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仕事がもたらしてくれるもの。

仕事とは何か?この問いには様々な答えが存在するだろう。お金を稼ぐ手段、人生にメリハリをもたらしてくれるもの、あるいは人との出会いと言う人もいるかもしれない。もちろんこの中でもお金を稼ぐと言う事は一番重要かもしれないが、ただお金が入ってくれば何でもいいのか?と言えばそうではない。もちろん割り切って、お金をくれれば後はどうでもいいと言う人もたくさんいるかもしれないが、僕は仕事と言うものはお金以上に、お金を稼ぐ過程によってもたらしてくれるものの方が大きいのではと思っている。

もしかしたら、百万円稼ぐ過程よりも、一千万のお金の存在の方が大きいと言うかもしれない。それはその通りである可能性は高い。なぜなら、仕事によってお金を稼ぐ過程がもたらしてくれるものというのは、大きな金額がかかっているほど過程も大きくなると考えられるからだ。だから百万円の過程と一千万円のお金ではなく、一千万円同士で考えればお金の存在より過程の方が大きくなる可能性は十分ある。

当たり前の事であるが、お金が入ってくるまではどうしてもラグが出て来る。たいていは一か月とか長くても三か月と言うところだと思うが、中には一年、あるいは十年と言う場合も出て来る。これをどう見るか?十年もラグがあれば、その間は周りから見れば仕事をしていないように見えるかもしれない。もちろんお金がなくては生きて行けないので、何らかの手段、あるいは副業でしのぐことが求められる。しかしその十年、お金が入ってこなくてもその取り組みはれっきとした仕事なのである。十年お金が入ってこなくても、十年後にそれが実って一億円入ってくればそれは年平均1000万稼いだことになる。

宝くじで一億円を当てることに憧れる人は多い。その一方、宝くじを否定する人も多いが(僕もその一人である)、なぜ宝くじで当てるのは良くないのか?テレビなどでは浪費して失敗した人などが取り上げられるのでそのような意味で否定する人も多いが、僕が思う致命的な点は、宝くじには稼ぐまでの過程が全く存在しないことだと思っている。自分で稼いだ一億円ならばそれまでの過程によってそれが二倍、三倍の価値を生むが、宝くじの一億円は過程がすっぽり抜けていることによって数分の一、あるいはマイナスになることもあるだろう。

なぜこのような話題を取り上げたか?それは僕が今非常に充実を感じ、とてつもなく大きなやりがいを感じているからである。もちろんその研究の仕事には大きなお金がかかっている。とは言え、失敗すればゼロである。なぜこのような充実感とやりがいを感じることができるのか?それはやはり結果を出すまでの過程が充実感、やりがい、そして幸福感をもたらしてくれるからである。既にお金を手にしているのならばそのお金がもたらしてくれているとも言えるが、今僕はこの仕事に関してはまだお金はゼロである。そしてやはり失敗すればお金はゼロである。とは言え、もちろん僕は成功する自信があるのでその問題に取り組んでいる。その中で、仕事の過程と言うものの重要性を学ぶことができた。ただ単に楽しむだけなら仕事ではなく趣味でやればいい。仕事と趣味は根本的に大きく違うものなのである。なので僕はお金に関する事以上に仕事と言う形に大きくこだわっているのである。

学歴を超えられるか!

僕は学歴などは取るに足らないものだと思っている。しかし学歴を否定しようとも思わない。重要なのは、学歴を超えられる人間になれるか?と言う事である。昨今は巷では東大神話みたいなものが出来上がっている。とは言え、僕は東大を否定したいわけでは全くない。重要なのは、東大を出た人が東大と言う学歴を超えられるか?と言う事である。言うまでもなく、東大と言う学歴を超えることができていればその人は非常に優秀で立派なものだ。しかしいつになっても学歴にしがみついている人間を見るのは見るに堪えない。菅首相の初めの高支持率は100日間のハネムーン期間だと言われているが、学歴に物を言わすのも就活生の一年間のハネムーン期間だと思った方が良い。

前首相の安倍氏は、良いか悪いか?とか、好きか嫌いか?と言う話は置いておいたとして、首相としての任務遂行能力を見れば非常に有能な宰相だったと思う。これは僕に限らず多くの人が認めるところだと思う。はっきり言って、学歴がどうと言うレベルの話ではない。安倍氏は成蹊大学卒だが、そんじゃそこらの東大卒の人間などは安倍氏の足元にも及ばない。確かに安倍政権末期には問題が山積していたが、前期から中期にかけては安倍首相の政権運営は卓越したものであった。別に僕は安倍氏を称賛したいわけではない。冷静に中立的に見れば、誰もが認めるところだと思う。

三菱UFJ銀行の次期頭取に半沢氏が就任することが決まったと言う。リアル半沢と世間では言われているが、常務からの13人ごぼう抜きであるらしい。半沢氏は直樹とは違って非常に物腰の柔らかな人であって、非常に優秀な人だと言われている。優秀なところは直樹と同じで良いが、「倍返しだ!」とか言う人でなくてホッとしている。そして今回の人事は、実力主義を押し進めたものだとも言われている。優秀な人間が真っ当な評価を受け出世していく。日本ではこの当たり前の事がなかなか実行できない社会であったが、半沢氏への評価がこの殻を破る社会への起爆剤となって欲しい。そして半沢氏が東大卒だから優秀だなどと言う次元の低いことは言わない方が良い。

とは言え、日本には、いや世界でもそうかもしれないが、学歴主義的なところはまだまだ残存している。会社で学歴なしに大きく出世するのはまだまだ難しい社会だ。しかし僕はそのような評価システムの外にいると思っている。なぜなら物理や数学の研究の世界の評価は純粋に研究成果で評価されるからだ。昔で言えば医学の野口英世がそうであり、物理のファラデーがそうである。もちろんポストを選ぶとなれば、学歴に対する主観が入ってしまうことは普通にある。しかし研究結果は学歴に左右されない。だからこそ僕は研究に邁進することができるのである。そしてそれを実証することが僕に任された使命だと思っている。

キューバ危機において、深く思考する人間がいたからこそ人類は全面核戦争を免れた。

NHKスペシャル・映像の世紀プレミアム 第17集「人類の危機」の動画を観た。この映像の世紀シリーズのテーマ曲「パリは燃えているか」は非常に荘厳な曲であり、僕はこの曲が大好きだ。そして何よりこのシリーズのテーマ曲として非常にマッチしている。

今回観た動画は100年前のスペイン風邪のパンデミックからチェルノブイリ原発事故による危機まで扱っていたが、中盤ではキューバ危機を扱っていた。我々日本人は歴史の授業で「キューバ危機によって全面核戦争直前の状態にまで追い込まれた」と習うが、しかしそれがどれほどの危機だったかについてはいまいち実感がない。僕自身も知識としては知っていても、実感はそれほど感じていなかった。しかし今回観た映像の世紀によって、このキューバ危機による13日間がいかに極限まで追い詰められていたかが分かり、それと同時に愕然とした。結果的には全面核戦争は回避されることになったのだが、現実は核戦争を回避できたことがある意味奇跡であったと言えるくらいの危機であったようだ。

ここでキューバ危機において発生した二つの危機的状況を取り上げる。一つ目はアメリカ統治下の沖縄で起きた危機だ。当時沖縄には核兵器発射基地があった。キューバ危機時、沖縄の核兵器発射基地に4発のミサイル発射命令が下った。しかしそれはおかしなものであった。一発はソ連を狙ったものであったが、その他の3発はソ連以外の国を狙ったものであったと言う。もし基地の司令官が命令に忠実なイエスマンであったのならば、躊躇なく核ミサイルを発射し全面核戦争に突入していたであろう。しかし基地の司令官は、3発が他国へ向けられていることに対して明らかにおかしいと考え、真偽を見極めようとしたと言う。そしてその命令は誤報だと言う事が明らかになった。

もう一つはソ連の潜水艦における出来事だ。ソ連軍の潜水艦がキューバ周辺で活動していたのだが、アメリカ軍はそれを察知し潜水艦周辺に爆雷を落としたと言う。これは潜水艦に対して浮上せよと言う合図であり、アメリカは事前にソ連に対してこの爆雷の意味するところを伝えていたと言う。しかしこの潜水艦の艦長にはその意味が伝わっていなかったのだ。そこで艦長は戦争が始まったと思い、自分たちが自滅することを覚悟で核魚雷を発射しようとした。しかし核魚雷を発射するためには、もう一人、副艦長の許可も必要であった。そこで副艦長は、もし自分たちを攻撃しようとしているのならば簡単に攻撃できるはずで、それをあえてしないのは何かの合図かもしれないと考え潜水艦を浮上させたと言う。

この二つの出来事は、いかに自分の頭で考え判断することが重要であるかと言う事を示唆している。沖縄のアメリカ軍司令官が、あるいはソ連軍の潜水艦の副艦長が何も考えずに核発射命令を出していれば、今頃人類は存在していなかったかもしれない。一人の人間の思考が、人類の存在さえも左右するのである。

日本では特に、学校では教師の言う事を、そして会社では上司の言う事を忠実に聞いて従うことが重要だと教えられ、それに従わないと反抗的だと非難される。しかしそれでは自分の頭で考えられる人間が育たない。日本でも自分の頭で思考し判断する事の重要性をもっと伝えなければならないのではないだろうか?今の菅総理は自分の頭で考えられる人間ではない。なので周りの人間がそれをサポートしていかなければならないが、現状を見るとおそらく側近は全てイエスマンであろうことが想像される。もし今の日本政府がキューバ危機と同じような状況に遭遇すれば、確実に人類は滅亡するであろう。キューバ危機はいろいろな事を教示してくれているが、そのうちの一つとして自分の頭で考え判断することがいかに重要であるかと言う事も示していると考えられる。

孤独には自分が試されている。

僕はこれまで何度か述べたように、孤独を愛する男だ。もちろん何人かでワイワイするのも良いが、基本的には一人でいないとストレスも溜まっていく。大人数での協調と束縛が非常に苦手である。

一人でいるのは非常に自由であるが、その一方責任も全て自分が負うことになる。そして当たり前の事だが、することは全て自分で考えなければならない。普段から頭をフル回転させることが必須だ。もちろん、僕はそれは嫌いではない。死ぬまで頭を使い続けることが自分の使命であり、生きがいであると思っている。

自分で考えると言う事は、そこは自分の頭の見せ所である。そして自分で行動することは、自分の意志の見せ所である。つまり全て自分が試されている。他に人がいれば自分の苦手な事はその人に頼れば良いが、自分一人しかいなければ全て自分でしなければならない。もちろん自分一人で何でもできると言う訳にはいかないので人に頼ることもあるし、どうしてもできないことは放棄することもある。しかし放棄した後どうなるかは、全て自分の責任である。

しかし孤独と言うものは、非常にやりがいのある生き方だ。自分一人でしたことに結果が出れば、それは全て自分一人の成果になる。all or nothing と言う事である。それは究極的には、生か死か?と言う事でもある。もちろん何かに失敗したからと言ってすぐに死ぬわけではないが、それくらいの覚悟を持たないと孤独を突き通すことはできない。

日本では協調性を要求されることが多々あり、人と違うことをすればすぐに自己責任だと突き放す。つまり日本社会では孤独の入り込む余地が非常に少ないのだ。しかしそれでも孤独を突き通すことができるか?そこに自分が試されている。

法治国家であっても、法を破らなければならない時がある。

法治国家においては、法は絶対的であると言われる。果たしてそうであろうか?もし自分の信条・信念に反する法であれば、それに逆らうのも十分にありだと僕は考えている。だからこそ杉原千畝は自分の良心を貫き、香港では周庭さんたちが立ち上がっているのである。さらに言えば、この国のトップである首相は本当に法を厳密に守っているのであろうか?甚だ疑問である。

とは言え、僕はやみくもに法を破れと言っているわけではない。法は国家の存続において非常に重要である。さらに日本の最高法規である日本国憲法は非常に素晴らしく立派なものであると感じている。しかし社会の主役は誰か?決して法が主役であってはならない。人間が主役なのである。だからこそ、人間をないがしろにするような法に対しては徹底的に立ち向かわなければならないのである。僕は決して改憲派ではないが、もし憲法が時代に合わなくなり人間を無視するようになれば、憲法を改正することも十分に視野に入れなければならないと考えている。

法が絶対的ではないことを例示することは簡単だ。もし法が絶対的なものだと考えれば、ナチスドイツにおいては悪いのは法を破った市民、そしてユダヤ人の方だとなってしまう。しかし誰が考えても悪いのはナチスの方だ。そして杉原千畝は法を破ることによって何千人もの人間の命を救うことになった。もちろんこんな大々的なものでなくても、身近な法であっても、人々の自由に反する法は色々とある。もちろん何でもかんでも自由にすれば良いと言う訳ではなく、当たり前の事であるが人を傷つける自由など誰にもない。

なぜ僕は今回の記事でこんなことを書いたのか?それは僕にとって信念に反する法が存在するからだ。その法は人々の思考の自由を奪い、さらには日本国の発展をも妨げるものである。さらに言えば、その法は憲法にさえ反していると僕は考えている。一部の全くおかしい利権を認めるがために、国民の思考の自由を束縛している。日本はいつからこのように知を放棄する国になったのだろうか?僕は決して法治国家を否定しようとは思わないが、このことにおいては徹底的に立ち向かって行こうと思っている。

人の一言一句に左右されない精神力。

これは僕に対する言い聞かせと言うか、僕自身最近は結構人の一言一句に心が左右されることがある。もちろん僕はかなり偏屈なので結果的には自分の信じる道は譲らないのだが、それでも人の言葉に気分などが左右されるのは良いことではない。以前のブログでも「心臓に毛を生やす」とは何度も言ってきたが、やはり今でも僕の重要なミッションはこれに尽きると言える。

人間の精神力と言うものはそんなに簡単に変えられるものではない。しかし自分が強く思い実行すれば、変えられないものではないと思っている。だから現在数本の毛しか生えていない僕の心臓も、剛毛になるほど生やすことができると思い試行錯誤している。人間の外見と言うものはそう簡単に変えられない。もちろん現在は美容整形なるものがあり、お金を出せば美容医師の手で思うように変えられる世の中だ。これをどう捉えるか?自分の手で顔を変えることはできないが、汗を流して稼いだお金で顔を変えられると思えば自分の努力で顔を変えられるとも言えないこともない。しかしそれは外見の話で、自分の内面、あるいは精神力までお金を出せば変えられるわけではない。

しかし十分なお金があれば心に余裕ができ、精神的にも余裕が出て来ることは間違いない。そう考えれば、お金によって精神力さえ変えられるとも言えないこともない。しかし精神力は外見と違って、お金がなくても変えられる部分は沢山ある。僕は自分の意志次第で精神力は思うように変えられると思っている。では外見は変えられないのか?いや、顔つきのような外見には自分の生き方や意志が顕著に表れる。だからこそ、あらゆる面で自分に変革を起こして行こうと思い、日々挑戦している。

来年の今頃、心臓に大分毛を生やすことが出来たと言いたいところだ。いや、そう言えなくてはならない。ぼくはそれが本気で可能だと思っている。何事も挑戦だ!挑戦なき人間に未来はない。そう思い日々挑戦している。そして死の直前まで僕は挑戦し続けているだろう。

努力しない自由?

僕は努力することは非常に重要だと思っている。なので僕自身はできる限り、目標に向かって努力しようと日々思いながら生きている。しかし、自分が努力することが大事だと思っていても、それを他人に押し付けるのは少し違うのではとも思う。学校などでは努力を押し付けられることも多々あるが、そもそも学校の教師自身、どれだけ努力しているのか?と言う話だ。努力する自由はもちろんなければならないが、努力しない自由と言うのもあって良いのではないかと思う。

一年を通じて、毎日努力をし続けている人はほとんどいないだろう。僕自身も努力しようとは思っているが、時には遊ぶこともあるし、努力できない時も多々ある。また、努力しないと言うより、努力できない人もいるだろう。

自分が努力することは非常に重要だが、あくまでも「自分が」であって、他人に努力を強制する権利はない。努力はしたものの、成功できずに苦しみだけが残る人もいるだろう。そのような結果になっても誰も責任を取ってはくれない。人によっては、努力しないことが幸せにつながることもあるのだ。ならば努力をしない自由も認めた方が良い。

しかし最近は、努力しても必ず報われる保証はないからと、努力を否定する人もかなりいるように思える。これに対しては、僕は真っ向から否定したい。確かに努力をしたからと言って100%報われるわけではないが、50%を60%、70%と確率を上げることができることは間違いない。なので、「努力は必ず報われる」と言うのは間違いであって、「努力は成功する可能性を上げてくれる」と言うべきである。そう言えば、「いや、それでも30%失敗するかもしれないではないか」と言う人もいるだろう。そのような人は、努力をしない権利を行使すればいいのである。

もう一つ僕がはっきりと言いたいのは、「失敗=無駄」では決してないと言うことだ。正しいのは、「失敗=経験」なのである。失敗なき成功などほとんど存在しないし、仮に全て最短距離で成功したとしても、そこには深さは生まれない。アインシュタインは数々の大きな成功を残した。そして彼が大きな失敗をしたとはほとんど聞かない。しかし人間と言うものは、自分の成功は口にするが、失敗は口にしないものだ。おそらくアインシュタインも数々の試行錯誤を行い、数々の失敗を経験したはずだ。

努力とは挑戦であり、挑戦の大部分は失敗である。つまり失敗は努力して挑戦した証である。なので僕は自分に対しては努力する意志は持ち続けようと思うが、努力したくない人まで努力する必要はないと思っている。努力をするかしないかはその人の自由なのである。果たしてあなたはそのどちらの人間になりたいであろうか?

好きな事を貫くのは、こんなに苦しいのか!

生き方には大きく二種類ある。流れに身を任せる人、そして流れに逆らって生きる人だ。僕は完全に流れに逆らう方だ。おそらく流れに身を任せて生きれば、今よりもはるかに楽な生き方ができたと思う。しかしだからと言って、流れに身を任せて生きようとは思わない。流れに逆らいながらも道を切り開いて行きたいのだ。そんな生き方をしているものだから、当然いろいろな意味で苦しい生き方になってしまう。

ではなぜそこまで流れに逆らいつつ苦しい道を選ぶのか?それは好きな事を貫くためだ。僕は好きな事しかできない。いや、実際は周りに合わせて仕方なくやっていることも多々ある。しかし自分と言う人間の根幹となる部分だけは譲れないのである。数学と物理は絶対に捨てることはできない。しかし成功する見込みもなく続けるのは暴挙でしかない。なのでほとんどの人はできないと感じた時点でやり続けることをあきらめるのである。ではなぜ僕はやり続けるのか?それは絶対的な自信があるからだ。そう言えば、「それならばなぜ今までできなかったのか?」と言われるかもしれない。しかし人間にはいろいろな事情がある。予想できない事態に見舞われることもある。まさしく僕の学生時代がそうであった。そのため、僕は学生時代には何もできないでいた。しかし今は違う。時間はかかり過ぎたが、今はできると言う絶対的な展望が確実に見えているのである。

物事と言うのは、成し遂げる直前が一番苦しいのかもしれない。なぜなら自分に投資し続け、成功する直前がいろんな意味で貯金がないからである。もちろん精神的にも非常に苦しい。絶対に出来ると言う自信と展望があっても、苦しいものは苦しいのだ。「あと少し、あと少し」と思いつつも、時間は過ぎて行く。こうなれば周りの眼など気になってはいられない。最後まで押し続けるしかないのだ。

しかし事を成し遂げた後には色々と良いこともあるだろう。そう思えるから今の苦しみも乗り越えられるのだ。確かに成功した後でも、苦しいのは変わらないと思う。その苦しみに良いことが付け加わるのだと思っている。例えば金銭的な事であったり、人間付き合いであったり、いろいろ面白いことがあるかもしれない。しかし一番の喜びは、好きな事を成し遂げる事だと思う。これからも流れに逆らいつつ、好きな事を貫いていこうと思う。

人間として、どこまで面白い人間になれるか!

面白い人間と言っても色々ある。単純にギャグなどを言って面白いとか、さらに深く、生き方がユニークで面白いとか、目指す面白さは多種多様だ。もちろんギャグが面白い人間もすごく良いが、僕はもちろん生き方や人間性が飛び抜けて面白い人間になりたいと思っている。そのための条件として、保身は絶対にしてはならないと思っている。そして人のまねは極力しない。面白い人間であるが、徹底的に真面目な側面もある。それでいてふざけた面もあるのは玉にキズか?

もちろん、今の僕は完成形でも何でもない。しかし完成形でないと言うことは逆に言うとこれからどんどん発展させる余地があると言うことだと思っている。ただあるのはあくまでも「余地」であって、実際に発展させることができるかどうかは自分の意志や努力にかかっている。

僕の場合、面白い人間になるための必須条件は、研究者として飛び抜けた存在になれるかだと思っている。今は研究者としては何者でもない。研究者としては社会的には無の存在かもしれないが、今の僕には徹底的な自信がある。僕の人生は後半に入ってからの方が圧倒的に面白い。年齢的にはもう決して若くはないが、精神的にはどんどん若くなってきている。これからの人生が楽しみで仕方がないのだ。過去に戻ろうとは決して思わない。面白い未来をいかにして作って行くかと言うことだけを考えている。

現在の僕がどれだけ面白いかはよくわからない。しかしこれからどんどん面白くなれると言う確信だけは持っている。ただ人間は面白いだけでは生きて行けない。しかし突き抜けた面白さを持っていれば、それだけで生きて行くことも可能だと思っている。人間として、そして研究者として突き抜けて面白い存在になってやろうと言う野望は死ぬまで持ち続けようと強く思っている。

専門分野の末端よりも、他分野の根幹を!

学問に取り組んでいると、当たり前の事だがどんどん専門的になってくる。専門を極めることは非常に重要な事だが、しかし細分化されつくした末端にこだわるのはまた違う話だ。専門を究めながらも、その本質を見抜き、根幹に取り組まなければ価値は生まれない。しかし実際は、細分化された末端の計算テクニックに終始している研究者も少なくない。

そして自分の専門分野の根幹に取り組みながらも、時には他分野に視野を広げるのも悪くない。しかしその際重要になってくるのは、他分野であってもその根幹に取り組むことだ。そもそも他分野の末端などに取り組む時間的余裕はないし、他分野であっても、それが本質的に重要な事であれば必ず自分の専門分野にも思考的優位は生まれてくるはずだ。だからこそ僕は専門の数学・物理以外にも、様々な科学、さらには社会的学問などにも取り組むことにしている。

大学で研究をしている学生などの中には、いち早く最先端にたどり着くことにこだわる人が少なくない。確かにそれはそれで重要であるが、それ以上に大事な事は、学びながら本質を掴むことである。なので本質を掴むために一年二年つぎ込むことは全く悪くない。むしろ最速で表面をさらうくらいなら、五年十年かけてじっくりと本質を料理する方が余程価値がある。

そしてもし本質を掴むことができれば、それから先は意外と早く進むものだ。本質を掴めば、あとは技術を身に付けるだけだ。しかしこの順番が大事なのである。「本質を掴む→技術を身に付ける」とすべきところが、この順序が逆になってしまうといつまでも本質を掴めないままになってしまう。本は何のために読むのか?もちろん情報を手に入れると言うことも重要だが、その情報を料理できなければ価値は生まれない。もうそろそろ情報を暗記するだけの読書は止めにしないか!と多くの人に問いかけたい。