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40代の青春化。

果たして自分のこれまでの人生の中でいつが一番楽しかったであろうか?大人になると多くの人は、10代や20代の頃、つまり青春時代が楽しかったと言うであろう。そして「時代を戻せるのならいつに戻りたいか?」と問われると、これまた10代の頃と多くの人は答える。では30代や40代はそんなに面白くないのかと問われれば、もちろん人にもよるが決してそうではない。ただ10代の頃と比べると多くの人は既定路線に乗り、刺激や感動が少ないのではないかと思う。

では僕自身は人生でいつが一番楽しかったか?そう問われると瞬時に「今だ!」と答える。別に10代に戻りたいとも思わない。それは10代が楽しくなかったわけではなく(非常に苦しくはあったが)、今が非常にチャレンジングでエキサイティングだからである。言い換えれば、今が僕の青春だと言える。僕は40代を青春化しているのである。とは言っても、もちろん楽しいだけではなく、非常に苦しくもある。人生のリスクも最大限取っている。明日どうなるかもわからない。しかし最もチャレンジングな生き方をしていると言う自負はある。今大きな問題に取り組んでいる。そして今、その問題を解決する道筋も見えている。これからの人生が非常に楽しみなのである。

挑戦と苦しさは表裏一体である。挑戦することは、精神的にも非常に大きな負担がかかる。なのでリスクを取って大きな問題に挑戦するためには、まずは精神を鍛えなければならない。もちろん僕も決して精神が強靭だと言う訳ではない。しかし精神は自分次第でかなりコントロールできる。そして何とかコントロールしながらぎりぎりのところで持ちこたえている。

確かに青春時代は非常に面白い。しかしだからと言って、40代以降を惰性で過ごすのは非常にもったいない。それどころか、人生の後半を青春化して刺激に満ち溢れたものにしたいものである。人間は歳を取れば誰もが老化する。確かにそれは医学的には正しいかもしれない。しかしそのような医学的な限界に挑戦し続け若返っていくのも非常にエキサイティングな挑戦だ。サッカーの世界では、カズが50代になってもプロの第一線で活躍している。ならば自分も学問の世界でカズのような存在になればいいではないか!皆もそれぞれ自分の活躍する世界でカズのように第一線で活躍し続けることを目指せばいい。もちろんそれは簡単な事ではない。しかし不可能ではないと僕は考えている。そのためには現在を青春化することが不可欠だ。

今立場的にも非常に苦しい位置にいる。しかしそれは今日の立場であって明日の立場ではない。明日の立場は今日までの自分が築く。なので今日挑戦して努力しないことには明日以降の変化は望めない。今僕の取り組んでいる挑戦は非常に時間のかかるものになっているが、最後は何が何でも成し遂げる、そう考えて今一歩ずつ前に進みながら40代の青春を謳歌している。

精神と肉体。

昨日の夜から、僕は首を痛めている。今日になってマシにはなったがまだ少し痛みは残っている。数年前にも同じように痛めたことがあり、その時は三日ほどで治ったので、今回も二日後くらいには完治しているだろうと軽く思っている。

しかし今回首を痛めて困ったことは、その痛み以上に集中力が欠けてしまうと言うことだ。考えること(頭の働き)に体は関係ないと言う人もいるかもしれないが、やはり体あっての頭、肉体が健康でないと頭も働かなくて集中力が持たない。誰が言ったか知らないが、「健全な精神は、健全な肉体に宿る」とはまさしくこのことである。

しかし一部には驚異的な例外も存在する。数年前に亡くなった宇宙物理学者・ホーキング博士は、体が動かなくなり声も発することができない中でも、研究成果を次々と発表していた。僕には考えられないことだ。僕は首が痛くなっただけで考えることが出来なくなってしまう。情けないと言えばそれまでだが、これは精神力によるものか?もしそうなら僕の精神力は自慢できるものではない。

とは言え、また明後日くらいになれば首の痛みもなくなっているだろうから、その時また猛烈に進んで行けるように精神と肉体の調子を整えておこう。

まだ死に体でないならば。

16日の半沢直樹も、これまた非常に熱かった。今回から半沢は帝国航空(そして政府)と本格的に格闘している。半沢はなぜ帝国航空の再建にこれまでこだわっているのか?それは半沢の言葉にあるように、帝国航空がまだ「死に体」ではないからだ。企業が死に体ではないならば、再建の余地は十分にある。それが半沢の理念らしい。これらの事は、人間個人に対しても大きく当てはまることだ。まだ自分が人間として死に体ではないならば、復活する可能性は十分にある。何ならトップに返り咲くこともできるであろう。

僕自身も、大学学部生時代に大きな危機と立ち向かうことになった。おそらく普通の人間ならそこで潰れていてもおかしくなかったであろう。しかし僕は死にかけた状態ではあったものの、決して死に体にはならなかった。周りから見れば死に体同然に見えたかもしれないが、決して精神の火は消えていなかった。それどころか火はメラメラと燃え盛っていたように思える。だから現在はここまで活発に活動し、研究に打ち込み、自信に満ち溢れている。人間も死に体にまでならなければ、いつでも復活する余地はある。僕はそう強く思っている。

確かに今まで順調だったことなどほとんどない。しかしそれはそれで良いのだと僕は思っている。なぜなら、重要なのは過去ではなく未来だからである。そしてその未来に対して大きな自信を持っている。ならばそこに向かって邁進していけばいいだけの話ではないか。例え百回失敗してもそんなことはお構いなしだ。最終的に成功すればいいだけの話だ。今僕は猛烈にワクワクしている。後は結果を出すだけである。

先週の半沢直樹で、半沢は「勝ち組負け組と言う言葉は嫌いだ」と言っていた。それは僕も同感である。そもそも人生に勝ち組負け組などと言うレッテルを付けてどうするんだ!大金を得たものが勝ち組なのか?重要ポストに就いたものが勝ち組なのか?そんなちっぽけな事を考えていてどうする!自分がまだ死に体でない限り、未来はどうにでも変えられる。あえて言うならば、ピンチをチャンスに変えられる者、それが勝ち組とでも言っていいのではないか。他人から負け組だとか言われても、そんなこと聞き流せばよい。前向きに進んでいる限り、決して負け組なんかではない。しかし既に自分が負け組だと決め込んでいる人間は、本当に負け組なんだろう。人生、死ぬまで何が起こるかわからない。だからこそどう転んでも良いように、常日頃前向きに努力すべきではないだろうか?

毎週、半沢直樹を見るのが楽しみだ。フィクションだとわかっていても熱くなってしまう。そして半沢を見て思うこともたくさんある。「自分もそうだ!」あるいは「自分は違う!」とつい主張したくなる。また来週の半沢直樹を楽しみにして、ちょっとビールでも飲んだりしながらも熱く前向きに進んでみよう。

事実はフィクションより奇なり。

ドラマ「半沢直樹」の第四話を観た。このドラマは見れば見るほど面白くなり、今回はビデオで二度も見返してしまった。内容はネタバレになるので書かないが、今回の第四話は前半のクライマックスだと思われる。なので後半はさらに長いドラマになることが予想され、ますます期待が膨らんでくる。

ドラマは非常に面白いのだが、現実問題としてそんなことはあり得ないと言う声も大きい。もし半沢直樹のような人物がいれば即クビになると考えられるのも当然だし、元特捜部にいた識者が「半沢直樹のやっていること自体法に触れ、犯罪行為である」とも言っている。しかしドラマ自体は確実に面白いものであり、半沢の行っている行動は正しい信念に基づいている。元総理の鳩山由紀夫は「半沢直樹の爪の垢を煎じて飲ましていただきたい」と言っている。おそらく政治の世界はドラマで繰り広げられる銀行の世界よりも露骨なのだろう。

しかし「事実はフィクションより奇なり」と言う言葉もある。現実の中にはドラマや漫画でも描ききれないようなことが起こっていることもあるのである。その代表例が大谷翔平であろう。大谷選手は数々の奇を起こしてきた。四番ピッチャー、投手として先頭打者初球ホームラン、DH解除でピッチャー登板、日本最速165キロ、そして何よりメジャーリーグでの二刀流挑戦。これらのようなことを漫画にでも描こうものなら皆失笑するであろう。しかし大谷翔平はそれを現実のものとした。

本気で奇を起こそうと考えていると言えば、多くの人は笑うであろう。しかし僕も今、本気で奇を起こそうと前進している。笑うなら笑えばいい。そう思って前進している。成し遂げられる確率は85%だと考えている。まだ何も成し遂げられていないので実感は全くないが、自信は大いにある。では奇を成し遂げるためには何が必用か?もちろん才能は必要であろう。しかし才能がある人など世間には山ほどいる。なので他のものも必要である。それは「覚悟」だと考えている。覚悟を持って邁進しないと、成し遂げられることも成し遂げられない。半沢直樹はドラマではあるが、彼も覚悟の人間であった。さらに付け加えるのならば、大局的展望、そして物事の本質を見抜く力も必要である。はっきり言って100%出来ることなどほとんどないし、仮に100%出来ることがあればそんなものに価値はない。

奇を起こすかどうかは「生か?死か?」と言うことだと考えている。もしできなければこの世の中で生きては行けない。それが覚悟と言うものである。しかし覚悟を持って邁進できる人間がどれだけいるか?一度社会に問うてみたいものである。

人生一度きりだからこそ、本気になれる。

昔から、多くの人が永遠の命を夢見て手に入れようと挑戦してきた。もちろんそれに成功した人間は今のところ一人もいないが、将来どうなるかは全く分からない。僕が以前読んだ「脳の意識 機械の意識」(中公新書)の著者・渡辺正峰博士は、科学の力で本気で永遠の命を手に入れようと挑戦している科学者だ。しかしそれに対するアプローチは、これまで取られてきた医学・生物学的なものではない。コンピューター的なアプローチで臨んでいるのだ。渡辺博士は、自分の意識をコンピューター(機械)に移殖して永遠にこの世に存在しようとしているのだ。

多くの人にとって、死は大きな恐怖であろう。もちろん僕にとってもそれは例外ではない。渡辺博士は、研究の最大の原動力は死への恐怖だと言っている。確かにこれまで死の恐怖が科学の発展の原動力になってきたことは多々ある。特に医学・生物学の一部では、死への恐怖、つまり死からどのように逃れるか、あるいはどのように死を遅らせようかと言うことは大きな原動力になってきたことは間違いない。北朝鮮の金一族は、金日成の時代から不老不死を手に入れることが究極の目標だと言われている。しかし永遠の命とはそんなに偉大なものなのだろうか?

確かに命は一度きりしかないと言う事実は時には冷酷である。生まれて間もなく死んでしまう子供も多いし、死によって不幸をもたらせられることも多い。そういう意味では、死を遅らせる、さらには健康を保つために発展させられる医学と言うものは非常に偉大で価値がある。医学によってもたらされる幸福は無数にある。しかしもし人生が一度きりではなく何度もあるならばどうだろうか?さらには不老不死と言うものが可能ならばどうだろうか?それは決して幸福ではないと僕は考えている。確かに健康で長生きできればそれは非常に幸せな事だ。だからと言って、不老不死を手に入れたいとは思わない。

もし永遠の命を手に入れることができたのならば、人生は非常に退屈なものになるだろう。あるいは不老不死自体が不幸である可能性も非常に高い。むかし読んだ手塚治虫の「火の鳥」では、まさしく永遠の命がテーマであった。そこでもやはり永遠の命が必ずしも幸福をもたらすものではないと描かれている。僕は一度きりの人生こそが究極に価値あるものだと考え、人生一度きりだからこそ本気で生きようと思える。確かに一度きりの人生では、出来ることよりできないことの方が圧倒的に多い。しかしそれでいいのだ。全てをやる必要はない。逆に全てをやることに大きな価値はないと僕は思っている。全てをすることはできない、だからこそ人間は本質を見抜こうとするのである。すなわち、全てをやりたいと思っている人間は、人生の本質を理解していないと言える。

僕の人生はすでに半分を過ぎていると思われる。これからの人生にどれだけの長さがあるか全くわからない。残り一日なのか、それとも五十年あるのか。しかしそんなことはどうでもよい。残りの人生を本気で生きて為すべきことを為すために努力する。そのような姿勢は死ぬまで持ち続けるつもりだ。

リスクを取ってでも、正しいことを貫く。

日本と言う国は法治国家だ。法治国家であるからには、国民は法に従うことが求められる。それは法治国家にとって大原則だ。しかし法と言えども全てが正しいとは限らない。なぜなら法を守るべき者が人間なら、法を作るのも人間だからだ。人間が作るからには時には間違いや欠陥もある。むしろそういうものが存在するのは当然だと言える。ではそのような法の間違いや欠陥に対してどのように向き合うべきか?

日本では「悪法も法のうち」と言う言葉がよく使われる。おそらくそのような事を言う人は、例え法がおかしくても無批判に法に従うのだと思う。そしておそらくそのような人たちは学生時代、教師と校則に従順に従っていたことであろう。確かにそれも一つの生き方である。それはその人なりに生み出した生き抜き方なのかもしれない。

しかし、間違っている事には間違っていると立ち向かう人がいないと世の中は良くならない。もし法が間違っていたりおかしかったりすれば、それを指摘する人が必用だ。しかしそれが難しいのは、そのような行為を取ることが時には非常にリスクを伴うことだ。それは現在の香港の状況を見るとよくわかる。中国政府の悪政に立ち向かっている人たちが大きな弾圧を受けている。そこまでではなくとも、正しいことを主張することには大なり小なりリスクを伴う。

僕自身は、自分が正しいと思ったことを貫き通さないと気が済まないたちだ。しかし時には自分の方が間違っていることもある。そのような時はやはり自分の非を認めないといけない。人間は決して神ではないので、誰だって間違いはある。しかしそれに立ち向かえるかどうかはその人の人間性が大きく表れるところだと思う。自分の生き方が譲れないのなら、覚悟を持ってそれを実行することが一人の人間として非常に大切だと強く感じるものである。

最近、世界史にはまっている。

表題のとおり、僕は最近世界史にはまっている。数理物理の研究や勉強の合間などに、世界史の教科書や図解などを読んで世界の過去の動きを理解し深めている。歴史と言えば大きく日本史と世界史に分けられるが、日本史に関しては中学の歴史でも習い、僕の場合は大学受験も日本史で受けたので、日本の歴史に関しては親しみがあり、大まかな流れもだいたい理解しているつもりだ。しかし世界史に関しては全く手つかずの状態であり、それだけに非常に新鮮さを持って取り組むことができている。

そのように世界史に取り組む中で、色々と気になることも出てきている。その中で、世界史の一番の問題点は、カタカナ名があまりにも多いことだ。これは世界史を学んだ人から見ると当たり前に思うだろうが、これは非常に大きな問題だと僕は考えている。海外の人物や物、あるいは概念の名前は、当たり前であるが外国語で定義されている。百歩譲っても英語で記述されていると言える。それを読みだけを取って無理やり日本語(カタカナ)で書かれているものだから、非常に不自然で、また人や本によって表記が異なることが多い。そのような問題点を克服するためには、現地語で学ぶことが必用だ。なので大まかに世界史の流れを読んだ後は、英語(洋書?)で世界史を理解することが一つの目標だ。

しかし日本における世界史において、必ずしも欠点ばかりではない。日本における世界史は、世界的に見て非常に中立的に書かれていると言われている。海外における世界史は、その国の主観などが入り偏っていることが多いと言う。なので日本で中立公平な世界史を学ぶことは非常に利が大きいと言える。まずは日本語で世界史を学び、そしてそこから専門的な海外史を洋書で読むのが非常に良いのかもしれない。

とは言え、現在の僕は世界史に関してはまだまだ初心者だ。そしてカタカナ語をなかなか覚えることができない。しかし歴史を学ぶことは、単に過去の事実を暗記することではないと何かの本に書いていた。歴史の本質は、過去の事実や動きを分析して復元することだ。そのような意識を持って歴史の勉強に取り組むことにより、暗記科目では得られない深い理解が得られるはずだ。

社会がますます表面的になって来ている。

普段生きていて色々と感じることがあるとは思うが、僕は社会が表面的になって来ているのではないかと強く感じている。確かに社会は悪い側面を無くし、皆が暮らしやすい社会に向かおうとしていることは間違いない。しかしそれに向かっている事と、本当にそうなっているかと言うことは全くの別問題だ。何かを良くすれば別の何かが悪くなってくる。まさしくもぐら叩きである。僕は日本に住んでいるので日本の事が気になってしかたないが、おそらく海外でも中身は違え大筋では同じであろうと思われる。

その中でも僕が特に感じているのは、同調圧力から表面的になることである。特に日本では、皆と同じことをしなければならないと言う意識が強く、一人だけ違うことをしていると奇異な目で見られることが多い。よく言われるように、出る杭は打たれると言うことである。これを解決する方法は一つしかない。それは出過ぎた杭になることである。四六時中野球ばかりしている少年がプロ野球選手を目指していると言うと、「そんなのは無理に決まっている。バカじゃないか!」と言われる。しかしメジャーリーグで活躍すれば、少年時代に野球に打ち込んでいたことが美化される。イチローさんが正しくそうであったらしい。研究者でも同じだ。ノーベル賞を取ると断言している少年がいたらどう思うだろうか?やはりそんなのは無理に決まっていると多くの人は言うであろう。それを覆すには実際にノーベル賞を取るしかない。もちろん、研究者の一番の目的はノーベル賞を取ることではないのだが。

表面的になって来ていると言うことは、言い換えると無難になって来ていると言うことである、近年、日本の科学研究のレベルはどんどん低下していると言われている。その理由として科研費の削減などが言われているが、僕はそれが本質ではないと考えている。研究者が、特に若手の研究者がどんどん無難になって来ているからではないかと思っている。その背景には、研究ポストに就くことが困難になり、確実に研究ポストに就くためには小さく無難な結果を継続的に出すことが求められると言うことがある。しかしそれらの研究者は、本当にそれが自分の求める姿なのだろうか?もしそうなら本当に悲しい話である。

もちろん社会の表面化は、日常生活においても色々と表れている。いや、日常生活の方が顕著に表れているのかもしれない。人付き合いでは自分を表面的に繕って、良い側面だけを見せようとする。しかし苦しんでいる自分も本当の自分自身なのである。だから僕はブログでも正直に苦しい時は苦しいと書くことにしている。確かにインスタグラムやフェイスブックに苦しい様子を載せてイイねがもらえるわけないし、もしイイねされたら逆に落ち込むであろう。社会が表面的になるにつれ、人間までもが表面的になってしまう。そこが大問題である。それは言い換えると、本質を見抜ける人間が少なくなってくると言うことだ。たしかにもともと本質を見抜ける人間と言うものは少ない。それがさらに少なくなるのだ。ただ表面を変えること自体悪いことではないと僕は思っている。しかし重要な事は、表面と同時に本質的な中身も良い方向へ変えなければならないと言うことだ。

僕が筋トレとジョギングをする理由。

僕は数年前から、天気の日はほぼ毎日筋トレとジョギングを行っている。最近はスマホのアプリでも非常に便利なものがあり、ジョギングコースと距離を記録し、そして速度を計測してくれるものがある。僕はナイキのアプリを利用しているが、毎日記録が残ると非常に励みになるものだ。ジョギングの後は少しクールダウンして筋トレを行う。そしてその後、納豆と豆腐を食べてたんぱく質を補充する。そうすると意外と筋肉が付いてくるものだ。筋肉が付くと、筋トレもさらに楽しくなる。

とは言え、ジョギングも筋トレも決して楽な事ではない。楽をしたければ家で横になっていればよい。ではなぜ、僕は毎日このように面倒で楽ではないことに取り組めるのか?その理由は大きく三つある。

三つ目は体を引き締めるためだ。やはりプヨプヨしているよりも筋肉でビシッと引き締まっている方が見栄えも良い。僕はもともと痩せ型であったので、現在はちょっとした細マッチョだ。この体型はこれからもずっと維持していきたい。

二つ目は健康を維持するためだ。何事も健康でないと思いっきり取り組むことができないものだ。健康は大きな財産であり、大きな才能である。僕自身過去に調子を崩し、大好きな研究を思うように取り組めない時期があった。だからこそ今は何が何でも健康を維持していきたいと思っている。そして健康とは身体の健康だけでなく精神的な健康も含まれる。体を動かしていれば、体だけでなく精神的な調子も良くなるものだ。

そして一つ目、つまり一番重要な事と考えているのは、頭脳の調子である。学問の研究をするためには、言うまでもなく頭脳、つまり思考の調子を極限まで上げなければならない。研究に必要なのは体力と知力である。そしてジョギングと筋トレは、その両方を高めてくれる。なぜ体を動かすと頭がよく働くか僕にははっきりとわからない。もしかしたら医者は知っているのかもしれないが、最近は巷でも運動をすると頭がよく働くと言われている。そして実際、僕自身もジョギングをすると頭の働きが良くなるのである。もしかしたら、ジョギングや筋トレをすることを遠回りに感じる人もいるかもしれないが、急がば回れで実際はそちらの方が近道であり、より高く上り詰めることができるのかもしれない。

このように考えると、ジョギングや筋トレは一石二鳥どころか三鳥も四鳥もあるのかもしれない。これまで理由を三つ述べたが、やはり大きな目標があると言うことは非常に大きな原動力になっている。人生の目標を持っている人は非常に強いし、年齢に関係なく精神は非常に若いはずだ。そして筋トレによって体も若返らせることができる。このように何もかもが芋づる式に良い方向へ向かっていく。確かに現時点だけを見れば非常に厳しい状況である。しかしその先には光しか見えない。そのように明るい将来を見る力だけは誰にも負けないと思うし、実際にそれを成し遂げる自信も強く持っている。

目標があることの強み。

子供の頃は、多くの人がどんな大人になりたいかという目標があったのではないだろうか?しかし歳を取るにつれ妥協せざるを得なくなる。その理由は現実を知ってしまったから?それとも金銭的な事情?色々あるだろう。そして何より好きな事をやり続け究めることは、あらゆる意味で厳しい道である。もちろん一部の少数の人は順調に難なく進めるだろう。しかし多くの人にとって好きな事を究めることはあらゆる犠牲が伴うし、精神的にも金銭的にも非常に厳しい道となる。もちろん何の展望もなく、そして自信もなければ、単に才能がない人間で終わってしまう。しかし明確な展望があり、自信があるのなら、それに挑戦する価値は十分にある。

そして何より、目標があることはそれ自身が大きな強みになる。人間生きていれば、あらゆる困難が次々とやってくる。そしてそのたびにそのような困難を乗り越えなければならない。しかし人によってはそのような困難を乗り切れない人もいる。いや、そのような人は無数にいるだろう。しかしどれだけ困難が来ようと、次々と困難を乗り越える人もいる。ではそのような人は何が違うか?その大きな理由の一つが、目標があるかどうかと言うことであろう。大きな目標があれば、それを成し遂げるためにはどうすれば良いかと必死で考えるだろう。自然人生に対して前向きになる。前向きか後ろ向きかと言うことは、これからの人生を大きく分けることになる。前向きだと40歳を超えようと人生これからだと思えるし、後ろ向きだと20歳であろうがこれからの人生は惰性で生きて行くことになるだろう。

なぜこんなことを書いたか?それはまさしく僕の置かれた状況がかなり危機的であるからである。しかし危機的であるからと言って、それは絶望的であると言うことでは全くない。希望も自信も絶大に持っている。ただ現時点だけを見れば危機的であるに過ぎない。今を乗り越えれば、その先には大きな世界が待っている。現在の社会もそうではないだろうか?今世界がコロナで危機的状況に陥っている。しかしそれは将来に対する絶望では決してない。もちろん人によってはコロナによって将来が絶望的だと言う人も多いだろう。もちろんそれは生き方の違いだと言うふうには簡単に片付けられない。しかし追い詰められた時こそ火事場のクソ力と言うものが発揮される。少なくともぬるま湯に浸かったままでは現在の危機的状況を乗り越えられない。

それは僕だって同じだ。最近ぬるま湯に浸かり過ぎていた。一年二年かけて完成できればよいと言う甘い認識があった。確かにまともに考えれば五年十年、いやそれ以上かけてもできる保証はないことだ。しかし僕はこの現在の6月から8月までの2か月ちょっとで何とか形にしようと思い始めている。それこそ脳の火事場のクソ力だ。しかし今はそうすべき時ではないだろうか?それができないと、現在の社会状況に対してとやかく言う資格は僕にはない。