思想、生き方、考え方」カテゴリーアーカイブ

お洒落。

僕はお洒落かどうか?と問われれば、お洒落な方だと思う。そしてお洒落に関して自分なりにこだわりもある。そこで僕が理想と考えているお洒落とはどういうものかと言うことを、少し書いてみたいと思う。

あるファッションディレクターが言っている事で、僕も同感な事だが、どのようなお洒落を目指すかという時、それは「最高の普通」と言うことである。よくお洒落にこだわる人が陥りがちなのが、奇抜になりすぎることだ。なぜそのように奇抜になってしまうかと言えば、それは「特殊なお洒落」を目指しているからだ。そしてなぜ「特殊」を目指しているかと言えば、おそらく個性を出したいのだろうと思う。これはまさしく、「最高の普通」とは対極にあるお洒落だ。このようなお洒落は、僕にとっては最高にカッコ悪いと感じてしまう。

もしかしたら、普通のお洒落では個性が出ないのでは?と思うかもしれない。しかしそれでいいのだ。僕は個性は服装などのファッションで出すべきものでないと思っている。個性とは人間性である。なので個性は人間内部から出さなければならない。巷にいるファッションで個性を出そうとしている人たちは、自分で個性がないと言っているみたいなものだ。ただ何も服装の事を考えずにダサいのもそれはそれで問題かもしれない。なぜなら自分はそれでいいと思っていても、それを評価するのはその人を見る他人である。なので最低限の身なり、清潔感には気を付けなければならない。

そして大事なのは、お金をかければお洒落になると言うものではないと言うことである。もちろん最低限のお金は必要かもしれないが、服装より重要になってくるのは体付きである。お金を注ぎ込むよりも圧倒的に効果があるのは筋トレだ。なので僕は筋トレを毎日ほぼ欠かさずに行っている。何もジムに行く必要はない。自宅でダンベルを持つなり腹筋・腕立て伏せをするなりして鍛えればよい。ランニングも効果がある。まめに体を管理して細マッチョを保って行こうと僕は決めている。

かけるお金は適度にして「毎日お洒落生活は」は非常に楽しいものである。そしてお洒落を決めるためにもいろいろ試行錯誤することになる。すなわち結構頭を使うものだ。なので僕の思考生活の中でお洒落はその一部として機能している。そしてこれからも筋トレを継続して、一石二鳥とばかりにお洒落と健康を手に入れたいと思っている。

孤独な人間でありたい。

僕は人と付き合うのが大好きだ。人と飲んだり話したり、様々な人と関わっていきたいと思っている。しかし僕は基本は一人でいることを好んでいる。人と群れるのは好きではないし、研究も一人で行っている。一人でできる理論系の研究と言うものが本当に性に合っていると強く感じている。なので普段は一人で行動し、その中で人との付き合いをすると言うのが僕のスタンスである。

世間では孤独死と言うものが問題になっている。しかし僕にはこれがなぜ問題なのか理解できない。一人で死のうが人に看取られようが死の苦しみは変わらないし、僕はむしろ一人で死ぬ方が気楽でいいとさえ思っている。死ぬ間際の事より、それまで生きている時代をいかに楽しむかと言うことの方が圧倒的に大事である。孤独死が問題になるのは、おそらく「孤独」と言うものに社会や多くの人がネガティブなイメージを持っていることが原因であると思われる。しかし僕はそもそも孤独と言うものがネガティブだとは全く思っておらず、むしろ一人で生きるたくましさがあると言うようなポジティブなイメージを持っている。なので孤独をネガティブに捉えるのは、人間としての弱さから来ているのだと僕は考えている。

孤独かどうかは、一人か否かだ。もちろん人間は一人では生きて行けない。なので人と交わって生きて行くことは必須である。しかしそれが度を過ぎると、協調性を強制するような世の中になってしまう。多くの人は自分が協調性のある人間だとアピールするが、僕にはそれが煩わしい。そして協調性はあるが、一人では何もできない人が現代の世の中には多すぎる。いわゆる指示待ち人間である。孤独を愛すると言うことは、主体的な人間であると言うことである。自分の頭で考え、自分の判断で行動できなければいけないと僕は思っている。

確かに僕は多くの人とは違う。良くも悪くも違う。でもそれでいいのだと僕は思っている。誰でも長所短所は併せ持っている。その内容が人とは違うだけだ。ただ僕が思うのは、そのような人との違いを許容できる社会になって欲しいと言うことである。でないと日本は均一な平凡な国になってしまうと僕は考えている。そしてその「平凡」とは「平均」ではない。そこにあるのは間違いなく平均以下である。

頭隠さず、尻隠さず!

ローランドさんのYouTubeを見ていると、ローランドさんがこんな言葉を言っていた。確かにローランドさんほどの派手な人間ならどこに行っても注目を浴びるだろうし、逆に隠れようと思っても隠れようがない。しかし何もやましいことをやっていなければ、そもそも隠れる必要などないのだ。

とは言え、何か事を起こそうものなら、それが悪いことではないとは思っていても何でも叩かれる世の中だ。しかしそこで重要になるのが、自分の中での基準だ。例え社会的に悪いと言う風潮であっても(それはそもそも流行のようなものである)、自分が正しいと思えばそれを貫けばよい。とは言え、それはなかなか度胸のいることだ。例えば有名人だと、付き合いなどを隠すために目立たないように行動したりする。それが普通かもしれないが、僕はいっそうの事、全て堂々とさらそうと思っている。もちろん僕は現在別に有名人ではないので、僕の行動に注目する人もいないのだろうが、このブログサイトのタイトルで堂々と名前をさらしているのもそう言うことである。

自分を隠そうとしていると、それはそれで非常に疲れることである。しかし全てをさらすのも気力がいる。しかし僕は後者の生き方を取ろうと思っている。ローランドさんが言うように、「頭隠さず、尻隠さず」だ!例え一国の総理にブログなどで物申す時も、堂々と自分の名前を名乗って突きつけたい。大事なのは他人の目ではなく自分の意志だ。そのような意志を貫くためには、自分を隠していては成し遂げられない。自分はローランドさんにはなれないが、自分のアイデンティティとなる意志は示し続けたいと思っている。

お金の教育。

日本では学校でお金に関する教育を受けることはほとんどない。しかし海外では学校でお金について授業することは普通の事だと言われている。ではなぜ日本ではお金に関する教育が全く行われないのか?それは日本人のお金に対する意識、そして本音が関係してくる。

お金を得ると言うことは、日常生活を送るうえでも非常に重要な事だ。しかし日本人はお金に関することにこだわることを汚いことだと捉えている人が多い。しかし本音は、ほとんどの人が1円でも多くのお金を得ることにこだわっている。まさしく本音と建前が乖離しているのだ。そして社会や教育の現場では、建前の方が勝ってしまうのだ。

ネット高校のN高の投資部では、村上世彰氏が特別顧問となって投資教育を行っていると言う。これは日本では画期的なことかもしれないが、もしかしたら海外では普通の事なのかもしれない。村上氏は投資・お金の酸いも甘いも身をもって体験してきた人だ。そのような生きる教材が次世代の人間へお金の本質を伝えることは非常に重要でなことであるし、生徒にとってもそれは後々まで生きる財産になるであろう。村上氏ほどではなくても、お金の本質を伝えられる大人は沢山いるはずだ。それこそビジネスの世界をリタイヤしたシニアが小学・中学・高校へ赴き教育を行えば、それは生徒だけではなく日本全体の財産になる。

1980年代バブルに湧き、しかしそれを生かせず失われた二十年を過ごした日本。そのような結果になった原因の一つは、国民がお金の本質を知らなかったことにあるのかもしれない。もし投資などの教育を受け、その仕組みなどを熟知していれば、極度のバブル崩壊は免れていたのかもしれない。おそらく当時の大人もお金の本質を理解していなかったのだろう。そのような失敗を二度と繰り返さないためにも、子供の頃からお金や投資の教育を行うことは重要なのではないだろうか。

学歴について考える。

人はなぜ勉強するのだろうか?もちろん学問そのものを究めると言う理由が一番だが、学校に入って学歴を身に付けるためだと言う人も多いだろう。そのように考える人が多いのは、もちろん学歴と言うものが社会的・世間的に評価されていると言うことが原因である。ではなぜ学歴が評価されるのか?それはその学校でしっかりと学問に取り組んできたと言う証になるからである。

しかし実際は、大学に行ったからと言って必ずしも学問にまじめに取り組んできたとは限らない。僕はこれまでそのような人を多々目にしてきた。そして逆に、学校に行っていなくても学問や社会の問題に取り組み、また様々な技術を身に付けてきた人もいる。すなわち、学歴を評価するのはそれはそれでいいのだが、しかし学歴で全てを評価するのではなく、評価の一材料に留めておくべきだと言うのが正しいであろう。

では僕は何が言いたいのか?僕が言いたいのは、衣ではなく人間そのものを見るべきであると言うことである。学歴は必ずしもその人の能力や人間性を表していない。ましてや受験勉強などは単なるパズルもどきだと僕は考えている。もちろん受験勉強が全く意味がないとは言わない。しかし重要なのは、そこで身に付けた知識を入学後に縦横無尽に生かすことだと僕は考えている。

もちろん考えは人それぞれだ。学歴は就職のためだと割り切っている人も多いし、学歴にふんぞり返っている人も少なからずいる。しかし僕自身に関して言えば、学歴を身に付けたくて大学・大学院に行っていたわけではない。数学や物理の研究をしたくて大学に行ったのである。しかし理論系の研究と言うものは必ずしも学校に行かなければできないものではない。部屋に閉じこもって独学でも十分にできるのである。大学はそのきっかけを与えるに過ぎない。大学全入時代の今、もう学歴にこだわりすぎるのは考えが古いのではないだろうか。

ゲームチェンジャー。

最近はコロナの影響で、社会が重い空気で覆われている。あたかもコロナによってすべてが悪くなったと言う空気だ。確かにこれまで大量の株を持っていた人は株価の大幅下落で大きな損失を出したであろうし、失業した人も少なくない。一言で言うと、これまで成功した人、あるいはこれまで普通に生活が送れた人が窮地に立たされていると言っていい。しかしこのようなニュースはほとんどこれまで上手くいっていた人に焦点を当てて語られる。しかし世の中は上手くいっている人ばかりではない。これまで苦しい思いをし続け、これまで上手くいかなかった人もたくさんいる。そしてそのような人に焦点を当てた時、必ずしも暗い話ばかりではないはずだ。

例えば先ほど、株価の暴落で大きな損失を被った人がいると言ったが、逆に今株価が下がり切ったときに株を買い占めて、後に株価が上がり大きな利益を得る人も出て来るはずだ。これまで上手くいかなくて苦しい思いをした人が、コロナをきっかけに成功する人も多々いるはずだ。そう考えると今は全てが悪くなっているのではなく、ゲームチェンジが行われているのである。これまでの成功者からこれからの成功者へ。だからこそ、これまで上手くいかなかった人はいかにしてゲームチェンジャーになるかと言うことを考えなければならない。

ではなぜこのようなゲームチェンジが行われているのか?それは世の中のシステムが大きく変わったことに由来する。世間ではコロナ禍によって全てが悪くなったと言われることが多いが、長い目で見るとコロナ禍は単なるきっかけに過ぎず、変化を早めただけと言われるかもしれない。なのでこれまでと同じことをしていては勝ち目はない。いかにしてこれからのシステムを理解し、それにマッチしたことを行うかと言うことである。

日本人は変化を嫌う人種だと僕は考えている。だからこそ前例主義が大きく幅を利かせているのである。なので日本が大きく変化するためには、外部からの大きな力が必用だ。戦後の大きな経済発展も敗戦と言う外部からの大きな力がもたらしたものだ。そして今回もコロナと言う外部からの大きな力が働いている。敗戦もコロナもどちらも大きな災いであることには間違いない。しかし災難が起きたからもう終わりだと言っていては何も始まらない。災難は既に起きてしまってもう変えられることではないのだから、ここからはそれを逆手に取っていかに変化していくかにかかっている。

コーヒー問題。

コーヒー問題と言っても、社会問題でも何でもない。ただ単に個人的な問題であるが、コーヒーをどれくらい飲めば、自分の調子が一番良いかと言う問題である。僕自身コーヒーが大好きなので、これまで湯水のごとくコーヒーを飲んで来て、多い時は一日十杯くらい飲んでいたのではないかと思う。しかし、このコーヒーの量が自分のその日の調子を大きく左右しているのではないかと前から感じていた。飲む量を減らした方が調子が良くなるのではないかと思っていたが、ついつい何杯もコーヒーを飲む日々を送っていた。

しかし、調子を良くするためならどんな努力でもすると決めていたので、コーヒーの量も思い切って減らすことにした。本当なら完全に断つのが良いのかもしれないが、寝起きはどうしても無性にコーヒーが欲しくなるので、寝起きの二杯は飲むことにして、その後は寝るまで一切コーヒーを飲まないことにした。するとやはりすぐに調子が良くなってきた。コーヒーを飲んで頭が鈍る感覚も(これはもしかしたら普通の人と逆ではないかと思うが)ほとんどなくなった。一日が非常に爽快になった気分である。

健康を考えた時、コーヒーよりも問題があるのはお酒ではないかと思う。しかし以前(コロナで緊急事態宣言が出ていた頃)、一か月ほどお酒を断った時期があったが、その時はむしろ調子が乗らなくて物事があまり進まなかった。なので今は、お酒は適量(よりもう少し多いくらい)をちょくちょく飲むことにしている。もちろん飲み過ぎには気を付けないといけないが、健康を害しない程度なら飲み続けようと思う。

しかしコーヒーを我慢するのは本当に悲しい。しかしこれも目標を達成するためだ。背に腹は代えられない。本当なら寝起きのコーヒーも止めるべきかもしれないが、そこだけは緩めようと思う。とは言え、調子が良くなるのなら、もしかしたら寝起きのコーヒーも断つ日が来るかもしれない。

プロとはなんだろうか?

プロとは何か?その答えは一つだけではないだろうし、人によっても様々だと思う。一般的な答えとしては「それによってお金を得ている人」と言うことではないだろうか。確かにそれはある意味間違っていないとは思うが、それでは対象が広すぎる。例えばプロ野球選手と一般会社員をただお金をもらっていると言うだけで同列に扱うのはおかしい。ではプロと言うものをどう定義すべきか?

僕にとってプロとはなにかと考えた時、確かにそれによってお金を得ていると言うことは非常に重要だと思う。では一般会社員の例とは逆に、全くお金を得ていなければプロではないのかと言うと、それはまた違うと思う。お金を得ているか?得ていないか?と考えた時、それは現在までの過去において、あるいは現時点でお金を得ているか?と言う問いになる。すなわちその答えには未来がごっそり抜け落ちている。例えば今まで二十年間それによって稼げなかったけど、来年それが実って一億円獲得したとする。それはある意味これまでに一年平均500万円稼いだのと同じになる。そう考えると、お金と言う観点は大事だが、ただ現時点だけの稼ぎだけを見て判断するのは早計だと思う。

では他にどのような観点があるか?まず意志・思想的な観点がある。どのような意思や思想を持って取り組んでいるか?これは非常に重要である。例えばプロ野球選手を目指している、あるいはプロ野球選手になるような人の意志はおそらく一般的な人間よりはるかに強固である。そしてもちろん覚悟も強い。何しろプロになれなかったら全てが無駄になる可能性もあるからだ。一般会社員がそこまで覚悟を持って生きているか?もちろん全ての会社員がとは言わない。覚悟を持って仕事をしている会社員ももちろんいる。しかし多くの一般会社員の覚悟はプロ野球選手には大きくかなわないと思う。逆にそこまで覚悟を持って仕事をしている会社員は、ある意味プロだと言える。

そして言うまでもないが、プロはトップレベルのスキルを持っている。プロ野球選手の野球スキルは、全ての野球選手のトップ0.0・・%であろう。まさしく桁違いである。高校野球で活躍した田中将大投手は世界のトップレベルまで上り詰めたが、田中将大投手に投げ勝って甲子園制覇を果たした斎藤佑樹投手はプロの世界では鳴かず飛ばずである。プロとはまさしくそう言うレベル、そう言う世界である。

科学者は科学のプロと言われている。果たしてそうであろうか?ポストを維持するために必ず出ることがわかるような(平均的な?)結果をコンスタントに出し続ける学者もいる。いや、そのような学者の方が多数派である。もちろんそれもプロとしての一つの形かもしれない。しかし僕の目指しているプロ科学者像はそんなものではない。もしかしたら僕のプロ観と言うものが一般のそれとは大きく違っているのかもしれない。僕のプロ観は一般のそれとはレベルも形も違う。僕はそのようなプロ観に基づいて登り続けて行こうと強く思っている。

記憶力の悪さが武器だ!

僕ははっきり言って記憶力が悪い。しかし記憶力が悪い事はそんなに悪いことではないと思っている。とは言え、確かに記憶力が良い方が圧倒的に便利な事が多いし、おそらく物事も早く進むだろう。しかしだからと言って、今さら記憶力が良くなりたいとは全く思ってはいない。

「記憶力が悪いから出来ない」とか言う人は非常に多い。それはある意味合っている部分もあるだろうが、僕は決してそうは思わない。なぜなら記憶力が悪ければ他の部分で補えばよいと考えているからである。記憶力が悪ければ、思考力や構想力で勝負すればいい。僕は初めから記憶力なんかで勝負しようとは全く思っていない。しかし記憶力が悪い分、徹底的に思考しなければならない。そう、記憶力が悪いからこそ、徹底的に思考することができるのである。

僕も子供のころから記憶力が悪かったわけではない。大学に入ったころまではかなり記憶力が良かったのである。しかしその頃調子を崩して記憶力がかなり悪くなった。しかし思考力に関しては、ある意味今の方が質の良い思考ができていると考えている。宇宙(自然科学)の本質が非常に良く見えるようになった。物理学とは宇宙の本質をどこまで追求できるかと言うことである。そしてそれに欠かせないのが、数学的宇宙との結びつきである。今は宇宙(物理)と数的世界(数学)との結びつきが非常に明確に見えている。

日常生活を主眼に考えると、記憶力は非常に大きな力を発揮するかもしれない。しかし科学を追究するためには記憶力はあると便利だが主ではない。あくまでも思考力・構想力が主なのである。僕にとってそれらの重みの比は1:99だと言っていい。記憶力に物を言わせた研究などは、科学においては(分野にもよるであろうが)無力である。生物学においても、記憶力が物を言う時代は過去のものとなっている。もし科学を究めたいなら、記憶力などはあると便利だと言うくらいの認識に留めた方が良い。必要なのは徹底的なる思考なのである。

なぜ朝型が善で、夜型が悪なのか?

世の中は夜型人間に対して風当たりが厳しい。世間では早寝早起きが推奨され、夜更かしと言う言葉はしばしば悪い意味で使われる。僕自身はと言うと、完全な夜型である。そしてさらにロングスリーパーだと言ったら、まさしく世間の標準からはみ出ていると言える。実際このような僕にとって、普通に生活をすること自体かなりしんどい思いをする。

ではなぜ朝型が善とされ、夜型が悪とされるのか?それは歴史に負うところが大きいと言える。昔、電灯などがなかったころ、夜は暗闇であり、農作業などの仕事をするのが困難であった。なので様々な活動は日が昇ると同時に始まり、日が沈むと同時に終えることとなった。このような時代だと実質的に朝型でないと何もすることができない。しかし現代は、夜になっても至る所で明かりが灯っており、街に行けばネオンがこれでもかと言うくらい街を照らしている。このような時代において、夜に仕事や活動をすることは何の困難もない。なので夜型人間は夜に学業なり仕事なりを思いっきり打ち込めば良いと思う。

しかし現実は、学校は朝の8時頃に始まり、多くの企業も基本は9時5時と言うところが多い。僕は数理物理の研究を行っている。理論系の研究なら夜も朝も関係ない。なので自分の好きな時に好きな事ができると言えるが、それでも朝型を強制する周りの圧力には非常にストレスを感じてしまう。本音を言うと、日が沈むと同時に活動をはじめ、日が昇ると同時に寝たいくらいだ。まるでドラキュラであるが。

このように夜型人間を朝型に強制することによって、日本は、いや世界は人的資源を失ってはいまいか?夜型人間は夜に最大限の効率を持って仕事をさせれば、社会もさらに利益を得るのだと思うのだが。夜型が悪だと言う扱いをしばしば受けるが、何も夜型人間の心に悪が潜んでいるわけではない。夜型人間にとっては、ただ単に生きるだけでも非常に疲れる世の中である。