科学・数理(サイエンス)」カテゴリーアーカイブ

ウイルスについて知りたい!

現在新型コロナウイルスが猛威を振るっているが、それに的確に対処するにはまずは敵の事を良く知らなければならない。敵の事を知らずにあれこれと考えても、敵を軽く見過ぎたり、あるいは過度に恐れすぎたりすることになる。なので今生きている人間にとって、新型コロナウイルスの事を熟知することは非常に重要である。

現在、新型コロナウイルスについての文献はかなり増えている。初歩的な文献から専門的な文献、さらには専門論文まで様々なものが出版されている。確かに専門論文を読めればいいが、しかし初歩的な文献であっても読まないよりかは余程マシだ。僕も最近、コロナウイルスに関する文献を読み始めている。正確に言うと、新型コロナ(COVID-19)に限ったことではなく、一般のウイルスに関する知識を重点的に取り入れている。ウイルス一般の知識は新型コロナにも応用できるし、また逆に新型コロナの知識をもしかしたら将来出現するかもしれない未知のウイルスに応用することも可能であろう。僕もウイルスの基礎知識を身に付けた後は、専門的な論文まで目を通そうと思っている。

現在の医学における重要なテーマは何か?今現在に限って言えばもちろん新型コロナであろうが、長い目で見ればガン、そしてHIV(エイズウイルス)であろう。がんに関しては人類が始まるずっと以前から存在する病であり、これまでもガンの制覇は近いと何度も言われながら、制覇には程遠い状況である。ガンは一見単純に思えるが、実はとてつもなく複雑かつ難解な対象なのである。

そしてもう一つ、HIVに関しては、これまでワクチン完成が近いと言われながらもこれまた制覇には程遠い状況である。コロナワクチンは実質一年程で実用化されたにも関わらず、HIVワクチンはかれこれ30年以上も未完成である。HIVの仕組みも非常に複雑であり、その研究は難解かつ挑戦的であろう。僕はHIVワクチンの完成はそう遠くはないのではと思っているが、もしかしたら永久に完成できない可能性もゼロではない。

現在の新型コロナは数年のスパンで見れば(人々が抗体を持つなどして)弱毒化して必ず制覇されるとは思うが、僕の考える医学の二大テーマ、ガン、HIVに対する挑戦はこれからもしばらくは続くだろう。しかし人間の英知はこれまで様々な困難を切り抜けて来た。その代表が天然痘ウイルスの撲滅と言う大事業であろう。そしてガンもHIVも天然痘のように撲滅される時がいつかは来るだろうと僕は考えている。しかしそれが数年後なのか、それともさらに遠い将来なのかはまだ分からない。それらの制覇に挑む医学者の英知に大いに期待している。

なぜ面白いのか?

何事も、面白いのには理由がある。と思い、僕がなぜ数学や物理が好きなのか?そして数学と物理はなぜ面白いのか?このようなことを考えてみたが、しかしなぜ面白いのかよくわからない。確かにとてつもなく面白いのだが、その理由を考えてもはっきりと思い浮かばない。もちろん面白い理由をいろいろ並べることは簡単にできる。しかし自分がどう感じ、そしてどのような理由で面白いのか?と言う事をしっかりと考えれば考えるほどわからなくなる。

しかしここ数年で一つの大きな変化があった。僕は小学生のころから理科と数学が大好きだった。しかし数学と物理(理科)のどちらが好きかと言われれば、間違いなく物理の方が好きだった。大学で数学科に進んだのも、物理は独学でやって、数学は大学で学ぼうと言う考えからだった(その計画は大幅に狂ったが)。しかしここ数年、僕の中で物理より数学の割合の方がより大きくなってきた。そして今は物理より数学の方が好きだと言う感情の方が強くなった。その理由はいくつかあるが、その中の一つは数学の全体像がはっきりと見えて来たからである。もちろん、数学と言うものは巨大な学問であり全てを把握できるほどちっぽけではないが、少なくとも代数・幾何・解析の本質はかなりつかめて来たと思う。以前は数学と言うものに対して捉えどころのない複雑さを感じていたが、今は数学が手中にあるような感覚がある。

今、いくつかの問題に取り組んでいる。本当は一つの問題に集中すべきなのかもしれないが、今の僕は複数の問題を同時進行で進めることに面白さを感じている。そしてそれらの中には、数学や物理以外の問題も含まれている。例えば進化生物学や数理脳科学、そしてコンピューター科学に関する問題だ。もしかしたらいくつかの問題が一斉に解決するかもしれないと言う感じもしている。

しかしもちろん核となる問題はある。その問題に取り組むことによって数学の本質を掴むことができたし、そしてそれによって物理とは何者なのかと言う事もはっきりと見えて来た。数理物理とは数学なのか?物理なのか?そんなことはどうでもいい。それらの本質がつかめて面白ければそれでいいのである。しかし面白いと言うのは常に楽しいと言う事ではない。時には非常に苦しい時もある。それも含めての面白さであると感じることができたとき、物事の核心に迫れるのではないかと僕は強く感じている。

数学の真の姿と、物理の本質。

数学と物理の結びつきは昔から非常に強い。微分積分法はニュートンの力学に対する考察から生まれたものであるし、近年では素粒子論、特に超弦理論の研究から新しい数学の理論が次々と生まれている。

では、物理と数学の関係をどう見るべきか?一つは「数学は物理の道具である」と見る事、二つ目は「数学≒(ニアリーイコール)物理」と見る事、三つめは「数学=(厳密なイコール)物理」と見る事。僕が最近たどり着いた結果は、三つ目、つまり数学と物理は厳密なイコールであると言う事だ。そしてこれは一部、つまり末端に言えることではない。最も根本的な部分においてイコールだと言う事だ。なので数学の最も本質的な部分は、物理の根本的部分への考察によって得られる。

物理の根本的な部分の研究と言えば素粒子論、特に最近は超弦理論が担っていると言われる。しかし僕は素粒子論や超弦理論の考察からは物理や数学の真の姿にまではたどり着けないと考えている。それらの理論は物理においては(今では)最も基礎的かつ根本的な部分であると言われているが、近い将来必ず根本的物理理論に対する全く違うアプローチが生まれると考えている。具体的にはどのようなものか?それは数学で言うと、数理論理学や公理論的集合論、そして数学基礎論的なアプローチだ。つまり現在の素粒子論、超弦理論とは全く違うアプローチである。

物理とは数学の具現化である。つまり物理を追究することによって、数学の本質に迫ることができる。もう物理と数学を異分野として分けることは古いのである。今必要なのは、物理と数学の一体化である。

物理は数学を具現化している。

物理と言うものは、数式(数学)を用いて記述されている。なので物理を研究する時には、どの数学が使えるかと言うことが焦点になる。しかしこのような考えでは、物理が主で数学が従となる。このような意識は、物理の最も根本的な分野(素粒子論や超弦理論)においても同じである。しかし物理の最も根本的で本質的な部分を追究する時、果たしてこのような意識のままで良いのかと僕は疑問に思っている。

僕が最近感じているのは、数学を現実世界(自然宇宙)に具現化したものが物理ではないかと言うことである。すなわち、物理の本質を追究するためには、数学の根本的な部分、すなわち公理論的集合論や抽象位相論と言った部分を出発点に置かなければならないのではないかと僕は考えている。すなわち物理はまず数学ありきなのである。

物理(自然宇宙)がたまたま数学によって記述されていると言う認識は間違いだ。数学を具現化したものが物理なら、物理が数学によって記述されているのは当たり前の事である。現在物理の根本を追究する分野として、超弦理論などが活発に研究されている。しかし僕はこのような方向性では最終的な基礎にはたどり着けないのではと思っている。なぜなら非常に数学的だと言われている超弦理論と言えども、数学が従であることには変わりないからだ。

物理の中にも公理論的に構成する動きはある。例えば場の量子論にしても、公理論的場の理論と言う分野がある。とは言え、このような公理論的物理にしても数学的に見ればまだまだ基礎的だとは言えない。数学が使える数学的な物理と言う意識から、完全に公理論的数学の具現化としての物理と言う意識を持つ事が、物理の根本的・本質的部分を追究するためには必要ではないだろうか。そしてこのような意識を持つ事は、物理から逆に数学の根本的原理を導き出すと言うことも可能になると僕は考えている。

「数学」とは何か?

数学とは何か?と言う問いに答えるのは、数学者にとっても意外と難しい。多くの人にとって数学は、小学校(算数)の頃から取り組んでおり、かなり身近にある存在だと思う(好きか嫌いかは置いておいて)。数学とは何か?なんて、誰でも分かると思っているかもしれない。しかしそのような「数学とは何か?」と言う問いに厳密に答えることは、そんなに簡単ではない。

数学には「ゲーデルの不完全性定理」と言う定理が存在する。この定理は普通の数学の定理とは毛色が違い、数学そのものについて述べた定理である。分野で言うと、数学基礎論、あるいは数理論理学と言う分野に属する定理である。数学科の学生なら一度は聞いたことのある名前であるが、そのような学生に不完全性定理と何か?と問うてみると、ほとんどの人は「数学は不完全であることを証明したもの」であるとか、あるいはもう少し詳しく「数学には真(正しい)とも偽(間違っている)とも証明できない命題が少なくとも一つは存在する」と答える。しかしそもそもここで言う「数学」とは何を示しているのか?それをはっきりしないと「数学は・・・」と言う説明は意味を持たなくなる。

数学の理論を構築する時、必ずその出発点となるものを定めなければならない。その出発点となるものが「公理」と言われるものである。公理を基に定理を証明する。これが通常の数学である。そこで何を公理とするか?と言う違いによって、その後の展開が変わってくることは容易に想像できる。すなわち、何を公理とするかによって、様々な数学ができる訳である。通常取られる公理系は、ZFC(ツェルメロ(Z)・フランケル(F)の公理系に選択公理(C)を加えたもの)が採用される。

ZFCからC(選択公理)を省いた公理系を取ることもできる。そうすればまた違う数学が構成されるとも言える。このような事を考えると、どんどん数学の沼にはまっていく。しかしこの数学の沼にはまるのも数学者としては悪くない。そこをとことん突き詰めた数学基礎論と言うものは、数学を根本的に理解するためには不可欠だ。ただほとんどの大学数学科でも、数学基礎論の講義は全くないし、あるいは無視されている。僕自身も数学基礎論のカリキュラムは受けたことがない。しかしだからと言って、数学基礎論を無視することはできないはずだ。

ノーベル物理学賞にペンローズ博士ら。

今年のノーベル物理学賞に、ペンローズ博士ら三人が受賞されることが決まった。僕は今年の受賞者の名前の中にペンローズの名前があったことに少しびっくりした。なぜなら、ペンローズ博士のような大物理学者なら、今までに受賞されているとすっかりと思い込んでいたからだ。ペンローズ博士なら30年前に受賞していても全然おかしくはない話だ。

今回の受賞理由は、ブラックホール理論に対するものだ。ペンローズ博士はおそらく特異点定理などを評価されたものと思われる。そして特異点定理などのペンローズ博士の業績を語るうえで外せないのは、故ホーキング博士との共同研究だ。特異点定理もペンローズ博士とホーキング博士の共同研究によるものだ。なのでホーキング博士が存命ならば、今年の受賞者の中にホーキングの名前があったと思われる。

ペンローズ博士は非常に多才な学者だ。そして物理学者と言われているが、非常に数学寄りの数理物理学者と言え、数学者と言っても間違いではないだろう。特にペンローズ博士の代名詞と言えるのが「ツイスター理論」だ。このツイスター理論は、物理側からも数学側からも研究が進められている。

最後に一言付け加えると、世間では圧倒的にホーキング博士の方が有名だが、研究者からしてみればホーキング博士よりもペンローズ博士の方が偉大だと言う人は多いのではないだろうか?僕自身もそう思っている。今年のノーベル物理学賞には日本人も期待されていたようだが、ペンローズの名前を出されては日本人物理学者は太刀打ちできないと言えるだろう。それほどペンローズ博士の業績は圧倒的なのである。

取り組むテーマ二つ。

課題(問題)を設定する時、どのようなテーマを設定すればよいだろうか?多くの人は中心になるテーマを一つ決めて、それに集中することだろう。そしてそれは多くの場合正解である。いくつものテーマを掛け持ちしてしまえば力が分散化され、結局二兎追うものは一兎も得ずとなってしまう。しかし自分の実力に自信があれば、二兎追うのも一つの手である。さらに二兎追うことによって、双方が相互作用を起こして二つともに関して良い結果が出ることもあろう。現在二刀流に挑戦し続けている大谷翔平選手は現在苦しい立場に立たされているが、僕は大谷選手の二刀流を熱烈に応援している。そして成功することを祈っている。

学問の研究を行う時、ほとんどの人は専門を一つ定める。そしてその一つの専門に対して深く追究することだと思う。しかし一言で専門と言っても、細部を深く掘り下げるものから物事を大局的に捉えるものまで様々ある。しかし研究に関しても、必ずしもテーマを一つに絞る必要はない。そこで僕は、細部を掘り下げるテーマと大局的に構成するテーマを二つ定めることにした。と言いたいところだが、実際はもっとたくさんのテーマを定めている。現在ではそのようなテーマは十個に近づこうとしている。そしてそれらのテーマの範囲は、専門の数学と物理だけにとどまらない。理論生物学関係からコンピューター関係まで膨れ上がろうとしている。もちろん全て、理論系と言う縛りからは逃れられないのだが。

近年に始まったことではないが、科学はますます細分化してきている。実際、物理の研究者同士でも、隣接する分野の事さえ理解できないことは多いのではないだろうか。しかしそんな時代だからこそ、広く他分野に精通する研究者が必用になって来るのではないだろうか?少なくとも二つの分野、二つの視点を持つ事は非常に重要である。

20世紀前半までは、非常に理想的な時代であった。二度の大戦があったことは不幸な出来事ではあったが、学問の世界では数学においては、ガウス、リーマン、ヒルベルト、ポアンカレなど、あらゆる分野において大きな結果を出す研究者が少なからずいた。しかし現在では、そのような万能型研究者は皆無である。皆自分の専門の事だけでアップアップなのである。もちろん、研究者の質が落ちたわけでは決してない。おそらく学問の大きさと深さが膨大になりすぎたからであろう。しかしそんな時代だからこそ、あらゆる分野に広く深く挑戦する研究者が必用なのではないだろうか?それに挑戦することは非常にエキサイティングな冒険である。しかし非常に大きな危険性も伴っている。自分の命を懸けてでもそのような挑戦に取り組む研究者が一人いてもよいのではないだろうか?

コロナのワクチンに対する展望。

現在、コロナウイルスに対するワクチン開発が熾烈になって来ている。ではそのようなワクチン開発は果たして成功するのか?結論から言うと、運が良ければ早ければ来年前半くらいには実用化される。しかし運が悪ければ10年経ってもできない。ではここで言う「運」とは具体的にはどのような事か?

それには遺伝子が関係してくる。我々人間の遺伝子はDNAが主体になっているが、コロナウイルスの遺伝子はRNAの形を取っている。ではDNAとRNAは何が違うのか?簡単に言うと、DNAは二重鎖(いわゆる二重らせん)であるが、RNAは一本鎖である。それによって遺伝情報を転写する時に、DNAは修復機能があるがRNAには修復機能がない。それによって頻繁に変異が起こるのである。

現在、世界で蔓延しているコロナウイルスは一種類だけではなく、変異に変異を重ねて亜種が数十あるとも数百あるとも言われている。なのでこのような全ての種類に効くワクチンを開発することは非常に困難だ。そして今日効くワクチンが明日のコロナウイルスに効くとは限らない。HIV(エイズウイルス)に対するワクチンが数十年たった今日でも完成していないことは大まかには同じような事であり、今年効くインフルエンザワクチンが来年には効かなくなるのもこのような事である。

ノーベル生理学・医学賞を受賞された本庶佑教授はある記事(文藝春秋digital)でこのような事を述べ、ワクチンに対する過度な期待に対して警笛を鳴らしている。本庶教授自身はワクチン開発に対して悲観的だ。本庶教授の専門は免疫学である。つまりワクチンに関してはプロ中のプロ、そのような研究者が悲観的に述べているのだから、これから進む道はかなり厳しいと言える。しかし本庶教授は悲観だけを述べているのではない。ワクチンだけでなく治療薬の開発にも力を入れるべきだと述べているのである。たしかにワクチンなら特定のコロナウイルスにしか効かない可能性が高いが、治療薬なら全てのコロナウイルスに効く可能性が高い。

しかし、ワクチンと治療薬は役割が全く異なる。ワクチンはウイルスにかからないように予防するものであるが、治療薬はかかった後に投与するものである。出来る事なら治療薬よりもワクチンができた方が社会的効果は圧倒的に高い。しかし現実は、ワクチン開発につぎ込んだ数百億、数千億円がパーになる可能性も高く、治療薬を同時進行で進める必要があるようである。

医学の専門外の人(安倍首相をはじめとする政府を含む)から見れば、さっさとワクチンを作って押さえてしまえと簡単に言うが、現実はそんなに単純なものではないようである。自分の人生に対して楽観的になることは時には大きな力になるが、コロナに対してはむしろもっと慎重(悲観的?)になるべきであるようである。

物理と化学を繋ぐ。

以前の僕は専門バカと言ってよく、専門の数学と物理以外はほとんど取り組むことはなかった。しかし最近はいろいろな分野にも手を伸ばしており、その中の一つとして化学にも取り組んでいる。しかし化学の醍醐味はある意味実験にあるともいえるが、もちろん僕には実験を行う技術も施設もない。なので化学と言っても理論分野に限られる。しかし理論だけでもかなり広がりがあり、やる価値は十分にある。

理論化学の中でも特にやりがいがあると思われるのは量子化学である。量子化学とは名のように量子力学を化学の理論に持ち込んだものである。すなわち物理学(量子論)と化学を融合し繋ぎ合わせる分野だと言える。このように他分野同士を結び付けると言うことは非常に重要な視点である。福井謙一博士は化学理論にいち早く量子力学を持ち込んだパイオニアで、その功績によってノーベル化学賞を受賞されている。

最近の科学理論は極度に細分化されていると言われている。同じ物理学の研究者同士でも、隣接分野の事になると全く理解していないと言うこともよくある。もちろん研究的教養のある研究者は、他分野の専門家以上の知見がある人も中にはいる。研究者にとっては科学の研究は仕事である。そう考えると自分のテリトリーの中で結果を出し、それによって自分のポジションが確保できれば良いと考えるのも無理はない。しかしそのような研究者は所詮その程度だと言うだけである。

僕はこれまでジェネラルサイエンティストと言う言葉を何度か言ってきた。つまり全ての科学分野に対してその分野のスペシャリスト以上の知見を有する科学者の事だ。もちろん、ジェネラルサイエンティストになれるのは、科学者のうちのさらに一部だと思う。しかしそれに挑戦することは非常にエキサイティングなことである。しかしそれを達成するまでは、あらゆる意味で苦しい状況にさらされる。しかし挑戦の先の極限を目指せば自然にそこへ辿り着くのであって、本当に科学に人生をささげて挑戦するのならば、そこを目指すしかない!

数学以外では、完璧を目指さない。

世の中には完璧主義者と言われる人たちがいる。何事も完璧でないと気が済まない人たちだ。完璧と言うと素晴らしい事のように思えるが、僕はむしろ完璧を目指すことから来る弊害と言うものは非常に大きいように思える。何事もちょっと緩い方が良いと僕は感じるのである。そもそも何事も完璧であると息苦しい。そもそも全ての事に対して失敗しない人はおそらくいないと思うし、それに失敗をすることによって気づくこともたくさんある。もし成功してしまえば(極論的に言えば)それで終わりである。失敗するからこそ次があるのである。そういう意味で、僕はどれだけ失敗し、そこから立ち上がっていくかと言うことが非常に重要だと考えている。

しかし完璧でないといけない学問がある。それは数学である。数学は完全論理の世界であり、虫の穴一つ見逃してはいけない。もしかしたら虫の穴くらいは見逃しても良いのではないかと思うかもしれないが、数学においてはその虫の穴が致命傷になることが多いのである。重箱の隅を突いているようなことが、実は重大な意味を持つ事があるのである。そして当たり前の事のように思えることが、実は全然当たり前ではなく反例が出て来る。そしてそのような反例から新しい数学が生まれるのである。

数学に比べると、物理学と言うものは幾分いい加減である。そこが良いところでもあり良くない所でもある。数学の極度な完璧性に音を上げて物理に進む研究者がいる。昔の僕も、物理の適度に緩いところが良いと思っていた。しかし今は数学の完璧性のとりこになっている。物理でも数学的な完璧性を目指す数理物理をやっているのもそういう理由があるのかもしれない。そしてそのような完璧性を突き詰めて行くと、やはり最終的には数理論理学(数学基礎論とかロジックとか言う)に行きつくのではないだろうか。究極的にはやはり宇宙と言うものを論理学的に構成したいものである。

僕は日常においては全く完璧主義者ではない。と言うよりむしろ平均的な人よりも緩いと思っている。そしてこれまで様々な数学者を見てきたが、意外と日常においては緩い数学者が多いように思える。やはり数学における完璧性と、日常における緩さを使い分けることが非常に重要だと思う。なので数学以外の事は完璧を目指さない方が良いと僕は感じている。