「迷惑をかけてはいけない」の裏返し。

多くの日本人は、子供の事から「人様に迷惑をかけてはいけない」と強く言われて育ってきたのではないだろうか?日本人にとって人に迷惑をかけないと言うことは大きな美徳であり、それが立派な大人かどうかの大きな判断基準にもなっている。確かに「人に迷惑をかけない」と言う部分だけを切り取って見れば非常に良いことのように感じるかもしれないが、実はこのような考えが社会として大きな危険性をはらんでいると僕は感じている。

人に迷惑をかけないと言うことを裏返せば、それは人から迷惑をかけられることに対しては許さないと言うことでもある。実際、日本人は人からの迷惑に対して非常に厳しい。電車で子供が泣いているとあからさまに迷惑な態度を取る人が多いし、電車が数分でも遅れようなものなら駅員に対して罵倒する人も見かける。人に迷惑をかけてはいけないと言う考えは、人からの迷惑を許さないと言うことを経て、非寛容な社会を生み出している。

以前ドイツに住んでいる日本人が書いた記事を読んだが、ドイツでは人に迷惑をかけることは当たり前の事であり、日常茶飯事であるらしい。これは裏返せば、周りから迷惑をかけられても大丈夫だよと言う考えにつながる。つまり迷惑をかけたりかけられたりすることはお互い様だと言うことであり、これが寛容な社会、寛容な心を生み出しているようだ。

ヨーロッパでは電車が数分数十分遅れることはよくあると聞くが、それに対して怒る人がいるとは聞いたことがない。日本の新幹線は秒単位で制御されており、一分でも遅れると一大事のように扱われる。そのような日本の感覚でヨーロッパの電車事情を見るとびっくりするかもしれないが、その根底には寛容な思想・社会があると考えればむしろそっちの方が健全なように思える。

日本では最近、自分たちを自画自賛する風潮が強くなってきている。しかしそれは非常に危険な状況になっているサインであるように思える。新幹線の運行が正確だと自画自賛し、絆の心が美しいと自画自賛している。別に新幹線の正確さや絆の心が良くないとは全く思わないし、むしろそれは良いことであるかもしれないが、それらの心の裏を考えてみると非常に恐ろしいように思える。自分たちに同調する人たちには絆の心を持ち助け合うが、少しでも考えの違う人や違う行動をする人に対しては村八分状態である。現在のコロナ禍においてもそのような行為はニュースなどで頻繁に見かける。思いやりや絆、そのような言葉だけを切り取ると一見美しいように感じるが、実はその裏に非常に非寛容な心がべったりと張り付いていることを強く感じる。今日本人に欠けているのはまさしくこのような寛容さであると言えるのではないだろうか?

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