきや、東須磨小学校での教師同士の傷害・嫌がらせ事件である。どうやら神戸市の教育は30年経ってもそのような土壌は変わっていないらしい。もし自分に子供がいても、神戸市でだけでは絶対に教育を受けさせたくないと思っている。

もう体罰と言う言葉はやめにしようではないか。これからは「傷害・暴行事件」と呼ばなければならない。そして暴行教師への処分は学校外社会と照らし合わせなければならない。暴行をしないと教育を行うことができないと言う教師は、教育力が全くないと判断し排除しなければならない。僕は今でも暴行を受けた神戸市での教育を強く恨んでいる。

今、アメリカは自由を履き違えている。

アメリカと言えば自由の国だと言われているが、しかし今アメリカは自由を大きく履き違えているように思えてならない。例えば昔から問題にされている銃所持の自由、そして今ならマスクをしないで集団で騒ぐ自由。これらは自由と言う言葉で一括りしたものの、それらの自由はその他の多くの人の不自由・拘束と精神的束縛の基に成り立っており、そして時には多くの人に命の危機さえもたらしてしまう。

銃所持に関してはアメリカ国内・国外で常に問題視されているが、いつも最終的には銃を所持する自由を維持することで決着してしまう。これにはもちろん全米ライフル協会のロビー活動による政治的圧力が最も大きな原因だと思われるが、アメリカ市民が何でもかんでも自由を一括りしてしまうことにも大きな問題がある。全ての自由を一括りにして、百かゼロか?と問題を単純化してしまうことは良くない。何を自由にすべきで、何を規制すべきか?そのような事をケースバイケースで考えて行くことが重要である。

現在のコロナ問題で言えば、マスクをしない自由と言うものが問題になっている。もちろん、マスクが感染抑止に効果があるかないかははっきりと決着していない。なぜなら、健康な人間を実験台にしてコロナウィルスにさらして感染するかどうかと言うことを実験することなどできないからだ。なのでマスクは大きな効果があるかもしれないし、ほとんど効果はないかもしれない。しかし状況証拠や様々な間接的実験、そしてコンピューターによるシュミレーションによってマスクはかなり効果があると言われている。しかしアメリカでは(もちろん日本でも言えることだが)ここでも百かゼロか?で判断してしまう。マスクなど効果はない。だからマスクなどしなくて良いし、自分はかからないし、だから他人にもうつすことはない。なぜこういう思考パターンに落ち着いてしまうのか?もちろんマスクをしていても感染することはあるし、マスクをしていなくても感染しないことも多々ある。しかしここで重要な事は、感染するかしないかの二択ではなく、感染の「確率」を下げることである。マスクは少なくとも感染の確率を下げることはほぼ間違いない。このように問題を確率的に判断できない人は意外に多いものだ。

もちろん、四六時中、家の中で寝るときもマスクをすることはできないしそのような必要もない。しかし問題を確率的に考えれば、どのようなシチュエーションの時にマスクをすべきかはある程度分かる。そして問題をさらにややこしくしているのは、ウィルスが目に見えない事。なので人にうつしてもうつした本人にうつしたと言う自覚はないし、うつされた人も誰にうつされたかわからない。なのでマスク問題はかなり困難な問題であり、感染抑止と言う視点で考える以上に今はエチケット問題だと考える必要がある。

アメリカの自由の問題からかなり逸れてしまったが、やはり少しでも早くマスクなしでワイワイ騒げる世の中に戻って欲しいものである。しかし今回のコロナ禍によって、コロナに限らずマスクは感染症予防に大きな効果があることが認識されることとなった。今年の初めにコロナが流行しだしてからのインフルエンザ感染者数は例年の千分の一だと言われているし、子供がかかる手足口病の感染者数も去年の同じ時期の百分の一だと言われている。これは逆に言うと、全く感染症予防(マスクや手洗いなど)をしなければ、現在のコロナ感染者数は実際の百倍になっていたと単純に結論付けられる。自分たちがコロナに、そしてインフルエンザも含めて感染症にかからずに済むのは皆の努力の賜物なのである。こう考えると、コロナが終息した後もマスクなどの感染症予防文化はある程度残っていくのではないかと考えられる。しかしアメリカのように自由を履き違えてしまえば、同じ過ちを繰り返すことになるだろう。

安倍首相辞任、一つ許せない事。

28日、安倍首相が辞任の意向を表明した。辞任の理由は持病の潰瘍性大腸炎の悪化ということであった。国のトップとして健康を維持することは非常に重要な事であるが、首相も人間であるので健康を損なうことも当然ある。辞任した後はゆっくりと療養してほしいものである。

とは言え、今回の健康を理由とした辞任に関して僕は一つ許せないことがある。僕は以前、安倍首相は非常に有能で偉大な首相だと思っていたし、ブログでもそのような事を書いたことがある。少なくとも一年半ほど前までは。しかし一年ほど前から安倍首相の判断力は明らかにおかしくなってきた。的確な判断が出来なくなってきていると感じていたのは僕だけではないだろう。総理総裁三期目に入ってから明らかに判断にキレがなくなってきたし、判断が遅きに失したこともいくつかあった。最近で言えば、GoToトラベルキャンペーンなどはその最たる例であろう。誰がどう見ても、コロナの感染を防ぎ行動を自粛しなければいけない時期に、GoToトラベルとは明らかにおかしいし論理が破綻している。三年ほど前の安倍首相ならば即座に中止していたことであろう。

ここ一年の判断力の低下は、今思えば持病の悪化が原因であったのかもしれない。しかし何度も言うが、持病が悪化することはある程度防ぎようのない事であり、総理であっても同じ事だ。しかし一国の長である首相が病気で判断力がなくなってもその座に居座り続けることは明らかに責任がある。僕はそのことが許せないのである。持病が悪化し判断力が鈍ったのなら、即座に首相の座を降りてゆっくりと療養してほしかった。しかし安倍首相はその座に座り続け、国民を危機にさらし続けたのである。そして数日前には首相連続在位の記録を打ち立てた。その直後の辞任である。記録にこだわって居座り続けたと疑われても仕方がない。

人間健康が第一とはよく言われるが、総理にとって健康維持はさらに重いものである。総理の健康一つが国民の安全と繁栄に直結するのである。もちろん総理も人間なので健康を崩すことも当然ある。しかしもし健康を崩して的確な判断が出来なくなったと感じたのならば即座に後進に職を譲るべきではなかったかと強く思うのである。

まだ死に体でないならば。

16日の半沢直樹も、これまた非常に熱かった。今回から半沢は帝国航空(そして政府)と本格的に格闘している。半沢はなぜ帝国航空の再建にこれまでこだわっているのか?それは半沢の言葉にあるように、帝国航空がまだ「死に体」ではないからだ。企業が死に体ではないならば、再建の余地は十分にある。それが半沢の理念らしい。これらの事は、人間個人に対しても大きく当てはまることだ。まだ自分が人間として死に体ではないならば、復活する可能性は十分にある。何ならトップに返り咲くこともできるであろう。

僕自身も、大学学部生時代に大きな危機と立ち向かうことになった。おそらく普通の人間ならそこで潰れていてもおかしくなかったであろう。しかし僕は死にかけた状態ではあったものの、決して死に体にはならなかった。周りから見れば死に体同然に見えたかもしれないが、決して精神の火は消えていなかった。それどころか火はメラメラと燃え盛っていたように思える。だから現在はここまで活発に活動し、研究に打ち込み、自信に満ち溢れている。人間も死に体にまでならなければ、いつでも復活する余地はある。僕はそう強く思っている。

確かに今まで順調だったことなどほとんどない。しかしそれはそれで良いのだと僕は思っている。なぜなら、重要なのは過去ではなく未来だからである。そしてその未来に対して大きな自信を持っている。ならばそこに向かって邁進していけばいいだけの話ではないか。例え百回失敗してもそんなことはお構いなしだ。最終的に成功すればいいだけの話だ。今僕は猛烈にワクワクしている。後は結果を出すだけである。

先週の半沢直樹で、半沢は「勝ち組負け組と言う言葉は嫌いだ」と言っていた。それは僕も同感である。そもそも人生に勝ち組負け組などと言うレッテルを付けてどうするんだ!大金を得たものが勝ち組なのか?重要ポストに就いたものが勝ち組なのか?そんなちっぽけな事を考えていてどうする!自分がまだ死に体でない限り、未来はどうにでも変えられる。あえて言うならば、ピンチをチャンスに変えられる者、それが勝ち組とでも言っていいのではないか。他人から負け組だとか言われても、そんなこと聞き流せばよい。前向きに進んでいる限り、決して負け組なんかではない。しかし既に自分が負け組だと決め込んでいる人間は、本当に負け組なんだろう。人生、死ぬまで何が起こるかわからない。だからこそどう転んでも良いように、常日頃前向きに努力すべきではないだろうか?

毎週、半沢直樹を見るのが楽しみだ。フィクションだとわかっていても熱くなってしまう。そして半沢を見て思うこともたくさんある。「自分もそうだ!」あるいは「自分は違う!」とつい主張したくなる。また来週の半沢直樹を楽しみにして、ちょっとビールでも飲んだりしながらも熱く前向きに進んでみよう。

事実はフィクションより奇なり。

ドラマ「半沢直樹」の第四話を観た。このドラマは見れば見るほど面白くなり、今回はビデオで二度も見返してしまった。内容はネタバレになるので書かないが、今回の第四話は前半のクライマックスだと思われる。なので後半はさらに長いドラマになることが予想され、ますます期待が膨らんでくる。

ドラマは非常に面白いのだが、現実問題としてそんなことはあり得ないと言う声も大きい。もし半沢直樹のような人物がいれば即クビになると考えられるのも当然だし、元特捜部にいた識者が「半沢直樹のやっていること自体法に触れ、犯罪行為である」とも言っている。しかしドラマ自体は確実に面白いものであり、半沢の行っている行動は正しい信念に基づいている。元総理の鳩山由紀夫は「半沢直樹の爪の垢を煎じて飲ましていただきたい」と言っている。おそらく政治の世界はドラマで繰り広げられる銀行の世界よりも露骨なのだろう。

しかし「事実はフィクションより奇なり」と言う言葉もある。現実の中にはドラマや漫画でも描ききれないようなことが起こっていることもあるのである。その代表例が大谷翔平であろう。大谷選手は数々の奇を起こしてきた。四番ピッチャー、投手として先頭打者初球ホームラン、DH解除でピッチャー登板、日本最速165キロ、そして何よりメジャーリーグでの二刀流挑戦。これらのようなことを漫画にでも描こうものなら皆失笑するであろう。しかし大谷翔平はそれを現実のものとした。

本気で奇を起こそうと考えていると言えば、多くの人は笑うであろう。しかし僕も今、本気で奇を起こそうと前進している。笑うなら笑えばいい。そう思って前進している。成し遂げられる確率は85%だと考えている。まだ何も成し遂げられていないので実感は全くないが、自信は大いにある。では奇を成し遂げるためには何が必用か?もちろん才能は必要であろう。しかし才能がある人など世間には山ほどいる。なので他のものも必要である。それは「覚悟」だと考えている。覚悟を持って邁進しないと、成し遂げられることも成し遂げられない。半沢直樹はドラマではあるが、彼も覚悟の人間であった。さらに付け加えるのならば、大局的展望、そして物事の本質を見抜く力も必要である。はっきり言って100%出来ることなどほとんどないし、仮に100%出来ることがあればそんなものに価値はない。

奇を起こすかどうかは「生か?死か?」と言うことだと考えている。もしできなければこの世の中で生きては行けない。それが覚悟と言うものである。しかし覚悟を持って邁進できる人間がどれだけいるか?一度社会に問うてみたいものである。

「どっちが悪で、どっちが最悪か?」だ!

物事を判断する時には当然、「どっちが良くて、どっちが悪いか?」と言う視点で判断される。しかし現在のコロナ禍の中では、「どっちが悪で、どっちが最悪か?」と言う思考で判断しなければならないと強く感じている。

現在、政府によるGoToトラベルキャンペーンが行われている。現在のコロナ禍の中で果たしてそのような事をすべきなのか?と言う疑問は多くの人が感じていると思うが、しかし政府としては、今そのような形で支援しないと観光業界が持たないと考えているようだ。このような考えはもちろん政府内だけではなく一般国民も同じであろう。今GoToトラベルキャンペーンで支援しなければ倒産が続出し経済が回らないと多くの人が感じているだろう。もちろん自殺者も出て来る(もう出てはいるが)ことも容易に想像できる。それはまさしく悪である。しかしそれが悪ならば、果たしてGoToキャンペーンと言う形で補助をすべきなのか。僕にはそれをしないのが悪ならば、するのは最悪であるように思えてならない。

現在、コロナ被害は過去最大規模になっている。そのような中でのGoToトラベルキャンペーンは自殺行為でしかない。確かにそれによって一時的にはしのげるかもしれない。しかしその後に待っているのは地獄絵図である。なぜそのような事に気づかないのか?それは目の前の事にとらわれて中長期的な視点が決定的に欠けているからである。今死ぬか?半年後に死ぬか?と言う状況である。そしてそのような地獄絵図から抜け出すためにはワクチンが必須である。

GoToトラベルキャンペーンのために用意されている予算は一兆円を超える。それに対して、今世界でワクチン確保のために起きている競争で動いているお金は、数千億円規模であるようだ。GoToトラベルキャンペーンの予算をそちらに回せば十分であるばかりかお釣りがくるくらいだ。そのお釣りをワクチン確保のために上乗せすれば、さらなる優先権が得られるだろう。日本がそのような優先権を得ることができれば、国民のワクチン接種が数か月早くなる可能性が高い。ワクチン接種が数か月前倒しになれば、そのぶん経済の回復が早くなると言うことだ。それによって多くの企業と国民が経済的にも助けられることになる。このような中長期的戦略で物事を考えることが重要なのではないだろうか。

繰り返すが、今は善悪の判断ではない。悪か?最悪か?と言う判断なのである。僕が上で書いたようなことしたところで、それは決して良い結果ではない。しかし悪か?最悪か?と問われれば、悪であるように思える。そして中長期的な判断を間違えば確実に最悪になる。しかし今の安倍政権に果たしてそのような判断ができるだろうか?

今の安倍政権は、倒れる要素しか見当たらない。

16日、政府(国土交通省)によるGoToトラベルキャンペーンが、都内在住の人に対して適用しないと言う決定がなされた。しかし都内在住者だけ適用しないと言う判断はいろいろな意味で問題だ。確かに現在、コロナ感染者は東京都が圧倒的に多いが、その周辺や大阪周辺でも拡大の一途をたどり、これが全国的傾向になるのも時間の問題だ。おそらく現在の都内の状況が二週間後の地方の状況になると考えるのが正常な展望であろう。なので、現時点だけの状況を見て都内在住者だけを除外するのは長期的展望に欠けるものだと言える。もちろん、都内在住者だけ除外するのは公平的観点からも適切ではない。おそらく二日後には全国でGoToキャンペーンが中止になると容易に想像できる。いや、そうしないと観光業界を助けるどころか、観光業を含めた日本産業全体に大打撃を与えてしまう。

それにしても、今回のGoToキャンペーンの不手際と言い、今の安倍政権は倒れる要素しか見当たらない。河井夫妻の金銭問題、そしてGoToキャンペーンを含むコロナ対策と言い、政府の対策は全て後手後手に回り、そして保身にしか感じられない。なぜ総理に強大な権力があるのか?もちろんこれには様々な議論があるではあろうが、今回のコロナ対策に関して言うと、対策するのに色々と時間がかかるものを総理の独断で迅速に進めることができると言うのも大きな理由であろう。なので今回のGoToキャンペーンに対しても総理の独断で迅速に全国で取りやめにすべきであった。しかし現実は、世論に押されて渋々とと言うところであろう。

もちろん、観光業界は今は壊滅的であり、迅速に対策を取るべきであろう。ならば他の手段はないのか?一番良いのはコロナが収まった後に大々的に進めることであろう。しかし現在の観光業界(そしてもちろんそれ以外の業界も)は一刻も争うような危機的状態である。しかし今回のGoToキャンペーンの予算は一兆円以上ある。ならば別の手段も考えるべきではないか?例えば観光業界への補助に回す方がまだ賢明だと言える。もちろん、例え一兆円と言う巨額な資金でも、全てに等分すれば大した額にはならない。ならば一時的な融資なども考えられる。

はっきり言って、このタイミングでのGoToキャンペーンなどほとんどの人は望んでいない。おそらく観光業界の人達の中にも有難迷惑だと考えている人もいるだろう。はっきり言って、今回のこの時期でのGoToキャンペーンは政府の失策である。もちろんこれだけで安倍政権が倒れるとは思わないが、しかしここ最近の様々な不祥事、そして最近の安倍首相の思考力・決断力のなさと保身に走る様子を見れば、政権が倒れるのは時間の問題だと言わざるを得ない。

コロナのワクチンに対する展望。

現在、コロナウイルスに対するワクチン開発が熾烈になって来ている。ではそのようなワクチン開発は果たして成功するのか?結論から言うと、運が良ければ早ければ来年前半くらいには実用化される。しかし運が悪ければ10年経ってもできない。ではここで言う「運」とは具体的にはどのような事か?

それには遺伝子が関係してくる。我々人間の遺伝子はDNAが主体になっているが、コロナウイルスの遺伝子はRNAの形を取っている。ではDNAとRNAは何が違うのか?簡単に言うと、DNAは二重鎖(いわゆる二重らせん)であるが、RNAは一本鎖である。それによって遺伝情報を転写する時に、DNAは修復機能があるがRNAには修復機能がない。それによって頻繁に変異が起こるのである。

現在、世界で蔓延しているコロナウイルスは一種類だけではなく、変異に変異を重ねて亜種が数十あるとも数百あるとも言われている。なのでこのような全ての種類に効くワクチンを開発することは非常に困難だ。そして今日効くワクチンが明日のコロナウイルスに効くとは限らない。HIV(エイズウイルス)に対するワクチンが数十年たった今日でも完成していないことは大まかには同じような事であり、今年効くインフルエンザワクチンが来年には効かなくなるのもこのような事である。

ノーベル生理学・医学賞を受賞された本庶佑教授はある記事(文藝春秋digital)でこのような事を述べ、ワクチンに対する過度な期待に対して警笛を鳴らしている。本庶教授自身はワクチン開発に対して悲観的だ。本庶教授の専門は免疫学である。つまりワクチンに関してはプロ中のプロ、そのような研究者が悲観的に述べているのだから、これから進む道はかなり厳しいと言える。しかし本庶教授は悲観だけを述べているのではない。ワクチンだけでなく治療薬の開発にも力を入れるべきだと述べているのである。たしかにワクチンなら特定のコロナウイルスにしか効かない可能性が高いが、治療薬なら全てのコロナウイルスに効く可能性が高い。

しかし、ワクチンと治療薬は役割が全く異なる。ワクチンはウイルスにかからないように予防するものであるが、治療薬はかかった後に投与するものである。出来る事なら治療薬よりもワクチンができた方が社会的効果は圧倒的に高い。しかし現実は、ワクチン開発につぎ込んだ数百億、数千億円がパーになる可能性も高く、治療薬を同時進行で進める必要があるようである。

医学の専門外の人(安倍首相をはじめとする政府を含む)から見れば、さっさとワクチンを作って押さえてしまえと簡単に言うが、現実はそんなに単純なものではないようである。自分の人生に対して楽観的になることは時には大きな力になるが、コロナに対してはむしろもっと慎重(悲観的?)になるべきであるようである。

社会がますます表面的になって来ている。

普段生きていて色々と感じることがあるとは思うが、僕は社会が表面的になって来ているのではないかと強く感じている。確かに社会は悪い側面を無くし、皆が暮らしやすい社会に向かおうとしていることは間違いない。しかしそれに向かっている事と、本当にそうなっているかと言うことは全くの別問題だ。何かを良くすれば別の何かが悪くなってくる。まさしくもぐら叩きである。僕は日本に住んでいるので日本の事が気になってしかたないが、おそらく海外でも中身は違え大筋では同じであろうと思われる。

その中でも僕が特に感じているのは、同調圧力から表面的になることである。特に日本では、皆と同じことをしなければならないと言う意識が強く、一人だけ違うことをしていると奇異な目で見られることが多い。よく言われるように、出る杭は打たれると言うことである。これを解決する方法は一つしかない。それは出過ぎた杭になることである。四六時中野球ばかりしている少年がプロ野球選手を目指していると言うと、「そんなのは無理に決まっている。バカじゃないか!」と言われる。しかしメジャーリーグで活躍すれば、少年時代に野球に打ち込んでいたことが美化される。イチローさんが正しくそうであったらしい。研究者でも同じだ。ノーベル賞を取ると断言している少年がいたらどう思うだろうか?やはりそんなのは無理に決まっていると多くの人は言うであろう。それを覆すには実際にノーベル賞を取るしかない。もちろん、研究者の一番の目的はノーベル賞を取ることではないのだが。

表面的になって来ていると言うことは、言い換えると無難になって来ていると言うことである、近年、日本の科学研究のレベルはどんどん低下していると言われている。その理由として科研費の削減などが言われているが、僕はそれが本質ではないと考えている。研究者が、特に若手の研究者がどんどん無難になって来ているからではないかと思っている。その背景には、研究ポストに就くことが困難になり、確実に研究ポストに就くためには小さく無難な結果を継続的に出すことが求められると言うことがある。しかしそれらの研究者は、本当にそれが自分の求める姿なのだろうか?もしそうなら本当に悲しい話である。

もちろん社会の表面化は、日常生活においても色々と表れている。いや、日常生活の方が顕著に表れているのかもしれない。人付き合いでは自分を表面的に繕って、良い側面だけを見せようとする。しかし苦しんでいる自分も本当の自分自身なのである。だから僕はブログでも正直に苦しい時は苦しいと書くことにしている。確かにインスタグラムやフェイスブックに苦しい様子を載せてイイねがもらえるわけないし、もしイイねされたら逆に落ち込むであろう。社会が表面的になるにつれ、人間までもが表面的になってしまう。そこが大問題である。それは言い換えると、本質を見抜ける人間が少なくなってくると言うことだ。たしかにもともと本質を見抜ける人間と言うものは少ない。それがさらに少なくなるのだ。ただ表面を変えること自体悪いことではないと僕は思っている。しかし重要な事は、表面と同時に本質的な中身も良い方向へ変えなければならないと言うことだ。