科学技術の発展は、完全なる善なのか?

現代の人々は科学技術が右肩上がりで発展して行くことを当たり前に思い、それに伴って世の中が便利になって行くと信じている。もちろん、科学の発展によって飛躍的に便利になっているのは事実である。そして多くの人は、科学の発展を善だと思っている。しかしそのように善だと言い切ってよいものだろうか?さらに言えば、便利になることがそんなにも良い事だろうか?

科学技術の軍事技術への応用は、科学技術の負の側面だ。そのような事は誰でも分かるので、あえてここでは述べない。では、科学技術によって便利になることが一般的に思われているほど善なのかと言う事を問うてみたい。

例えば、自動車があることによって人々は楽に長距離を移動することが出来る。こらは非常に便利な事である。しかし、「便利」と言う事が必ずしも「善」だとは僕は思わない。さらに、役に立つことが大きな善であることは多いが、完全なる善だとは言い切れないと思っている。逆に、表面的には役には立たないと思われていることが、非常に意義のある事である事も存在する。そのような意義や善を判断するためには、本質を見抜く目が必要だ。それがないと、即物的に「役に立つ=意義がある」、「便利=善」と考えてしまう。しかし、何もそのような判断が間違っている訳ではない。問題はそのような判断過程において、思考のプロセスが入っていないことだ。だから「便利=善」とは判断できても、「役に立たないが意義がある」とは判断できなくなる。判断のレベルを上げるためには、即物的な判断ではなく、思考による判断が必要なのである。

便利な事、役に立つ事でも、深く考えると意義のない事もたくさんあることに気付く。しかし、科学技術は後には戻れない。それは核兵器が存在する世界から核兵器を消滅させることが出来ない現在の世界が証明している。もちろん未来はどうなるかわからない。人類の努力によって100年後の世界から核兵器が消滅している可能性もゼロではないと僕は考えている。しかし、それを実行することは極めて難しい作業である。現在の努力によって未来は変えられる。それは個人の人生においてもそうだし、世界平和においてもそうである。だからこそ、努力することはいつ何時も重要な意義を持つのである。今少し努力すれば未来は少し変わるであろうし、上手く行けば大きく変えられるかもしれない。

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