科学・数理(サイエンス)」カテゴリーアーカイブ

学問とビジネス。

学問とビジネスとの関係は微妙だ。工学関係の研究だと製品に直結することも多いのでビジネスに直に結びつくが、数学や理論物理に関してはビジネスに直に結びつくことはほとんどない。しかしそれは現時点だけの関係であって、工学ならば数年後に大きなビジネスに結びつくところが、数学や理論物理の研究に関しては50年後100年後になることが多いと言う事だ。実際に20世紀前半に打ち立てられた量子力学のシュレーディンガー方程式が数年後に実用化されたという話はあまり聞かないが、現代社会においてはシュレーディンガー方程式を用いていない電子製品などというものは存在しない。青色発光ダイオードの中村修二の発明対価が200億円であるという判決が以前出たが、シュレーディンガーの功績を現在のビジネスにおいて発明対価を計算すれば、おそらく数百兆円は下らない。おそらく現在世に存在する電子製品の全てがシュレーディンガーの発明対価の対象になるはずだ。

しかし、数学や理論物理の研究者がビジネスに熱を上げているという話はほとんど聞かない。数学者がビジネスに無関心であると言う話も良く聞くが、そもそも数学がビジネスに結びつくとは誰も思っていおらず、初めからそれをビジネスに結びつけると言う発想自体がないものだと思われる。しかし数学者であっても生活しなければならないことは変わらず、大学や研究所に所属する数学者は所属機関から給料をもらっている。

別にビジネスに無関心であることが美徳でも何でもなく。むしろ数学者であっても積極的にビジネス的視点で物事を考えることは必要なのではないかと僕は思う。しかし別に営業や商売などを考える必要はない。数学者には数学者しかできないビジネスがあるはずだ。そこを考えないと、数学者である意味が薄れてしまう。しかし、ビジネスに無関心で研究に没頭するのもそれはそれで良いと思う。物事には役割分担がある。学問の根幹となる部分を数学者が行い、ビジネスの末端になる部分はビジネスマンがやればいい。もちろん、そのように上手く行けばの話だが。

もちろん、数学の真価がビジネスにあるとは思えない。しかし数学者であっても、お金を稼がなければ生きて行くことはできない。そういう意味では、バリバリのビジネスマンでなくとも数学者も広義のビジネスというものは考えなければならない。とは言え、数学者や理論物理学者は、ビジネス的観点からはかなり不遇な立場に立たされているように思える。中には数学者にはお金儲けは必要ないと言う人さえいる。何を根拠にそんなことを言うのだろうか?

とは言え、数学は面白い。物理学も面白い。その純粋に面白いと言う事に没頭しているだけだ。そのように純粋に学問に没頭している数学者・物理学者に対して、ビジネス的に冒涜することはいい加減にやめてもらたいものだ。

物事を極めるとは?

数学において、ある定理に他の定理を継ぎだして新しい定理を導き出すことがよくある。それぞれの定理についてはよく分かっているんだけど、それらを組み合わせると想像もできないような定理が導き出されるのである。その定理の継ぎ目はある意味ブラックボックスだと言える。少なくとも初めはそう思えてしまう。しかしそのような定理を駆使するにつれて、そのブラックボックスにイメージを見出せるようになる。そしてそれが明確にイメージ出来るようになると、そこからさらに次の定理を導き出せることになる。数学においては、対象に自分なりのイメージを描くことが非常に重要である。

数式は単なる計算過程ではない。数式そのものが持つ役割や、ある種の構造があり、そこを理解しないと次へは進めない。僕は音楽の訓練はほとんどやったことがないので、音符がほとんど読めない。しかしピアニストなどの音楽家は音符の羅列を読み取り、そこからある種のイメージを形作っているのではと思っている。きっと僕らには理解できない世界が広がっているのだろう。数学においては、専門外の人が見ればそれは数式の羅列にしか見えないのかもしれない。しかし数学者は、その数式の羅列からある種の構造やイメージを読み取り、自分の世界を形作って行く。そのような数学の中に広がる世界は、しばしば現実世界よりも豊かな景色を見せてくれる。そのような世界を見た後では、目で見える世界が些細な事に思えてくる。

数学や音楽に限らず、一つの世界を極めた人にはその人にしか見えない世界が広がるのではと僕は思っている。その世界を極め、そのような世界を見た後では、世界観も大きく変わるだろうし、すなわち生き方も変わる。ある意味、そのような世界を捉える事は、物事を極める大きな理由となる。しかし簡単にはそのような世界を捉えられない。時間と労力が必要なのだ。もちろん、そこまで打ち込むためには、面白くないと出来ない。しかしただ楽しむだけでは一線を超えることはできない。そのラインを超えるためには生みの苦しみがある。そしてそのラインを超えた時、新たな世界が見えてくるのである。

「なぜ自分は生きるのか?そしていかにして生きるべきか?」そのような捉えどころのない問いに対しても、一つの事を極めた人は明確に答えることが出来るであろう。とは言え、そのような問いに対する答えは一つではない。だから一つ答えが出た後になっても、「いかにして生きるべきか?」という問いかけを続ける。そのような事を続け、問題を明確化して行く。僕らが生きる表面世界のさらに奥の世界が見えた時、人間は次のステージに進めるのだと僕は考えている。

お金のかかる科学。

科学には、お金のかかる科学とお金のかからない科学が存在する。数学や理論物理などの理論系はお金のかからない科学の代表であろう。そしてそれらの科学は、やろうと思えば一人で実行できる。そのような意味で手軽な科学だと言えない訳ではないが、だからと言って簡単な科学である訳では全くない。お金がかからない分、頭脳が圧倒的に必要になる。おそらく科学の中で一番頭を使うのが、数学と理論物理ではないだろうか?お金がかからない分、やろうと思えば中学生でも研究できるのではないだろうか?しかし間口は広くても、それを実行できる人は非常に限られてくるのではないかと思う。

物理においても、実験物理となると途端にお金がかかることがある。特に加速器などを使用する素粒子実験はお金がかかる科学の代表と言える。現在、東北地方に建設が計画されている加速器の建設金額は数千億円と言われる。これは国際プロジェクトなので全てが日本が負担する訳ではないが、とにかく巨額である。このような巨額科学プロジェクトを、費用対効果だけで評価してはとても実行できるものではない。科学の価値というものは費用対効果だけではなく、純粋な科学的価値という側面もある。しかしこれの難しい所は、誰もが科学的価値を認識できる訳ではないということである。むしろ科学的価値を認識できない人の方が圧倒的に多い。それらの人にどう理解してもらうかは、科学に関わる人の重要な課題である。

そして科学的価値というものは、研究費などの金額に比例しない。書籍と紙と鉛筆だけで出来るお金のかからない科学の中にも、圧倒的な科学的価値を持つものも多く存在する。それらの代表が相対性理論であろう。アインシュタインは紙と鉛筆だけで理論を完成させた。しかしその理論の影響力は圧倒的である。数千億かかる巨大プロジェクトよりも圧倒的に価値がある。とは言え、そのような巨大な価値を生み出せる科学者というものは、百年に数人と言ったところだろうか。

現代科学の多くは多額のお金がかかり、世間においても科学はお金がかかると言った認識が浸透しているのではないだろうか?もちろん、お金がある方が大きな成果を生み出せる科学も多くある。むしろそのような科学の方が圧倒的多数ではないかと思う。そういう意味では世間の認識は正しいと言える。しかしそれは結果論であって。科学の価値はそれにかかる金額に比例しない。そしてそこから生まれる儲けの金額とも関係ない。儲けの金額は、科学的価値ではなくビジネス的価値である。科学の価値を純粋に判断できる価値観を持つことは、世の中のあらゆるものが持つ本質的価値を見抜く力に通じるものがある。物事の本質を見抜く目を養うためにも、科学そのものを理解し、それらの価値を判断できる力を付けることが必要ではないだろうか?そして世間一般の人たちがそのような力を付けることは、ビジネス的な利益を含めて大きく国益にも貢献するはずだ。

学問と芸術。

学問と芸術、この二つの取り合わせに対してどのような印象を受けるだろうか?もしかしたらほとんどの人は、学問と芸術は全く違う対照的なものと思うかもしれない。しかし学問とは芸術的側面も持ち合わせており、この二つは切っても切り離せない関係であるように僕は思える。

絵画を見る時、「美」という感性は大事だ。もちろん「美」以外にも多くの判断基準があるだろう。しかし「美」はその最も大きな判断基準であるように思える。そして数学や物理においても「美」という判断基準は非常に大事である。ある理論が価値のある理論か?という判断をする時に、数学者や物理学者は美的センスをフルに働かす。さらに理論の方向性を決定する時に、「美しいのはどの方向か?」という事を見抜き、正しい方向へと進むことも多々ある。アインシュタインは理論の美というものを非常に大事にしていたと言われる。実際に、相対性理論は非常に美し理論である。素晴らしい理論には往往として美を備えている。

この様に、学問は芸術的側面を備えている。学者は数学や物理の理論を構築するに際して、芸術作品を創造するような感覚を覚えることがある。このようなレベルになると、芸術と学問を区別することもバカバカしくなる。極論を言うと「学問は芸術である」とでもなるのだろうか?学問が芸術であったとしても、その逆に、芸術が学問なのかは僕にはわからない。もしかしたら学問を追究するように芸術を究める芸術家もいるのかもしれない。

はっきりと言えることは、学問と芸術は相関性があるという事だ。それは学問を究めれば究める程はっきりとしてくる。学問の研究者には芸術に対しての理解が深い人が多いように思える。一つの分野だけの殻に閉じこもっている人の多くは陳腐だ。学問の中にある芸術的側面を捉え、それによって学問研究を遂行する感性を持つことは非常に大事である。

最適解と厳密解。

科学を理解するとは、科学には何が出来ないかを理解することである。科学を理解している人は、科学には何が出来ないかを理解している。しかし科学を理解していない人は、科学で何でもできると思っている。これはAIにも言えることであり、AIを理解している人は、AIには何が出来ないかを理解している。しかしAIを理解していない人は、AIで何でもできると思っている。では現在のAIには何が出来て、何が出来ないのだろうか?

数学や物理学は、“厳密解”の学問である。数学者は数個の定義から多くの事を厳密に導いて行く。これは完全論理である。この様な事は人間だからできることであり、AIにはほとんどできない。それはなぜか?それを知るにはAIの仕組みを知らなければならない。しかし難しい事はいらない。僕だってAIの専門家である訳ではない。概要を知るだけでもかなりのことが分かる。

AIを動かすには、まず膨大なビッグデータが必要である。このデータの数が多ければ多いほど精密な結論を導くことが出来る。このような道筋は数学とは対照的である。数学が厳密解の学問であるのに対し、AIはビッグデータから“最適解”を導いているのである。よって、AIに数個の定義を見せても、そこからは何も出来ない。意外とAIは論理に弱いのである。

AIと言えば、最近は将棋AIが話題になる。この将棋AIもやはり最善手と言われる最適解を探しているのである。なので厳密解ではないから、AIだって負けることがある。もちろん、人間の棋士だって厳密解を出せるわけではない。もし厳密解を出せるのなら百戦百勝である。

AIで何でもできると思っている人は、AIの事を何もわかっていない。現在ではむしろ人間の方が万能なのである。人間は物を持ち上げることも出来るし、数学も文学も出来る。そして料理も出来る。まだまだ人間も捨てたものではない!

氷山の一角から、その下を暴き出す。

社会においても学問においても、目に見えている部分は氷山の一角だ。研究者はその氷山の一角を見て、その下はどうなっているかという事を追究するのが仕事だ。もちろん氷山と同じで、その下の見えない部分の方が圧倒的に大きい。しかし水面に出ている1割から水面下の9割をどう暴き出すか?そこが研究者の腕の見せ所である。

高校までの数学は、水面に出ている1割に過ぎない。なので本格的に数学を追究しようと思えば、大学レベルの数学を勉強することは必須だ。その中でも、大学一年で学ぶ線形代数と微積分はそれらの全ての土台となる。そしてそれらを縦横無尽に使いこなして水面下へと迫ることになる。

水面下の氷山はどのようになっているか?多くの場合、それは驚くべき形態を取っている。水面上とはまるで違う表情をしているのだ。ただはっきりと言えることは、違う形態を取っているとは言え、水面上の見える部分とは連続的に繋がっている。これは数学に限らず、全ての学問に言える。もしそこが繋がっていなければ、水面下を追究すべき手が無くなってしまう。しかし必ず何らかの形で繋がっているのだ。

現在、人間が認識している数学は果たして全数学のうち何割か?1割なのか?1%なのか?もし数学に無限の広がりがあるのならば0%という事になる。これらの事は答えようのない問いである。何に取り組んでいても、水面に見えるところだけを見ていては本質は掴めない。本質を掴むためにどこまで水面下に迫れるか?学問とはそういうものであると僕は考えている。

数学とは本質を抽出して行く作業だ!

数学というものに対する認識は人それぞれ違うと思う。しかし人それぞれ違うとは言え、それぞれが数学というものに対してどのようなものかという認識を持つことは大切だ。もしかしたら人によっては、レジで計算するために必要なものだというくらいの軽い認識かも知れない。しかしそのような認識でも何も持たないよりかははるかにましだ。

研究レベルの数学に対しても、数学者の数学に対する認識はそれぞれ違うと思う。しかしそのような違いがあるからこそ、多様性のある数学の世界というものが出来上がる。そして一人の研究者にとっても、数学というものに対する解釈の仕方は複数あるかもしれない。僕自身もいくつかの解釈を持っている。なので表題の「数学とは本質を抽出して行く作業だ」というものは、その一つと捉えてもらいたい。

数学というものに取り組む時、「本質は何か?」という問いは非常に重要である。数学の深化とは、本質を切り出していく方向へ進むことである。もちろん数学の中にも純粋数学や応用数学と言われるそれぞれ毛並みの違う分野がある。特に応用数学に関しては、純粋数学によって切り出された本質を具象化する方向へ進むものである。とは言え、数学の本質を抽出して行く作業はどのようなものでも必要不可欠な作業だ。なので、数学を「本質を抽出して行く作業」だと捉える事は的外れなものではないと思う。

近年、学問がますます実用重視になって来ているように思う。お金に結び付く応用研究に重点が置かれ、すぐには実用化されない基礎研究が軽視されている。その基礎研究の究極が数学である。しかし、応用研究というものは、基礎研究の成果の上に成り立っている。従って、現在の基礎研究軽視は将来の応用研究から出る実用化にも大きく影響してくる。もちろん企業の開発現場であればそのような事もわからない訳ではないが、教育現場での基礎学問軽視は非常に問題があるように思える。

現在の社会の中には、「役に立つものを出せ!役に立たないものはいらない!」という圧力があるように強く感じる。学校現場でもそうである。社会に直接役に立つものか、受験に利用できる事に重点が置かれているのではないだろうか?そのような社会や教育現場の短絡的な風潮に危機感を感じているのは僕だけではないはずだ。

数学者・志村五郎の死。

5月3日、数学者の志村五郎プリンストン大学名誉教授が亡くなられたというニュースが流れた。志村五郎と言えば、フェルマーの大定理の証明においてもキーになった「谷山・志村予想」が有名であり、数学を学んだことのある学生ならその名を一度くらいは聞いたことがあるはずだ。

しかし、今回驚かされたことは、志村氏の死去のニュースがヤフーニュースで流れていたことだ。僕もヤフーニュースで志村氏の死を知った。いくら数学関係者の中で有名だったとは言え、ヤフーニュースで流れる程世間の注目を浴びているとは考えもしなかった。ヤフーニュースでこのニュースを見た人のうちどれくらいの人が興味を持ったのかはわからないが、数学研究というものが少しでも市民権を得られればと強く思う。ちなみに、谷山・志村予想のもう一人、谷山豊氏は、若くして自死をされている。

本屋の数学書コーナーに行くと、谷山豊全集というものが並んでいる。数学関係の全集とは一般の人にはなじみがないかもしれないが、全集が出されるほど谷山氏は偉大な数学者であった。そして志村氏も同様に偉大な数学者である。偉大な数学者や物理学者の研究に対しては、コレクテッドペーパーやコレクテッドワークスと言われる論文集が出されることがある。これらの論文集は偉大な学者の研究が一望できる非常に便利なものである。もしかしたら、これから志村氏の論文集も出るのかもしれない。と思ってAmazonで確認してみると、既に志村氏のcollected papersが出版されていた。やはり偉大だ。

感覚と論理。

感覚的な事と論理的な事は相反することのように思っている人もいるかもしれないが、感覚と論理はむしろ相補的、すなわち相補うような存在であると僕は考えている。物事を論理的に考えることは重要であるが、論理ばかりに目が行ってしまっていれば物事の本質を見失うことがある。重要なのは、論理からいかに感覚を掴むかということである。

ここで例を取り上げる。物理理論である電磁気学では、最も基礎となるマクスウェルの方程式と呼ばれる四つの方程式がある。そこではdiv、grad、rot、という三つの記号が出て来る。これらの記号は偏微分を使って数学的に厳密に表現することが出来る。しかしこれらの数式を覚えるだけではマクスウェル方程式の本質は掴めない。重要なのは、div(ダイバージェンス)を「発散」、grad(グラディエント)を「傾き」、rot(ローテーション)を「回転」と感覚的に捉える事である。この様に感覚的に捉えることが出来れば、後はそれらの感覚を基に容易に式変形が出来る。

日常では感覚は五感で捉えられることが多いが、数学や科学においては論理によって感覚を捉えるのである。論理と感覚を縦横無尽に使うことが出来れば、日常においても大きなスキルになるし、学問においては真の理解に結び付けることが出来、さらにそこから新し理論を構築することが出来るであろう。

地震学は真の科学になりえるか?

熊本地震から3年が経った。科学が発達した現在においても、大地震が発生するたびに毎度発せられるのが「想定外」という言葉だ。どこで地震が発生するのか全く予測がつかないのならいっそのこと地震予知など止めてしまえばとも思うが、その一方、地震予知への取り組みは地震学に対する最大の原動力にもなっているのでそう簡単な話ではない。

地震学は一応科学の一分野という事になっている。しかしどう考えても科学とは思えないような研究も存在する。というより、大地震が発生するたびに述べられる地震学者の見解は、どう考えても科学的とは思えないものが多い。その典型的な例が、「前回の地震から何十年経っているから、そろそろ起きる頃だ」というものだ。この様な見解は全く科学になっていない。これは科学ではなく、むしろ史学だ。このような史学的研究者は、百歩譲って地震学者だとしても、科学者とは名乗るべきではない。科学者から見ると、これは予測ではなくほとんど妄想と言って良い。もし本気で地震予知に力を入れるのならば、このような史学的な研究でなく、科学的メカニズムに則った研究に重点を置くべきだ。

もちろん、科学的に地震研究を行っている地震学者はたくさんいると思う。しかしメディアで取り上げられる地震学者の約半分は史学的だ。これにはメディア側にも責任があるのかもしれないが、一般市民ももっと科学的な地震学に興味を示すべきである。このような地震学に対する科学的理解があれば、防災効果は相乗効果で飛躍的に上がるはずだ。

僕は科学とは必ずしも日常に役立てるだけのものではないと思っているが、もし地震学を日常的に役立てたいと思うのならば、ただ単に起こるのかどうかという興味だけではなく、科学的な所からの根本的理解が必要だと思う。科学に対する実用的価値を過度に求めている割には、完全に重要な所が抜けているように思えてならない。