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コーヒー問題。

コーヒー問題と言っても、社会問題でも何でもない。ただ単に個人的な問題であるが、コーヒーをどれくらい飲めば、自分の調子が一番良いかと言う問題である。僕自身コーヒーが大好きなので、これまで湯水のごとくコーヒーを飲んで来て、多い時は一日十杯くらい飲んでいたのではないかと思う。しかし、このコーヒーの量が自分のその日の調子を大きく左右しているのではないかと前から感じていた。飲む量を減らした方が調子が良くなるのではないかと思っていたが、ついつい何杯もコーヒーを飲む日々を送っていた。

しかし、調子を良くするためならどんな努力でもすると決めていたので、コーヒーの量も思い切って減らすことにした。本当なら完全に断つのが良いのかもしれないが、寝起きはどうしても無性にコーヒーが欲しくなるので、寝起きの二杯は飲むことにして、その後は寝るまで一切コーヒーを飲まないことにした。するとやはりすぐに調子が良くなってきた。コーヒーを飲んで頭が鈍る感覚も(これはもしかしたら普通の人と逆ではないかと思うが)ほとんどなくなった。一日が非常に爽快になった気分である。

健康を考えた時、コーヒーよりも問題があるのはお酒ではないかと思う。しかし以前(コロナで緊急事態宣言が出ていた頃)、一か月ほどお酒を断った時期があったが、その時はむしろ調子が乗らなくて物事があまり進まなかった。なので今は、お酒は適量(よりもう少し多いくらい)をちょくちょく飲むことにしている。もちろん飲み過ぎには気を付けないといけないが、健康を害しない程度なら飲み続けようと思う。

しかしコーヒーを我慢するのは本当に悲しい。しかしこれも目標を達成するためだ。背に腹は代えられない。本当なら寝起きのコーヒーも止めるべきかもしれないが、そこだけは緩めようと思う。とは言え、調子が良くなるのなら、もしかしたら寝起きのコーヒーも断つ日が来るかもしれない。

プロとはなんだろうか?

プロとは何か?その答えは一つだけではないだろうし、人によっても様々だと思う。一般的な答えとしては「それによってお金を得ている人」と言うことではないだろうか。確かにそれはある意味間違っていないとは思うが、それでは対象が広すぎる。例えばプロ野球選手と一般会社員をただお金をもらっていると言うだけで同列に扱うのはおかしい。ではプロと言うものをどう定義すべきか?

僕にとってプロとはなにかと考えた時、確かにそれによってお金を得ていると言うことは非常に重要だと思う。では一般会社員の例とは逆に、全くお金を得ていなければプロではないのかと言うと、それはまた違うと思う。お金を得ているか?得ていないか?と考えた時、それは現在までの過去において、あるいは現時点でお金を得ているか?と言う問いになる。すなわちその答えには未来がごっそり抜け落ちている。例えば今まで二十年間それによって稼げなかったけど、来年それが実って一億円獲得したとする。それはある意味これまでに一年平均500万円稼いだのと同じになる。そう考えると、お金と言う観点は大事だが、ただ現時点だけの稼ぎだけを見て判断するのは早計だと思う。

では他にどのような観点があるか?まず意志・思想的な観点がある。どのような意思や思想を持って取り組んでいるか?これは非常に重要である。例えばプロ野球選手を目指している、あるいはプロ野球選手になるような人の意志はおそらく一般的な人間よりはるかに強固である。そしてもちろん覚悟も強い。何しろプロになれなかったら全てが無駄になる可能性もあるからだ。一般会社員がそこまで覚悟を持って生きているか?もちろん全ての会社員がとは言わない。覚悟を持って仕事をしている会社員ももちろんいる。しかし多くの一般会社員の覚悟はプロ野球選手には大きくかなわないと思う。逆にそこまで覚悟を持って仕事をしている会社員は、ある意味プロだと言える。

そして言うまでもないが、プロはトップレベルのスキルを持っている。プロ野球選手の野球スキルは、全ての野球選手のトップ0.0・・%であろう。まさしく桁違いである。高校野球で活躍した田中将大投手は世界のトップレベルまで上り詰めたが、田中将大投手に投げ勝って甲子園制覇を果たした斎藤佑樹投手はプロの世界では鳴かず飛ばずである。プロとはまさしくそう言うレベル、そう言う世界である。

科学者は科学のプロと言われている。果たしてそうであろうか?ポストを維持するために必ず出ることがわかるような(平均的な?)結果をコンスタントに出し続ける学者もいる。いや、そのような学者の方が多数派である。もちろんそれもプロとしての一つの形かもしれない。しかし僕の目指しているプロ科学者像はそんなものではない。もしかしたら僕のプロ観と言うものが一般のそれとは大きく違っているのかもしれない。僕のプロ観は一般のそれとはレベルも形も違う。僕はそのようなプロ観に基づいて登り続けて行こうと強く思っている。

記憶力の悪さが武器だ!

僕ははっきり言って記憶力が悪い。しかし記憶力が悪い事はそんなに悪いことではないと思っている。とは言え、確かに記憶力が良い方が圧倒的に便利な事が多いし、おそらく物事も早く進むだろう。しかしだからと言って、今さら記憶力が良くなりたいとは全く思ってはいない。

「記憶力が悪いから出来ない」とか言う人は非常に多い。それはある意味合っている部分もあるだろうが、僕は決してそうは思わない。なぜなら記憶力が悪ければ他の部分で補えばよいと考えているからである。記憶力が悪ければ、思考力や構想力で勝負すればいい。僕は初めから記憶力なんかで勝負しようとは全く思っていない。しかし記憶力が悪い分、徹底的に思考しなければならない。そう、記憶力が悪いからこそ、徹底的に思考することができるのである。

僕も子供のころから記憶力が悪かったわけではない。大学に入ったころまではかなり記憶力が良かったのである。しかしその頃調子を崩して記憶力がかなり悪くなった。しかし思考力に関しては、ある意味今の方が質の良い思考ができていると考えている。宇宙(自然科学)の本質が非常に良く見えるようになった。物理学とは宇宙の本質をどこまで追求できるかと言うことである。そしてそれに欠かせないのが、数学的宇宙との結びつきである。今は宇宙(物理)と数的世界(数学)との結びつきが非常に明確に見えている。

日常生活を主眼に考えると、記憶力は非常に大きな力を発揮するかもしれない。しかし科学を追究するためには記憶力はあると便利だが主ではない。あくまでも思考力・構想力が主なのである。僕にとってそれらの重みの比は1:99だと言っていい。記憶力に物を言わせた研究などは、科学においては(分野にもよるであろうが)無力である。生物学においても、記憶力が物を言う時代は過去のものとなっている。もし科学を究めたいなら、記憶力などはあると便利だと言うくらいの認識に留めた方が良い。必要なのは徹底的なる思考なのである。

なぜ朝型が善で、夜型が悪なのか?

世の中は夜型人間に対して風当たりが厳しい。世間では早寝早起きが推奨され、夜更かしと言う言葉はしばしば悪い意味で使われる。僕自身はと言うと、完全な夜型である。そしてさらにロングスリーパーだと言ったら、まさしく世間の標準からはみ出ていると言える。実際このような僕にとって、普通に生活をすること自体かなりしんどい思いをする。

ではなぜ朝型が善とされ、夜型が悪とされるのか?それは歴史に負うところが大きいと言える。昔、電灯などがなかったころ、夜は暗闇であり、農作業などの仕事をするのが困難であった。なので様々な活動は日が昇ると同時に始まり、日が沈むと同時に終えることとなった。このような時代だと実質的に朝型でないと何もすることができない。しかし現代は、夜になっても至る所で明かりが灯っており、街に行けばネオンがこれでもかと言うくらい街を照らしている。このような時代において、夜に仕事や活動をすることは何の困難もない。なので夜型人間は夜に学業なり仕事なりを思いっきり打ち込めば良いと思う。

しかし現実は、学校は朝の8時頃に始まり、多くの企業も基本は9時5時と言うところが多い。僕は数理物理の研究を行っている。理論系の研究なら夜も朝も関係ない。なので自分の好きな時に好きな事ができると言えるが、それでも朝型を強制する周りの圧力には非常にストレスを感じてしまう。本音を言うと、日が沈むと同時に活動をはじめ、日が昇ると同時に寝たいくらいだ。まるでドラキュラであるが。

このように夜型人間を朝型に強制することによって、日本は、いや世界は人的資源を失ってはいまいか?夜型人間は夜に最大限の効率を持って仕事をさせれば、社会もさらに利益を得るのだと思うのだが。夜型が悪だと言う扱いをしばしば受けるが、何も夜型人間の心に悪が潜んでいるわけではない。夜型人間にとっては、ただ単に生きるだけでも非常に疲れる世の中である。

模様替え。

今日新しい本棚を買ったので、本棚を設置して本を収納すると同時に部屋の模様替えをした。やはり綺麗になった部屋は気持ちがいいものだ。少し前に「整理整頓はしなくていい」と言うブログ記事を書いたばかりだが、そうは言っても僕も整理する時は整理する。ただ無理に強制的に整理整頓をさせるべきではないと言うことである。

本が仕事道具の僕にとって、本棚は必須アイテムだ。イメージ的には書斎で暮らしていると言う感じだろうか。今回楽天で本棚を買ったのだが、結構リーズナブルな値段でしっかりとしたお洒落で良い本棚を買うことができた。机のすぐ右手に本棚を設置したのだが、重要な本は手を伸ばせばすぐに取り出せる位置に、そして少し離れるにしたがって重要度が下がっていくように配置している。本の配置一つで結構効率が変わって来るものだ。

ただ地震が起きた時、本棚が倒れるのが心配だ。そのために本棚が倒れないように壁に固定しなければならない。地震国に住む我々には必ず考えなければならないことだ。僕自身も阪神大震災を経験しているので、大地震の怖さは少しは分かっているつもりだ。しかしもう二十五年経っているので地震の記憶もかなり薄れている。しかし日本に住んでいる以上、いつ大地震に遭うかはわからない。明日地震が来るかもしれないと言う覚悟を持ち、備えなければならない。

部屋を模様替えして気分一新となり、これが研究にも良い影響をあたえることを願っている。もう時間がない。明日結果を出さなければ明後日の命がないと言う境地だ。明後日以降も生きれるように、少し気分を変えて本や論文と格闘しよう。

トップを目指す者に、学歴の衣は似合わない。

40代になれば、人生も後半に入りかけたと言えるだろう。その後半の人生をどう生きるか?多くの人は若さに価値を見出し、若い頃に戻りたいと言う人も少なくない。しかし僕は、人生後半こそ本当の勝負だと思い、これからの人生に全力をささげようと思っている。

日本は学歴社会だと言われている。もちろん日本よりも極度の学歴社会に陥っている国も存在するし、学歴に物を言わせたい人は勝手にやればよいと思っている。しかし確実に言えることは、学歴が物を言う世界は低レベルな世界であり、学歴に物を言わす人間は低レベルな人間であると言うことだ。学歴に物を言わすのは就職活動くらいで終わらせなければならない。40歳も過ぎて学歴にこだわる奴は最高にカッコ悪い。

日本、いや、世界トップの医学者は誰か?間違いなく山中伸弥教授だ。その山中教授が学歴にこだわっていれば、確実に医学研究の世界に残れなかったどころか、医学研究の世界に足を踏み入れることもできなかったであろう。ノーベル化学賞を受賞した田中耕一氏は大学院さえ行っていない。もちろん、高学歴のノーベル賞受賞者は沢山いる。しかし学歴にこだわるノーベル賞科学者を僕は見たことがない。僕はトップを目指す者に学歴の衣は最高に似合わないと思っている。100%、いや200%実力勝負なのである。

学歴にこだわると言うことは、その人が既にトップからずれ落ちているか、あるいはその社会が低レベルであると言える。もしトップを目指そうと思えば、まずは学歴の衣を捨て去ることから始めなければならない。学歴と言うものは、ある意味結果論であって、手段ではないと僕は肝に銘じている。

専門外の事に走るのは、逃げなのか?教養なのか?

最近何かと専門外の分野に走ることが多い。生物学(特に理論進化遺伝学)、化学、コンピューター科学、経済学、日本史・世界史など、興味の向く分野はかなり広い。もちろん僕の専門は数理物理(数学と物理)なのだが、中途半端に調子がいい時とかは何かと専門外の事に目が向いてしまう。学生なら専門外の勉強をすることは教養だと言い訳できるが、僕の場合どうも逃げに思えてしまう。専門外の分野に取り組むことは、世間一般で言うと「趣味」に当たるかもしれないが、もし僕の行っていることが趣味ならば、それは99%逃げである。

では、趣味(逃げ)で終わらせないためにはどうすればいいか?それはその分野も研究レベルまで究めて一本の論文でも書くことだろう。なので理論進化遺伝学も経済学も、少なくとも一本は論文を書くことを目標にしている。もしそれができれば僕のやっていることが正当化できるだろう。

僕は何が何でも教養で終わらしたくないのである。教養で終わらすのは甘いと思えて仕方がないのだ。ただ現時点の状況で言うと、まだまだその域には達していない。しかしそこまで達する自信はかなりある。根拠のない自信か?それとも本当にそれだけの力があるのか?それは結果を出せるかどうかにかかっている。もちろん、数理物理で自分が納得できる結果を出すことが大前提であるが。

その到達点は、僕が以前から言っている「ジェネラルサイエンティスト」である。すなわち、全ての科学的分野でプロレベルに到達すること。野球で言うと、大谷翔平の二刀流か?そんなことを言う僕に対して、バカにしたい者はバカにすればよい。自分はその道を突き進むだけである。

お金の使い方考察。

皆様はお金をどのようにお使いでしょうか?もちろん、お金をたくさん持っている人と持っていない人ではお金の使い方は全然違うだろうし、またお金を持っている者同士、あるいはお金がないもの同士でも使い方は人それぞれ変わってくる。しかしお金の使い方には、その人の思想や価値感が非常に表れると僕は考えている。そこで僕自身の事を含め、お金の使い方について少し考えようと思う。

お金を使う時、その目的は短期的目的、そして中長期的目的に分かれる。短期的目的の代表例は食事代や遊行費である。とは言え、食事に関しては健康や体造りなども考慮すると中長期的目的だと考えられ、遊行費も人脈作りなどまで視野を入れると立派な中長期的目的だと言える。しかしコンビニで買うメロンパンは明らかに短期的目的である。

中長期的目的も様々あるのでいちいち述べないが、その中で僕が一番大切にしているのが文献費(書籍代や論文入手代)である。書籍代は自分の人間の基盤を作るうえで一番基礎となるものであると考えており、僕にとっては水を飲み空気を吸うのと同じようなものだと捉えている。書籍にどれだけの価値を見出すかは人それぞれであろうが、僕はそれに最大限の価値を見出している。僕のホンゲル係数(収入のうち、書籍代の攻める割合)は超トップレベルであろう。また服飾費なども結構重要視している。とは言っても無駄に服にお金を次ぎこむわけではないが、服や靴は対面する人に対して与える印象は絶大であり(もちろんそれだけではなく、人間性はさらに大事である)、それによって人間関係が変わっていくと言えるだろう。

服の話で言うと。僕は普段着は結構ユニクロを愛用している。ユニクロは値段はそれなりに安く、質はそれなりに良く、コストパフォーマンスは絶大だ。しかし普段着だけが服ではない。男ならスーツも重要である。ここぞという時にはスーツで決めることも重要である。ただ、意外とスーツをしっかりと着こなせている男は少ない。それは電車に乗っていれば分かるであろう。オーバーサイズのだらしない着こなししかできていない男がなんと多い事か!スーツはジャストサイズが肝であり、高い金額を次ぎ込まなくてもジャストサイズでしっかりと着こなせば印象はかなり上がるものだと思っている。

お金を使わない人の事をケチだと言う人がいる。ケチと言えば聞こえが悪いが、お金を使わないこと自体は悪いことではないどころか、節約家であり良い事でもある。しかしそこでも思想や価値観が重要になってくる。しっかりとした目的があり、目標に向かって節約しているのならそれは非常に素晴らしいものだ。そのために普段着がボロボロでもそんなに悪い事ではないかもしれない。しかしただ単に自分の懐だけを考えて、自己中心的にお金に汚い人は非常に問題だ。そのような人はお金があるかないかと言う以前に心が貧乏だと言える。

結局何が重要か?それは今日お金を使うことによって、明日それが倍の効果になって帰ってくることがある。そのようなお金の使い方が重要だと思う。逆に今日ケチったがために、明日にその倍のダメージを食らうことがある。日本人はお金のことを話すことを汚いと思っている人が多いが、お金の使い方を通じてどのような思想、どのような価値観を形成するかと言うことは非常に大切な事である。

整理整頓はしなくていい。

子供のころから「整理整頓をしなさい」とはよく言われたものだ。時には親から、時には学校の教師から。整理整頓はどこの国、いつの時代でも美徳だとされている。しかし僕には、そこまでして整理整頓を美徳にする必要はあるのかと常に疑問に思っている。ではなぜ整理整頓は美徳だとされているのか?いくつか理由はあるだろうが、一つは整理することによってどこに何があるのかすぐにわかる事(このことは後に触れる)。そして最大の理由は、見た目がきれいでスマートに見えることだと思う。しかし僕には所詮その程度の利点しかないと思っている。それどころか人によっては、整理整頓にこだわることは欠点にもなると思っている。

先ほど述べた「どこに何があるのかすぐわかる」と言うことに関しては、一見整理していないように見える人でも実は物の在りかはすべて把握している(人にもよるであろうが)。それどころか、散らかっている中にも自分なりの秩序があり、意外と効率的に散らかっていると言うことも大いにあり得るものだ。それは僕自身の経験でもそうである。しかし社会では、整理整頓ができないと仕事ができない人だと判断されることが多い。なので一つ実例を出そう。

僕が大学院時代、一人の付き合いのある研究者(I教授)がいた。そのI教授の部屋は結構散らかっており、机の上は書類(論文)の山でいったいどこで研究をしているのかと思うほどであった。しかしそのI教授は当時フィールズ賞(数学のノーベル賞と言われ、40歳以下と言う年齢制限がある)の有力候補と言われ、世界的な数学者なのである。もしI教授に整理整頓を強制するのならば、それはI教授を否定するに等しいと僕は考えている。

僕が整理整頓にこだわる人を見ていると、もちろん人それぞれだが、整理整頓をすることによって自分の才能のなさを覆い隠そうとしているようにしか思えない人もかなりいるように思える。そして自分のスタイルで取り組んでいる人に整理整頓を強制することは、その人の足を引っ張ることにもなり得ると僕は強く感じている。

要は整理整頓自体が重要なのではなく、整理整頓ができる余裕がありその方が仕事がはかどるのならばどんどん整理整頓をすればよい。しかし人にはそれぞれ自分のスタイルというものがあり、人によっては散らかっている方が仕事がはかどる人も少なくない。さらに言えば、整理整頓に過度に神経と時間をつぎ込むことは無駄である。世の中にはI教授のような人もいることを多くの人に知ってもらいたいものである。I教授の事例は決して例外ではないはずだ。

90%の失敗。

9月20日の半沢直樹も非常に熱かった。次回が最終回のようだが、今から心がワクワクして止まらない。

ところで半沢はする事する事が全て(最終的には)成功している。もちろん途中経過として失敗することはあるが、最終的には全ての物事が成功しているのである。半沢の成功率は100%?もちろんこれはドラマだから出来ることなのではあるが、しかし多くの人はできるだけ成功率を上げたいのではと思っているのではないだろうか?

しかし僕は自分の成功率にはあまりこだわっていない。だからなのか、僕の物事の成功率は非常に低い。もちろん、僕だって成功しようと努力はしている。しかし数字は結果論であるので、あまりこだわらないようにしているのである。そして成功を糧にする人がいれば、失敗を糧にする人もいる。僕はもちろん後者。ただ僕は成功の数にこだわるのではなく、成功に質に非常にこだわっている。では成功の「質」とはいったい何なのだろうか?それは根幹的な部分に位置することである。枝葉は数多く散っても、幹は確実に守り成長させる。また幹を成長させて守るためには、多くの枝葉を切り落とさなけらばならないこともある。すなわち僕の数多くの失敗は、将来の幹の構成の布石だと考えている。失敗しないやつに幹を為すような成功は為せない。失敗しないでそれができるのは半沢直樹くらいである。

そして失敗を恐れない意志と言うものが非常に重要になる。そのような意思を持って行った失敗は前向きな失敗となるが、恐れて失敗してしてしまえばそれは後ろ向きの失敗にしかならない。僕の90%、いやそれ以上の失敗のほとんどは意志を持った前向きな失敗だ。だからこそ何も卑屈にならず、それどころか確信を持つ事ができるのである。後はそれらの失敗のなす根幹的な成功まで生きること、それが重要になってくる。そのためにもこれからも頑張って生きよう!