思想、生き方、考え方」カテゴリーアーカイブ

お金と価値。

「お金は価値」である。これは誰もが認めるところであろう。しかし「価値はお金」か?人によってはお金こそ絶対的な価値であり、「価値=お金」と豪語する人もいるであろう。しかし多くの人は、価値は必ずしもお金ではない、価値とお金は重なる部分はあるものの、別物であると認識しているのではないだろうか。

お金と価値は重なる部分がある。あるいはお金は価値の真部分集合であるとも考えられる。しかし本当に大事なのは、お金と価値の重なる部分ではなく、その重ならない部分、すなわちお金ではない価値ではないだろうか。このお金ではない価値というものは、人生の充実感に大きく関わってくる。そしてお金ではない価値を保持しているからこそ、お金自体の価値もより大きなものになる。

お金ではない価値の部分が大きい人は、お金を含めて価値の総量は圧倒的に大きくなると僕は考えている。例えば、人生を懸けるようなものがあれば、それはお金ではないはずだ。しかしもちろん、そこにお金が関わっていても全然良い。お金が関わる、すなわち人生を懸けているものを仕事にすると言う事は、最高にチャレンジングなことである。例え現在はまだお金になっていなくてもいい。しかし将来、その人生を懸けていることが大きなお金となって帰ってくるのならば、それを目標に挑戦し続けるのもいいではないか!

お金は決してバカにしてはならない。しかしお金が全てになってもいけない。お金の威力を存分に発揮しながらも、お金ではない価値を守り抜き、そして謳歌する。これが僕の目指す人生像の一部だ。もちろん、人それぞれ多様な人生像があってよい。人によってはお金が全てだと言う人もいるだろうが、それはそれで良いと思っている。そのような人はお金を得るために大きなチャレンジをしているかもしれない。それはそれでエキサイティングではないか!

僕は学問と言う最大の価値を発見した。それに人生を懸けてみようと心に決めている。紆余曲折あってまだ結果は出ていないが、もうすぐ出せるはず!そう強く感じている。

素敵なパソコン♪

スマホが圧倒的な存在感を示す現在においても、何か作業をするとなるとパソコンは欠かせない。スマホもコンピューターである事には変わりないのでスマホでもできない事はないが、やはり作業効率から言うとパソコンにはまだまだかなわない。

パソコンを買う時、どのような基準で製品を選ぶであろうか?男性ならスペックを重要視する人が多いであろうし、女性ならデザインを重要視する人が多いようだ。僕自身、確かにスペックは非常に考慮するが、最近はそれ以上にデザインを重要視している。そしてもう一つ加えるのならばコスパかも知れない。

作業効率だけを考えるとスペックだけを考えれば良いと思うかもしれないが、しかしデザインは作業効率を上げる大きな要素だ。なぜならお洒落なパソコンを前にして取り組めるかどうかと言う事は効率にも大きく関わるし、さらにクリエイティブな事に取り組むのであればそこでの気分などが大きくパフォーマンスを左右する。さらに人前でプレゼンをするとなると、パソコンのデザイン一つで聴衆の受けるイメージは大きく変わるかもしれない。なので、デザインがお洒落かどうかと言う事は、非常に重要なポイントである。

昨日、新しいパソコンを注文した。「HP Spectre x360 13」というタイプのパソコンだ。なぜこのパソコンを選んだかと言うと、スペック、デザイン、コスパの全てが最高であると感じたからだ。特にデザインは秀逸である。以前のブログで、次はMacを買おうと思うと書いたと思うが、それをも吹き飛ばすくらいのお洒落なデザインである。スペックは、CPU:Core i7、メインメモリ:16GB、ストレージ:1TB SSD、だ。スペックもかなり最強である。そして価格もかなり頑張ってくれている。買う前に実物を見ようと梅田ヨドバシカメラに足を運んだが、その時はまだ他のモデルと迷っていた。しかし実物を見て店員と色々と雑談をした後は、もうこれしかないと即決であった。

パソコンが家に届くのはもう少し後になりそうだが、商品が家に届いたらパソコンをレビューしてみようかと思う。ああ、商品が届くのが待ち遠しい・・・。

数学総動員!

数学は大きく三つに分けられる。「代数学」「幾何学」「解析学」だ。しかしこのような分類は人間が便利上勝手に作ったものであって、それらの間に明確な壁がある訳でも何でもない。従って、それらの間をまたぐような分野ももちろん存在する。「代数幾何学」などはその代表であるが、それ以外にも「解析幾何」「代数解析」さらには「数論幾何」などもある。また、例えそれらの一分野を極めるにしても、他分野の知識は不可欠だ。

大体、一つの分野を細分化して突き詰めて行くには限界がある。その限界を突破するのも一つの手ではあるが、他分野を融合するのは最も賢明な手だと思える。ポアンカレ予想(幾何化予想)は位相幾何学の問題だと考えられていたが、ペレルマン博士は微分幾何学の技術を使って解いてしまった。そのような例は多々ある。代数学の殻に閉じこもってしまえば、代数学の問題さえ解けなくなってしまう。大きな問題ほど、他分野の技術を導入して初めて解決可能になる。

数理物理と言う分野は、非常に曖昧な分野だ。何が曖昧かと言えば、人によって数理物理に対する定義はまちまちだし、また取り組んでいる問題もまちまちだからだ。“数学的”な物理と考える人もいれば、“物理的”な数学だと考える人もいる。しかし一つ確実に言えることは、数理物理は数学と物理にまたがる学際的な分野だと言う事だ。従って、数理物理の研究に取り組むためには、学問の壁と取り払わなければならない。代数も幾何も解析も関係ない。使えるものは全て使うのだ。それこそ「数学総動員」である。

この様に考えると、超学際的な分野である数理物理は、非常に大きな可能性を秘めた分野である。数理物理は、代数学と幾何学と解析学を物理と言う舞台の下で融合してしまうかもしれない。とてつもなく大きな野望であるが、そのような事を考えても良いのではと思う。ここでは数学と物理を例に取り上げたが、化学や生物学や地学、さらには社会科学や哲学においても分野の壁を徹底的に取り払い、超学際的に攻めて行くことが必要なのではないかと強く思う。

それは受け取る側が決める事だ!

近年、「何とかハラスメント」と言う言葉が度々取り上げられている。セクハラ、パワハラ、スメハラなどいくつものハラスメントが存在する。しかしそのようなハラスメントを加える人間の多くは、それがハラスメントだとは認識していない。逆に認識していないからこそハラスメントが横行するのだとも思う。

しかし近年の社会風土を見ると、このようなハラスメントが行き過ぎではないかと感じることもたまにある。当たり前の事だが、ハラスメントと言う言葉を逆手にとって、他人を陥れるのは論外だが、一部ではそのような事も存在しているようだ。

ではそもそも、何を持ってハラスメントが存在すると言えるのか?それは受けた側が不快に感じているかどうかだ。決めるのはあくまで受け取る側なのである。例え加えた人間がそのような認識が無くても、受けた側が不快であればハラスメントは成立する。「そのようなつもりはなかった」は基本的には通用しない。もちろん、常識的な範囲であれば考える余地はあるが、大抵は周りから見ればハラスメント的な要素は確認できる。

危害を加えて「そのようなつもりはなかった」と言い訳をするのは、人間としてもかなり卑劣である。しかしそのような弁解は社会でかなり横行している。これは普段の冗談にも当てはまる。冗談を言ったつもりでも、それを受け取る人が冗談だと受け取らなければそれは冗談ではないのだ。さらにたちが悪いのは、言った方が「おまえは冗談も通じないのか?」と開き直ることである。相手に通じない冗談を言い、それが通じない責任を相手のせいにする。これは非常に困った人たちである。冗談かどうかは受け取る側が決める事である。冗談だと言いたいのならば、言葉使いのスキルと常識的な知識、そして言う人の人間性を上げなければならない。

評価とは基本的に周りの人が行うことである。もちろん、自分の信念の正しさを自分で確認する分には、自分で評価すればよい。しかし人間のコミュニケーションというものは、基本受け取る側が評価するものである。自分の起こした行動を自分で評価するのは、多くの場合自分のエゴでしかないのだ。

一流とは?

社会では「一流とは何か?」と言う事がしばしば取り上げられる。僕のブログでもたまに一流と言う言葉を取り上げている。ではそもそも一流とは何か?

一流と言う言葉は、大きく二つの対象に使われる。一つは物に対して、もう一つは人間に対してだ。ブランド品に対して、一流ブランドだとか二流ブランドだとか言われることが多い。僕自身、ブランドに対しては全く否定的ではないし、確かに一流ブランドというものは物としても本当に一流であることが多い。しかし勘違いしてはならない事は、一流ブランドを持っている人が必ずしも一流の人間ではないと言う事だ。どのような物を持ち、どのような物を身に付ければ“外見的”に一流なのか?それはその人にふさわしい物を身に付ける事である。だからエルメスを身に付けている婦人より、ユニクロを着ているアクティブな女性の方がはるかに一流で魅力的だと感じることも多い。もちろん、精力的に活動し、それによってお金を稼ぎ、そのお金でエルメスを買って身に付けているのならばその人にふさわしく、一流の物を身に付けた一流の人間だと言える。ある意味、一流ブランドは人を選ぶ。それはお金を持っているかと言う事では全くなく、その人の生き方・人間性が一流か?と言う事である。

では一流の人間になるためにはどうすればいいか?決して一流ブランド品を持っていたり稀有な体験をしているから一流という訳ではなく、一流の人間が一流の物を身付けているから価値があるのである。お金を持っている三流人間が一流ブランドを身に付けている事ほど痛いものはない。

人間が一流かどうかと言う事は、生き方・人間性・思想に由来する。常に人生に対して挑戦し続けているか?人に対して思いやりを持ち、困っている人を助けることが出来るか?深い思考によって物事を考えることが出来るか?一流とはそのような事である。もちろん僕自身がそのように完璧な人間か?と言われれば完璧ではないが、自分が出来る範囲の事だけでもそのような人間に近づきたいと思っている。

生き方を見れば、その人が何流かは大体分かる。見かけだけの張りぼてか?あるいは外見からは想像できないくらいの精力的な生き方をしている立派な人間か?もちろん、人間性も外見も両方立派であれば非常に素敵だ。

一流の人間は大体仕事にこだわっている。二流は趣味にこだわる。一流は趣味さえも仕事にしてしまうたくましさがある。ただ、決していくら稼いでいるかと言う事が問題である訳ではない。趣味と仕事は覚悟が違うと言うことである。覚悟を持って物事に取り組めているかと言うことである。

ゴルフ・全英女子オープンで渋野日向子選手が優勝したが、彼女は常にスマイルを出し続け、考え込んでいる様子は微塵も感じさせなかった。そこに一流を超える“超一流”を感じる。超一流は、生き方でも魅せ、結果でも魅せるのである。もちろん、そのような結果を出せる選手は一大会一人だけに限られる訳だから、そんなにボコボコ出現する訳ではない。しかし人間性は誰でも磨ける。まずは自分自身の人間性で魅せられる人間になることが目指す所ではないだろうか?もちろん人間であるからには、良い所もあれば良くないところもある。良くないところを矯正しても魅せる人間にはなれない。良くないところがあっても、良い所をさらにレベルアップし魅せて行くことが大事ではないだろうか。

英語力で評価されるのは二流だ!

女子ゴルフの渋野日向子選手がゴルフ・全英女子オープンで優勝した。渋野選手のいつでもスマイルが話題になったが、優勝スピーチも見る者を惹きつけた。渋野選手の優勝スピーチの英語はお世辞にも上手いとは言えないし、はっきり言って中学レベルである。しかしそのような中学レベルの英語スピーチを、「英語力が低レベルだからダメだ」と言う人はおそらくいない。なぜなら、本業であるゴルフのプレーでしっかりと世界一と言う結果を残しているからだ。彼女の上手くない英語力がゴルフの評価を下げることは全くないのだ。それどころか、最後に笑顔で放った「サンキュー」と言う一言が彼女の魅力をより一層強いものにした。

しかし世の中では、何かと「英語力が重要だ。英語力を身に付けないといけない。」と言われている。極端な場合では、「英語が出来ないと全てがダメだ」と英語力だけで人間を判断されることもある。しかし英語力は何のために付けるのか?それは、自分が取り組んでいる事をよりスムーズに進めるためだ。言い方を変えると、英語力は補助でしかないと言える。だから本業で圧倒的な力を見せることが出来れば、英語力などはどうでもよいのである。もし英語力で自分の力を評価されているのならば、それは本業で力を出せていない、自分が二流であると言うことである。

以前、ノーベル物理学賞を受賞した益川敏英博士は、英語が大の苦手であったと言う。確かノーベル賞授賞式でのスピーチでも、博士は日本語でスピーチしたはずだ。しかし博士が英語が話せないと言う事によって評価が下がったなどと言う事は聞いたことがない。それは彼の研究力が一流だからである。

渋野選手はこれから世界を転戦すると思われるので、英語力もこれからメキメキと付けて行くであろう。そして彼女の英語力はこれから彼女のプレーを大きく助けて行くと思われる。しかし彼女の評価は英語力でされるのではなく、ゴルフのプレーによってされる。なぜなら彼女は一流のゴルフプレーヤーであり、英語力ではなく、プレーと彼女自身の人間性に魅力があるからである。

「楽しい」の先。

今、何かに真剣に取り組んでいる人は多いだろう。ではなぜ、その対象に真剣に取り組むのか?

「好きこそものの上手なれ」と言う言葉があるように、楽しんで物事に取り組むことは非常に大切だ。そして人によっては、楽しむ事が一番の目的だと言う人も多いだろう。それも非常に素晴らしい事である。物事を極めて行くと、どんどん楽しくなる。その対象を理解し上手くできるようになれば、どんどん楽しくなる。ある意味、楽しさを感じると言う事は一つの到達点だと言えるかもしれない。

しかし物事を極めて行くと、その「楽しい」の先がある事に気が付く。スポーツに関しても学問に関しても、二流と一流の違いは、その先に気付くことではないかと僕は思っている。オリンピックで金メダルを取った選手が「非常に楽しめました」と言う事がよくある。その言葉は本当であろう。しかし、その金メダリストは、確実に「楽しいの先」を見通している。楽しいの先を見通しているからこそ、単に「楽しい」だけでは終わらせず、そのさらに上を目指せるのだ。テレビで金メダリストが言う「楽しめました」と言う言葉を聞いて、頂点に立つためには楽しむ事が全てだと勘違いする人がいるが、楽しむ事は必要条件であって、十分条件ではない。

では、「楽しい」の先とは何か?これは非常に難しい問題である。しかし一つ言えることは、本質を見ることに関係していると言う事である。本質を理解することは最大の喜びであり、また「楽しい」以上の快感である。しかし簡単には本質は理解できない。やはりかなりの修業を積まなければならない。そのような修業は決して楽なものではない。もしかしたら楽しくも何でもないこともあるかもしれない。しかし嫌ではないのだ。進んでそのような状況に身を置こうとしてしまう。なぜそのような状況にわざわざ身を置こうとするのか?それは「楽しい」の先を見ているからだ。「楽しい」の先とは何か?これは誰かが教える事ではなく、自分で気付くことだ。そして自力でそれを見通すしかない。

しかし初めは、楽しむという事が非常に重要だ。スポーツや学問を始めた子供なら、楽しむ事以上に重要な事はない。しかしそれを真剣に究めようと思うのならば、「楽しい」の先に気付くことは避けられないと思う。それに気付けば、あとはそこにたどり着くまでのビジョンを基に細部を詰めて行くだけだ。

心臓に毛を生やす。

僕は人生を積極的に、そして攻撃的に挑戦して行こうと前進している。そのような姿勢と安定は相反するものかもしれない。僕自身も安定を望んでいる訳では全くなく、むしろ人生に安定を求めたら自分の人生は終わりだと思っている。

しかし、そのように挑戦するためには、精神的には圧倒的に安定していることが必要だ。どんなことにも動じない精神力、そして圧倒的な余裕を身に付けなければならない。僕自身、数年前と比べると、かなり精神的な安定と余裕を身に付けて来れたと思う。しかしまだまだ完全ではない。僕の目指す所にはまだまだ達していない。しかしこれから、その目指す所にある精神力まで達する自信はある。そのためにこれからは心臓にどんどん毛を生やしていかなければならない。

心臓に毛を生やすとは面白い表現だと思うが、何なら脳にまで毛を生やして行こうと思っている。もちろん、頭に毛を生やし続けることも非常に重要である。精神は脳に宿る。ならば脳に毛を生やすと最強ではないか!心臓に毛を生やすことが出来れば、脳にも毛を生やすことが出来る。そのような毛だらけの精神を身に付けるために精神力を上げて行こう。

今現時点ではいろいろと苦しい事には間違いないが、ただ非常に充実している。目の前には明るい未来しかない。ただその明るい未来を完全に実現させるためには、まだまだ心臓に毛が足りない。挑戦し続けるために、どんどん精神的余裕を身に付けて行かなければならない。僕がまず実現すべきことはそのような圧倒的な精神力だと非常に感じている。そしてそれは実現可能だと確信している。

本の読み方、「専門書は2回読む」。

僕は平均よりはかなり本を読んでいる方だとは思うが、それらの本を読んで行くうちに自分なりの本の読み方というものを会得してきた。一般書に関してははっきり言ってどうでもよいと思っているので、軽く読む時もあればじっくりと読む時もある。そんなに読み方にこだわりは持っていない。

問題は専門書(論文を含む)の読み方である。僕は専門書をかなり買いためているので、はっきり言って全ての専門書を読破するのは不可能だ。そもそも専門書というものは読破するためにあるのではない。本に書かれている知見を基に、自分の構想を実現するためにある。だから専門書の読破にこだわることは無意味だ。しかしもちろん、じっくりと読破する専門書もある。しかし多くの専門書は、必要な知見を修得すれば、それで十分なのである。必要ない記述の所を読むのに力を入れるのなら、その力を他の専門書の必要な部分に向ける方が良い。

昔、僕の恩師の大学教授が、「本を最初から最後まで読もうとするのは素人だ。」と言っていた。学生のうちはどうしても「読破感」を求めてしまうので、最初から最後まで読もうとする。途中で読むのを止めるのは、必要な所を修得したからではなく、リタイヤが原因であることが多い。まあ、リタイヤすると言う事は、よっぽど無意味で退屈だからなのかもしれない。本当に必要だと思えば、何が何でも読み続けようとするものだ。

専門書を読む時は、一度目はかなり速いスピードで読み飛ばす。そして全体の概観を掴むことを重視する。数式の厳密な計算にもこだわらない。そして二度目はじっくりと細部を詰める。もちろん、計算も全て確認する。一度目の読書で概観を掴んでいれば、二度目は意外とすんなりと入るものだ。一度目の読書で概観を掴んでいるかいないかで、理解は大きく変わる。一度目から熱心に細かい計算をしていれば、それが何のための計算かわからなくなることがある。自分のやっている計算の意味を掴むためにも、一度目の速読は必要だ。

僕の専門書の読み方はこんな感じだ。もちろん、このような僕のスタイルは一夜にして確立された訳ではなく、長い時間をかけて確立されたものだ。そして僕に合っているスタイルが、他の人に対しても合っているとは限らない。時間をかけて、自分独自のスタイルを確立することが重要なのである。

必要なのは技術か?アイデアか?

日本では技術力が過度に高く評価される傾向がある。もちろん高い技術力がある事は素晴らしいが、ただ技術力があるだけでは何も成し遂げられない。技術というものは何かに応用して初めて威力を発揮するのであって、その「どのように応用するか?」というアイデアなしでは何も成し遂げられない。

逆にアイデアだけでも何も成し遂げられないし、学問で言うと、アイデアだけでは単なる素人の妄想でしかない。アイデアは具体的に構成して初めて意味を持つ。その具体化は技術によって成し遂げられる。

すなわち必要なのは、技術とアイデアの双方なのである。この二つは車の両輪である。片方が欠けても前に進まない。ただ、役割分担と言う事は出来る。アイデアを出す人と技術を持っている人が融合すればいい。もちろん、一人でアイデアと技術の両方を持っていれば理想的であるが、なかなかそのような人はいない。企業も同じで、良いアイデアと高い技術力の双方を持ち合わせている企業は少ない。

今日本で問題になっているのは、高い技術力を持ちながらも良いアイデアを出せない事である。日本の技術力は誰が見ても世界トップレベルである。しかし、現在非常に威力のある分野であるスマホ製品を見ても鳴かず飛ばずである。僕自身も日本企業は高い技術力を持っていると思いながらも日本製品に魅力を感じず、アップルのiPhoneを愛用している。日本企業がiPhoneのような素晴らしい製品を作ってくれればどれだけ良いかと思うが、現状を見るとそれは期待できない。日本企業は高い技術力を持ちながらも、アイデアは他国企業の後追いばかりである。

数学においても、計算力が抜群にあろうが豊富な理論的知識があろうが、それをどのように発展させるかと言うビジョンがなければ新しい理論を構成することはできない。もちろん、数学以外の学問においても同様であろう。学生のうちは、熱心に勉強してたくさんの知識を身に付ければ良い。本もたくさん読めば良い。しかし、学生を卒業した後はそれらの知識を基にアウトプットをしていかなければならない。そのためには、読書をして技術を付けるだけでは何の進展も望めない。アウトプットするためには、はっきり言ってビジョンなき読書は無力なのである。アイデアを基に実行しなければ何も生み出せない。今、日本が陥っている「技術バカ」ではなく、また「アイデアのみのド素人」でもなく、「技術とアイデアの双方を兼ね備えた実行家」として遂行することが必要なのである。