悪い人間が犯罪を犯すのか?

京アニの放火犯罪の容疑者が、容態の改善によって医療施設を転院した。その際、容疑者はこれまでお世話になった医療関係者に対して「人からこんなに優しくしてもらったことは、今までなかった」と感謝の意を示したと言う。僕はこの容疑者のこの言葉に関していろいろと考えるところがあった。

容疑者の放火に関してはれっきとした殺人であり許されることはないが、今回の事件はただ単に「極悪な人間が殺人を犯した」と単純に割り切れるものでもないように思えてならない。そのように考えるきっかけとなったのが、前記の容疑者の言葉である。

生まれながらに悪い人間、そして良い人間と言うものがあるのか?もちろん人間にはそれぞれ個性があり、性格や考え方などが生まれながらによってある程度もたらされるところはあると思う。しかしそれと同時に、育ってきた環境によって方向づけられるところもかなりある。もしかしたら、今回の容疑者も“普通に人並みに”悪い人間だったのかもしれない。なので育ってきた環境によっては、普通に何も犯罪を犯さずに暮らしていた可能性も高い。しかし彼の言葉から、これまで人から優しくされることがなかったのではないかと想像することができる。もしかしたら、これまで彼に優しく寄り添う人間がいたら、彼は感情をポジティブな方向へ向け、人に優しい人間になっていたのかもしれない。そう考えると、彼に対して一方的に極悪な人間だと決めつけることに少しの抵抗を感じないわけではない。

環境と言うものは、自分ではどうしようもないと言う側面がある。今回の事件に対する責任は彼だけではなく、これまで彼の環境を作ってきた親、そして学校の教師、そして彼に関わってきた全ての人々、そして日本の社会全体にあるのかもしれない。だから今回の事件に対して、自分は関係ないと他人ごとにはできない。おそらく彼に対しては、今後極刑が課せられることは免れないと考えられるが、その極刑は同時にこれまで彼の環境を作ってきた日本社会が課せられた刑だとも捉えられる。彼の起こした犯罪を教訓として、社会と人間の在り方を再考する必要があるのではないだろうか。

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