前例がない!

日本人と言うものは何かと前例にこだわる。もちろん裁判などにおいて前例を踏襲することは法の下の平等においても非常に重要な事であるが、人間の人生において前例にこだわることは本当にバカげていると思えてならない。自分の人生と言うものは自分と言うオリジナルの存在そのものであり、それをわざわざ人と同じものにする理由が僕にはさっぱり理解できない。しかし人と同じ生き方にこだわる人がかなり多いのが現実だ。

もし誰も成し遂げたことのない形で、誰も成し遂げたことのない事をしようと思うのなら、前例を無視すると言う一択しかない。前例を踏襲した時点で、それは既に二番煎じでしかないからだ。それは僕の人生においても同じだ。もちろん部分的には誰かと同じものになることは十分あり得る。しかし意図して同じものにしたのでないのなら、それを気にする必要は全くない。なぜならそれはたまたま人と同じになったオリジナルだからだ。

とは言え、最近はネット検索で簡単に情報が入る世の中になったこともあり、オリジナルかどうかと言う判断は非常に難しくなっている。最近では東京五輪のエンブレムが他人のデザインの盗用だと言われたことが記憶に新しいが、実際はたまたま同じようなものになってしまったと言う可能性も否定できない。数学や物理においては一番乗りしか結果として認められないので盗用などは考えられないが、人文社会系の研究では同じ論や類似の論が出て来る可能性は十分ある。それは逆に言うと、盗用の余地も生まれてくるとも言える。意図的に盗用したのなら論外であるが、たまたま類似のものになってしまったものに対しては非常に気の毒な話である。

また全く違ったものであっても、見ようによっては同じように見えることも多々ある。それは解釈にもよるが、そんなことを言ったら全てが類似のものになってしまい身動きが取れなくなってしまう。生むのは非常に骨の折れる作業だが、批判したくて悪意をこじつけるのは非常に簡単だ。それこそネット検索で一分もあればできてしまう。

とは言え、僕は徹底的にオリジナルにこだわる。数学と物理において誰も成し遂げたことのない事を成し遂げ、人生においても誰も歩んだことのない道を歩む。これは確かに非常に気力の使う生き方であるが、しかしそこから得られるやりがい、生きがいも非常に大きい。確かに今の僕は体力的にも精神的にも非常に苦しい状況だ。しかし体力的にも精神的にも活力は誰よりもあると感じている。そこから絶大な自信も生まれてくるのである。まだ結果も出していないのになぜそこまで自信があるのか?と問われれば、理由はそういうことである。あと少しか?それとももう少し長い道のりを進まなければならないのか?そこははっきりと断言できないが、しかしそう遠くではないことは確かであると確信している。

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