投稿者「木原 康明」のアーカイブ

全ての科学の理解を目指して。

人間が成長するにおいて、教育と言うのは非常に重要だ。学校教育、あるいは親からの教育によって人間は成長していく。しかし教育とは関係のないところで覚えて行くこともある。その代表が「食べる」と言うことだ。食べ物を食べると言う行為は、親から教えられなくても幼児が本能的に起こす行動だ。教えて覚えると言うことの原理はある程度理解(納得?)できるが、そもそも食べる行為のような本能とは、ニューラルサイエンス(神経科学)的にはどのような原理で行われているのか?おそらく神経科学の専門家においても謎であるところは多いのではないかと思う。

しかし現在のニューラルサイエンスは急速に発展している。そして動物の神経構造を模した、ニューラルネットワークと呼ばれるコンピューター原理も今では普通に用いられている。しかし本能だとか意識だとか、捉えどころのないような現象は確実に存在し、これをどれだけ明確に捉えるかと言うことはこれからの神経科学(脳科学)においては非常に重要な課題となる。

20世紀は物理学の世紀だと言われた。20世紀初頭に相対論と量子力学と言われる二本柱が確立し、その二本柱を軸に科学は発展してきた。そして21世紀は生物学の世紀と言われるかもしれない。あるいはコンピューター科学の世紀かもしれない。しかしそこに物理学は存在しないのか?いや、そんなことはない。物理は水や空気のように存在し、また物理学そのものも劇的な発展を遂げている。そもそも一般相対論と量子論の融合と言われる大問題は今でも完成していない。

科学は物理学・化学・生物学・地学のように分類されることが多いが、そもそもそれらは人間が便利上分類したに過ぎない。なので、物理のその中のさらに細分化された分野を専門的に理解すると言うよりも、逆に科学全般を高い位置から俯瞰するという考えが大事である。これからはスペシャリストではなくジェネラリストの時代なのである。しかしジェネラリストと言っても、全分野を万遍なく知っていると言う意味ではない。全ての事に対してスペシャリストレベル、あるいはそれ以上に理解し考えていると言う意味である。少なくとも大学レベル、つまり理学部物理学科、化学科、生物学科、地学科で習うようなこと全てを理解していることが最低条件である。そこからさらに研究者レベルまで理解していることが求められる。おそらくこのような条件を満たすくらいのレベルの人間は少数であろう。しかし全然不可能ではないと僕は考えている。もう専門に詳しいと言って大きな顔をできる時代ではない。むしろ専門に詳しいだけの専門家は小さくならなければならないと僕は思う。これからは全分野スペシャリスト的ジェネラリストの時代なのだ。

損得勘定ではない!

ビジネスで一番大事なのは、ある意味損得勘定であると言える。しかし日常生活において常に損得勘定で動いていると、大切なものを見失ってしまうように思える。そして例え損得勘定が大事だとしても、ほとんどの人が考える損得勘定は短期的なもの、つまり目の前の損得勘定であり、長期的に物事を考えるとそのような目の前の損得勘定にこだわることはマイナスになることが多いのではと思う。

では僕は何を考えて動いているのか?それはいかにして大事なものをくみ取るかと言うことである。損か得か?ではなく、大事かどうか?で物事を考えるようにしている。だから金銭的には損することであっても、それが自分にとって大事な事であれば惜しみなくお金を次ぎ込んだりする。そしてそのように大事かどうかと言う目線で物事を判断することが、長期的には得をすることになると僕は考えている。だから僕は周りから見れば、なぜそのような割の合わない損な事をしているのかと思われるかもしれないが、これは僕の長期的な戦略とも言え、僕自身はほとんど気に介していない。

ただやはり、今を切り抜けるためには短期的な損得勘定をすることも非常に重要である。今お金に困っているのならば、節約することに力を入れなければならない。しかし今生き抜けるだけの余裕があるのならば、そこからは短期的な損得ではなく自分の人生全体を見渡して、何が重要なのかと言うことを考えるべきだと思う。

今コロナウイルスが蔓延して、皆いかにして生き延びるかと言うことに必死だと思う。将来の事を考えようにも、今死んでは元も子もない。しかしコロナ対策を真剣に考えた先には、コロナ後を考えることも重要である。今生き延びるために、コロナと言う目先の事を考える。そしてそこをクリアした後にはまた平穏な日常が戻って来るはずだ。それが一年後になるのか、三年後になるのか、それは僕にも分からない。鍵はいつワクチンができるかと言うことにかかっていると言われている。しかしそのような日常が戻って来ることはほぼ確実である。その時、多くの人はコロナ疲れしていることだと思う。そのようなある意味再スタートを切ったとき、どれだけコロナ後を見通していたかと言うことが差になって表れるのだと思う。僕自身のことを言えば、コロナが来ようが来まいが目指す所は変わらない。確かにコロナで苦しくなったことは確かだ。しかしコロナで死なない限り、することは変わらないし、目指す所も変わらない。常に目先の損得勘定で動くのではなく、その先にある目指すところへ行くにはどうすべきかと言うことを考えて、重要だと考えられることをこなしていくだけだ。

知識でなく、真髄を。

僕はこれまで度々述べているように、記憶力が悪い。これはかなり不便な事であり、これによって度々困ることがあり、また勉強したことをすぐに忘れてしまう。知識を習得することが目的ならこれは致命的な事であるが、数学や物理の神髄は決して知識を習得することではない。

記憶力の良い人なら一瞬で知識を習得してしまうのかもしれないが、しかし学問の神髄を理解するのはかなりの時間がかかる。一度習得したことを何年も経ってから見返した時、その時初めて真髄を理解することも度々ある。学問に打ち込んでいる時、突然真髄が理解できる時もある。これは知識とは全く違うと言う訳ではないが、かなりの部分が知識とは別物であるように思える。例えば詳細は一切忘れているが、本質は捉えていると言うこともある。そういう時、知識などは本でも何でも見て確認しなおせばよいだけだ。わざわざ自分が覚えていなくても、ちゃんと本には載っている。本質を捉えていれば、知識などは本で補って前に進むことができる。

とは言え何度も言うが、記憶力が悪いのは非常に不便である。しかし幸運な事に、本質を見抜く力はますます上がっている。これが逆だと致命的である。しかし周りを見渡してみると、記憶力が良くて知識はどんどん習得できるが、本質を掴めない人がたくさんいるように思える。本質とは言わば核なので、核を理解するだけならそんなに知識はいらないものだ。

僕は亀とウサギで言うと、圧倒的に亀である。しかし今は猛烈に走る亀になっている。亀であることには変わりはないが、でもそれでいいのだ。歳を取って衰える人もいれば、歳を取ってますます磨きがかかる人もいる。僕は今ますます磨きがかかっていると思っている。まだある程度時間はかかるであろうが、僕自身にとってのスタート(ゴールではない)まであと一歩のところまで来ていると僕は感じている。

禁欲生活は程々に。

以前のブログで、コロナ対策で外出しないことをきっかけに禁酒生活を始めたと述べた。僕自身、目的のためならかなり自制できる性格だし、(睡眠以外は)かなりコントロールできると思っている、そしてここ半月ほどアルコールを一滴も飲まなかったが、過度の禁欲のせいか調子が全く乗らなかった。そして今日久しぶりにビールを飲んで発散すると、何だかいろいろと調子が良くなったように感じる。やはり適度に飲んで、適度に発散することは非常に重要なのかもしれない。

自分の調子の良い生活のためにも、そしてある意味研究を調子よく進めるためにも、これからは数日(二、三日?)に一度は適度にビールでも飲もうと思う。そして適度にコーヒーも飲もう。禁欲して快調に進むのならいくらでも禁欲するが、ビール飲んで、そしてコーヒーを飲んで調子良く進めるのなら、それに越したことはない。逆に言えば、気分発散は今のところ、適度な飲酒とコーヒーだけでいい。それ以外にしたいことがあれば、結果を出してからやればいいのだ。

先日、テレビで元阪神のプロ野球選手の新庄剛志さんの特集をやっていた。新庄さんが野球をやめてもう13年にもなるそうだ。僕が阪神応援にのめりこんでいた受験生時代、新庄さんは阪神の輝くスターだった。そして「シンジョイ」(新庄並みにエンジョイすること)と言う言葉は、僕のお気に入りの言葉だ。その新庄さんが今再びプロ野球に挑戦すると言う。年齢から考えると、100%、いや200%不可能である。しかし新庄さんならもしかしたらできるかもしれないと思わせるところが不思議な存在だ。新庄さんは憧れであって、僕には到底まねはできない。しかし僕には僕の生き方がある。新庄さんのように心臓に毛をボーボー生やしたいと思うが、現実は心臓に毛を一本でも生やすことに苦労している。

新庄さんは能天気に見えて、実は非常にストイックな人間であると言うことを知って非常に驚いた。やはり成功する人は、人からは見えない所で必死に努力しているものだ。僕自身、かなりストイックな方だとは思うが、まだ新庄さんにはかなわない。ストイックに禁酒しようと思ったが、自分の調子と相談してそれはやめにした。やはり大切な事は、シンジョイすることかもしれない。取り組んでいることを楽しみ、それでいてストイックに努力する。僕がストイックに取り組むことは禁酒ではなく、研究に打ち込むことそのものである。さあ、たま~にビール飲んで思いっきり頑張るぞ!

放置して自由にさせることの大切さ。

現在の学校教育は至れり尽くせりだ。全ての事に対して手取り足取り指導して、大学では就職支援が充実している。そしてそのような事はほとんどの学生にとっては非常に力になっていることだと思う。このように書くとほとんどの人は「良い環境ではないか」と称賛するかもしれないが、僕はこのような至れり尽くせりの環境に危機感を感じている。

十人いれば九人は、手取り足取りの教育の恩恵を受けて大きく力を伸ばせるだろう。しかし十人中一人は、いや、百人中一人かもしれないが、放置され自由にされることによって大きく力を伸ばせる人がいることも事実だ。そして多くの場合、そのような人は社会から見放されている。

この放置されて伸びる人間は、手取り足取り指導されることによって逆に才能を抑え込まれることが多い。そして重要な事は、出る杭になる人間は、ほとんどそのような放置され延びる人間の方だと言うことだ。つまり、手取り足取り指導し社会に合わせることを強要することによって、出る杭は徹底的に打たれることになる。

これは指導的人物の大きな損失である。一昔前の日本は、一億総中流社会だと言われていた。そして今はそれが崩れ、中流でさえなくなってきている。方向性によっては、一億総上流社会にすることもできたはずだ。もちろんそのように物事が簡単に良くなると言うものでは決してない。しかし現在の日本社会の状況は世界的に見れば明らかに負け組だ。それでもある程度のレベルを保っているのは、過去の貯金を食いつぶしているからに他ならない。

では日本はどこで間違ったのか?それは出る杭を伸ばさなかったことである。一億総中流社会を強化しようと、教育を手厚くし過ぎたことによる弊害だと僕は考えている。教育を手厚くしたと言うとよく聞こえるが、手取り足取り指導することによって、放置し自由にされることによって出過ぎた杭になれる人間を押しつぶしたのである。小学校や中学校で面倒見が良いと言うのはまだ十分に理解できるが、最近は大学院でさえ手厚い保護的教育がなされている。これはもう狂気の沙汰である。

放置することも立派な教育であることを多くの人は理解しなければならない。出る杭になろうと言う人は、今は行き場がないのである。大学院で博士号を取得した人が行き場がなくなって自殺すると言う話もよく聞く。これには二つの理由がある。一つはそれまで手取り足取り指導したがゆえに自分で道を切り開くことができなかった人。そしてもう一つは自由にされなくて出る杭を叩かれた人。

今の日本は優等的リーダーはそこそこいるが、破天荒的リーダーがほぼ皆無だ。しかしあらゆる分野で、一人でもこのような破天荒的リーダーを輩出することが今は必要なのではないだろうか。そして破天荒的リーダーは間違いなく放置された出る杭から生まれるはずだ。

安倍一強を作った日本国民。

現在、コロナ対策で安倍首相の政策が物議をかもしている。マスク問題、給付金問題はもとより、そもそも感染防止に対して有効な策が取れているのか、非常に疑問である。マスク配布に関しては一定の効果はあるだろうが、首相に求められるのは効果を最大化することである。それには費用対効果を最大化することも含まれる。財源は大きいとは言え有限である。なので費用対効果は非常に重要な問題である。

しかし一番重要なのは、言うまでもなく感染拡大防止、そして犠牲者を最小に抑えることである。しかし首相はコロナ問題を感染防止問題ではなく経済問題と捉えているように思える。言うまでもなく一番重要なのは国民の命を守ること。それを確保したうえで経済問題を打ち出していかなければならない。もちろん、お金がないと生きていけないと言う声も大きい。そして命の問題と経済問題は強く結びついている。なので有効な経済対策を打ち出すことは、国民の命を救うことにもつながる。しかしそれが本当にできているかと言えば疑問である。

コロナ問題が安倍首相就任初期に起きていたのならば、首相はもっと積極的に対策を打ち出していたのかもしれない。しかし今の安倍首相を見ていると、全てが守りに入っているように思える。安倍首相の政策の多くが保身なのである。ここ数年、政治の世界は明らかに安倍一強である。さらに不幸な事に、アメリカ大統領はトランプ氏である。僕も含めて多くの人は安倍一強を批判しているが、そのような状況を作ったのは紛れもなく日本国民なのである。しかし全てを国民のせいにする訳にもいかない。貧弱で安倍首相以上に保身的で目先の利益しか考えていない野党勢力の責任は大きい。安倍自民を批判したくても、その受け皿が存在しないのである。このように考えると、政治家だけの問題と言うより日本社会全体の問題のように思える。つまり政治家を含めた国民すべての問題なのである。ではそのような国民はどのように生まれたのか?それは一にも二にも教育である。個性を潰し、平均的で無難な人間の養成に重きを置いた教育はもう限界なのではないだろうか。

とは言え、最近の教育は僕らが受けて来た30年程前の教育よりかははるかに良いものになっている。しかし意欲のあるものが若者も中年も少ないように思える。政治家が保身的なら、国民も保身的なのである。今の教育が花開く20年後くらいに非常に期待したいが、それまで日本が、そして世界が持つか、非常に心配である。

コロナ禍の中で。

テレビを見ていると、コロナ関連のニュースばかりが流れている。報道ステーションの富川悠太アナもコロナに感染したと言うニュースが流れている。日本に住む限り、コロナは他人ごとではなくすぐ隣の話、あるいは既に当事者になっているかもしれない。若者がコロナで死ぬ可能性は非常に低いが、自分が感染した場合、それを周りの高齢者にうつしてしまうと取り返しのつかないことになる。僕はそのような事を防ぐことに慎重になっている。

現在はコロナ禍で日本全体が鬱々しているが、何も鬱々しなければならなくて鬱々しているのではない。皆外出して発散したいのだと思う。それは僕だって同じである。しかし現在はできるだけ家にこもり、感染を防ぐことに全力を挙げている。そうなると、いかにしてそのような生活の中でポジティブに意識を向け生活するかと言うことが大事になる。

コロナ禍でネガティブになっている中でも、それを逆手に取ってポジティブに向けなければならない。僕はそのような試みの一つとして禁酒を決行している。買い物にもほとんど行かないので、もちろんビールも買うこともできない。基本的に家にはお酒を置かないで飲みたいときに買いに行くと言う決まりを作っていたので、ここ一週間は一杯もお酒を飲んでいない。初めの数日はお酒を飲まなくて調子が乗らなかったが、一週間たって禁酒生活も板についてきた。お酒飲まない代わりに、コーヒーを何倍も飲んでいる。お酒ゼロ、コーヒー百、と言う生活が軌道に乗り始めたようだ。

なぜ禁酒を断行したのか?コロナ禍がきっかけではあったが、最近お酒を飲まないで調子を上げようといろいろ考えていた。そこにコロナ禍がやってきて、それを上手く実行に移すことができた。些細な事ではあるが、重要な事である。お酒を飲んで今すぐどうなると言うことでもないと思うし、お酒を飲むと言ってもせいぜいビール二本くらいなのですぐに影響が出るわけではないが、長い目で見ると禁酒は絶対に効果的であるはずである。少なくとも、一発目の研究結果が出るまでは禁酒を続けようと思っている。

このように、僕は一つネガティブをポジティブに変えることができた。そしてまた一つ二つとそのような事を作って行きたいと思っている。「災い転じて福と為す」と言う言葉があるが、そのようにするためにもいろいろとポジティブな方向へと実行することが大事だと強く思っている。

転んで三割増し!

人生はスムーズに行っているだろうか?おそらくほとんどの人は、「全然スムーズじゃない」と言うことであろう。僕自身も例外に漏れずそうである。いや、例外に漏れないどころか、スムーズに行っていない上位1%に入る自信はある。まあ、自信にすることでも何でもないのだが。

そんな人生の中では、度々転ぶこともあるだろう。誰だって転ぶのである。しかしその後どうなるかは人それぞれ全く違うと思っている。転んでズルズルと転落する人、転んで何とか留まる人、そして転んでもただでは起きないと以前より上がっていく人。僕は常に最後の人になろうと心がけている。言わば「転んで三割増し!」と言うことである。

では、どうすれば転ぶ以前の三割増しを目指せるのか?それは過去にこだわらないことである。転ぶ前の状態に戻ろうと言うことは悪くはないが、僕は転んだ時に考えうる最上の状態にまで立ち上がろうと思っている。そうすれば少なくとも転ぶ前以上の状態に、そして転ぶ以前の三割増し以上の状態を目指すことができる。そのための努力と徹底的な思考は惜しまないようにしている。

今、コロナ問題が非常に深刻である。以前のブログでも述べたように、窮地に立たされて自殺者が出て来ることも予想される。置かれた立場は皆違うので何とも言えないが、生きていれば何とか立ち直るチャンスが巡ってくるかもしれない。そんなことあるわけないと否定的な言葉を述べる人もいるかもしれないが、良い意味でも悪い意味でも一寸先は闇なのである。なので誰も新型コロナ流行を予測できなかった。そして将来どうなるかも誰も予測できないのである。予測できない(保証されていない)からやらないと言う人も多いが、予測できないからこそ頑張って良い方向へと向けるべきだと僕は思う。予測の不可能性は言い換えると、将来の大きな可能性なのでもあるのだから。

本物の本。

よく高額なものを購入する理由を、「本物を知るために購入するのだ」と言う人がいる。確かに僕だって偽物などは買いたくないし、可能な限り本物を手に入れようとするだろう。しかし必ずしも「本物=高額品」と言う訳ではない。そもそも高額だからと言って本物を買う人達は、なぜそれが本物なのかと言うことを理解していないのではないだろうか。あるいは、聞いた話をそのままスピーカーのように喋って、本物感を力説するかだ。

ピカソの絵画を見て、それが瞬時に素晴らしいものだと理解できるだろうか?あるいはピカソの本物作品と贋作を瞬時に見破れるだろうか?そしてなぜピカソの描いた本物作品と偽物が見た目はほとんど同じなのに、価値が大幅に違うことを説明できるだろうか?これらの事は全て先入観によって左右されることである。そして高級だから本物に違いないと言う根拠のない意識から来るものである。

本物を知るのに一番良い方法を伝えよう。それは「本物の本」を読むことである。例えばアインシュタインの原論文を読むとか、マルクスの資本論を読破すると言うことである。そしてこれらは基本的に多額の現金はいらない。せいぜい書物を購入する費用くらいである。なので高く見積もっても数千円もあれば手に入れることができる。多額の現金を支払って本物にしか興味がないと言う人には、これはぜひとも伝えたいことである。少なくとも絵画や高級ブランド品よりかははるかに得るものがあるはずである。

もちろん、どうしても手に入れたい一作の絵画があって、それを手に入れるために必死に稼いで購入することは非常に意義があるだろう。それはその人にとって本当に価値のあるものに違いない。しかし本物にこだわって多額の現金を支払う人にとっては、はっきり言って豚に真珠である。それを購入する前に資本論でも読破した方が良い。

本物の本と言うものは本屋や図書館に行けば山のように積まれている。そこからどの本物書物を選ぶかは自分次第だ。くだらない自己啓発本ではなく、価値ある原著を選べるか?さらには愚作があふれる新刊本・論文の中から本当に価値のあるものを選べるか?それらのセンスはこれまで生きてきた自分の人生がどのように濃いものだったのかが顕著に表れるものである。

配布マスク、イメージだけで語るな!

現在、新型コロナ対策として、政府が布マスクを国民全世帯に二枚配ることが物議をかもしている。そして多くの人が、この“たった”二枚の布マスクに対して批判と言うよりバカにした言葉を述べている。しかし、この二枚のマスクは果たしてバカにするようなくだらないものだろうか?僕はそうとは思わない。別に政府に肩入れする訳ではないが、この二枚の布マスク配布はかなり大きな意義があると思う。一つ難を言えば、マスク配布にかかる予算が数百億円にも上り、費用対効果としてはどうかとは思う。(郵送などの)工夫をすればもっとお金をかけずに済むのではないかと言うのが率直な感想である。

とは言え、僕はこの布マスク二枚の配布に関しては賛成である。菅官房長官が述べているように、一人が布マスクを20日繰り返し使えば、単純に20億枚分の使い捨てマスクと同等の効果がある。現時点で一か月に20億枚生産することは事実上不可能である。そう考えると、この布マスクは少なくとも一定の効果があることはすぐにわかる。

確かに家に数百枚のマスクの備蓄がある人から見れば馬鹿らしいと思うかもしれない。しかし現在、マスクを手に入れたくても一枚も手に入れられない人もたくさんいるはずだ。そのような人にとっては政府から配布される布マスクは喉から手が出るほど欲しいものだと思うし、感染抑止にもかなりの効果があると思われる。

布マスク二枚と言う簡素なものに対して、国民やテレビのコメンテイターはあまりにもイメージだけで語りすぎてはいないだろうか?確かに簡素なものではあるが、効果はそれなりにあるはずだ。しかし野党もこれらの決定に対してバカにしている。与党側の決定的な失敗は、この布マスクの配布がどれくらい効果があるかと言うことを具体的に示さなかったことである。もちろん、そのような試算をするためには時間もかかるので、スピードが命の現在ではそれができないのも仕方がないのかもしれない。しかし略算でもいいからしっかりと示すべきではなかったのではないだろうか。とは言え、この布マスクは簡素でさえあれ、効果的には決してバカにできないものである。決してイメージだけで物事を捉えてはいけない。