僕は普段から数学や物理の専門書を読んでいるが、時々何が書かれているのかわからなくなることがある。しかしその文章をよく読んでみると、数学的な理解力が問題なのではなく、国語的な理解力に問題があることに気づく。わかってしまえば何てことないのだが、文章をそのまま正確に理解すると言うことは意外と難しいものであることに気づかせてくれる。
これは特に日本語に言えることだ。英語では構文がかなりはっきりとしているので、英語に由来する間違いと言うものは圧倒的に少ないように思える。それは圧倒的に英語力のない僕が専門洋書や論文を読みこなせていることからも分かる。つまり問題は日本語にあると言える。日本語で書かれた数学書(和書)は、論理的な日本語の理解力をかなり鍛えてくれると僕は感じている。
数学書に限らず、科学の専門書を日本語訳したとたん、突然わかりにくい文章になると言う声はよく聞く。生物学・医学書においても、日本語に翻訳された専門書は日本語的におかしいと言う話はよく聞くし、もちろん数学書でも原本が洋書ならば日本語訳書ではなく原本の洋書を読んだ方が圧倒的に良い。そして専門用語も日本語に訳すのではなく、英語のまま覚えた方が圧倒的に役に立つ。(そもそも日本語訳がない専門用語も多い。)
英文学においての文章力がどうかと言うことは、とても僕には及ばない。そもそも海外の子供が読むような児童文学でさえ、語学的には科学論文英語よりもはるかに難しい。とは言え、英語は日本語に比べて構文の構成がシンプルなため、英語が苦手な僕のような者でもなんとかなる。しかし日本語は非常にあいまいであり、しかも日本人しか読まないので、おそらく著者も少し凝った表現をしたくなるのかもしれない。そして数学の和書ならば、数学的論理思考力が問われる。そのような事もあって、日本語で書かれた数学書を読むと、文章力がかなり鍛えられるように実感することが多い。日本語を知りたければ、科学的文章を読むのが非常に良いように思えるのである。