月別アーカイブ: 9月 2019

知識と知恵。

知識とはインプットであり、知恵とはアウトプットである。知識と知恵のどちらが重要か?と問われれば、僕は知恵だと答える。しかし、知識と知恵は全く関係のないものではなく、双方が連動して大きなパフォーマンスを発揮する。

勉強の大部分は知識である。しかし勉強によって得られる知識の多くは知恵へとつながる。いや、つなげなければならない。何かを成し遂げられるかどうかは、知識を知恵へとつなげられるかどうかだということである。

学校で行われる勉強は、知識の習得であることが多い。しかし、このような勉強の強要は、知識を知識で終わらしてしまう可能性が高い。無理やり押し付けた勉強が実を結ばないのは、知恵への昇華という視点が欠けているからだ。受験も同じである。受験勉強のためだけの勉強は、ほとんど意味をなさない。大学受験だと、受験は一瞬であるが、大学生活は4年の時間があるのである。さらには、卒業後の時間の方が圧倒的に長い。勉強というものは、このような長期的視点を持って意味を見出すことが重要なのである。

僕は学歴というものは基本的に重要視していない。人間を評価するときには、学歴ではなく人間そのものを見て評価しなければならないと思っているからである。そこでの判断基準の一つが、「知識を知恵へと昇華できているか?」ということである。高度情報化社会の現在、知識を習得するだけならネットを使っていくらでも簡単にできてしまう。しかしそれぞれの人によって知性の差が大きく生まれる。それは知識ではなく知恵の差である。思考の差である。もし知識の収集に明け暮れながらも現状を打開できないのならば、知識から知恵へと軸を移すことを考えなければならないのではないだろうか。

僕はバカな生き方をしたいんだ!

僕は常々バカな生き方をしたいと思っている。しかしこのバカな生き方というものは、簡単にはできない。そしてバカな生き方をするためにも、知性をつけて理性的にならなければいけない。何も考えないで生きるのがバカな生き方ではない。ある意味常識を超える生き方、それがバカな生き方というものだ。

バカにバカな生き方はできない。それはバカがおバカタレントになれないことからも明らかだ。賢い生き方をしようと思う人は多いが、僕は賢い生き方というものに全く価値を感じないし、魅力も感じない。自分の調子が悪い時、少し賢い生き方をしようと思ってしまう。それは余裕がない証拠だ。心に余裕がないと、バカな生き方をしようと思うことはできない。

クイズ番組で立て続けに正解を出すタレントと、面白いおバカ回答を出すタレントのどちらが面白いか?僕はおバカ回答をするタレントの方が圧倒的に面白いと思うし、魅力を感じる。それと同じだ。おバカ人生を生きる人間の方が自分も他人も圧倒的に面白いし、愉快な気持ちになれる。賢い生き方をしている人は、「賢いね」の一言で終わってしまう。ただそれだけである。人生は楽しくないといけない。愉快でないといけない。僕はそう思っている。

今僕は、50%くらいバカな生き方をできているのではないかと思っている。ということは、まだ50%足りない。僕は何でも100%というものは狙わない方が良いと思っている。なのであと45%くらいバカになって、人生をシンジョイしたいと思っている。(シンジョイとは、新庄(元阪神タイガース選手)並みにエンジョイするという言葉である。)

石破茂氏が言うのなら。

現在、日韓関係は最悪の状態である。責任はどちらにあるのか?という押し問答が繰り返されているが、やはりどう考えても発端は韓国側にあるように思えてならない。僕が日本人だからなのかとも思うが、冷静に分析しても原因は韓国側にある。

しかし、やはりどこかで落としどころを見出せなければ一向に解決しない。だからと言って日本側から譲歩すれば、韓国側はそれに乗じて高圧的に出てくるのは目に見えている。これまでの過去はその繰り返しである。

しかし、自民党・石破茂氏は日本側の責任を述べている。他の政治家がそのような事を言ったのならば僕も反発してしまうが、他ならぬ石破氏の言うことである。石破氏は出まかせで物事を言う人ではない。いろいろと分析し考え抜いて出た言葉だと思う。このような意見を石破氏が言うのならば、僕も一度その言葉に耳を傾けようと思う。僕は特に自民党の支持者と言う訳ではないが、石破氏には絶大の信頼を置いている。

今、自民党内で安倍首相に異論を唱えられるのは石破氏しかいない。首相に異論を唱えることによって党内での立場は微妙な状態ではあるが、このような石破氏の存在は貴重である。もちろん、このように持論を周りの顔を窺わずに主張できる人がもっと出てこなければならないが、現状では石破氏しかいないように思える。もしかしたら、これから小泉進次郎氏がこのような立場になり得るかもしれないが、どちらにしても圧倒的な少数派だ。しかしそのようなポジションを取り得るかどうかは、総理の器かどうかにかかっている。そういう意味で、現在次期総理の有力候補だと言われている政治家は何人かいるが、僕はそれらの政治家が総理の器かと言われればそのようには感じない。

セオリーを破る。ただし結果が全てだ!

セオリーというものは強力だ。セオリーとは言い換えるとマニュアルともいえるが、このようなマニュアルがあるからこそ俊敏に迷わず判断を下すことができる。しかし、セオリー通りに物事を進めるだけだと、誰がやっても同じ結果にたどり着くだけだ。もちろん、それがセオリーというものだが、何かを打破しようとするとき、時にはセオリーを破らなければならない時も出てくる。

セオリーを打破しようとするとき、必要なのは勇気ではない。冷静沈着な判断力と、その先にある展望だ。これを見誤ると、必ずと言っていいほど失敗する。セオリーを破る人の多くは、結果として失敗をすることになる。しかしこのことは、決してセオリーを破るなということではない。時には失敗する確率が高くても挑戦すべき時があるのだ。

なぜ、失敗する確率が高いのに挑戦するのか?と疑問に思う人も多いだろう。そこで、この失敗というものについて考えなければならない。確かに失敗はする。しかし、その失敗は短期的な、単発的な出来事だ。物事は大局的に捉えなければならない。重要なのは、その失敗がこれからの糧になるかどうかだ。発展の見込めない失敗はすべきでない。しかし、栄養になる失敗は積極的に得て行かなければならない。

セオリーを破ることも同じだ。セオリーを破ることによって新しい可能性が見えてくる。新しい戦術が見えてくるのだ。セオリーを破ることは、新しセオリーを作ることに結び付く。新しいセオリーを作ることこそ、挑戦者たちの目標なのである。数学や物理学においても、新しい理論(セオリー)を作ることが最終目標なのである。

セオリーを破ることによる失敗は決して無駄ではない。そしてセオリーを破ることでしかたどり着けないところがある。ただし、現実は結果が全てである。セオリーを破るのなら、その先にある「新しいセオリーを作るところ」まで行かなければならない。