科学と言うものは、心の眼で見るものだ。

最近非常に痛感している。科学と言うものを(顔についている)目で見たものにこだわっていると、逆に大きなものを見落としてしまうことがある。生物学などでは顕微鏡などで見ることが非常に重要になるが、数学や物理などの特に理論系の学問では、顔の目でなく心の眼で見ることが非常に重要になる。心の眼と言うものは、もちろん論理の眼と言うものも含まれている。意外と人間の(顔の)目で見たものは当てにならないものだ。

数学などの感覚を掴めない人は、おそらく顔の目で見ることにこだわっているように思える。しかし当たり前の事だが、数学において空気のような存在である無限大や無限小、さらには高次元空間と言うものは、心の眼で捉えないと見えない。心の眼が曇るほど、顔の目で捉えようとしてしまう。論理の目が重要なのは多くの人に理解されるであろうが、意外と論理と言うものはそのような心の眼と言う観点から構成されるものだ。なので心の眼で捉えられない論理と言うものは、何の発展ももたらさないことが多い。

世間では数学と言うものは論理が絶対だと言われることが多い。なので数学と言うものは究極的に無機的なものであり、無味乾燥なものだと映るのかもしれない。しかし心の眼で捉えた論理と言うものは究極的に有機的なものであり、最も自由なものでもある。それが数学が最も自由な学問であると言われるゆえんである。

顕微鏡で捉える生物学においても、心の眼と言うものは非常に重要であると僕は考えている。例えばワトソン・クリックの発見したDNAの二重らせん構造にしても、その発見のもととなったX線写真からはとてもじゃないが二重らせんは想像できない。しかし彼らの心の眼にある程度の姿が映っていたからこそ、そこから二重らせん構造が結論付けられたのだと思う。一流科学者と三流科学者の決定的な違いはそのようなところにある。

心の眼と言う言葉は、文学などの文系学問の専売特許だと思われるかもしれない。しかし文系や理系と言う区別をすること自体が既に本質を見誤っているのである。もちろん科学と文学では異なるところもたくさんあるが、根をたどれば共通するところもある。その一つが心の眼で見ると言うところであると僕は考えている。

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