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人生一度きりだからこそ、本気になれる。

昔から、多くの人が永遠の命を夢見て手に入れようと挑戦してきた。もちろんそれに成功した人間は今のところ一人もいないが、将来どうなるかは全く分からない。僕が以前読んだ「脳の意識 機械の意識」(中公新書)の著者・渡辺正峰博士は、科学の力で本気で永遠の命を手に入れようと挑戦している科学者だ。しかしそれに対するアプローチは、これまで取られてきた医学・生物学的なものではない。コンピューター的なアプローチで臨んでいるのだ。渡辺博士は、自分の意識をコンピューター(機械)に移殖して永遠にこの世に存在しようとしているのだ。

多くの人にとって、死は大きな恐怖であろう。もちろん僕にとってもそれは例外ではない。渡辺博士は、研究の最大の原動力は死への恐怖だと言っている。確かにこれまで死の恐怖が科学の発展の原動力になってきたことは多々ある。特に医学・生物学の一部では、死への恐怖、つまり死からどのように逃れるか、あるいはどのように死を遅らせようかと言うことは大きな原動力になってきたことは間違いない。北朝鮮の金一族は、金日成の時代から不老不死を手に入れることが究極の目標だと言われている。しかし永遠の命とはそんなに偉大なものなのだろうか?

確かに命は一度きりしかないと言う事実は時には冷酷である。生まれて間もなく死んでしまう子供も多いし、死によって不幸をもたらせられることも多い。そういう意味では、死を遅らせる、さらには健康を保つために発展させられる医学と言うものは非常に偉大で価値がある。医学によってもたらされる幸福は無数にある。しかしもし人生が一度きりではなく何度もあるならばどうだろうか?さらには不老不死と言うものが可能ならばどうだろうか?それは決して幸福ではないと僕は考えている。確かに健康で長生きできればそれは非常に幸せな事だ。だからと言って、不老不死を手に入れたいとは思わない。

もし永遠の命を手に入れることができたのならば、人生は非常に退屈なものになるだろう。あるいは不老不死自体が不幸である可能性も非常に高い。むかし読んだ手塚治虫の「火の鳥」では、まさしく永遠の命がテーマであった。そこでもやはり永遠の命が必ずしも幸福をもたらすものではないと描かれている。僕は一度きりの人生こそが究極に価値あるものだと考え、人生一度きりだからこそ本気で生きようと思える。確かに一度きりの人生では、出来ることよりできないことの方が圧倒的に多い。しかしそれでいいのだ。全てをやる必要はない。逆に全てをやることに大きな価値はないと僕は思っている。全てをすることはできない、だからこそ人間は本質を見抜こうとするのである。すなわち、全てをやりたいと思っている人間は、人生の本質を理解していないと言える。

僕の人生はすでに半分を過ぎていると思われる。これからの人生にどれだけの長さがあるか全くわからない。残り一日なのか、それとも五十年あるのか。しかしそんなことはどうでもよい。残りの人生を本気で生きて為すべきことを為すために努力する。そのような姿勢は死ぬまで持ち続けるつもりだ。

リスクを取ってでも、正しいことを貫く。

日本と言う国は法治国家だ。法治国家であるからには、国民は法に従うことが求められる。それは法治国家にとって大原則だ。しかし法と言えども全てが正しいとは限らない。なぜなら法を守るべき者が人間なら、法を作るのも人間だからだ。人間が作るからには時には間違いや欠陥もある。むしろそういうものが存在するのは当然だと言える。ではそのような法の間違いや欠陥に対してどのように向き合うべきか?

日本では「悪法も法のうち」と言う言葉がよく使われる。おそらくそのような事を言う人は、例え法がおかしくても無批判に法に従うのだと思う。そしておそらくそのような人たちは学生時代、教師と校則に従順に従っていたことであろう。確かにそれも一つの生き方である。それはその人なりに生み出した生き抜き方なのかもしれない。

しかし、間違っている事には間違っていると立ち向かう人がいないと世の中は良くならない。もし法が間違っていたりおかしかったりすれば、それを指摘する人が必用だ。しかしそれが難しいのは、そのような行為を取ることが時には非常にリスクを伴うことだ。それは現在の香港の状況を見るとよくわかる。中国政府の悪政に立ち向かっている人たちが大きな弾圧を受けている。そこまでではなくとも、正しいことを主張することには大なり小なりリスクを伴う。

僕自身は、自分が正しいと思ったことを貫き通さないと気が済まないたちだ。しかし時には自分の方が間違っていることもある。そのような時はやはり自分の非を認めないといけない。人間は決して神ではないので、誰だって間違いはある。しかしそれに立ち向かえるかどうかはその人の人間性が大きく表れるところだと思う。自分の生き方が譲れないのなら、覚悟を持ってそれを実行することが一人の人間として非常に大切だと強く感じるものである。

最近、世界史にはまっている。

表題のとおり、僕は最近世界史にはまっている。数理物理の研究や勉強の合間などに、世界史の教科書や図解などを読んで世界の過去の動きを理解し深めている。歴史と言えば大きく日本史と世界史に分けられるが、日本史に関しては中学の歴史でも習い、僕の場合は大学受験も日本史で受けたので、日本の歴史に関しては親しみがあり、大まかな流れもだいたい理解しているつもりだ。しかし世界史に関しては全く手つかずの状態であり、それだけに非常に新鮮さを持って取り組むことができている。

そのように世界史に取り組む中で、色々と気になることも出てきている。その中で、世界史の一番の問題点は、カタカナ名があまりにも多いことだ。これは世界史を学んだ人から見ると当たり前に思うだろうが、これは非常に大きな問題だと僕は考えている。海外の人物や物、あるいは概念の名前は、当たり前であるが外国語で定義されている。百歩譲っても英語で記述されていると言える。それを読みだけを取って無理やり日本語(カタカナ)で書かれているものだから、非常に不自然で、また人や本によって表記が異なることが多い。そのような問題点を克服するためには、現地語で学ぶことが必用だ。なので大まかに世界史の流れを読んだ後は、英語(洋書?)で世界史を理解することが一つの目標だ。

しかし日本における世界史において、必ずしも欠点ばかりではない。日本における世界史は、世界的に見て非常に中立的に書かれていると言われている。海外における世界史は、その国の主観などが入り偏っていることが多いと言う。なので日本で中立公平な世界史を学ぶことは非常に利が大きいと言える。まずは日本語で世界史を学び、そしてそこから専門的な海外史を洋書で読むのが非常に良いのかもしれない。

とは言え、現在の僕は世界史に関してはまだまだ初心者だ。そしてカタカナ語をなかなか覚えることができない。しかし歴史を学ぶことは、単に過去の事実を暗記することではないと何かの本に書いていた。歴史の本質は、過去の事実や動きを分析して復元することだ。そのような意識を持って歴史の勉強に取り組むことにより、暗記科目では得られない深い理解が得られるはずだ。

社会がますます表面的になって来ている。

普段生きていて色々と感じることがあるとは思うが、僕は社会が表面的になって来ているのではないかと強く感じている。確かに社会は悪い側面を無くし、皆が暮らしやすい社会に向かおうとしていることは間違いない。しかしそれに向かっている事と、本当にそうなっているかと言うことは全くの別問題だ。何かを良くすれば別の何かが悪くなってくる。まさしくもぐら叩きである。僕は日本に住んでいるので日本の事が気になってしかたないが、おそらく海外でも中身は違え大筋では同じであろうと思われる。

その中でも僕が特に感じているのは、同調圧力から表面的になることである。特に日本では、皆と同じことをしなければならないと言う意識が強く、一人だけ違うことをしていると奇異な目で見られることが多い。よく言われるように、出る杭は打たれると言うことである。これを解決する方法は一つしかない。それは出過ぎた杭になることである。四六時中野球ばかりしている少年がプロ野球選手を目指していると言うと、「そんなのは無理に決まっている。バカじゃないか!」と言われる。しかしメジャーリーグで活躍すれば、少年時代に野球に打ち込んでいたことが美化される。イチローさんが正しくそうであったらしい。研究者でも同じだ。ノーベル賞を取ると断言している少年がいたらどう思うだろうか?やはりそんなのは無理に決まっていると多くの人は言うであろう。それを覆すには実際にノーベル賞を取るしかない。もちろん、研究者の一番の目的はノーベル賞を取ることではないのだが。

表面的になって来ていると言うことは、言い換えると無難になって来ていると言うことである、近年、日本の科学研究のレベルはどんどん低下していると言われている。その理由として科研費の削減などが言われているが、僕はそれが本質ではないと考えている。研究者が、特に若手の研究者がどんどん無難になって来ているからではないかと思っている。その背景には、研究ポストに就くことが困難になり、確実に研究ポストに就くためには小さく無難な結果を継続的に出すことが求められると言うことがある。しかしそれらの研究者は、本当にそれが自分の求める姿なのだろうか?もしそうなら本当に悲しい話である。

もちろん社会の表面化は、日常生活においても色々と表れている。いや、日常生活の方が顕著に表れているのかもしれない。人付き合いでは自分を表面的に繕って、良い側面だけを見せようとする。しかし苦しんでいる自分も本当の自分自身なのである。だから僕はブログでも正直に苦しい時は苦しいと書くことにしている。確かにインスタグラムやフェイスブックに苦しい様子を載せてイイねがもらえるわけないし、もしイイねされたら逆に落ち込むであろう。社会が表面的になるにつれ、人間までもが表面的になってしまう。そこが大問題である。それは言い換えると、本質を見抜ける人間が少なくなってくると言うことだ。たしかにもともと本質を見抜ける人間と言うものは少ない。それがさらに少なくなるのだ。ただ表面を変えること自体悪いことではないと僕は思っている。しかし重要な事は、表面と同時に本質的な中身も良い方向へ変えなければならないと言うことだ。

僕が筋トレとジョギングをする理由。

僕は数年前から、天気の日はほぼ毎日筋トレとジョギングを行っている。最近はスマホのアプリでも非常に便利なものがあり、ジョギングコースと距離を記録し、そして速度を計測してくれるものがある。僕はナイキのアプリを利用しているが、毎日記録が残ると非常に励みになるものだ。ジョギングの後は少しクールダウンして筋トレを行う。そしてその後、納豆と豆腐を食べてたんぱく質を補充する。そうすると意外と筋肉が付いてくるものだ。筋肉が付くと、筋トレもさらに楽しくなる。

とは言え、ジョギングも筋トレも決して楽な事ではない。楽をしたければ家で横になっていればよい。ではなぜ、僕は毎日このように面倒で楽ではないことに取り組めるのか?その理由は大きく三つある。

三つ目は体を引き締めるためだ。やはりプヨプヨしているよりも筋肉でビシッと引き締まっている方が見栄えも良い。僕はもともと痩せ型であったので、現在はちょっとした細マッチョだ。この体型はこれからもずっと維持していきたい。

二つ目は健康を維持するためだ。何事も健康でないと思いっきり取り組むことができないものだ。健康は大きな財産であり、大きな才能である。僕自身過去に調子を崩し、大好きな研究を思うように取り組めない時期があった。だからこそ今は何が何でも健康を維持していきたいと思っている。そして健康とは身体の健康だけでなく精神的な健康も含まれる。体を動かしていれば、体だけでなく精神的な調子も良くなるものだ。

そして一つ目、つまり一番重要な事と考えているのは、頭脳の調子である。学問の研究をするためには、言うまでもなく頭脳、つまり思考の調子を極限まで上げなければならない。研究に必要なのは体力と知力である。そしてジョギングと筋トレは、その両方を高めてくれる。なぜ体を動かすと頭がよく働くか僕にははっきりとわからない。もしかしたら医者は知っているのかもしれないが、最近は巷でも運動をすると頭がよく働くと言われている。そして実際、僕自身もジョギングをすると頭の働きが良くなるのである。もしかしたら、ジョギングや筋トレをすることを遠回りに感じる人もいるかもしれないが、急がば回れで実際はそちらの方が近道であり、より高く上り詰めることができるのかもしれない。

このように考えると、ジョギングや筋トレは一石二鳥どころか三鳥も四鳥もあるのかもしれない。これまで理由を三つ述べたが、やはり大きな目標があると言うことは非常に大きな原動力になっている。人生の目標を持っている人は非常に強いし、年齢に関係なく精神は非常に若いはずだ。そして筋トレによって体も若返らせることができる。このように何もかもが芋づる式に良い方向へ向かっていく。確かに現時点だけを見れば非常に厳しい状況である。しかしその先には光しか見えない。そのように明るい将来を見る力だけは誰にも負けないと思うし、実際にそれを成し遂げる自信も強く持っている。

目標があることの強み。

子供の頃は、多くの人がどんな大人になりたいかという目標があったのではないだろうか?しかし歳を取るにつれ妥協せざるを得なくなる。その理由は現実を知ってしまったから?それとも金銭的な事情?色々あるだろう。そして何より好きな事をやり続け究めることは、あらゆる意味で厳しい道である。もちろん一部の少数の人は順調に難なく進めるだろう。しかし多くの人にとって好きな事を究めることはあらゆる犠牲が伴うし、精神的にも金銭的にも非常に厳しい道となる。もちろん何の展望もなく、そして自信もなければ、単に才能がない人間で終わってしまう。しかし明確な展望があり、自信があるのなら、それに挑戦する価値は十分にある。

そして何より、目標があることはそれ自身が大きな強みになる。人間生きていれば、あらゆる困難が次々とやってくる。そしてそのたびにそのような困難を乗り越えなければならない。しかし人によってはそのような困難を乗り切れない人もいる。いや、そのような人は無数にいるだろう。しかしどれだけ困難が来ようと、次々と困難を乗り越える人もいる。ではそのような人は何が違うか?その大きな理由の一つが、目標があるかどうかと言うことであろう。大きな目標があれば、それを成し遂げるためにはどうすれば良いかと必死で考えるだろう。自然人生に対して前向きになる。前向きか後ろ向きかと言うことは、これからの人生を大きく分けることになる。前向きだと40歳を超えようと人生これからだと思えるし、後ろ向きだと20歳であろうがこれからの人生は惰性で生きて行くことになるだろう。

なぜこんなことを書いたか?それはまさしく僕の置かれた状況がかなり危機的であるからである。しかし危機的であるからと言って、それは絶望的であると言うことでは全くない。希望も自信も絶大に持っている。ただ現時点だけを見れば危機的であるに過ぎない。今を乗り越えれば、その先には大きな世界が待っている。現在の社会もそうではないだろうか?今世界がコロナで危機的状況に陥っている。しかしそれは将来に対する絶望では決してない。もちろん人によってはコロナによって将来が絶望的だと言う人も多いだろう。もちろんそれは生き方の違いだと言うふうには簡単に片付けられない。しかし追い詰められた時こそ火事場のクソ力と言うものが発揮される。少なくともぬるま湯に浸かったままでは現在の危機的状況を乗り越えられない。

それは僕だって同じだ。最近ぬるま湯に浸かり過ぎていた。一年二年かけて完成できればよいと言う甘い認識があった。確かにまともに考えれば五年十年、いやそれ以上かけてもできる保証はないことだ。しかし僕はこの現在の6月から8月までの2か月ちょっとで何とか形にしようと思い始めている。それこそ脳の火事場のクソ力だ。しかし今はそうすべき時ではないだろうか?それができないと、現在の社会状況に対してとやかく言う資格は僕にはない。

全てにおいて、結果を出すと言うことが大前提。

今、自分の事において夢とか理想、そして大きな希望はあるだろうか?僕は夢も理想も希望も、とてつもなく大きなものを抱いている。子供の頃であれば夢と言うものは見るものであると言う側面は大きいが、大人が見る夢は必ず成し遂げるものである。そうでないと、単なる夢見る乙女になってしまう。

では僕はそれらの夢に対してどこまで成し遂げられているだろうか?確かにまだ結果は出ていない。そういう意味では結果ベースで考えると0%と言えるかもしれない。しかし構想は確実に形成されており、成し遂げるための準備は粛々と進められている。そういう意味では進捗状況は数十%進んでいると言える。もちろん僕自身の意識においては、80%くらい成功すると言う自信はある。後はどう残りの20%を埋め合わせるかだ。

結果を出すためには努力は絶対に必要だが、しかし努力と言ってもただ単に問題に取り組むだけの努力だけではない。体調や頭脳を整える努力。特にいかにしてストレスを押さえるかは僕にとっては深刻な問題である。研究を実行するためには、もちろん体力も重要である。そのような体力を付けるために、ジョギングや筋トレなどによって体作りも怠ってはならない。

もし自己満足だけで十分なら、自分の世界に入り込んで気分に浸るだけで良い。しかしそれを世界に示すためには結果を出すことが全てだ。結果を出すか出さないかは百かゼロである。結果を出すためには時にはリスクにも飛び込んで行かなければならない。金銭的なリスク、そしてそれこそ人生が成り立つかどうかと言うようなリスクまでさまざまなリスクが存在する。僕は金融投資というリスクには全く興味がない。しかし人生に対するリスクは誰よりも取っていると自負している。日々山あり谷ありと波があるのでいつ成し遂げられるかと言うことはなかなか言い切れないが、近いうちに一発目の結果を出せるように全力で前進して行こうと常に取り組んでいる。

物理と化学を繋ぐ。

以前の僕は専門バカと言ってよく、専門の数学と物理以外はほとんど取り組むことはなかった。しかし最近はいろいろな分野にも手を伸ばしており、その中の一つとして化学にも取り組んでいる。しかし化学の醍醐味はある意味実験にあるともいえるが、もちろん僕には実験を行う技術も施設もない。なので化学と言っても理論分野に限られる。しかし理論だけでもかなり広がりがあり、やる価値は十分にある。

理論化学の中でも特にやりがいがあると思われるのは量子化学である。量子化学とは名のように量子力学を化学の理論に持ち込んだものである。すなわち物理学(量子論)と化学を融合し繋ぎ合わせる分野だと言える。このように他分野同士を結び付けると言うことは非常に重要な視点である。福井謙一博士は化学理論にいち早く量子力学を持ち込んだパイオニアで、その功績によってノーベル化学賞を受賞されている。

最近の科学理論は極度に細分化されていると言われている。同じ物理学の研究者同士でも、隣接分野の事になると全く理解していないと言うこともよくある。もちろん研究的教養のある研究者は、他分野の専門家以上の知見がある人も中にはいる。研究者にとっては科学の研究は仕事である。そう考えると自分のテリトリーの中で結果を出し、それによって自分のポジションが確保できれば良いと考えるのも無理はない。しかしそのような研究者は所詮その程度だと言うだけである。

僕はこれまでジェネラルサイエンティストと言う言葉を何度か言ってきた。つまり全ての科学分野に対してその分野のスペシャリスト以上の知見を有する科学者の事だ。もちろん、ジェネラルサイエンティストになれるのは、科学者のうちのさらに一部だと思う。しかしそれに挑戦することは非常にエキサイティングなことである。しかしそれを達成するまでは、あらゆる意味で苦しい状況にさらされる。しかし挑戦の先の極限を目指せば自然にそこへ辿り着くのであって、本当に科学に人生をささげて挑戦するのならば、そこを目指すしかない!

語学も究めようか!

僕はこれまで典型的な理系人間で、語学に関しては極度の苦手意識しかない。英語でさえ平均的な高校生よりレベルは確実に低いし、大学時代第二外国語として取っていたフランス語に限っては、出席だけ取って教室の後ろの扉から逃げ出す有り様だった。今でもなぜフランス語の単位が取れたのか不思議である。

英語が苦手だと言っても物理や数学の論文や専門書は英語で書かれているので、専門の英語だけは何とかなっている。科学論文と言うのは世界中のあらゆる人、つまり英語が母国語ではないインド人や中国人、そしてもちろん日本人の研究者も読むので、誰が読んでもはっきりと意図が伝わるように極度に簡単な英文法で書かれているので僕でも読めるのだ。ただし専門用語は覚えなければならないが、大学院生時代に洋書を読み込んだので用語はむしろばっちりである。

最近、あらゆる分野に対して興味が湧いている。数学と物理は専門なので言うまでもないが、生物学、化学、地学などのあらゆる科学分野をはじめ、日本史や世界史や経済学などにも最近は取り組んでいる。数理物理の研究がなかなか進まない時に、世界史などの教科書を読むとちょっとした気分転換にもなる。そして最後に残ったのが語学だ。

昔は英文を見るだけで蕁麻疹が出そうになるくらい苦手意識があり、そして言うまでもなく大嫌いであったが、最近あらゆる分野に取り組んでいくうちに何だか語学にも取り組みたい気分になってきたのだ。もちろん語学を専門にしている研究者のようにはなれないとは思うが、少なくとも苦手意識をなくし得意分野にしたいと思うようになった。昔の数学の論文の中には、フランス語やドイツ語で書かれた有名な重要論文があり、それらの論文を読むことができれば非常に面白くなるのではと思うのである。大数学者、岡潔博士の書かれた一連の重要論文は、なぜかフランス語で書かれていたりする。そして代数幾何学のバイブル、グロタンディークの書いたEGAはもちろんフランス語である。

人間と言うものは進化するものだと僕は思っている。いや、子供の頃より大人の自分の方が進化していないと恥ずかしい。しかし現実は惰性で生きている人間も多いように感じる。僕がこのように語学に取り組もうと考えるようになったことも一つの進化である。そしてその進化は専門の研究にも好影響を与えるに違いない。プロ野球選手ならば、肉体の衰えによって遅くとも40代で引退するのが普通である。しかし人間の脳は進化する。人によっては老化する人も多いではあろうが、40代になっても進化し続ける人間もいることを僕は示したいと思っている。そのうちの一つの取り組みとして、英語やフランス語などの語学を今からでも究めたいと考えている。

出来る気しかしない!

今は出来る気しかしない!正確に言うと、実感はないけど自信はあるのだ。出来る気しかしないのだが、それを成し遂げるためにはいくつか条件がある。それは心身共に好調を保って、そして何より努力をすることだ。このように一言で言うのは簡単だが、しかしそれを実行するのは結構むつかしい。

心身の調子は、食べ物飲み物などである程度コントロールできる。逆に言うと、そこを疎かにしては心身の調子を保てない。いくらお酒が好きだからと言って、毎日ビールを浴びるように飲んでいてはその先が見えている。僕自身もビールは大好きだが、普段は飲んでも缶ビール一本で抑えている。コーヒーもカフェインが入っているからか、意外と調子を左右される。そして睡眠にも影響が出て来る。近頃はコーヒーは健康に良いと盛んに宣伝されているが、やはりこれも適度にと言うことが重要であり、適度に嗜むのが肝である。

そのように心身の調子を整えたら、後は努力をするのみだ。しかし最近、日本では悲しむべき風潮が一部で漂っている。努力をしても必ず報われるとは限らないから、努力などしない方が良い。あるいは努力をするだけ無駄だと言う風潮だ。もちろん目標に向かっている多くの人はしっかりと努力をしている。とは言え、もちろん運と言うのも存在するが、そのような運をつかめるかどうかは日ごろの努力にかかっていると僕は考えている。なので努力をして損をするなどと言うことはないと僕は考えている。

元プロ野球選手の新庄剛志さんのことを多くの人は天才と呼ぶ。しかしそこには大きな誤解が含まれている。新庄さんと言えば見かけはチャラ男で、常に遊んでいると多くの人は思っている。そして練習もせずに遊んでばかりだが、試合になれば結果を出す恵まれた人だと思われている節がある。僕も昔、新庄選手を見ていてそのように感じていた時があった。しかし実際は全然違うのである。現役時代、他の選手がトレーニングをしている時はチャラチャラ遊んでいながら、選手が皆帰った後人一倍トレーニングをこなしていたと言う。人の前で努力する姿を見せるのが嫌いなのだそうだ。新庄選手は人一倍努力家なのである。

新庄選手を見ても分かるように、努力をしない天才などはいないのである。なぜなら努力できることが最大の才能であり、努力ができないと言うことは才能がないのと同じなのである。なので「才能はあるが努力をしない」と言う言葉は存在しない。ただ問題を難しくしているのは、成功者は皆努力をしているが、努力をしたからと言って必ず成功するわけではないと言うことだ。そのような不確実な将来に対してそれでも努力ができるか?その判断によって人間と言うものは二つに分かれるのだと僕は思っている。今僕は出来る気しかしないのだから、後は思う存分努力するだけだ!