社会・時事ネタ」カテゴリーアーカイブ

立ったままの河野太郎氏。腰痛であるとのことだが。

国会の委員会での答弁での事だが、河野太郎氏は答弁を終えても席に戻らず、立ったまま受けると言う場面があった。普通はそのたび席に戻り官僚からのメモを受け取るなりして準備するのだが、立ったまま席に戻らないとなるともちろんそのような事はできない。すなわち河野氏はその場その場で質問に対して即座に考え答えなければならない。今回は腰痛で椅子に座れなかったとのことだが、それはともかくこれにはもちろん政治家自身の資質や才能がもろに現れる。河野氏はそのような場を難なくこなしていた。

以前僕は、「河野太郎氏は信用するに値する政治家だ」と述べた。そして今回の河野氏の答弁を見て、その確信に誤りはなかったと感じた。もちろん河野氏以外の政治家でもそのような受け答えをできる人はいるだろう。しかし様々な事を総合的に考えると、河野太郎氏こそ総理に最もふさわしい人物だと僕は実感している。

僕が今信用している政治家は二人。石破茂氏と河野太郎氏だ。そして現在の立ち位置などを考えると、河野氏こそ首相にふさわしく、また最も首相の座に近い人物ではないかと僕は考えている。河野氏は頭脳だけでなく、海外に対する様々な振る舞いなどを見ても怯むことなく明確に答えを出し対応している。そのような河野氏を見ていると頼もしくも思えてくる。

現在、五輪を開催すべきか中止すべきかと言う事で国内が揺れている。しかしさらに踏み込むと問題は五輪そのものではないと僕は考えている。問題の本質は、様々な決定権を持つ首相がどのように考えどのように結論を出すかだ。しかし現在の無策無能総理のままであれば、五輪を実行しようが中止しようが良くはならないと僕は考えている。なぜなら実行するにしろ中止するにしろ、単に決定すればよいと言う問題ではなく、様々な過程を経て様々な対処をしなければならないからだ。なのでそれを誰がするかと言う事が重要になる。もし河野氏が首相であれば、五輪を実行するにしろ中止するにしろ良い結果をもたらすだろうと僕は考えている。今後、河野太郎氏首相待望論が沸き上がって来る事は間違いないと僕は考えている。

「プロ論」・大坂なおみ選手の発言について考える。

プロテニスプレイヤーの大坂なおみ選手が、試合後のインタビューを拒否すると宣言して物議をかもすことになった。テニスに限らず、確かに様々なインタビューを見ていると的外れな質問も多く、中には選手自身の人格を否定するものも存在する。そのような状況を考えると、大坂なおみ選手のようなトッププレイヤーが訴えかける事は非常に意義がある。しかし、インタビューを完全に拒絶するのは全く違うと僕は考えている。インタビューを受けることもプロ選手にとって試合を行う事と同じくらい重要な事だと思うからだ。それはなぜか?プロ選手がお金を稼げるのは直接的には体を動かしてプレーしているからではない。選手がプレーしている姿を“客やファン”が応援し、それに対してお金を投じているからだ。ファンがテレビを見ていることもスポンサーを通じてお金に変換される。そして一部のスポンサーが選手に多額の契約金を払えるのは、テレビなどに映る自社のロゴや使用している自社製品が広告となるからだ。決してプレーしている行為自体がお金を生み出しているのではない。そう考えると、インタビューも多くのファンが楽しみに注目しているのであり、それもプロとしての立派なプレーの一部と言える。

僕が大学院時代にお世話になった数学者は、当時の僕にとっては意外に思えることを言っていた。それは「自分は数学の研究によってお金をもらっているのではなく、(授業やゼミなどの)教育を行うことによってお金をいただいている」と言うものだ。もしかしたらその数学者の研究力について誤解する人もいるかもしれないので付記するが、その数学者は現在、東京大学の教授になられている世界的な研究者だ。確かに数学の研究で結果を出したところで直接にはお金には結びつかない。そういう意味では、教育によってお金を儲けているとは的を得た発言だ。

もし大坂選手が本当にプレーの技術だけを磨きたいのならば、プロになるのではなく客のいないテニスコートで黙々とプレーするしかない。そうすれば誰も口出しする人もいないし、自分の思い通りにプレーできる。しかしもちろんそれではお金は一円も入ってこない。どれだけ最強であっても、客の前でプレーしなければスポンサーもつかないであろう。すなわち大坂選手の言っていることは、「義務を果たさずに権利だけ主張している」と言える。

そして最後に大坂選手のメンタルについてだが、問題発言後になって、大坂選手がうつ状態だと言う事が言われるようになった。そのことについてはもちろん気の毒であるが、しかしプロ選手にとってメンタル面のスランプが体のケガとは別物だと言う訳ではない。もし大坂選手がうつで不調なのならば、療養などして万全の調子になって戻って来てほしいと願っている。プロの世界でうつだから大目に見てくれるなどと言う事は全くないのである。そこは自分の力で、そして時には他人の力も借りて這い上がって来るしかない。大坂選手は強靭な体を持っており、そして強靭な精神力の持ち主だ。それは大坂選手の実績が示している。ここまでかなり厳しいことを書いてきたが、僕自身も大坂選手の大ファンであり、これからもグランドスラムを制覇するような活躍をすることを強く願っているし、応援もしている。大坂なおみ選手、頑張って!

河野太郎氏は完全に信頼するに値する政治家だ!

一週間ほど前、ワクチン接種推進担当大臣の河野太郎氏は、ワクチン予約の混乱について「完全に僕の失敗だ」と自身の失敗を認める発言をした。この発言を聞いて、僕だけでなく多くの人はこう感じたに違いない。「この人は信頼するに値する人間だ!」。自身の失敗を率直に認め、河野氏はこれからの政策改善に向けて大いに進んでくれるだろう。このような河野氏の姿に対して、どうしてもこの人と対比してしまう。菅氏だ。菅氏は保身に終始して、会見に対してもろくな受け答えができない。そして自身の失敗を一切認めようとせず、責任を全て周りの人間に押し付けようとする。聞こえの良い言葉を発しては、それをどのように実現するか?と言う策に関しては一切ない。そして追い込まれて決めたことに対しては、「誰々が言ったから」と全く無責任な発言をする。本当にこんなにも無策無能の総理は生まれてこの方見たことがない。酷かったと言われる民主党政権下での鳩山・菅(カン)政権でもここまで無責任ではなかった。僕自身、これまでは基本的には自民党政権を支持してきたが、菅政権下での自民党は全く支持できない。

このような事態の中、河野氏の立派な発言を聞いたものだから、河野氏が救世主のようにも見えてくる。これまで僕は石破茂氏を支持していると公言してきたが、これからは河野氏も積極的に支持していこうと思う。人間と言うものは、たった一言の発言に人間性が現れるものだ。河野氏の発言は、国民受けを狙ってのもののようには全く感じない。いや、そのような事を考えるのならばむしろ自身の責任を否定したはずだ。そして例えそれが考えて用意した言葉であるのならば、政治家としては非常にセンスのあるものだと言える。どちらにしろ、自身の責任を率直に認める河野氏の姿勢は、近年の政治家には全くなかったものだ。とは言え、人間性だけで政治ができるわけではない。しかし河野氏は政治政策能力も十分に持ち合わせていると僕は感じている。

安倍首相は政策実行能力は非常に高かったが、森友・加計問題で大きく信用を失った。それは自身の失敗を全く認めようとしない姿勢に由来する。そして菅氏は政策実行能力が全くないうえに、失敗を全く認めない所だけは安倍氏を引き継いでいる。しかしこれまで菅氏を持ち上げて来たマスコミにも責任はある。実家がイチゴ農家だから人柄が信用できるとかさんざん持ち上げて来た。それによって総理就任当初は支持率爆上げであった。しかし僕は、菅氏の総理就任数日後に「菅政権は間違いなく短命に終わる」と言うブログ記事を書いた。それにはしっかりとした根拠がある。それは、菅氏の官房長官時代の仕事ぶりをしっかりと見ていたからだ。しかし多くの人は、菅氏の官房長官時代の仕事ぶりを見て総理もしっかりと務まるだろうと考えたのだろう。しかし僕の結論は全く逆だった。確かに菅氏の官房長官時代の仕事ぶりはまさしく特筆すべきものであった。しかしそこには菅氏の意見や展望が全く見えなかった。官僚の作り上げたシナリオを読み上げるだけだと感じたのだ。確かに二番手ならそれでいい。そして菅氏は有能な二番手だったと言える。しかしトップに立つべき人では全くなかった。トップは指示を出す側の人間であり、全ての最終判断を下さなければならない。しかし菅氏は官房長官時代には、少なくともそのような事をした記憶はなく、そしてそれができるようには到底思えなかったのである。

これまで僕は石破総理を待望していたが、今の石破氏の置かれた立場を見ればそれはかなり厳しいのが現状である。しかし河野氏は現時点で総理を狙える位置にいる。それならば河野氏には次期総理に積極的に挑戦してもらいたい。僕自身も河野太郎総理を待望している。そしてそれの実現化はかなり近い未来にあると僕は考えている。

スマホから便利さを考える。

スマホがますます便利になり、現在ではスマホは社会インフラとまで言われるようになっている。僕自身もスマホをかなり駆使しており、スマホを使いこなしている部類に入ると思う。しかしその一方、「通話とメールだけできればいいのではないか」と思うこともたまにある。実際二十年以上前までは携帯電話さえ普及しておらず、メールなどなくても特に不便だと意識することもなかった。しかし現在は、スマホがないと生きて行けないと感じる人も多いと思われ、スマホは便利さの象徴となっている。

しかし「便利である」と言う事と「良い」と言う事は全く違う概念だ。しかしいつの時代もそうだが、科学技術が発展して便利になることが正義だと捉えられ、技術者たちは特に疑問を抱くこともなく便利さを追求して行っている。しかしITに関して言っても、ネットワークが高度になればなるほどサイバー攻撃なども急速に増え、その対策が急速に重要性を増してきている。そう考えれば、便利さを高めるために開発しているのか?それともサイバー犯罪を防ぐために開発しているのか?もちろん両方とも大事なのだが、技術開発の本来の目的がゆがんできているようにも思える。

ITだけではないが、技術者は「便利な世の中を作るため」と言う正義を掲げて突き進んでいるが、僕にはそれは単に技術者のエゴではないかとも思えてくる。そのような状況は、戦後の核開発にも似ている。もちろん核開発が便利さをもたらすとはほとんどの人は思っていないが、しかし核を開発すれば他国も核を開発し、脅威も増してくる。それはITの発展とサイバー攻撃の高度化にも似ている。

僕が中学生の頃、雑誌で「未来はどうなっているのか?」と言う特集があった。そして友人同士でも「将来の世の中はどうなっているのだろう」と言う会話をすることも少なくなかったように思える。しかし現在「未来はどのような世の中になっているだろう」と言う会話をすることはほぼ皆無であり、雑誌で50年後の世の中を予想するなんて記事も全く見かけない。そもそも現在において、10年後の世の中を想像することも困難である。5年後なら「自動運転車が実用化して・・・」などと言う予想を何とかすることができる。このような状況は果たして正常なのか?異常なのか?そもそも想像もすることもできない10年後の世界が存在するのだろうか?そもそも自分たちが想像もすることができない社会を無批判に作り上げていくことが正しいのか?僕はこのような現在の状況を非常に危惧している。

僕は同調圧力は嫌いだが・・・。

僕は人間にとってオリジナリティーを出すことは非常に重要であると考えており、またそれが人間の個性そのものであると考えている。なので人と同じことを強要する同調圧力と言うものが最も嫌いであり、日本における一番ダメなところは誰に対しても同調圧力を押し付けることだと思っている。

しかし現在のコロナ禍においては状況は少し違うと思っている。マスクを付けることを求める事、多人数での会食を自粛する事、このようなこともある意味同調圧力だと考えられる。しかし現在の状況下においてマスク、会食問題は人の命にかかわることであり、また人に不快な思いをさせないための究極のマナーだと思っている。なので「自分は同調圧力は嫌いだからマスクはしない」と言うのは完全に違うと思っている。なので究極的に同調圧力が嫌いな僕もマスクは必ず着用し、できるだけ不要な外出を避けている。もちろん人との会食などコロナ禍に入ってから一度も行っていない。

もちろん僕だってマスクをしないで街中を歩きたいし、皆と飲み会も行いたいと強く思っている。しかし周りの人の命、また命に係わるまで行かなくても大きな健康の損傷につながる今のような状況においては仕方のないことだと思っている。コロナ禍に入るまでは、皆がマスクをせずにワイワイと騒いでいた。今では想像もできないことだ。しかしそのような日常を取り戻すことが現在の最大の社会的課題である。

アメリカやヨーロッパでは個人の自由と言うものは最大の価値を持つ。しかし現在のコロナ禍においてはそれが完全に裏目に出ている。欧米の人達も現在は非常時であり、通常時の常識が通じないと言う事を認識した方が良いかもしれない。しかしそれ以上に恐れているのが、コロナ禍後に日本が個人の自由を認められる社会に戻れるかと言う事だ。震災後、日本においては「絆」と言う言葉が多用されることになった。しかしこの絆と言う言葉は、暗に同調を強要することが含まれている。なので僕はこの絆と言う言葉は決してきれいな言葉ではないと思っている。言葉もそうだが、物事を表面的に捉えてはならない。僕は大学時代に所属していた大学の合唱団で、プーランクの「人間の顔」と言う20分ほどの大曲を歌った。この曲は第二次大戦下の究極的な抑圧に対しての抵抗の曲である。そしてその曲の最終章のタイトルは「リベルテ(自由)」である。

もう一度、蓮舫氏の「2位じゃダメなんですか?」発言を考える。

十年ほど前の民主党政権下での事業仕分けで、蓮舫氏が京コンピューター建設に際して「2位じゃダメなんですか?」と発言したことは余りにも有名だ。この蓮舫氏の発言によって、科学と言うものは1位じゃないと何の価値もないことが広く認識されることとなった。僕のブログでも以前、この蓮舫氏の発言を取り上げたことがある。しかし今考えると、この蓮舫氏の発言はもっと深い意味があるのではないかと最近感じている。

確かに科学と言うものは、1位じゃないと何の価値もない。例え小さい結果であってもそこに1位であることが求められる。しかし「京」のようなスーパーコンピューターは科学であると同時に「道具」でもある。いや、道具であることの比重の方が圧倒的に大きい。そう考えると、道具に対して1位を求めることは本当に正しいのか?とも思える。例え単位時間当たりの演算回数が圧倒的であってもそれは単なるスペックであって、それが本当に道具として優秀かどうか?と言う話とは別問題だ。例えばスマホで言うと、メモリやストレージが何ギガだとか、CPUのスペックがどうか?と言う話と、実際にそれが本当に使いやすいか?と言う話はそれぞれ無関係ではないが、完全に相関関係があるわけではない。中にはどんなに高スペックのアンドロイドよりもiPhoneの方がいいと言う人も少なくないであろう。

京コンピューターはスペックに過度にこだわるあまり、非常にマニアックなものとなり使い辛いものだったと言う意見が多かったと言う。それの反省を生かして、二代目スパコンの「富岳」はスペックよりも使いやすさに重点を置いたと言う(そうは言ってもスペックも世界トップクラスだ)。今蓮舫氏の発言を考え直すと、コンピューターと言うものは道具なのだから2位でも良いではないかと言う提言だと捉えることもできる。しかし当時は科学としての側面ばかり焦点を当てられたがために、スペックが1位であることにこだわり続けられた。ある意味、二代目スパコン「富岳」の汎用性は蓮舫発言の結晶だと言える。

しかし社会では全く逆の発想が染みついている。「役に立つ」とことばかりに重点が置かれ、「科学の真の価値」が無視されている。例えば学校でも、「数学なんかやっても何の役にも立たない」と言う主張も根強くある。しかし数学と言うものは極論を言うと、物事の本質を極限まで追求する学問だと言える。そして役に立つかどうかと言う事に対しても、自分の命を左右するくらい重要なものであると僕は考えている。その理由を挙げると、現在のコロナ禍において「ワクチンを接種するかどうか?」と言う事が関心事になっているが、確率(数学)をしっかり理解できないとリスクの評価(副反応のリスクとワクチン接種による感染防止のメリットの評価)に対して判断を下すことができず、最終的に自分の命の行方まで左右されることになる。

「科学」と「科学技術」の違いを明確に認識することは非常に重要な事である。科学は1位でないと意味がないが、科学技術は必ずしも1位でなくても良い。それよりも道具としての使いやすさやどれだけ役に立つかと言う事が非常に重要になってくる。しかし少なくとも日本においては、科学と科学技術の違いについて教育や言及されることはほとんどない。なのでほとんどの人が科学と科学技術を同一視している。蓮舫氏の発言はそのような現状に一石を投じるものではないだろうか?

五輪開催だけが菅首相に評価をもたらすのか?

今、五輪を開催すべきかどうかと言う事で世間が揺れている。しかし揺れているのは「世間」であって、政府にとってはどうやら「開催ありき」の選択肢一本しかないようだ。もし五輪を開催しそれが成功すれば、政府そして菅首相の評価はうなぎのぼりになるであろう・・・。とは僕は思わない。そもそも現在の民意は五輪回避にすべきだと言う意見であるように思えてならず、もし菅氏が五輪を強行すれば菅氏は民意を無視したと言う事になる。しかも菅氏は「五輪開催=成功」と言う等式しか眼中にないように見えるが、しかし「五輪開催→失敗」と言う事も十分にあり得る。最悪は、「五輪開催→コロナ患者が急増→五輪中断」と言うパターンであろう。五輪失敗に終われば菅氏の政治生命は完全に断たれるわけであるが、では何をしてもダメなのかと言うとそういう訳ではない。現在の状況であれば、「五輪開催断念」と言う決断をすることは、五輪を強行すると言う決断以上に英断と言えるだろう。

菅氏にとって、国民の命より五輪開催による自身の支持率向上の方が重要なのか?そう思えてならない。緊急事態宣言が5月11日までと言う非常に中途半端なのも、その直後のIOCバッハ会長の来日に合わせてのものだと言われている。これまでの緊急事態宣言もそうだが、菅氏の決断は何もかもが中途半端に思えてならない。結局二兎追って一兎も得ずと言う事になるのではないだろうか?そもそもこのような国民の事を考えない政治家が首相になること自体、完全に間違っていると僕は強く思っている。

もちろん五輪を強行して成功する可能性も十分にある。そして菅氏はそれを期待して強行しようとしているのだろう。ではそのような可能性があるにも関わらず、なぜ多くの国民は菅氏の判断に従えないのか?それは菅氏の後ろ姿に誰もついていけないと言う事であろう。僕は意外に大きかったのは、菅氏のステーキ会食問題であったと考えている。たかが一会食だと思うかもしれないが、トップは自分の行動によって国民に取るべき道を示すべきであるのだが、そのトップがそのような姿しか示せないようであれば誰もそのようなトップについて行こうとは思わない。

今回の五輪開催の問題は、それが成功するか失敗するかに関わらず、菅氏が国民の方を全く見ていないと言う事を示すものであった。僕は必ずしも五輪を否定しようとは思わない。選手にっては4年に一度の五輪であって、その一度に人生を懸けている選手も少なくないであろう。しかし首相が実行を決断するのであれば、その根拠を明確に示すべきである。「強行したらたまたま成功した」と言う事でしかないのなら、例え五輪が成功しても菅氏には誰もついて行こうとは思わない。菅氏は「五輪が成功すれば、皆自分を支持する」と思っているようだが、僕はそれは全く違うと考えている。成功した暁に支持率を高めようと思うのならば、その開催強行の根拠を示さなければならない。そうでないと開催しようがしまいが菅氏にとってはこれからは茨の道になるであろう。

スマホ後の革命ツールは自動運転車だ!

ここ十年程、社会の革命はスマホが担ってきた。スマホの性能は格段に良くなり、革命的スマホツールがいくつも現れ我々を驚かしてくれた。しかし現在はどうだろう。CPUの性能がどれだけ上がっただとか、カメラの画素数がどれだけ上がったとか毎年話題にはなるが、しかし一般ユーザーとしてはそのような性能向上を実感できることはほとんどなく、一部のガジェットマニアとガジェットレビューアーが喜んでいるだけに見える。もうスマホの革命は頭打ちであり、一般ユーザーもこれまでのように性能アップを望んでいないように思える。

ではスマホ革命後のこれから、世の中を変えるツールは何か?それは間違いなく自動運転車だと言える。自動運転車は単に自動で運転してくれるだけでなく、考えれば考えるほど、想像すれば想像するほど夢があふれてくる。では自動運転車の何がそこまで夢を見させてくれるのだろうか?

まず必ずしも家にいる必要がなくなる。そして移動するにも、そして通勤するにしても、朝起きてそのまま車に乗り込み、車の中で着替えをし食事をすればよい。一人で乗れば他人の目を気にする必要はない。そして目的地に着くまでiPadで読書や情報チェックができる。そして夜は飲み屋でたらふく飲み、無人の自動運転車に迎えに来てもらい家まで帰ることができる。学生なら自動運転車に学校まで送ってもらい、帰る時には無人の自動運転車を呼び出せばよい。

しかしこれらの事だけなら従来の車から運転者がいなくなっただけの話だ。実は夢はさらに広大だ。一言で言えば「車に住む!」、これが究極であろう。最近ホンダのレジェンドと言うセダンの車がレベル3の自動運転を実現したことが話題になった。しかし例えレジェンドがレベル5の完全自動運転になったとしても、車に住むのは難しいであろう。僕が想像しているのは、マイクロバス級、あるいはそれ以上の大きさの自動運転車に住むことだ。バスくらいの大きさがあれば書斎もベットもおけるだろう。そしてトイレも完備すれば完璧だ。そうなればもう家など持つ必要はない。もし家でゆっくりとしたいと思えばその時だけホテルにでも泊まればいい。

とは言え、車に浴室を付けるのは難しい。もしかしたらトイレを付けるのも嫌だと言う人もいるかもしれない。洗濯機を置くことも難しいだろう。そこでだ。そのような自動運転車で暮らす人たちのために「自動運転車ステーション」を至る所に作ればいい。自動運転車ステーションには銭湯やトイレはもちろんあり、クリーニング店を併設してそこで洗濯してもらえばよい。もちろん車がステーションに入れば自動課金される。そして全てのステーションに水素ステーションを完備すれば、水素燃料車も普及するだろう。今日は鹿児島のステーション、そして寝ている間に翌日には仙台のステーションに着くと言う事も夢ではない。

こうなれば、車に住むのは家がない人だと言う固定観念が崩れる。いやむしろ、お金がある人の方が積極的に車に住むかもしれない。住所不定、いや、住所は車!そんな生活が訪れることを僕は夢見ている。アップル社はiPhoneを世に出しスマホ革命を起こしてきた。そして現在、またもやアップル社による自動運転車の計画が世に知られるようになり革命を起こそうとしている。僕は数年後に出される「アップルカー(iCar?)」は間違いなく人々の生活様式を変えてくれると考えている。アップルカーが発売されたときには、真っ先に僕もアップルカーを購入できるようにお金を貯めておきたいと思う。そしてゆくゆくはアップル製自家用自動運転バスの中に書斎や寝室を完備して住みたいと思っている。このような世の中に大きな夢を感じるのは僕だけではないはずだ!

メリットとデメリット。

現在、ワクチン接種をするかどうかの判断が問題になっている。ワクチンに限らず、どんな薬でもどんな医療でもリスクはつきものであり、少なくともゼロリスクと言うものはあり得ない。そこでそのようなリスクをどう評価するかが問題になってくる。するか?しないか?の判断を下すとき、人間なのでどうしても感情的な事やイメージなどが入り込んでくる。そのような事抜きで判断する事は実際非常に難しいことだ。しかしそのような判断をするときに最も大事なのは、メリットとデメリットを天秤にかけてどちらが大きいかと言う事を比較することだ。

何度も言うが、ゼロリスクと言うものはあり得ない。道端を歩いていても、車が突っ込んでくる可能性もゼロではない。しかしほとんどの人はそんな危険性など考えずに気軽に道を歩き回っている。それはなぜかと言うと、道を歩いて事故に遭う危険性と、家に籠って自由に歩き回れないデメリットを無意識に比較しているからだ。そしてほとんどの人は、家から一歩も出ないことによるデメリットの方が大きいと判断する。さらに言えば、家に車が突っ込んでくる可能性もゼロではないので、家にいることが必ずしも安全だとは限らない。

ワクチンのメリットデメリットを判断する時に最も重要になるのは、副反応(副作用)が起こるかどうかではなく、どれくらいの確率で副反応が発生するかだ。この確率が高ければワクチンの危険性が高いと言う事なので、接種しないと言う選択肢も十分にあり得る。しかし重篤な副反応が100万人に一人の確率で発生するとどうだろう。この100万に一人と言う確率はそのままではイメージしづらいが、満員の甲子園の収容観客人数が約5万人なので、甲子園を20個満員にしたときその中から一人発生すると言う事だ。2020年の交通死亡事故人数が2839人なので、去年交通事故で死亡する確率は、約42000人に一人ほどだ。そして2021年4月10日時点の情報では、コロナによる国内死亡者数は9364人。これを割合で表すと、国民約13000人に一人である。現在アストラゼネカ社のワクチンによって血栓ができると言う副作用が報告されているが、その割合は(イギリス国内の統計では)約2000万回接種して死亡者が19人。なので単純に計算して(一人二回接種することを考慮して)約50万人に一人である。なのでコロナに感染して死亡する危険性の方が圧倒的に高い。

そしてもう一つ大事な事は、副反応と思われるものが本当にワクチン接種と因果関係があるのかと言う事である。ワクチンを接種しなくてもその時期に死亡する人は当然存在する。そのような人が偶然ワクチン接種の時期と重なったと言う可能性は十分にありえる。もちろん100人くらいの集団ならそのような可能性はほぼ皆無と言っていいが、数千万人の集団接種となればそのような人が何十人と出て来る事はむしろ当然のことである。なのでワクチンとの因果関係ははっきりと追究しなければならない。そしてメディアには、単にワクチン後に死亡したと言う事例をセンセーショナルに伝えるのではなく、因果関係がどれくらいあるのかと言う事をはっきりとさせて正確な情報を伝える義務がある。もしメディアが視聴率だけを考えて因果関係がはっきりしない死亡例をセンセーショナルに伝え続けてしまえば、結局最後には国民の首を絞めることになる。

今国民一人一人が、メリットデメリットを正確に判断できるかと言う判断力が試されている。学校で習う勉強が実際には社会で全く役に立たないと言う声をよく聞くが、ワクチン接種の判断をする上では大アリなのである。生物学的な知識、社会的な知識、そして何より数学的(特に確率的)な思考力が大きくものを言ってくる。そのような知識を総動員して正確な判断が出来ないと、回り巡って自分の不利益として跳ね返ってくる。それはもしかしたら命にかかわることかもしれない。そのように考えると、基礎的教養としての学問がいかに大事かと言う事が思い知らされる。

GIGAスクール構想で忘れてはいけないこと。

現在全国の小中学校で、GIGAスクール構想と言うものが進められている。ここで言うGIGAとは我々が日常的に使うギガ(バイト)の事ではなく、Global and Innovation Gateway for All、直訳すると「全ての人にグローバルで革新的な入り口を」と言う意味である。簡単に言うと、児童学生に一人一台コンピューターを与えて、情報技術を身に付けさせようと言うものである。この構想は2019年から5年間かけて遂行される予定であったものだが、新型コロナの影響があって急速に前倒しされ実行されている。

僕自身この構想に関わっているわけではないので特に詳しいわけではないが、ただこの構想に限らず学校での情報技術教育を行う上で忘れてはならないことが一つあると強く考えているので、そのことを指摘したいと思いこの記事を書くことにした。そのこととは、「情報技術をブラックボックスのまま扱わない」と言う事である。多くの人達は、パソコンやスマホを日常的に当たり前のように使っているが、ではその自分が使っているパソコン・スマホの仕組みをどれだけ理解して使用しているだろうか?おそらく多の人が、仕組みを知らず操作の仕方だけをマスターして使っていることだと思う。もちろんそれらの仕組みを全て知ることは(あまりにも複雑すぎて)不可能であるが、しかし最低限の事くらいは知る必要があるのではないだろうか?そして最低限の事を知った次は、さらに1%でも詳しく理解していく必要がある。それはなぜか?情報技術を発展的に利用あるいは開発していくためには、単に操作方法だけではなくブラックボックスの中身を少しでも詳しく知る必要があるからだ。

もちろん操作方法を知りそれらを使いこなせるだけでもかなりの事が出来るようになる。しかしそれらの事は、学校の教師が教えるよりも、自分で使いこなしたり友達同士で教えあったりする方が圧倒的に習得が早い。なので教師が教えるべきことはむしろそのブラックボックスの中身的な事ではないだろうか?プログラミングももちろんその中に入るが、しかし極論を言えばプログラミングだってさらに根本的なコンピューターの仕組みの下に成り立っている。ソフトだけでなくハードを理解することも必要だ。しかし現実はおそらくそれらすべてを教育できる教師はいないだろう。なのでコンピューターの部門ごとに教師に専門を作らせるのも良いと思う。たとえばプログラミングを担当する教師、そしてネットワーク担当、アーキテクチャー担当など、通常の教科のように分担すればよい。コンピューターとはそれだけ深く複雑なものである。

僕自身、学校でコンピューター教育など全く受けておらず、学生時代はTeXと言う論文執筆ソフトを利用したくらいだ。なので今は少しでも詳しく情報技術の知識を身に付けようと勉強している。現在はAIが徐々に浸透してきているので、それらの基になっているPythonと言うプログラミング言語を習得するのも重要かもしれない。今ではPythonはAIだけでなく、これまでC言語が担っていたプログラミング教育の主流になりつつあるので、これからはPython一つであらゆることに応用できるかもしれない。そしてもう一つ忘れてはいけないのが、これから革新的に普及されると思われる量子コンピューター・量子情報技術である。これらもプログラミングのように基本的マニュアルを覚えて利用することもできなくもないが、しかしこれらを深く理解し切り込んでいくためには物理学における量子力学を知ることは必須だ。しかしこれは現在は大学物理学科2年生か3年生で習うような少し高度なものである。しかし量子コンピューターを理解すると言う目的のために教育の仕方を変えれば、もっと早い段階で教育できるかもしれない。

最後に繰り返しになるが、ブラックボックスのままで扱っているようではコンピューターを理解したことには全くならない。ブラックボックスを全て理解することは専門家でも不可能かもしれないが、しかし1%でも深く理解しようとする姿勢が最も重要になると僕は強く感じている。