科学・数理(サイエンス)」カテゴリーアーカイブ

数学は科学なのか?

数学は科学なのか?科学ではないのか?この問いの結論は真っ二つに分かれる。狭義の意味では数学は科学ではないし、広義の意味では科学と言える。

数理科学という言葉があるように、数学は科学のスタンスでとらえられることが多いが、科学とは本来は自然科学のことを意味し、そういう意味では数学は科学ではない。自然科学はこの世界(宇宙)の実在の本質を究める学問であるのに対し、数学は数的世界の実在を究める学問と言える。自然科学の対象は目の前に広がっており、数学の対象は脳の中に広がっているとも言える。

そして数学のもう一つの大きな特徴は、数学は科学に対する強力な武器となるということである。科学、特に物理学の世界では、数学を武器として前に進められる。科学は数学的体系を装うことにより、確実に前に進められる。実際、物理学者の多くは、数学は強力な武器である(しかし単なる道具に過ぎない)というスタンスを取っている。

そして数学と物理学の中間点に位置するのが数理物理学だ。数理物理学をどうとらえるか?その答えはそれぞれの数理物理学者によって千差万別である。数学を道具としてフルに活用する物理学と捉える人もいれば、物理世界を一つの数学的体系と見て、数学の一分野と捉える人もいる。

結論を言うと、数学は科学か?という問いは答える人によってさまざまであると言えるだろう。だから結局個人的見解になるが、僕自身は科学(物理学)を数学の一分野と捉えている。しかし、物理学は明らかに数学ではない。なぜなら物理学は現実世界(自然・宇宙)の法則(実験)に合致しないと正しいとは認められないからだ。それに対して数学は非常に自由である。

数学と科学の位置関係をどう捉えるか?それを自分の中で明確にするだけでもサイエンスに対する視野は広くはっきりしたものになるだろう。

科学の原理。

科学の理論を構築する時、まず大事なのが第一原理をどこに置くかということだ。例えば物理学で一番重要な原理はエネルギー保存の法則であるが、これを第一原理(つまりスタート)と置くことによって理論が構築される。エネルギー保存則は第一原理であるから、なぜこの保存則が成り立つかということは一切考えないし、エネルギー保存則がなぜ成り立つかは誰もわからない。(厳密に言うと、対称性から保存則が導けるが。)

スタートに何を置くか?それによってできてくるものが全く変わってくる。時には相反する結果が出てくることもある。理論的に構築することはもちろん重要であるが、スタートが間違えていれば間違ったものができてしまう。第一原理(スタート)をどのように設定するか、そこに科学的センスが大きく問われることになる。

代数幾何学の何たるか。

頭というものは不思議である。人にもよるだろうが、調子の良い時と悪い時がある。今日、代数幾何学の専門書を眺めてみると、かなり頭に入る。

微分幾何学は幾何学の一分野と言えるが、代数幾何学は代数学の一分野と言える。

現代代数幾何学はグロタンディーク(20世紀で最も偉大な代数幾何学者)が考案したスキームという概念を用いて展開される。これまでスキームは難解なものと思い避けてきたが、その骨格が見えてきた。

代数幾何学が僕の取り組んでいることに利用できるかどうかわからないが、代数幾何学の何たるかを理解して、探ってみよう。

「科学」、それは普遍的なもの。

なぜ科学を研究するのか?そして科学の価値とは何なのか?それの一つの答えは「科学の普遍性」である。

多くの人にとって、科学の理論よりもエベレストの登頂の方が夢を感じるかもしれない。あるいは社交パーティーのような華やかな世界の方が憧れるかもしれない。確かに世界一高い山への挑戦は非常に分かりやすい。それも人間の挑戦の一つとして価値があるだろう。

では科学世界への挑戦はどうとらえられるだろう。科学は実験室の世界の話に過ぎないのか?あるいは単なる紙上の計算に過ぎないのか?その上辺だけを見れば科学は非常に小さな世界の話である。

しかし科学の最も大きな特徴は「普遍性」である。どう普遍なのか?それは机の上で計算して出した理論は、宇宙のどこに行っても通用する。即ち、机の上で、あるいは実験室の中から宇宙全体を達観しているのである。このスケールの大きさは半端ではない。そう考えるとエベレストも地球上の小さな世界の話である。

この科学のスケールの大きさと普遍性に気付けるかどうか?それに気付けることができた時、世界観は大きな変貌を遂げるだろう。

最も小さく、最も大きな夢。

「素粒子」、それは最も小さい世界の話であり、最も大きな夢の話でもある。

素粒子の定義は時代によって変わる。百年以上前の素粒子とは分子・原子であったが、時代が進むにつれ、原子核・電子、そしてクォーク・レプトンへと微小になっていく。最近はもっと小さい世界の話もある。

素粒子の世界を記述するのが「素粒子論」。素粒子の科学は、理論が実験を先行している。その大きな理由は金銭的理由だ。素粒子実験の施設である加速器は建設するのに数百億円、数千億円かかると言われている。それに対して実用的対価は事実上ゼロ。そんな科学の存在を世間は簡単に認めない。

素粒子物理の実用化は考えられないが、素粒子物理は人間の知的活動の集大成だと言える。素粒子への挑戦は、人間の知性への挑戦である。

この最も小さい世界への、最も大きな挑戦に、科学の壮大な夢が存在する。

佐藤幹夫の一本の道。

佐藤幹夫氏は日本が誇る大数学者だ。数学の中で「佐藤理論」と言われるものは数多く存在する。佐藤幹夫氏が創始した代表的な理論は、ハイパーファンクション(佐藤超関数)、代数解析、佐藤のソリトン理論であろう。これらの理論は理解していない人にとっては一見つながりがないバラバラの理論に思えるが、それらの理論を知るにしたがって全てが一本の道につながっていることがわかる。

僕も昔は、佐藤幹夫とはあらゆる分野で大理論を次々に打ち立てた(これは事実だが)とてつもない大数学者だと思っていたが、佐藤幹夫氏の中では全てが一つにつながっているのである。

佐藤幹夫氏は数学者であるが、数理物理学にも取り組んでおられる。数理物理学という言葉の定義は非常にあいまいで、はっきりと確定した定義はないに等しい。したがって、数理物理学者と言っても皆取り組んでいる分野は違うと言っていい。そして数理物理学に取り組むにあたっては、分野の壁にこだわっていれば身動きが取れなくなる。数理物理学者とは雑食性なのである。

佐藤幹夫氏は(おそらく)すでに引退しておられると思われるが、僕は勝手に佐藤幹夫氏は20世紀最大の数学者だと思っている。もちろん世界を見渡せば、代数幾何学のグロタンディークや微分トポロジーのミルナーのように偉大な数学者は何人かいるが、研究の独創性と多様性に関しては佐藤幹夫の右に出るものはいないと感じている。

科学の研究とは?

「科学の研究とは、世界で一番を取ることである。」もちろんそうは言っても、これは科学の一側面を表したものに過ぎないが、科学の研究に二番煎じ三番煎じは存在しないのは確かだ。二番三番は研究ではなく勉強である。

ただ、テーマは様々あるので、一番と言っても色々な一番がある。大きな一番から小さな一番。ただ、二番は存在しない。

科学では一番乗りが全てを取るのだが、なぜそうなるのかは理由は簡単だ。二番三番はただ一番の成果を追試すれば自動的に結果が出るからだ。もちろん事実はそんなに簡単ではないが。

ただ、ビジネスではもちろん話は違う。ビジネスでは初めから二匹目のどじょうを狙う戦略も重要だ。

科学の研究というものにも流行というものがあり、一部の研究者、いや結構多くの研究者はいかに流行を追うかということに全力を尽くしている。それはいかがなものかとも感じるが、ただ他の研究者が口出しするようなことではないのかもしれない。

他の研究者がやっていない独創的なテーマに取り組んでいる研究者の結果は、いつか必ず大きな評価が下される。ただ、流行の研究が即評価されやすいのに対して、独創的研究は評価されるのに時間がかかる。

しかしそんなことを考えずに、自分が重要だと思う研究に打ち込めばいいだけなのかもしれない。

複雑化と単純化。

世の中には二つの大きな流れがある。複雑化と単純化だ。それは科学においても言えることだ。大雑把に言えば、基礎科学の大きな流れは単純化であり、応用科学は複雑化であると言える。

複雑化の代表的なものは生物、特に人間であると言える。人間は膨大な数の細胞からなっており、複雑化の集大成である。しかしその複雑化の結果、マクロなレベルで非常に秩序のとれた単純化の様相も持っている。この様に一概に単純化か複雑化かとは一方には決められない。

基礎物理は単純化の作業の代表例である。特に素粒子論などの分野では、その単純化の作業を「還元主義」と表現される。この還元主義は科学の体系全体にも言えることであり、

マクロ生物学→分子生物学→化学→物性物理→素粒子物理

という還元的体系を構成している。従って、一番根本的な位置にある素粒子論を理解することは、還元主義的には科学全体を理解することにあたる。

複雑なことを理解することは個々の事象の理解につながるが、単純化をして理解することは物事の本質の理解につながる。単純化と複雑化はどちらが偉いというわけではなく、双方が両輪となって科学の理解は深まっていく。

考古学と最先端科学技術。

エジプト・クフ王のピラミッドの内部に巨大空間が見つかったという(読売オンライン)。この空間は名古屋大学をはじめとする国際研究チームが解明したというが、その解決手法は、宇宙から飛来するミュー粒子を使ってピラミッドの中身を透視するというものであった。

ミュー粒子とは素粒子論でもおなじみで、スピンが2分の1の粒子なのでディラック方程式で記述できるはずだが、一昔前まではミュー粒子を扱うような素粒子論などの純粋科学が何かに役に立つとは、ほとんどの研究者は考えなかったであろう。まさに「役に立つ科学は、役に立たない科学から生まれる」ということを実証した形だ。

普通の人からすれば変な話かもしれないが、純粋科学に取り組んでいる人の中には、役に立たないことを誇りに思っている人々がいる。しかもその数は少なくない。しかし役に立たないという言葉の裏返しは「科学的価値がある」ということである。実はこれらの人々は科学的価値があることを誇りに思っているのだ。

クフ王のピラミッドの話に戻るが、素粒子論が考古学に利用されるとは、時代も進歩したものである。この先、どのような役に立たない純粋科学が日常で用いられるようになるか、期待するところである。

理論は正しいのか?間違っているのか?

最近何かと話題の「ダークマター(暗黒物質)」。観測データに照らし合わせると、ダークマター・ダークエネルギーが宇宙の質量のほとんど(90%以上)をせめるという。ダークマターの候補になる物質はいくつか考えられているが、現在ではまだそれを特定するには至っていない。

ただそれらは既存の理論に基づいたデータであり。理論そのものが間違っているという可能性も否定できない。実際、現在の宇宙モデルの基になっている一般相対性理論は不完全である(量子論でないという意味で)というのは物理学者の間では共通の認識であり、一般相対論が量子化(量子重力理論)されれば解決されるという可能性も否定できない。また、既存の理論を修正するという試みも行われている。

いずれにせよ、現在の観測データは既存の知識だけでは説明できない状況が起きている。現在の理論は正しいのか?間違っているのか?また間違っているのならば修正すれば観測と一致するのか?あるいは根本的書き換えが要求されるのか?まだ結論は出ていないが、根本的書き換えによって物理の世界に大変革が起きる可能性は否定できない。

未来の物理理論の風景はどうなっているのか?その風景を作り上げる物理学者には強い野望が求められるところである。