多くの人は苦しいことを避けたいと思っているかもしれない。そして「苦しいこと=楽しくない」と思うかもしれない。しかし僕は必ずしもそうではないと感じている。それどころか、苦しいことを楽しく感じれることは究極のやりがいだと思っている。
プロ野球選手になるためには、想像を絶する練習と訓練を行わなければならない。しかしそれを耐えたからと言って、必ずしもプロ野球選手になれるとは限らない。プラス卓越した才能も必要だし、強い意志を持つ事も必要だ。しかしそれらをすべてクリアしたとしてもプロになれるとは限らない。ではプロ野球選手はなぜそんなに苦しい思いまでしてプロになろうとしているのか?それは究極の苦しみを究極の楽しみに変えているからだと思う。もちろん皆が皆そうとは限らないと思う。しかし僕はそう感じるのである。
野球と同じで、物理や数学の研究も長い年月をかけて取り組まないと研究者にはなれない。しかしそれは必要条件であって、十分条件ではない。例え猛烈に取り組んでも、結果が出せない時は出せない。努力と同時に才能ももちろん必要だし、何に関しても運も必要かもしれない。しかしここで勘違いをしてはならない。ここで言う運とは宝くじとは違って、自分でつかみ取る運だ。ボーっとしていたら運さえもつかみ取れない。
小学生の頃、テレビゲームで遊び、それはすごく楽しいものだった。しかしその場は楽しくても、それは僕の求めている楽しさではないと感じていた。その頃から僕の求めている楽しさは数学や物理(当時は理科と言うべきか)の中にあると感じていた。それから長い年月が過ぎ、非常に苦しい時期を送ったときもある。苦しい理由はいろいろあるが、一番苦しかったのは調子を崩して数学や物理に対して十分取り組めなかった時である。なので数学や物理の研究ができると言う事は、僕にとっては至福の時である。とは言ってもやはり苦しい時も多々ある。しかしそのような苦しみは全然嫌ではないのである。苦しみの中に究極の楽しみを見つけることができた時、それは一つの悟りとでも言うのではないだろうか。