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僕がなぜAIに否定的なのか?

僕は基本的に新しい物大好き!新しい技術大好き!という人間である。しかしAIに関してはかなり否定的であり、かなり将来を悲観している。それはなぜか?そのことについて述べようと思う。

AIとそれ以外の技術には決定的かつ本質的な違いがある。それはAIの本質が「考える技術」であるということだ。僕は人間の本質が「考えること、思考すること」にあると考えている。なのでそれがAIに取って代えられるということは、人間のアイデンティティが奪い去られるということを意味する。なので考える行為を奪い去られると、人間は人間でなくなる。そのようなことを危惧しているのだ。もちろん全ての人間がそうなるのではなく、完全な二極化が起こるはずだ。徹底的に思考する人、そして考えるという行為を放棄する人に。

そしてさらにAIが発展して行けば、AIは自律的に物事を考え行動するようになるだろう。そうなるともう人間はお払い箱だ!「AIが人間が豊かに生活できるようにサポートしてくれるようになる」などというようなお花畑のようなことを言っている人が多くいるが、現実は非常に残酷だと思う。人間と家畜の牛の関係を考えてほしい。なぜ人間は牛を家畜化することができるのか?それは人間の知能が牛より圧倒的に優れているからだ。そして未来の人間とAIの関係は、人間がその牛の立場に置かれるということだ。

人間はAIを無条件に高性能化することによって、人間の本質を捨て去ろうとしている。そして人間は人間でなくなるであろう。さらにいえば、数十年後、いやもしかしたら10年後くらいには人類が絶滅している可能性もある。今AIをビジネスに利用すれば業務が効率化され利益も増えるともろ手をあげて歓喜している人が非常に多い。しかしそのようなことが言えるのは、現在がAIの発展が始まった初期段階だからである。先ほど言ったように、AIが自律的に行動するようになれば人間はAIに指示する必要もなくなる。その時人間はお払い箱になるのである。しかし一度開けたパンドラの箱は元には戻せない。ある意味、人類にとってAIは核兵器よりも遥かに危険な物であるということを認識しなければならない。

学生時代、全力で取り組まなくて後悔してること。

僕は今では色々なことに挑戦しようと意欲満々だが、学生時代はそうではなかった。数学と物理に関しては人生を賭けるつもりだったので常に全力で取り組んできたが、数学・物理への思いが強すぎてそれ以外のことには本気になれなかった。もちろん今なら全てのことに全力を尽くそうとは思うが、当時は数学・物理以外のことは適当に済ませばいいと思ったりしていた。

では全力で取り組んでおけばよかったこととは具体的には何か?一つは数物以外の学問、つまり生物学や哲学など、そしてもう一つは当時入っていた混声合唱団のサークル活動だ。特に合唱サークルを真面目に取り組まなかったことは非常に後悔している。僕らの同期は人数が少なかったので、真剣に全力で取り組んでいれば学生指揮者のチャンスもあったと思う。そして今考えるとすごくやりたかった。しかし当時はそんなことは全然思わなかった。そんな大変なことなどやりたくないと思っていたのである。はっきり言って不良団員である。

大学時代の僕は調子を崩したこともあって、人生をエンジョイし尽くすことができなかった。しかしそれはそれでいい。しかし全力で物事に取り組まなかったことは本当に後悔している。何しろ人生は一度しかない。なのでその一度の人生を全力で生きることはすごく大切なことである。しかし過去のことをとやかく言ってもしょうがない。今僕にできることは、これからの人生を全力で生きることである。全ての学問に対しても、そしてそれ以外のことに対しても全力で取り組みたいと思っている。そしてこれからの人生を全力で楽しみたいと思っている。

僕の人生は確実に後半戦に入っている。そして中年にもなると、いつ死んでもおかしくないと思っている。あと50年生きるかもしれないし、明日死ぬかもしれない。だからこそこれからの人生を全力で駆け抜け、全力でエンジョイしたい!そしてこの世からいなくなる直前には、僕の人生は後半戦の方が楽しくエキサイティングだったと言い切りたい!そのためにもとにかく挑戦!挑戦!そして挑戦!挑戦あるのみである。

本屋に行く目的。

僕は本屋が大好きだ!なので近所の本屋で何の目的もなくぶらついたりするし、ジュンク堂のような大型書店に行くとワクワクする。本屋に行くと言うことは何か本を買うのが目的か?と思われるかもしれないが、必ずしもそうではない、むしろ本屋でぶらつくこと自体が目的と言っていい。もちろん本屋でさまざまな本を目にして気に入った本を買うこともあるが、ぶらつきながら様々な本を手に取ることが何よりもの楽しみなのだ。

大型書店といえば大阪梅田の丸善ジュンク堂の梅田茶屋町店に行くことが多いが、大型書店の一番の強みは専門書が揃っていることだと思う。そこでは僕の専門の数学・物理書だけでなく、生物学・医学書から経済学書までかなり幅広くチェックしていく。和書ならほぼ何でも揃っているので、分野を絞ってしまうのは勿体無い。

とはいえ、最近はAmazonや楽天などのネット書店で本を購入することが非常に多い。その理由はネット書店のポイントにある。特に楽天のポイントは半端ない!消費税分くらいは余裕で取り戻せる。特に高額な本になればなるほど効果が発揮される。もちろんそのようなことをすることに、実在書店には申し訳ないと言う気持ちはある。しかし僕のように毎月かなりの額を本の購入に費やす者にとってはかなり影響が大きいのである。そう考えると、本に多額のお金を費やす人ほどネット書店に流れているのではないかと思う。なので従来のような書店形態では大型書店も含めとてもではないが存続は厳しいのではないかと思う。

最近2500円以上の入場料を取る書店が誕生したと言うニュースを見たが、その額はともかくそのような試みはすごくいいと思う。ただもちろんその入場料に見合うだけのサービス・イベントを行わなければならない。本屋を「本を買う場所」から「ぶらついて楽しむ場所」にしなければならないのである。特に僕のような本をネットで買う派の人にとっては、いかにぶらついて楽しいかが重要になる。なので本当に楽しく充実して過ごせる本屋なら、入場料2500円は高いとしても数百円くらいは出しても良いと思っている。さらにそこでコーヒーが飲めるとなったら最高である。

今、書店は試行錯誤の時代だと思う。これまでのような形態を続けているだけでは間違いなく潰れてしまう。なのでいかにして付加価値を付けるか?と言うことを試しているのだと思う。ある試みは成功するが、ある試みは失敗すると言うことを繰り返している。もちろん値付けも非常に難しい。どれだけ魅力的だと思ってても、先ほどの2500円などと言う値付けをされてしまえばどうしても高すぎると思ってしまう。個人的には500円くらいならたまには行こうかなと言う気分になる。そこで本を読みながらコーヒーが飲めるのなら、400円のコーヒー二杯くらいというのもありだと思う。とにかくもう本を売るだけの書店の時代は確実に終焉を迎えているのだと強く感じる。

考える行為そのものを目的とする。

何かに取り組む時、その目的は結果を出すことだろう。もちろん僕だって結果を出すために日々取り組んでいる。しかしそれと同時に、考える行為そのものを目的にしても良いのではないかとも思う。結果を出すことはもちろん価値があるが、僕は考える行為そのものにも価値があるように思えてならないのである。そして何より、考えるということが大好きなのである。

最近あらゆるところでAIが利用され始めている。ビジネスの世界はもちろん、今年のノーベル賞を見ても分かるように科学の世界でもAIが席巻され始めている。ビジネスなら目的はお金を稼ぐことだろう。もちろんやりがいなどもあるだろうが、最終的にはどれだけ稼いだかが問われる。なのでお金を稼ぐためには手段を選ばないというのが普通だと思う。なのでその手段としてAIを利用するというのは当然の流れであろう。

では科学や数学ではどうだろう。もちろんこのような世界でも結果を出すためには手段を選ばないという考えはある。しかし数学などでは、考える行為自体に大きな価値と喜びを感じる人も多いと思う。そして僕自身もそのような考えを強く持っている。数学などは「知のスポーツ」と呼ばれることもある。スポーツであるからには、人間が行う行為自体に価値が生じる。100m走でロボットがボルトに勝っても誰も価値を感じないし感動もしない。それと同様なことが数学にもある。考える行為自体が目的ならば、それをAIが取って代わるなどと言うことは究極的なナンセンスである。

このように考える行為そのものに価値を見出すと言うことが、これからのAI時代には重要になってくるのではないだろうか?AI将棋ソフトがどれだけ強くなろうとも、藤井聡太の将棋は究極的に素晴らしい!数学の研究に対してもそうだ。考える行為自体を目的とし価値を見出すことが、これからの時代にAIに振り回されない肝であるのではないだろうか?

心身の健康は一番の武器だ!

健康であるときは、自分が健康であることに特に何も感じないものだ。しかし一度大きく健康を崩してしまうと、健康であることのありがたみをひしひし感じる。そして健康であることが普通のことではなく特別なことだと考え直す。

もちろん何か健康を崩したからといって、何もかもができなくなるわけではないかもしれない。しかしものによっては健康であるからこそできることもある。そして何より物事に対するパフォーマンスが大きく変わってくる。そしてたとえ体の不調であっても、それが精神的な不調へと繋がることも少なくない。何より体の健康と心の健康は密接に繋がっていると僕は考えている。だからこそ体を鍛えることによって心も鍛えようと思っているのだ。

僕には大きな目標がある。そしてそれを成し遂げるためには心身のコンディションを高いレベルで維持することは不可欠だと考えている。なので天気の日はランニング&筋トレを行い、納豆と豆腐を食べてタンパク質を摂取している。しかしもう一つ重要な要素がある。それはストレスを軽減することだ。ストレスフルな状況だと、明晰な思考をするのは困難だ。しかし強いストレスを感じていても、簡単に環境を変えることはできない。もちろん変えられるのなら変えたいものだ。なのでストレスを低減するためにもストレス耐性を上げたい。そのために一番効果的だと感じているのが禁酒だ。僕はもともとお酒は好きな方だ。なので飲むときは毎日缶ビール二本くらい飲んでいた。しかし禁酒を二週間も続けると、ストレス耐性が上がってくるのを自分でも感じられる。なのでできる限り禁酒は実行していきたいが、たまに缶ビールを飲んでしまって少し後悔してしまう。

とにかく、何に対しても健康であることは必ずしも武器になると僕は考えているので、心身のコンディションを整えることを日々気にしている。そして必ず結果を出して人生を大きく前進させたいと考えている。なのでこれからは缶ビールを缶コーヒーに変えて、お酒を飲むのは成功した時の美酒だけにしたいと思っている。

スマホで大人を超える中高生。

昨日とあるニュースで、現在の中高生のほとんどはスマホを日常的に使いこなしているけど、パソコンを日常的に使っているのが30%ほどで、パソコンを使いこなせないと言う記事が載っていた。

しかし現在のスマホはかなりの事ができる。Microsoftのofficeくらいはスマホでも簡単に使いこなせるし、大規模システム開発をするのでもなければプログラミングもできる。動画編集も難なくこなせる。

もちろん完成度で言えばまだパソコンに分があるかもしれないが、これからAIが日常的に使われるようになると、それこそスマホでAIを利用して大規模システム開発だってできるようになるだろう。

「パソコンを使えないと何もできない」とは過去の大人たちの勝手な思い込みであって、そんな事を言ってるうちに若者はスマホで大人を超えるようなシステムを通勤の満員電車の中で作るだろう。

いや、満員電車は時代遅れか、、、

とにかく大人たちは学生がスマホしか使えないとネガティヴに捉えるが、スマホで何でもやってしまうとポジティブに捉えられないものか?

AI時代になって価値が爆上がりすること。

AI時代に価値が爆上がりする事。

1)不便さ

2)無駄

3)自分の頭で考える事

人々は不便さと無駄を求めて、自分の頭で考える事の莫大な価値に気づくであろう。

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先ほど僕がthreadsに書き込んだメモです。

AIとは世の中を超便利にし、超無駄をなくすものです。しかしそれが当たり前になると人間は違うものを求めたくなり、その結果AIの仕事とは真逆のことに価値が出るはずです。そもそも不便さによって人間は自ら動こうとするものだし、無駄とは言い換えれば人生の余裕でもあります。

そしてAIによって人間は考える必要がなくなると思われていますが、人間が人間たる所以は「考える」と言う行為にあります。AIが浸透するにつれ、人間はその事に気づくはずです。

僕自身、数学や理論物理、そして最近は理論生物学などの問題に取り組んでいますが、考えようによっては数年後にこれらの研究をAIがやるようになってもおかしくありません。しかしそのような世界が本当に楽しく面白い世界でしょうか?生成AIの急激な発展を見て、僕自身強い危機感を覚えました。将棋なら人間が戦うことに意義があるので、どれだけAIが発展しても藤井聡太さんの価値は下がることはありません。しかしAIが数学をするようになると、人間が出した結果か?AIが出した結果か?と言うことは関係ありません。ならばもう人間の数学者は用済みなのでしょうか?これまでのように社会的評価だけを考えていては、数学を研究する原動力は生まれません。ならば自分の頭で考えることがどれだけ価値があるか?そしてそれがどれだけ楽しいことなのか?そのような事を第一に考えて打ち込むしかありません。

AIを使いこなすだけの世の中って、人間がAIを使いこなしているように見えて、実は人間がAIの奴隷状態になっているのです。しかし人間は自分が奴隷になっていることさえ気づきません。奴隷になるのか?人間として生きるのか?それはその人の生き方・考え方にかかっています。

本を読むこと。

今月、このブログのレンタルサーバーおよび独自ドメインの、年一回の使用料の引き落としがあった。はっきり言って今の僕にとっては決して小さな額ではない。それなのに去年はほとんどブログを更新せずに放置状態だった。せっかくこのように発言の場を構築しているのに、それを使わないのは非常にもったいない話だ。なのでこらからはまた頻繁にこのブログを更新していきたいと思っている。

とは言え久しぶりに執筆してみると、毎日更新していた時のようにスラスラと文章が出ない。少し書く手がおぼつかないのだ。やはり何でも毎日続けることによってスキルを維持できるのだとひしひし実感してしまう。これまで積み重ねたものを維持するためにも、毎日行動を起こすことが重要である。

ところでタイトルにあるように僕が読んでいる本について書こうと思うのだが、特定の本に関することではない。僕が読んでいる本に関する全般的な話だ。初めに言っておくと、最近は専門書および科学書しか買っていない。そしてそれらの本の購入に(僕にとっては)多額のお金を注ぎ込んでいる。僕の専門はもともと数学・物理(数理物理)だが、最近はあらゆる科学が面白くて、理論生物学や化学、そしてコンピューター関連の専門書なども読んでいる。そして本だけでなく、論文もできるだけチェックして目を通すようにしている。

論文に関しては、数学・物理に関する最新の論文は「arXiv」と言うサイトに全て集まっているので、無料で論文が読み放題である。そしてここ数年になって、arXivの生物学版、医学版、化学版などもでき、それらの分野に関する最新の論文も読み放題である。このarXivに載っている論文はプレプリントと言われるもので、基本的に査読はされていない。つまり専門家のチェックが入っていない状態のものがまずは掲載される。そしてarXivに載せた後、論文雑誌に投稿するという流れである。

先ほど述べたように僕は専門書を買いまくっているのだが、別に全ての研究者が大量の本を買いまくっている訳ではない。本にほとんど頼らずに研究を実行している研究者もいる。そのような研究者は僕から見ると本当に尊敬に値する。ただ僕自身はとにかく本を買いまくって構想するスタイルをとっており、これからも本を買いまくっていくと思う。それが良いのか悪いのかはわからないが、それが僕のスタイルだ。

専門書や科学書は頻繁に買ってはいるが、小説などの類の本は本当に全く買わなくなった。学生時代は小説などもそれなりに読んで楽しんでいたが、最近は小説を読むのがお金も時間も無駄に感じてしまう。もちろん時間が無限にあるのなら小説なども読んでみたい気は少しある。しかし時間は有限である。そう考えた時、少しでもサイエンスに時間を割きたいと思ってしまう。

近年は出版不況と言われ、皆本を買わなくなったと言われている。情報はネットから無料でいくらでも手に入る。そして本を買う時も最近は電子書籍を購入することが多くなったのではないだろうか。僕自身も電子書籍を購入することがあるが、専門書は基本的に紙の本にこだわっている。確かに紙の本は持ち歩きに不便だ。電子書籍なら何万ページの本でもiPad一枚で済んでしまう。僕自身はどちらがいいと断言しようとは思わないが、専門書に関しては圧倒的に紙のほう効果があるように感じる。しかし論文はネットからダウンロードしてiPadで読むのが便利だ。そして小説などは電子書籍をスマホで読むのがいいだろう。

とにかく紙の本であろうと電子書籍であろうと、本を読むことは人間の知的活動においては不可欠だ。最近はAIを利用する機会も出てきているが、人間が人間である所以は「思考する」と言う行為にある。考えることを放棄してしまえば、それは人間であることを放棄しているのも同然だ。自分はどこまで思考し続けることができるのか?その究極的な限界を追及していくのも非常にエキサイティングな行為だと僕は強く思っている。

「自分の頭で考えること」と、「人の言うことを聞かないこと」

「人の言うことを聞くことは大事である。」多くの人はそう思っていることだと思う。そして多くの人にとってそれは間違いではない。しかし人の言うことを聞くのはいいとしても、全てを人の意見に丸投げして自分は一切考えないとなると本末転倒だ。もちろん、自分ではどうしても手に入れられない情報を他人から手に入れることは非常に重要だ。今のウクライナ戦争でプーチンが苦境に立たされているのは、周りをイエスマンで固め、正しい情報がプーチンに行き渡らないことが原因だとも言われている。

確かに人の意見を聞くことは重要だが、僕はあえて人の意見を聞かないことが多々ある。それは人の意見に左右されずに自分の頭で徹底的に考えて判断するためだ。僕は何よりも「自分の頭で考えること」を最重要視している。極論を言うと、人の言うことに素直に従って成功するよりも、例え失敗しても自分の頭で徹底的に考えて行動することの方が価値があると考えている。そして自分の頭で考えて動いた結果の失敗は、必ず後の成功に結びつく。それに対して、人の意見に従って成功しても、それは後に続かない。とは言え、僕だって自分の頭で考えて最終的に成功する自信があるから自分の頭に従っているのだが。

現在、生成AIが非常に話題になっている。正直言って、現時点でのAIはまだまだ人間に比べて不完全だ。確かに将棋のように単純であるが膨大な手があるようなゲームには大きな力を発揮するが、論理的に物事を構築することに関してはまだまだ人間には及ばない。しかし数年後どのようになっているかは断言できないが。しかし例えAIが発達したとしても、人間が自分の頭で考えることを放棄しては決してならない。人間を人間たらしめているのは「思考する」と言う行為にあるのだから。思考することをやめたとき、その時人間が人間でなくなる。

とは言え、僕はIT社会に逆行しろと言っているわけではない。テクノロジーの否定は人間に何ももたらさない。たとえ社会にとってネガティブなテクノロジーが現れても、それを凌ぐポジティブなテクノロジーで解決しなければならないのである。科学もテクノロジーも退化することは絶対にないのである。開けたパンドラの箱は戻らない。しかしテクノロジーがどれだけ発達しようが、僕は人間の知能と思考の限界に挑戦して行こうと強く心に決めている。

本を力に変える!

またまた本を注文してしまった。かなり高額な専門洋書をAmazonで予約注文したのだ。はっきり言って今回の本はかなり高額だったので、注文するかどうか数日考え込んでいた。しかしいつもの如く、買うかどうか迷ったときには結局買ってしまう。本当に懐が痛い!

しかし本は買って終わりではない。身につけて着飾るものでもない。読んで理解して、頭脳の血となり肉とするのが目的だ。血となり、知となる。そして知となった血は一生の宝となるのだ。それらの知は大きな力となる。野球で大谷翔平を超えることはできないが、知の世界で大谷級のホームランをかっ飛ばすことは可能かもしれない。そのためにはもちろん努力も必要だし、強い意志と覚悟も必要だ。

今回高額な本を注文した訳だが、普通に考えて僕のように本にこんなにもお金を注ぎ込む必要は全くない。しかし僕のスタイルは、本を買って集めて、それらの本の知を縦横無尽に駆使して結果を出そうと言うものだ。なので今では本を買いまくることに躊躇しない。必ず大きな結果となって表れることだろう。

しかしどうやら近年は出版不況だと言われ、本が昔ほど売れていないようだ。そりゃそうだ。平均的な情報ならスマホでいつでもどこでも手軽に読んで手に入る。もしかしたら今存在するすべての本に書かれている情報の総量よりも、ネット情報の総量の方が多いかもしれない。僕も電車の中では、スマホでニュースなどを読んだりして気軽にネット情報にアクセスする。しかしそれでも紙の本の優位は揺るがないと考えている。もちろん最近では電子書籍というものもある。僕も電子書籍を部分的に利用はしている。しかし何かが違うのだ。専門書は紙の本で読みたくなる。しかしこれも読む本の性質によるのだろう。小説なら電子書籍で全然構わないし、教科書を電子書籍で読むのも良いと思う。特に小学生がランドセルに教科書を何冊も入れて重そうにしているのをみると、iPadひとつに全ての教科書を入れることのメリットは絶大だ。しかも手軽にどこでも読める。しかし紙の本はこれからもなくならないだろう。いかに紙と電子書籍の「ハイブリッド使用法」を確立するかがこれからの課題になるのかもしれない。