思想、生き方、考え方」カテゴリーアーカイブ

紙の本と電子書籍のハイブリッド。

最近、書籍の電子化が急速に進んでいる。小学生の教科書までも電子書籍にすると言う話もされているようだ。このように紙の本を電子書籍に置き換えることによるメリットは大きい。まず一番に、重い教科書をカバンに詰め込んで通学しなくて良いと言う体への負担の軽減がある。これに関しては僕も大賛成だ。僕が小学生・中学生時代は、学校に教科書を置いて帰っただけで怒る教師も少なくなかった。そのような事を考えると、iPad一枚だけ持ち運べればよいと言う事は非常に大きなメリットである。そして学校だけでなく、休日に出かける時にiPadを持ち運び、車や電車の中で勉強できると言うメリットもある。

しかし電子書籍にすることによるデメリットも大きいと僕は考えている。実は紙の本で勉強や研究をしていると、紙の本を使うことによるメリットが巨大であることに気が付く。僕自身もiPadに電子書籍を詰め込んで研究を行おうと思ったことがあるが、結局紙の良さに気づいて、電子書籍と紙の本の両方があるときは間違いなく紙の本を選ぶことになった。紙の本の良さは実際に紙と電子書籍の両方を使い比べなければ実感できないかもしれない。なので非常に分かりにくい部分ではあるが、紙の本を本棚に並べているだけでも効果は絶大である。本棚に並べてある本を眺めるだけで様々なアイデアや構想が思い浮かぶ。本のタイトル、そして時には本の質感から感じ取って発想が生まれることも少なくないのである。そして本棚にある何十冊の本を視界に入れることによって、それらが有機的に繋がることも少なくないのである。もちろん、紙の本をペラペラとめくって見れることによる視認性の大きさも絶大だ。さらに紙の本だと、目的外の知識も視野に入り取り入れることができると言う事も絶大なメリットだ。

しかしもちろんiPad一枚で全てを持ち運べることは大きなメリットである。なので出かける時などはiPadで電子書籍を読むことは非常に有効である。このように、紙とiPadを使い分けるハイブリッド形式が良いのではと強く感じている。そしてこれはメリットにもデメリットにもなるのだが、iPadであればすぐにネット検索ができると言う事がある。ネット検索によって知りたいことをすぐに調べられると言う事は大きなメリットであるが、すぐにネットに頼ってしまう癖がつくとデメリットになりかねない。ネットに頼りすぎて、自分の頭で考えると言う習慣がつかなくなる危険性があるからだ。なので小学生などには極力ネットに頼ることを止めさせた方が良い。自分の頭で考える習慣がついた大学生などにネットを積極活用させるのが良いと考えている。

ここからは僕の提案であるが、現在は紙の本と電子書籍の両方を手に入れようと思えば二冊分のお金がいる、しかしこれからは、紙の本を買うと電子書籍を無料ダウンロードできる権利を与えた方が良いと僕は考えている。特に分厚い学術書などはその効果は計り知れない。確かに著作権の問題だとかはあるとは思うが、長期的に考えると社会的メリットは非常に大きい。国の発展にとってもメリットは大きいので、国の政策としてもそのような事を支援していくことは非常に有効だと考えている。しかし現実はこれとは真逆の事が起こっている。結果、意欲的な学生や研究者が危ない橋を渡らざるを得なくなり、国が学問を見捨てることにもつながってくる。このような国家に未来があるか?と問われれば、間違いなく否定的な答えが返って来るであろう。

なぜ面白いのか?

何事も、面白いのには理由がある。と思い、僕がなぜ数学や物理が好きなのか?そして数学と物理はなぜ面白いのか?このようなことを考えてみたが、しかしなぜ面白いのかよくわからない。確かにとてつもなく面白いのだが、その理由を考えてもはっきりと思い浮かばない。もちろん面白い理由をいろいろ並べることは簡単にできる。しかし自分がどう感じ、そしてどのような理由で面白いのか?と言う事をしっかりと考えれば考えるほどわからなくなる。

しかしここ数年で一つの大きな変化があった。僕は小学生のころから理科と数学が大好きだった。しかし数学と物理(理科)のどちらが好きかと言われれば、間違いなく物理の方が好きだった。大学で数学科に進んだのも、物理は独学でやって、数学は大学で学ぼうと言う考えからだった(その計画は大幅に狂ったが)。しかしここ数年、僕の中で物理より数学の割合の方がより大きくなってきた。そして今は物理より数学の方が好きだと言う感情の方が強くなった。その理由はいくつかあるが、その中の一つは数学の全体像がはっきりと見えて来たからである。もちろん、数学と言うものは巨大な学問であり全てを把握できるほどちっぽけではないが、少なくとも代数・幾何・解析の本質はかなりつかめて来たと思う。以前は数学と言うものに対して捉えどころのない複雑さを感じていたが、今は数学が手中にあるような感覚がある。

今、いくつかの問題に取り組んでいる。本当は一つの問題に集中すべきなのかもしれないが、今の僕は複数の問題を同時進行で進めることに面白さを感じている。そしてそれらの中には、数学や物理以外の問題も含まれている。例えば進化生物学や数理脳科学、そしてコンピューター科学に関する問題だ。もしかしたらいくつかの問題が一斉に解決するかもしれないと言う感じもしている。

しかしもちろん核となる問題はある。その問題に取り組むことによって数学の本質を掴むことができたし、そしてそれによって物理とは何者なのかと言う事もはっきりと見えて来た。数理物理とは数学なのか?物理なのか?そんなことはどうでもいい。それらの本質がつかめて面白ければそれでいいのである。しかし面白いと言うのは常に楽しいと言う事ではない。時には非常に苦しい時もある。それも含めての面白さであると感じることができたとき、物事の核心に迫れるのではないかと僕は強く感じている。

「~だと思います」と「~だと考えている」の違い。

ある記事で、菅氏が会見で語尾に「~だと思います」と付けまくっていることを問題視していた。それは僕も大いに共感する。僕自身はこのブログでもそうだが、極力「思います」と言う言葉を使うのを避け、そのかわりに「考えている」と言う言葉を使うようにしている。ではなぜ「思います」で締めくくることが問題なのか?

僕が一番思うのは、「思います」と言う言葉には意志が全く感じられないことである。「思ってはいるけど本当はどうかは分かりませんよ」と言う逃げの姿勢であり、責任感が全く感じられない。国のトップである首相にとって、意志をはっきりと国民に伝えることは非常に重要である。そのようなトップの強い意志を国民が感じ取ってこそ、この人に国の舵取りを任せようと支持できるのである。それに対して「考えている」と言う言葉は、「自分の頭で考えたことなので、責任も自分にある」ということであり、強い意志がこもっている。

そして二つ目は、「考えている」と言えば、「考えた結果次にどう動こうか」と言う次へのアクションが生まれる。そしてそのアクションによってさらに次のアクションが生まれる。というように、未来を積極的に切り開いて行くことができるのである。しかし「思います」と言ってしまえば思っているだけで、それで終わってしまう。自分は思っているけどどうなっても仕方がない、と言う意味合いである。

このような語尾の言葉一つとっても、その人の意志や覚悟が強く読み取ることができる。いま国民からの支持率がじり貧に陥っているのはそういうところから来ているのだと思う。もちろん原因はそれだけでない。しかしこのような無責任な言葉の語尾と不実行な姿勢は完全に一致しているのではないか。おそらく菅氏が言葉の語尾の問題に気が付いたとしても、そう簡単には修正できないと思う。それは意志が言葉について行かないからだ。そして語尾を直すと言う事は、自分の責任を増大させることでもあるからだ。果たして菅氏はそのような意志を持って変革できるであろうか?

受験至上主義?

今コロナ禍の中で、緊急事態宣言が受験シーズンに直撃することが問題になっている。おそらく受験自体は滞りなく進むと思われるが、受験を準備する側、そして受験をする側双方にとって何らかの影響が出て来るものと考えられる。

世の中では受験がさも人生の一大事であることのように言われることがある。そして受験が人生を左右するとまで言われている。それは果たしてそうだろうか?もちろん、僕自身もそのような事を全否定しようとは思わない。しかしあまりにも度が過ぎると感じるのは僕だけだろうか?大学院時代の僕の友人も、「受験が重要過ぎる問題」と語っていた。そう、日本においては受験が重要過ぎることが問題なのである。もちろん海外でも受験が重要であることは変わりないし、韓国に至っては受験が日本以上の一大イベントとなっている。

しかし人間を、この「一時」だけで判断すべきなのか?もちろんこの一時のためにそれまでのあらゆることの積み重ねがあるのだから、「一時だけ」と言うのは不適切かもしれない。しかし人生は今では100年時代とも言われている。そのような長い人生を、若い時の数年の状況だけで判断するのは不適切ではないか。人生はいつでも再チャレンジ可能であるべきなのである。そしてこのことは裏を返せばいつでも転落してしまうと言う可能性もあると言うことでもある。

この受験と言う一時だけで人間を判断をしてしまうとどのような弊害が起こるのか?それは「自分が一番優秀だったのは受験生の時だ」と言う人が多いことに象徴されている。受験時と言う一時だけの才能ではなく、長い人生において常に才能を磨いていくことが重要なのではないだろうか?僕は生涯教育なんて言う生易しいことを言っているのではない。真剣に人生に向き合うべきだと言っているのである。自分で言うのもなんだが、僕は常に自分の才能を磨くことを怠らずに生きている。大学時代には大きく調子を崩し、思うように勉強ができない時が続いたこともあった。ならばできるようになった時に真剣に思いっきり勉強や研究に打ち込めばいいではないか!僕はその辺の受験至上主義の人間なんかには絶対に負けない自信があるし、それを身を挺して示すべきだと常に考えている。

自由は健康あってのもの。

今コロナ禍にあって、自由を取るか?コロナ対策を取るか?と言う選択の間で世界が揺れている。特に欧米では自由に対する意識が非常に強いので、外出の自由やマスクをしない自由を声高に叫んで自由を死守する動きが目立っている。日本においてはほとんどの人がマスクをしているものの、飲食などを巡って様々なところで対立が起きている。

自由と言うものは非常に重要である。自由から様々な独創的なものが生まれ、また自由に行動移動をすることにより観光や様々な活動が可能になる。しかしそれらの前提として、健康だから出来ると言う事があるのではないだろうか?健康だからこそ様々なところに移動出来るのであり、また健康だからこそ取り組める物事も少なくない。例えば病院に入院している身では、県外に旅行することもできない。

平時であれば徹底的に自由にこだわるのも良い。しかし今は完全なる非常時である。誰もがコロナに感染する危険性がある。なのでそのような可能性を極限まで下げる必要がある。そして皆がコロナ感染の危険性を避けるため、ある程度(あるいはかなりの?)自由が一時的に束縛されるのも受け入れるべきではないだろうか?コロナを全く気にせずに行動飲食をすることが自由だと思っている人も少なくない。しかしそれはあくまで平時に限ったことである。例えば自由に飲食行動をすることによって自分が、あるいは皆がコロナに感染してしまえば、それによって極度に自由が制限されるのである。なので皆が自由を享受するためにも、今は一人一人が我慢することが必要なのではないだろうか?今少し自由を制限することが、長い目で見れば大きな自由につながるのである。

自分が健康であることによって大きな自由を享受することができ、他人をコロナから守ることによって皆が自由を享受できるのである。今短期的な自由にこだわるのではなく、長期的な大きな自由を獲得するためにも、様々な物事を大局的に捉え判断する事が必要なのではないだろうか?

知識の量ではなく、思考の深さ。

昔、ジャーナリストの立花隆氏が自分の事を「異常知識欲者」と言っていたのを思い出す。しかし立花氏の場合は習得した知識を見事に昇華させ、偉大なアウトプットに変えていた。そこから「田中角栄研究~その金脈と人脈」と言う研究が生まれ、見事に田中角栄内閣を退陣へと追い込んだ。立花氏は習得した知識を単なる知識で終わらせず、その知識を基に徹底的に思考と追究を重ね、一国を動かすにまで至ったのである。

しかし多くの人は、知識を習得することには熱心だが、それを基に思考を重ねる事には無頓着であるように思える。知識を習得するだけであれば、それは単なる文字の羅列以上のものではない。雑学がなぜ意味がないのか?そして速読がそれだけではなぜ意味をなさないのか?それはそういう意味だからである。

もちろん僕自身も膨大な書物を所持しており、とてもではないがそれを全て読みこなすことは時間的にも不可能だ。もしかしたら読むだけなら速読ができれば読みこなせるかもしれない。しかし僕は速読をしようなどと言う事には全く興味はない。むしろ僕の場合は遅読と言ってもいいほどだ。しかし問題は、読んで得た知識を基にどれだけ深く思考するかと言う事なのである。速読などは出来ると便利だが、しかし便利以上の何物でもない。百の知識より一の思考なのである。

20世紀の偉大な数学者・岩澤健吉の部屋には、数えるほどの書物しかなかったと言う。しかしそれは彼がいかに深く徹底的に思考していたかと言う事の裏返しである。僕にはとてもではないが、岩澤博士のような離れ業はできない。僕には大量の本に囲まれ、気が向いた時に本を手に取って思考する事しかできないのである。しかし人にはそれぞれのスタイルがある。岩澤博士のようにではなくとも、自分が最も快適に思考できるスタイルを築くことが非常に重要なのである。

人生、爆発の予感?

明けまして、おめでとうございます。

ところで、人生においては調子が良い時もあれば悪い時もある。悪い時は何をやってもうまくいかず、このような時には忍んで耐えなければならない。昭和天皇の敗戦時の玉音放送にも、「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」と言う有名なお言葉がある。もちろんそのような状況が長期に渡れば心身共に持たないであろうが、長い人生の中にはおそらくほとんどに人にはそのような時期があるだろう。僕だってそのような時はあった。

そしてそのような時とは逆に、何もかもが上手くいくような絶好調な時もあるかもしれない。僕はと言うと、絶好調であっても「何もかも」とは行かないものである。しかしそのように絶好調な時には、全てを爆発させればいい。岡本太郎は「芸術は爆発だ!」と言ったが、僕は「人生は爆発だ!」と言いたい。そしてそのような自分の全てを爆発させる時が、今年であると思っている。いや、そうでなければならない。

今、コロナ禍によって多くの人が苦しい立場に置かれている。その一方、日本の株価はかなりの高水準を記録していると言う。今はコロナ禍で苦しさばかりが強調されるが、苦しい人がいる一方、絶好調な人も多くいるのだ。そしてそれは今だけの事ではなく、いつの時代も同じだ。人生においても好不調の波はあるが、それはある程度社会的なものにも左右される。今のコロナ禍で金銭的に追い詰められればそれは自分の人生の不調にもつながって来るであろうし、もしコロナに感染してしまえば健康的な不調にも追い込まれる。

逆に今まで不調だった人には、今は逆転するチャンスだ。このような時だからこそ、ゲームチェンジャーになれる。報道などを見ると、これまで豊かだったがコロナ禍で追い込まれて苦しい思いをしている人がいることを強調するが、世の中にはこれまでずっと苦しかった人もいるのである。例えばホームレスの人であったり、あるいは日本だけでなく海外にまで目を向ければ明日の命さえも確かではない人もたくさんいる。そのような苦しい人たちがコロナ禍を逆手に取って、ゲームチェンジャーになってくれることを強く望む。そして僕自身も研究においてゲームチェンジャーになるべく突き進んで行こうと思う。

人生44歳からや!

僕は人と話すとき、「人生44からや!」とよく言っている。それは嘘でも何でもなく、本気でそう思っているからだ。確か去年は、「人生43からや!」と言っていたような気がする。そしてもしかしたら来年は「人生45からや!」と言っているかもしれない。しかしそれはそれでいいと思っている。どちらにしろ人生はこれからなのである。よく「自分の栄光は20代の頃だった」と言う人がいる。しかし僕の20代は悲惨であった。そして30代もかなり鳴かず飛ばずの状況であった。なので人生40代からでないと、全く人生が成り立たないのである。

しかしもちろん今は非常に面白い状況である。苦しくはあるが、面白くもあるのである。毎年人生これからだと思って行けたら、それは非常にエキサイティングである。40代よりも50代、そして50代よりも60代の方が面白くエキサイティングでありたいと思っている。

今年コロナで亡くなった志村けんさんは70歳だった。しかし志村さんはいつの時代も面白く活力があった。僕が小学生のころから志村さんはバカバカしく非常に面白くあったが、それを20年30年続けて来たことは非常に尊敬に値する。もしかしたら志村さんも、今年より来年の方が面白いと思って生きて来たのではないだろうか?もしかしたら70代よりも80代の方が面白いと確信して夢見たのかもしれない。そして未来の方が面白いと確信しつつ、コロナで倒れたのかもしれない。僕も常に未来の方が面白いと思いつつ息絶えたいものである。

今年も残すは一日だけとなった。とは言っても別に今年を回想しようとは思わない。今年を回想する暇があったら、来年どう面白くしようかと言う事を考えたい。来年は絶対に面白い。いや、絶対に面白くしなければならない。自分の人生を面白くするのは自分以外の何物でもないが、そうは言ってもコロナは早く終息してほしいものである。ワクチンが急速に出来上がっているが、世の中にはワクチンに不安があり否定的な人も多いみたいだ。そのような時、メリットとデメリットを天秤にかければよい。そう比べた時、僕はワクチンを打つべきだと判断した。だから来年、ワクチン接種が可能になった時は一番乗りでワクチンを接種しようと思っている。そしてそのワクチンには、来年面白い年にできるかどうかがかかっている。

苦しい事と楽しい事は両立する。

多くの人は苦しいことを避けたいと思っているかもしれない。そして「苦しいこと=楽しくない」と思うかもしれない。しかし僕は必ずしもそうではないと感じている。それどころか、苦しいことを楽しく感じれることは究極のやりがいだと思っている。

プロ野球選手になるためには、想像を絶する練習と訓練を行わなければならない。しかしそれを耐えたからと言って、必ずしもプロ野球選手になれるとは限らない。プラス卓越した才能も必要だし、強い意志を持つ事も必要だ。しかしそれらをすべてクリアしたとしてもプロになれるとは限らない。ではプロ野球選手はなぜそんなに苦しい思いまでしてプロになろうとしているのか?それは究極の苦しみを究極の楽しみに変えているからだと思う。もちろん皆が皆そうとは限らないと思う。しかし僕はそう感じるのである。

野球と同じで、物理や数学の研究も長い年月をかけて取り組まないと研究者にはなれない。しかしそれは必要条件であって、十分条件ではない。例え猛烈に取り組んでも、結果が出せない時は出せない。努力と同時に才能ももちろん必要だし、何に関しても運も必要かもしれない。しかしここで勘違いをしてはならない。ここで言う運とは宝くじとは違って、自分でつかみ取る運だ。ボーっとしていたら運さえもつかみ取れない。

小学生の頃、テレビゲームで遊び、それはすごく楽しいものだった。しかしその場は楽しくても、それは僕の求めている楽しさではないと感じていた。その頃から僕の求めている楽しさは数学や物理(当時は理科と言うべきか)の中にあると感じていた。それから長い年月が過ぎ、非常に苦しい時期を送ったときもある。苦しい理由はいろいろあるが、一番苦しかったのは調子を崩して数学や物理に対して十分取り組めなかった時である。なので数学や物理の研究ができると言う事は、僕にとっては至福の時である。とは言ってもやはり苦しい時も多々ある。しかしそのような苦しみは全然嫌ではないのである。苦しみの中に究極の楽しみを見つけることができた時、それは一つの悟りとでも言うのではないだろうか。

前例がない!

日本人と言うものは何かと前例にこだわる。もちろん裁判などにおいて前例を踏襲することは法の下の平等においても非常に重要な事であるが、人間の人生において前例にこだわることは本当にバカげていると思えてならない。自分の人生と言うものは自分と言うオリジナルの存在そのものであり、それをわざわざ人と同じものにする理由が僕にはさっぱり理解できない。しかし人と同じ生き方にこだわる人がかなり多いのが現実だ。

もし誰も成し遂げたことのない形で、誰も成し遂げたことのない事をしようと思うのなら、前例を無視すると言う一択しかない。前例を踏襲した時点で、それは既に二番煎じでしかないからだ。それは僕の人生においても同じだ。もちろん部分的には誰かと同じものになることは十分あり得る。しかし意図して同じものにしたのでないのなら、それを気にする必要は全くない。なぜならそれはたまたま人と同じになったオリジナルだからだ。

とは言え、最近はネット検索で簡単に情報が入る世の中になったこともあり、オリジナルかどうかと言う判断は非常に難しくなっている。最近では東京五輪のエンブレムが他人のデザインの盗用だと言われたことが記憶に新しいが、実際はたまたま同じようなものになってしまったと言う可能性も否定できない。数学や物理においては一番乗りしか結果として認められないので盗用などは考えられないが、人文社会系の研究では同じ論や類似の論が出て来る可能性は十分ある。それは逆に言うと、盗用の余地も生まれてくるとも言える。意図的に盗用したのなら論外であるが、たまたま類似のものになってしまったものに対しては非常に気の毒な話である。

また全く違ったものであっても、見ようによっては同じように見えることも多々ある。それは解釈にもよるが、そんなことを言ったら全てが類似のものになってしまい身動きが取れなくなってしまう。生むのは非常に骨の折れる作業だが、批判したくて悪意をこじつけるのは非常に簡単だ。それこそネット検索で一分もあればできてしまう。

とは言え、僕は徹底的にオリジナルにこだわる。数学と物理において誰も成し遂げたことのない事を成し遂げ、人生においても誰も歩んだことのない道を歩む。これは確かに非常に気力の使う生き方であるが、しかしそこから得られるやりがい、生きがいも非常に大きい。確かに今の僕は体力的にも精神的にも非常に苦しい状況だ。しかし体力的にも精神的にも活力は誰よりもあると感じている。そこから絶大な自信も生まれてくるのである。まだ結果も出していないのになぜそこまで自信があるのか?と問われれば、理由はそういうことである。あと少しか?それとももう少し長い道のりを進まなければならないのか?そこははっきりと断言できないが、しかしそう遠くではないことは確かであると確信している。