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世界一健康な人間を目指す!

何事も本気で取り組むのなら、世界一を目指すのは当然だと思う。しかし今僕が野球に取り組んだところで、大谷翔平の足元にも及ばないことは十分に認識している。しかし誰にも負けない自信がある分野も当然ある。それらの事にはこれまでブログにも触れてきたが、新たに「世界一健康な人間になる」ことを目指そうと思う。もちろん、健康はいつ突然失われるかわからない。明日突然死ぬ可能性も決してゼロではない。しかし究極の健康を目指すことは僕にもできるのではないかと考えたのだ。

もちろん、どのような状態が健康であるかは人によって意見が変わるところだし、また主観的な部分も多く含まれる。なので僕が「自分は世界一健康である」と言い張っても、「いや、そうではないだろう」と言う人が出てきて当然だ。なので健康に関しては、「自分で自分が世界で一番健康だ」と思えるレベルに持っていきたいと思っている。

では、僕が考えている健康とはどのようなものか?それはもちろん心身共に健康であることだが、まずは治療薬とは限りなく縁のない生活を送りたい。そして頭脳が聡明な状態を常に持続させることが求められる。肉体・精神・頭脳の三体が相乗効果によって高いレベルへと持ち上げられていくことを目指したいと考えている。ではそのためにはどうすれば良いか?もちろん健康的な食べ物を食すとか筋トレなどの運動を欠かさないと言う事は大事だが、僕が最も重要だと考えているのは、「質の良い睡眠を適度に取る」ことだ。そして過度なストレスを出来るだけ感じないようにすることも重要だが、ストレスに関しては睡眠と連動するところが大きい。そして昨今はコロナ禍によって行動が制限され、よりストレスの感じやすい環境になっている。

僕は今、この睡眠改革に取り組んでいる。と言っても大げさな話ではなく、出来るだけ良質な睡眠を取ることに挑戦しているだけだ。しかし多くの人が当たり前にできるような普通レベルの睡眠を取ることが僕には至難の業だ。以前は過眠であったり、そして今は不眠であったりする。しかしこれは僕にとっては乗り越えられる問題だと思っている。そしてこの睡眠問題一つを解決するだけで、健康も学問研究も全てが圧倒的に良い状態になると僕は考えている。なので今はこの睡眠問題を解決することに全力を挙げている。そして世界一健康な人間になることによって、あらゆることが圧倒的に向上することであろう。

評論家とは究極的に無責任な存在だ!

今メジャーリーグで大谷翔平選手が爆発している。打者としての爆発が目立っているが、投手としても半端なくレベルの高いプレーをしており、ただ単にリリーフ陣の崩壊によって勝ち星がなかなか付かないだけのように見える。現在どの評論家も大谷選手の事を手放しで褒めたたえているが、二刀流の挑戦を始めた時の評論家の発言はどれも酷いものばかりであった。代表的なもので言うと、「そんなに甘くない」「どっち付かずになってしまう」と言ったものであろう。そしてそのような発言を今見返した時、あらゆる意味であきれ返ってしまう。それは大谷選手の活躍を見通せなかったからではなく、そのような発言を見た時、どれもド素人でも言えるような発言しかしていないことに驚きあきれ返ってしまうのである。もし元プロ野球選手の評論家なら、あらゆる側面からの分析によって評論してもらいたいものであり、そのような分析でも予見できなかったとなれば我々も納得し、大谷選手の凄さをさらに実感できるのである。そう考えれば、上の二つの発言のような評論は、超ド素人レベルの超無責任発言にしか思えない。

もちろん、これまで誰もやってこなかったようなことに挑戦・開拓する人に対しては、無責任な批判はつきものである。そしてもし失敗すれば「それ見たことか」と皆が笑う。なので新しいことに挑戦・開拓する時は、困難は取り組む対象だけでなく、世間の白い目とも戦わなければならない。世の中と言うものはしばしば不条理だと言われるが、しかし不条理が世の常だからと言って平気で無責任な発言をする人に対しては僕は怒りを隠せない。僕も今、数理物理(数学・物理)の研究で、誰もが成し遂げなかった(誰も取り組んでこなかった?)ことに挑戦している。そして結果を出せる自信は大いにある。しかし周りの目はかなり冷ややかだ。確かに今までの過程を見ると、そう思われるのは仕方ないのかもしれない。しかしこれまでの過程、これまでの人生に関しては人それぞれ特有の事情があり、これまで上手くいかなかったことに関してもその人の事情があるのである。しかし今までできなかったからと言って、それはこれからもできないと言う理由にはならない。もちろんこれまでずっと成功できなかった人のほとんどは、これからもできる見込みはないと思うのが常識なのかもしれない。しかしその人の常識を他人にまで押し付けるのはやめてほしい。さらに言えば、挑戦もしない人が人の挑戦に対して否定するのは明らかにおかしいしバカバカしい。それこそ無責任の極致である。

だいたい百年に一人の人間になろうとする人は世の中にはほとんどいない。しかし百年に一人の人間になろうと努力している人に対して外野から非難するのは究極的に卑怯でもある。大谷翔平選手は百年に一人の選手になろうと挑戦しているのである。並みの元プロ野球選手にはそのような事を全く理解できないのかもしれないが、超一流メジャーリーガーのイチロー氏は大谷選手がメジャーに挑戦する時「大谷は打者ではホームラン王を取れる可能性があるし、投手としてはサイヤング賞を取れる可能性がある」と二刀流を後押ししていた。やはり超一流の選手の事は、超一流の選手にしか理解できないのかもしれない。

結果を出すまではバカと言われ続けられるのかもしれない。ならば結果を出せばいいのだ。結果を出してしまえば誰も文句は言わない。僕も今、大きな挑戦をしている。そして結果を出すまではバカと言われ続けることを覚悟している。しかし結果を出すことは僕にとってゴールではない。それは僕の人生、そして研究者としてのスタートであると考えている。結果を出して満足するのではなく、結果を次のさらに大きな結果へと繋げなければならない。そして僕は死ぬまで挑戦し続ける覚悟である。

本!本!本!

最近、かなり調子が乗ってきた。僕が調子が良い時は、一つの顕著な傾向が現れる。それは本を買いまくると言う事だ。とは言っても、数十冊も買う訳ではない。しかし数学書や物理学書などの専門書は一般の本に比べてかなり高額になる傾向がある。なので数冊買っても一万、二万円を超えることはよくあることだ。なので漫画で言うと二十冊分くらいの額になるのではないだろうか。

最近調子が良いことをいい事に、先日も本を数冊買ってしまった。僕は普段はそんなに浪費する方ではないが、専門書になると途端に金銭感覚が狂ってくる。ではなぜそのような事になるのか?それは本を買うことは自己投資だと考えているからだ。一般の人でも自己投資だと言ってお金を出すことはよくあるだろう。そしてそれらの人はおそらく僕が本に投資をする額よりも高額の投資をしていることが多いと思う。そう考えると、僕が本に自己投資するお金は極端に高額ではないのではないかと僕は思っている。

そこで最近、本をどのように買っているかと言う事を少し書こうと思う。おそらく最近は、多くの人がAmazonで本を買っていることだと思う。僕自身もここ十年くらいはAmazonで買うことが非常に多い。特に専門洋書は一般の本屋では売っていないので、Amazonで買うしかルートがない。なので数学や物理の専門洋書はAmazon一択であるが、専門和書についてはAmazonかジュンク堂の店舗のどちらかで買うことが多い。特にジュンク堂などの店舗で買うメリットは、本の実物を手に取って確認できることだろう。そして最近本屋がどんどん潰れていると言われて久しいが、そのような本屋の実店舗を支援する意味合いでも、店舗で買えるものは店舗で買うことにしている。もちろんそのような本屋を応援する意味合いなら、街にある小さな個人書店などで買う方がいいのかもしれない。しかし個人書店では専門書まで置いているところはほとんどないのが現実である。

最近、楽天経済圏に参加し始めた。楽天銀行に口座を作り、楽天カードも作った。そしてスマホの二回線目としてiPhoneのesimに楽天モバイルの回線を入れた。そのような事をすると、楽天市場でのポイント額がかなり上がったのである。なので書籍もAmazonで買うより楽天ブックスで買う方がかなりポイントが付くのである。なので最近は専門和書を買う時はAmazonから楽天ブックスにシフトした。これからは楽天ブックスにはかなりお世話になりそうである。

余談だが、ジュンク堂を利用する時はジュンク堂のアプリである「honto with」が便利である。Amazonで品切れ(絶版)になっている本でもhonto withなら全国のジュンク堂書店の在庫を確認でき、近くの店舗に取り寄せることができる。僕は最近よくこの機能を利用している。

とにかく、本は思考的活動をする上では欠かせないものである。学問を研究しようと思えば、本や論文は必須である。とは言え、確かに僕のように本を買いまくる必要はないのかもしれない。しかし本を買いまくるのが僕の研究スタイルである。もちろん専門(数学・物理)以外の本も買いまくっている。とにかく本と言う存在は僕の心を非常にワクワクさせてくれるものである。

現状打破!

最近、いやそこそこ長い期間だったが、僕はかなりの不調であった。なんとなく勢いがない。鈍い。そのような状態が続く中、僕は何とかこの状態を脱出しなければならないと考えていた。これまで様々試行錯誤を行ってきたが、解決には至らない。そして次にどうしようかと考えた時、最後の残ったのが生活の一部を思い切って変更する事であった。長年、いや、かなりの長期間続けて来た習慣を思い切って変えることにした。これまで必要だと思っていた習慣を変えることはかなりの勇気と覚悟がいるものだ。もしかしたらそれが凶と出るかもしれない。しかしもし良くなる確率と悪くなる確率が半々なら、その良くなる半分に懸けてみるしかない。しかしそれが良い方向へと向くと、僕の調子はかなり上がると感じていた。なので僕はそのような習慣を思い切ってやめることにした。

すると結果はすぐに表れた。全てが明快に見える。これならこれから良い方向へと向かい、結果も近いうちに出せそうだ。今取り組んでいる数学(数理物理)の問題がある。その問題にはここ数年取り組んでいるが、調子も良くなったこともあり、解決への見通しがついてきた。よし、結果が出るまで頑張ろう!

僕は学生時代は数学と物理だけをやっていれば良いと思っていた。もちろん今でも生活の中心はこの二つである。ただこの二つの重心は変わってきた。昔は物理の方に重心があったが、最近はかなり数学寄りになって来ている。その理由は、科学の本質がよりはっきりと見えるようになってきたからだ。科学の本質を追求して行くと、最終的には数学にたどり着く。それが僕のたどり着いた結論だ。

そしてもう一つ変わったことは、昔は数学と物理だけしか眼中になかったのだが、今はあらゆる学問に興味が出てきたことだ。科学分野でも生物学、化学、そして医学、コンピューター科学。科学以外でも歴史学、経済学などあらゆる学問が面白い。もし新しい興味を発見したらどうするだろう?その対応は大きく二つに分かれる。一つはこれまでやっていたことを止め、新たな対象に取り組む。もう一つはこれまでやっていたことに加えて、新しい対象の取り組む。そして僕は後者を選択した。なので面白い対象が次々と加わって来るので、やることが膨大になってくる。社会の定石は狭い部分に特化してまず小さな結果を出すことであろう。しかし僕はそれに完全に反旗を翻している。全てで結果を出すことに邁進することにした。もちろん全てで結果を出すことには膨大な時間がかかるであろう。しかしそんなことはお構いなしだ。面白いと思ったら何でもやるのである。そしてそれらの事で結果を出す自信はある。とは言え、根幹は数学と物理にあることには変わりない。

人間が人間である所以は何か?それは自分の頭で考えることである。なので人間は自分で考えることを放棄したら終わりだ。今巷ではAIが話題になっている。僕はディープラーンニングなどのAIのメカニズムを理解することは重要だと思っている。しかし自分で考えることをAIに丸投げすることは絶対に違うと考えている。なので僕は自分の頭で考えることにとことんこだわる。しかし社会はどんどんAIに任せようと言う方向へ向かっている。その先にあるのは人類の没落、そして滅亡ではないか!AIの開発をするのが技術者の仕事なら、AIにとことん抵抗するのは科学者、そして知識人の使命ではなか!そのためにはAIとは何か?と言う事を知りつくさなければならない。AIを知らずして、AIに抵抗できない。なのでAIの事を理解していない人ほど、AIで全ての事が解決できると思い、AIに全てを丸投げしようとする。

これから科学者、そして知識人はどうあるべきか?ただ目の前の狭い問題だけを見るのではなく、幅広い視点て包括的に物事を捉えるべきではないだろうか。

考え方が老いている人が退かなければならない。

社会ではよく「若い人に道を譲るべきだ」と言われる。ではそこで言う「若い人」とは何を指して言っているのだろうか?ほとんどの場合、年齢の若い人と言う意味で言っているのだろうが、僕が思う若い人と言うのは単に年齢だけの事ではない。考え方が老いている人、つまり精神的に老いている人、そして惰性で生きている人は例え年齢が若くても若い人とは言えない。その反面、精神的に若くて常にエネルギーに満ち溢れている人はこれからもずっと活躍の場で輝き続けるべきだ。そして最近は「老害」と言う言葉も良く取り上げられる。これももちろん年齢が老いている人と言う意味で取り上げられているのだろうが、やはり年齢が若くても精神が老化していればそれは立派な老害である。

ではいつまでも精神的に若くあるためにはどうすれば良いのか?まずは「守りに入らない事」である。いつまでもリスクを背負いながら挑戦し続ける事、それが精神を若返らせる。惰性で生きるようになれば全ての事においてリタイヤすべきだと思っている。世の中は若い人が作り、若い人が変革させていく。もちろん「精神的に若い」と言う意味である。もちろん年齢が若ければこれからの可能性も大きいだろう。しかし逆は必ずしも言えない。歳を取っているから可能性がないとはならない。例え中年であろうと大きな可能性を持ち続けている人は少なからずいる。そしてそのような挑戦し続ける人が世の中を変えて行くのだと思う。

人間と言うものは見かけだけではわからない。しかし世の中では年齢だけで判断されることが多い。もちろん身体能力的なものは自分で気づかないうちに低下していることも多いので、車の運転免許などはある程度年齢で制限していくのが賢明であろう。それは最近の高齢者による交通事故が物語っている。しかし精神はいつまでも若返らせることができると僕は考えている。もちろん年齢が若い人の方が精神も若い可能性は高い。しかしそれが絶対だとは言えないのが人間と言うものだ。一部ではあるが精神的にバイタリティ溢れる老人もいる。単に年齢が若いだけの人は、バイタリティ溢れる中年や老人に道を譲るべきだ。

年齢を若返らせることは完全に不可能だ。しかし精神を若返らせることは常に可能であり、それはその人本人の生き方考え方にかかっている。確かに歳を取って惰性で生きるのも一つの生き方かもしれないが、そのような人は年齢にかかわらず即刻隠居でもしてもらいたい。世のなかは常に若い人達のものだ。年齢にかかわらず!

非難を受けながら開拓していく。

開拓者と言うものは往々にして非難を浴びるものだ。もちろん結果を出せば皆黙るのだが、結果を出すまでは精神的に非常に苦しい状況に置かれる。そのような非難を浴びた開拓者として思い浮かぶのが、メジャーリーグへの道を切り開いた野茂英雄であろう。野茂氏もアメリカに渡る際は、ほとんどの日本人から絶対に通用しないと非難を浴びた。しかしそのような声も数か月もすれば消えて行く。皆を黙らせたのは紛れもなく野茂氏本人の活躍である。野茂氏の場合もそうだが、周りの人と言うのはほとんどがかなりいい加減だ。野球で言うと、新庄氏の時もそうであった。開拓者と言うものはほぼ例外なく初めは叩かれる。そこを切り抜けるためには結果を出すしかないのだ。

プロ野球には1軍と2軍、そしてチームによっては3軍がある。しかし2軍と言えどもプロ契約をしているプロ野球選手である。そのようなプロ野球選手でさえ2軍から1軍への切符を掴めるのは一部である。増してやプロでない立場に置かれている人がプロの1軍で活躍するのは絶望的に困難だ。しかしそれは周りから見た目であって、選手本人は自分の実力を誰よりも認識している。なので自分の力に自信がある人は、周りの人が絶対に無理だと言っても挑戦して結果を残すことが往々にある。あるいは現在はケガで一時的に活躍できない状況なのか?一時的な不調なのか?それは自分が一番よくわかっている。逆に周りの人が絶対に大丈夫だと言っても、自分に実力がないことを認識している人は結果を残すことは無理であろう。

ではスポーツと学問は全く違うのか?僕はそうではないと思っている。学問において自分の実力をどう判断するのか?その一つに「ビジョンを明確に描けているか?」と言う事がある。ビジョンとは結果を出すまでの道のりである。なのでビジョンを明確に描けていれば、後はそれに従って進むだけだ。もちろんその途中では想定外の事に多く出くわすであろう。そう考えれば想定外の事に対する対応力と言うものは非常に重要なスキルであろう。では想定外の事を乗り越えるためにはどうすればいいのか?それは全てを前向きにとらえるしかない。失敗をポジティブに捉え、次のステージに進むための糧にするのだ。そう考えることができれば、人々が失敗だとネガティブに捉えることでも全てポジティブな現象に変換できる。

今の僕は超ポジティブだ。周りの人は皆「なぜそんなにポジティブなんだ」と言う。しかし学生時代からの一時期、大きな不調に見舞われたことがあった。はっきり言ってその時は何もできなかった。しかしその時もなぜか「自分はできる」と言う自信があった。今考えるとかなり勘違いだったように思えるが、その時にそう考えて乗り越えて来たからこそ今の自分がある。さあ、次はどんな困難が待ち受けているのか?そして周りの人はどれだけ否定し非難するであろうか?そう考えた時、これから僕が身に付けなければいけないのは心臓に毛を生やすことかもしれない。

メリットとデメリット。

現在、ワクチン接種をするかどうかの判断が問題になっている。ワクチンに限らず、どんな薬でもどんな医療でもリスクはつきものであり、少なくともゼロリスクと言うものはあり得ない。そこでそのようなリスクをどう評価するかが問題になってくる。するか?しないか?の判断を下すとき、人間なのでどうしても感情的な事やイメージなどが入り込んでくる。そのような事抜きで判断する事は実際非常に難しいことだ。しかしそのような判断をするときに最も大事なのは、メリットとデメリットを天秤にかけてどちらが大きいかと言う事を比較することだ。

何度も言うが、ゼロリスクと言うものはあり得ない。道端を歩いていても、車が突っ込んでくる可能性もゼロではない。しかしほとんどの人はそんな危険性など考えずに気軽に道を歩き回っている。それはなぜかと言うと、道を歩いて事故に遭う危険性と、家に籠って自由に歩き回れないデメリットを無意識に比較しているからだ。そしてほとんどの人は、家から一歩も出ないことによるデメリットの方が大きいと判断する。さらに言えば、家に車が突っ込んでくる可能性もゼロではないので、家にいることが必ずしも安全だとは限らない。

ワクチンのメリットデメリットを判断する時に最も重要になるのは、副反応(副作用)が起こるかどうかではなく、どれくらいの確率で副反応が発生するかだ。この確率が高ければワクチンの危険性が高いと言う事なので、接種しないと言う選択肢も十分にあり得る。しかし重篤な副反応が100万人に一人の確率で発生するとどうだろう。この100万に一人と言う確率はそのままではイメージしづらいが、満員の甲子園の収容観客人数が約5万人なので、甲子園を20個満員にしたときその中から一人発生すると言う事だ。2020年の交通死亡事故人数が2839人なので、去年交通事故で死亡する確率は、約42000人に一人ほどだ。そして2021年4月10日時点の情報では、コロナによる国内死亡者数は9364人。これを割合で表すと、国民約13000人に一人である。現在アストラゼネカ社のワクチンによって血栓ができると言う副作用が報告されているが、その割合は(イギリス国内の統計では)約2000万回接種して死亡者が19人。なので単純に計算して(一人二回接種することを考慮して)約50万人に一人である。なのでコロナに感染して死亡する危険性の方が圧倒的に高い。

そしてもう一つ大事な事は、副反応と思われるものが本当にワクチン接種と因果関係があるのかと言う事である。ワクチンを接種しなくてもその時期に死亡する人は当然存在する。そのような人が偶然ワクチン接種の時期と重なったと言う可能性は十分にありえる。もちろん100人くらいの集団ならそのような可能性はほぼ皆無と言っていいが、数千万人の集団接種となればそのような人が何十人と出て来る事はむしろ当然のことである。なのでワクチンとの因果関係ははっきりと追究しなければならない。そしてメディアには、単にワクチン後に死亡したと言う事例をセンセーショナルに伝えるのではなく、因果関係がどれくらいあるのかと言う事をはっきりとさせて正確な情報を伝える義務がある。もしメディアが視聴率だけを考えて因果関係がはっきりしない死亡例をセンセーショナルに伝え続けてしまえば、結局最後には国民の首を絞めることになる。

今国民一人一人が、メリットデメリットを正確に判断できるかと言う判断力が試されている。学校で習う勉強が実際には社会で全く役に立たないと言う声をよく聞くが、ワクチン接種の判断をする上では大アリなのである。生物学的な知識、社会的な知識、そして何より数学的(特に確率的)な思考力が大きくものを言ってくる。そのような知識を総動員して正確な判断が出来ないと、回り巡って自分の不利益として跳ね返ってくる。それはもしかしたら命にかかわることかもしれない。そのように考えると、基礎的教養としての学問がいかに大事かと言う事が思い知らされる。

教科書は最強!

「学校の教科書は退屈だ」と言う声をよく聞く。確かに見ようによっては何の変哲もない書き方に思える。しかしそのような偏っていない何の変哲もない書き方こそ教科書の最高の利点であり、まただからこそ教科書は最強なのだ。例えば数学書では、「定理→証明」の繰り返しが退屈でつまらないと言う声をよく聞く。しかしプロの数学者の間で良く参照される「ブルバキ」は、その「定理→証明」の極致であり、だからこそ数学者からの信頼を勝ち得ていると言える。確かに初学者にとってはそのような無味乾燥な書き方は取っ付き辛く、例えば「ファインマン物理学」のような親しみのある書き方の方が良いかもしれないが、しかし物事の本質を自分で掴むためには余計な事が書かれていない方が良く見えるものである。

こんなことを言う僕も、学生時代は教科書を少しバカにした見方をしていたものだ。小学校から高校へかけての教科書は余りにも初歩的であり、いきなり発展的な問題に取り組みたくもなる。しかしそのような教科書を二度三度と完璧にマスターすることは、今考えると決して無駄ではない。最近必要に迫られて(もちろん興味もあっての事だが)高校の生物の教科書を読んだりしているが、それが意外と良く書けているのである。いや、非常に良く書けている。その辺の発展的な生物学の書物を読むのも良いが、その前に高校生物の教科書を読むことは非常に重要であり、むしろ教科書を読み込む方が余程力になる。

大学における教科書は、先生(教授など)によって様々である。もちろん大学によっても難易度が変わってきたりする。しかしどの大学のどの教科書であっても、教科書をしっかりとマスターすることは非常に重要である。そして大学の教科書は、卒業した後でも何年何十年と利用することができる。人によっては卒業した後は教科書類をすべて捨てると言う人がいるようだが、大学の教科書類は死ぬまで持ち続けた方が良いと僕は思っている。高級時計のように子や孫の代まで教科書や専門書を受け継ぐのも良いと思う。

教科書をバカにする人は、物事の本質を理解していない。大学時代の教科書はその後も持ち続けるべきだ。高校の教科書も特に理科系(物理・化学・生物・地学)の教科書は、基本的教養として意味を持ち続ける。もちろん生物学などに関しては学問の進展も早く、20年もすれば教科書の内容もすっかりと変わってしまう。なので10年ごとに新しい教科書を入手して勉強し続けることが肝心である。教科書をバカにする人は、教科書に足元をすくわれる。教科書こそが基本的教養を身に付けるための最強の教材なのである。

ノーリスクはハイリスク!

意外と逆説的だが、リスクを取りに行くことによってリスクを下げられるし、逆にリスクを取らないことがリスクを増大させる。僕は常にそう考えて行動している。例えば僕がよく使う言葉に、「現状維持は没落の始まり」と言うものがある。意味はそのままだが、少なくとも現状維持を目指して発展することは99%ない。それどころか現状維持をしているつもりが、ズルズルと底辺へと引きずられて行く。お金に関するリスクを取ることも重要だが、それ以上に重要なのは人生においてリスクを取ること。そして自己投資を怠らないことが重要である。

自己投資と言うものには、もちろんお金もかかる。なのでお金の投資と人生の投資を明確に区別することはできないが、僕が人生における投資で最も重要視しているのは書物に対する投資だ。人によっては「本など読んでも無駄だ」と言う人もいるかもしれないが、僕が読んだ本の前書きに次の様な言葉が書いてあった。

「どんなに学習がつらいものでも、無知の方がずっと高くつくものである」

もちろん僕は好きで学問に取り組んでいるのだが、人によっては学問に対して拒否反応があるかもしれない。しかしもし学問が本当に無駄なものならば、そもそも学問など存在しないはずだ。そして書物も存在しないはずだ。しかし書店に行けば数多くの本が並べられているし、毎日のように新刊本が発売されている。そして大学の図書館に行けば、それこそ膨大な量の書物が並べられている。書物を読むことは進撃への足掛かりになるし、リスクの低減にもなる。

僕は最近YouTube配信を始めた。なぜ始めたかと言うとその理由はいろいろあるが、一つはリスクを取って進撃するためだ。もちろんそれが成功するかどうかはまだわからない。しかし現在のコロナ禍にあって、今までと同じことをやっていてはそれこそ現状維持をするつもりが没落してしまうことになってしまう。もちろんYouTube動画を作るには、気力も時間もかかる。本音を言うと、研究に全ての時間をかけたいと思っている。しかし今の僕には、「YouTubeを始める」と言う選択肢しかないようにも思える。幸いにも今はテクノロジーが発達し、iPhone一つで動画撮影も動画編集もできてしまう。そう考えれば大きな金銭的な初期投資はほとんどいらない。ならば今すぐ行動すべきだ。

僕の人生に現状維持はない。そして「保身」と言う言葉が最も嫌いだ。いつも自信をもって堂々と行動すればよいと思っている。だからこその失敗をしてしまうこともあるだろうが、失敗をするのは慣れている。そして失敗を成功につなげる方法も見えている。「失敗はリスクだ」と考えている人は多い。しかし失敗こそ成功へとつなげる最も大きな有益リスクではないだろうか?失敗の数は挑戦の数に比例する。なので胸を張って挑戦し続ければ良いのである。

手段と目的を混同してはいけない。

政治の世界を見ていると、いつの時代も賄賂の問題が取り沙汰されている。賄賂とはほぼ全てお金が絡んでいるが、後になって「お金を返したから問題ないだろ」と言う政治家が頻繁に表れる。これこそ手段を目的を完全に混同している典型的な例だ。ここで言うお金のやり取りは手段であって目的ではない。目的は「便宜を図ってもらう事」なのである。便宜を図ってもらう手段としてお金のやり取りが発生するのである。なのでお金を返還したからと言って、便宜を図ったと言う事実は消えない。なので政治家がお金を返還したとしても、何の責任回避にもならないのである。

話は変わるが、新型コロナが流行しだしてから既に一年以上経った。しかしまだ流行が収まる気配はないが、唯一の救いはワクチン接種が開始され、ワクチンによって集団免疫が獲得されれば国内の流行は収まるかもしれないと言う見通しが少しは出て来たことだ。しかし海外ではまだワクチン配布の目途も経たない国は多く、例え日本国内である程度流行を抑えられたとしても、世界的に流行を制圧するためにはまだまだ時間がかかりそうだ。そのようなコロナ流行の時世の中で、人々は極力コロナウイルスとの接触を避けようと試行錯誤している。中にはコロナウイルスに過剰に反応して、過剰な行動とをとってしまう人もいる。そういう僕も色々と過剰な反応をしてしまうことが多い。しかし問題の本質はコロナに感染しないようにすることであって、極度にコロナらしきものに汚れることを防ぐことではない。例えば、コロナウイルスとの接触を避けるのはコロナ感染を防ぐためであって、そのための手段でしかない。しかしこのような手段を暴走させ、過剰に反応する人も少なくない。

よく「目的のためには手段を選ばない」と言われることがある。確かにビジネスでは変なプライドにこだわって手段を選んでいてはお金を儲けることはできないし、手段を選ばないと言う事はあながち間違ってはいないだろう。しかし「人生においてどのように進んで行くか?」と問うた時、手段を選ばずに進んでも良いものなのか?人生と言うものは結果だけを見て評価されるものではない。歩んでいる道そのものも人生の重要な一部分なのである。なので歩んでいる道(つまり手段)と結果を総合してどのような人生にすべきかと言う事を考えなければならない。もちろんこのような僕の意見に反発する人も多いだろう。お金が全てだと言い、お金を得るためには手段を選ばないと言う人もかなりいる。しかしそのような人間ばかりではないことも事実である。命より大切なものはほとんどないが、お金より大切なものは沢山あるし、もしそのようなものはないと言う人がいればおそらく精神が貧弱な人だと僕は思っている。

ただ手段は一つだけではない。いくつかある道のうちからどの道を選ぶかとなった時、熟考を重ねて、しかしながら時には瞬時に判断しなければならない。そのような判断すべき時に、まともな判断ができるかと言う事は、これまで自分が歩んできた道が関係して来るものだ。自分の価値感と言うものは、これまで自分が歩んできた道に大きく左右される。なので手段(道)にこだわると言う事も非常に重要なのではないかと僕は強く感じている。