正しいことを、正しいと言うのはなかなか難しい。世の中の風潮や常識にとらわれて、ついそれに沿うように話を進めてしまう。世の中の常識には、正しいものはもちろんたくさんあるが、おかしなものもたくさんある。それらに対して自分の思考によって、正しいか間違っているかを判断することが大事である。
僕も、本当は間違っていると思うことを相手に合わして流してしまうこともある。正しいことを正しいと言うことは、エネルギーもいるし、勇気もいる。当たり前のことでさえ正直に言えない。
相手の言うことが正しい時、素直に正しいと言える心も大事である。つい意地になって、相手の言うことに対して反抗したくなる時がある。自分が主張すべきことは主張して、相手を認めるべきことは認めるという、正確な評価が重要である。
ある事柄が正しいか間違っているかを判断する時、当たり前ではあるが自分で考えて判断することが重要である。しかし、この当たり前のことができない人が多すぎる。特にネット社会になった現代において、それらの判断をネット検索に頼って調べるということが頻繁に起きている。それらの人は、人間を信じずにネットを信じているのである。しかしネットに載っている事柄も元はと言えば人間が書き込んだものである。しかしネットを完全に信じている人は、人間を見ずにコンピューターが絶対だと信じ込んでいる。コンピューターの先にある人間の姿まで見えていないのである。
正しいことを正しいと言えるかどうかは、学生時代の学校での生き方に強く表れているように思う。学生時代に、自分で物事を判断せずに学校の校則を絶対だと思い、教師には完全に従う。そのような生き方を経てきた人たちには自分で物事を考えるということは難しいのではないかと感じる。
しかし、物事を考えることに遅いということは全くない。大人になってからでも自分で物事を考えるという習慣を身に付けることは非常に意義のあることだと思う。