月別アーカイブ: 4月 2019

数学の基礎の基礎。

「基礎」と言っても、初歩という訳では全くない。「土台」という意味である。数学の土台に当たるところは、数学基礎論(数理論理学)である。数学基礎論が数学の一番の土台である割には、数学科の学生でも基礎論を修得している人は少ないであろう。僕もその修得していない人のうちの一人だが、数学をやっていて基礎をたどって行くとやはり基礎論になるので、最近、基礎論が気になっている。

基礎論の金字塔は何と言っても「ゲーデルの不完全性定理」であろう。これはすごく単純に誤解を恐れずに言えば「数学にはバグがある」ということだが、そもそもここで言う「数学」とは何か?数学の定義とは何か?ということが問題になってくる。ここで言う数学とは通称「ZFC」(ツェルメロ・フランケル体系に選択公理を付け加えたもの)のことだ。ZFCは基礎論や数理論理学をやっている人以外には馴染みのないものだが、ZFCがどのようなものくらいかは知っておいた方が良いかもしれない。

数学基礎論は数理論理学とも言われるように、数学よりも論理学に近いかもしれない。数理論理学者のことを「ロジシャン」と言うらしい。数学はロジックだけでは発展しないが、数理論理学を進めるのは99%ロジックなのかもしれない。

数理物理を研究しようと思うと、当たり前の事だが応用数学だけでなく純粋数学も必要だ。その純粋数学の基礎を突き詰めると数理論理学になる。従って数理論理学を勉強することは数学者にとっても理論物理学者にとっても非常に有益であるに違いない。最近、数理論理学の専門書をチェックしたので注文しようと思う。ゲーデルの論文の日本語訳も手元にあるが、「原論文でも」と思ったが、原論文がドイツ語であるので歯が立たない。まぁ、日本語でも英語でもいい。とにかく原典に当たることが重要だ。研究にも利用できるような気が(少し)する。

数学は非常に広い。しかし本質を知るにつれて既知の数学が少し窮屈になってきた。しかし未知の数学は恐ろしく広いはずだ。その証拠に数学の発展はエンドレスに続いている。既知の数学を勉強して理解するのは難しくないかもしれないが、未知の結果を出すのには骨が折れる。まぁ、何本骨が折れても目標とする結果が出れば良いのだが。

幹は本質だけど、花がないと誰も振り向かない。

本質を掴むことは非常に重要だ。しかし幹となる本質だけ取り出しても、その幹がどれだけ重要かなかなか理解されない。本質となる幹は、花を咲かせてこそ初めて重要性が理解されるのである。

最近、数学に取り組んでいてそのような事を強く感じる。数学の中で幹となるのは三つほどの概念なのである。その三つほどの概念の下に次に重要な概念がいくつか付随する。そしてさらにその下に次に重要な概念が。この様に数学的構造は系統樹的に連なっている。そして言うまでもなくその系統樹を概観して理解することは非常に重要だが、それを概観するだけでは何も生まれない。そこから手を動かして計算することが重要なのである。計算して細部を埋めることによって、系統樹に新たな部分が追加される。

数学的視点はあらゆることに応用できる。それはビジネスであったり、日常生活であったり、人間関係であったり。それらの構造と相互作用の骨格は、かなりの部分が共通する。だからこそ、一つの事を極めてその本質を掴めば、それが他の事に応用できるのである。プロのジェネラリストになる一番の方法は、プロのスペシャリストになることなのである。

プロのスペシャリストになって、そのことに対する本質を掴む。それで良いのだが、それだけでは誰も見向きはしない。そこに花を咲かせること、それが実績になるのである。しかし花を咲かせることだけに気が行って最短コースをたどる事ばかりを考えると、意外に大きな壁にぶつかってゴールにたどり着けない。本質を掴むという作業は一朝一夕では完成しないが、そのように遠回りしてみると意外にゴールまでたどり着けるものかもしれない。

七人敵に回して、三人味方にするくらいが。

誰でも自分の周りの人が味方であった方が良いと思うかもしれない。しかし何に関しても周りの全ての人が味方であるということはほぼありえない。逆に周りの人全てが味方であるといった状況ならば、それはある意味危険信号であると思った方が良い。もちろん全ての人を敵に回す必要はないが、七人敵に回して三人味方にするくらいがちょうどいい。

時には敵というのもありがたい存在である。敵がいるからこそ、自分の欠点、自分に足りないものは何かということに気付くことが多い。もし敵に対して憎しみしかなければ、それは自分には何かが足りないということだ。過去の自分にもそういうことは多々あった。おそらく今でもそういうことはあるのだろうが、しかし敵によって気付かされることも多い。七人の敵によって自分の欠点を補い、三人の味方によって後押しされる。その十人はまさしく自分の周りの世界の縮図である。

周りの人がイエスマンばかりだと、ある意味非常に楽である。しかしそのような状況は全てにおいて危険であり、何の発展ももたらさない。しかし権力を持ってしまうとどうしてもイエスマンばかりになり、また本人もそれを求めてしまう。従って自分で意識しないと理想的な状況は作れない。

敵が七人以上いるとかなりきついし、逆に敵が少なすぎると惰性で動いてしまう。このバランスは非常に難しいところである。そしてそのような環境は自分で作ろうと思って作れるものではなかなかない。しかし確実に自分の人間性が影響するところである。日常では自分の事を考えるだけで精一杯であるかもしれないが、少し余裕が出来たら自分の周りの人間環境にも気を付けてみるのも良いかもしれない。

洒落者。

洒落者とは辞書で引くと、単に「お洒落」というだけではなく、「粋な人」という意味もある。僕の考えるところでは、この洒落者のお洒落とは、「外見がお洒落」であると同時に「内面もお洒落」ということではないだろうか?外見も内面も両方とも洒落ているとは素敵な事ではないか!

お洒落とは流行を取り入れることだと思う人もいるだろうが、僕はむしろ不変的なお洒落を重視している。これは内面に関して言うと、信念だとか芯というものではないだろうか。このような何事にも動じない人間はあらゆることに強さを発揮するし、頼もしさも感じるであろう。人の顔色ばかりをうかがって判断する人に魅力を感じる人はいない。もちろん時にはこのような動じない人は強い批判にさらされることもある。しかしそれが本当に理に適うことならば、時間が経てば多くの人に受け入れられるであろう。

お洒落とは決して自分本位の事ではない。お洒落とは自己満足三割、周りからの目線七割なのである。すなわち周りの人間からの目線を考えられない人は、洒落者にはなれない。とは言え、ここで書いた割合は場合によって変動する。その時々で自己満足の割合と周りからの目線の割合を上手くコントロールすることが重要である。

そして時には自己満足十割を貫くべき時もある。またそれとは逆に周りからの目線十割にすべき時もあるかもしれない。そこでそれを徹底的に決断を下せる者が洒落者である。外見も内面も徹底的に洒落者になれるか?そこに人間としての魅力が詰まっているのだと思う。そう考えると、なぜお洒落な人が魅力的なのかが理解できる。

三歩先を読む。

先を見ることは大事であるが、今を切り抜けなければ先はない。よってどうしても現在の事だけを見て全てを判断してしまう人が多い。もちろん多くの人は先の事も見ているとは思うが、ほとんどの場合先を守ることを考えて、先を挑戦する人は少ないように思える。

三歩先を見る、あるいは三歩先を読むためには当然のことながら、一歩先、二歩先を熟知しなければならない。そしてもちろん、三歩先がやって来るかどうかも分からない。しかしそのやって来るかどうかわからない三歩先を見ることに意義があるのである。そのようなやって来るかどうかわからない三歩先のことなど、ほとんどの人は考えようとはしない。だからこそ、そこで三歩先を読むことによって大きなアドバンテージを得られることになる。

三歩先とはかなり先の未来になる。現代の激変する世の中にあっては、少し先の未来でもどうなるかは想像するのは困難であり、三歩先を読んだところでほとんどの場合その通りにはならないであろう。しかしそれでいいのである。逆に読んだとおりにしかならないのであれば、それは大したことは考えていなかったという証拠である。激動する中で、その場その場で修正を掛けて行けばよいのである。そうすれば元々考えていたことではなかったことかもしれないが、修正を繰り返す中で読みは的中するのである。

三歩先までたどり着くまでに、あらゆることに遭遇するであろう。その中で新たな問題、新たな課題が見つかり、新たな発見があるだろう。問題が増えることは喜ばしいことである。なぜなら、一つの問題だけを解決するより、二つの問題を解決する方がより大きな成果になる。さらに大きな問題を複数保持することによって、あらゆる変化に対応できる。これがダメならこれでどうだと畳み込んで行けばよいのである。

僕の場合、現在大きな問題を二つ保持している。どちらも非常にエキサイティングな問題だ。その問題を解決すべき日々格闘している。もちろん机の前でペンを持って書物や論文と格闘するという、見る人によっては非常に地味な作業に思えるものであるが、これが非常に面白く刺激的でエキサイティングなのである。理論の三歩先を読むことは意外に簡単でも、それを実行して成し遂げるのは非常に骨の折れる作業である。しかしそのような事に取り組む価値は十分あると考えている。

人生の延長線上にある三歩先を見れば、自ずと自分の進むべき道は見えてくる。そして不思議にも自分の人生の全てが意味あるものに思えてくる。いや、そうして進むことによって自分の人生に意味付けをしていくのかもしれない。それができれば人生が非常に豊富になり、そして非常にエキサイティングになって来る。

学問は役に立つのか?立たないのか?

学問は役に立つのか?立たないのか?このような疑問は小学生から大人まで多くの人が一度は疑問に持つことだと思う。そのような問いにどう答えるか?僕ならば一言「役に立たない」と答えるのみだ。しかし僕のその一言の中には非常に深い意味が込められている。

もし学問は役に立たず、学問をする意味がないと本気で考える人がいるならば、その人は学問をする必要はないと僕は思っている。学問が役に立つと思えず、する必要もないと考える人が、嫌々やる事ほど無意味なものはない。それは学問を究極的に究めようと思っている僕だからこそそう思う。

しかし、僕は学問を究める意味は非常に大きいと考えている。そして「役に立たない=する必要もない」という等式が成り立つほど単純な問題ではない。役に立たない、しかしやる意味は大いにあると考えるのである。そして特に、「役に立つ科学は、役に立たない科学から生まれる」ということも忘れてはいけない。役に立たないからやらないという姿勢では、社会は全く発展しない。現代の非常に発達した社会は、役に立たないかもしれないけどやってみようという先人たちの努力がなし得たものである。

僕は「役に立つか?立たないか?」という問いほど無意味なものはないと思っている。価値判断を、役に立つか?立たないか?という視点でしか見れない人の思想は総じて薄っぺらだ。物事の深さは役に立つかどうかとはほぼ無関係だし、それは学問においても同じだ。そしてもし本気で役に立つことをしたいと思うならば、まずは学問に打ち込み自分に人間としての広さと深さを作ることが重要である。もちろん、学問を究めなくても役に立つことはできる。しかし役に立つことの基盤を築くには、学問的思考が必要である。学問的思考がなければ、表面的な事に終始してしまう。

そして僕がここまで言ってきた「学問」という言葉は、何も数学・英語・理科・社会・国語だけではない。人間的哲学だとか経済的な事も含まれる。何も学校で習うことだけが学問ではないのだ。だから学校に行かなくても学問を究めることはできる。逆に大学に行っていても学問が出来ない人は多い。

これらの学問は習うより「ものにする」と言った方が正しいかもしれない。学問をどれだけものにできるか?それは自分の人間としての広さと深さに直結するものである。

ちょっとのミスも許されない?

ミスはあるよりか無い方が良いのかもしれない。この事は100人いれば99人は同意するであろう。確かに積極的に前に出て行き、その結果ミスがなければ完璧である。その一方、「ミスがない=何もしていない」と言えることも多々ある。それよりかは多少ミスをしながらでも積極的に行動して行く方が良い。行動しない事には何も生まれない。

とは言え、現代社会、特に日本ではますますミスを許さない風潮が強くなって来ているように感じる。そしてミスを予防するためにどんどん無難志向になって来ている。無難な選択ばかりすればもちろん大きな成功はありえない。それどころかミスを恐れるあまり選んだ方法が、さらにミスを呼ぶこともある。まさしく負の連鎖だ。今の日本はまさしくこの負の連鎖に陥っている。社会も、人間も。

少しのミスは大目に見るくらいの寛容さが必要であると強く感じる。特に日本は寛容さが低いと他の国からも見られているようである。日本に居ればそれが当たり前に感じ、あまり実感しないのかもしれない。僕自身も他国の事ははっきりとわからないが、海外から見てそう見えるのならば多分にそういう傾向があるのだろう。

人生というものは切り開いて行くものだと僕は思っている。もちろん人生に対する認識は人それぞれ違うであろうが、自分の人生を他人がひいたレールに乗って自動的に進むのはどうであろうかと思う。もしかしたら、いったんレールに乗ればミスは極力避けられるのかもしれない。しかしミスは恥ずべきものではない。時にはミスは行動した証であり、誇るべきものでもある。ミスをしない人間に発展はない。(もちろんミスをしないで何でも成し遂げる人がいれば別だが。)

一の成功の裏には百の失敗がある。失敗をしないで成功をしようと考える人は多いが、そのような事は99%不可能である。失敗を買ってでも前に出るくらいの心構えがなければ、目指すべき大きな成功はありえない。

令和に向けて、頑張る!

最近、頑張りたいけど頑張れない。そんな悶々とした日々を過ごしている。しかし一か月後には令和という新しい時代が来る。この令和という時代を自分のものにするためにも、今はなんとか頑張らなければいけない。令和になってから頑張るのもいいが、令和までの約一か月、それに向けて助走をつけたいものである。平成という時代は明らかに僕のものではなかった。だからこそ令和をものにしないと自分の人生が成り立たない。僕は令和に生きる人間なのである。

頑張るためにいろいろと努力はしている(つもりである)。お酒を飲むのも極力控えているし、筋トレやジョギングをして体調も整えている。しかしどうも万全だという状態ではない。何をするにも努力は必要である。「努力」と「意志」、この二つが成功への原動力だと思っている。それが出来るように試行錯誤してみよう。そうすれば何とかできるはずだ。

元号を定める会議に、僕の尊敬する山中伸弥教授が参加されていた。令和という元号の決定にそのような尊敬する人物が関わっていたことは、これも何かの縁だと思って令和を思いっきり生きてみたい。何だか非常に都合の良い解釈だが、このように都合良く解釈して自分を高めることも必要だと思う。山中教授、ありがとう!

まずは今できる努力を!何もしないよりか少しでも努力する方が良い。そして少し努力するよりたくさん努力する方が良い。いきなり0から100にはできない。しかし行動することは今すぐできるはずだ。まずは机の前に座ってペンを持ち、本を片手に思考する。別に僕はジャーナリストではないが、ペンは僕の武器だ!手元にはもう15年程使い続けている万年筆がある。この万年筆こそ僕の人生を変えてくれると思っている。しかし令和に向けてペンを新調するのも良いかもしれない。しかし大事なのは、ペンがどうこうではなくて、自分の頭脳である。自分がどこまで進めるか?そのような挑戦は常に続けようと心に決めている。

「令和」、いい響きだ。

「令和」、この言葉を聞いたとき、僕は非常に心地よい気持ちに襲われた。「令」という文字が非常に可憐な印象をもたらし、そして平和の「和」だ。この言葉を聞いただけでも良い時代になりそうだし、絶対に良い時代になるはずだ。

平成の30年、二度の震災があるなど日本は災難に見舞われたが、僕個人的にも地獄のような時代であった。それは平成に入って間もなく訪れ、平成が終わろうという今、そこから脱出できそうである。それだけに令和という時代にすごく光を感じるし、絶対に輝く時代にするという思いは強い。

何度見てもこの「令和」という文字は良い。響きも良い。この二文字を見ているだけでこれから本当に良い時代になりそうだ。僕は昭和に生まれ、平成を過ごし、令和を生きようとしている。しかし人生が終わる時どの時代を生きたかと問われれば、胸を張って令和を生きたと言いたい。

今日は長々と論を書くつもりはない。ただただ令和という時代に期待を持ち、日本にとっても僕にとっても良い時代になることを望むだけである。いや、望むだけで良くはならない。自ら動かなければ時代は切り開けない。一か月後の令和という時代の幕開けが待ち遠しい。

妥協。

妥協は出来るだけしたくはないが、時には妥協すべき時もある。ある事について妥協せずに自分を貫こうと思っていたが、それを貫くためには体力も気力もお金もいる。巨大なストレスも襲ってくる。そのような状況の中でここ最近いたが、いろいろと打開策を考えたところ、ここは少し妥協すべきだという結論に至った。妥協せざる負えない事は非常に悔しいが、しかし妥協することが最善の策であることもある。妥協うんぬんということより、今自分にとっては最善の策を取るべきだということだ。

もちろん、妥協せずに自分を貫くことによって少し社会を変えられる可能性もあった。しかしそれを貫くとその前に自分が自滅する可能性も大いにあった。自滅しては元も子もない。従ってここは妥協一択である。このように妥協してみると、時には妥協するのも悪くないと感じる。僕自身はこれまで妥協しないのがトレードマークであったが、そこは仕方がない。今回妥協することによって精神的な衛生面でも非常に良くなり、物事が大きく進みそうである。

自分にとって何が一番必要か?そこを強く自覚しておかなければならない。自分にとって一番大事な事は妥協すべきではない。しかし一番大事な事を守るために、二番目三番目の事を妥協するという選択肢はありだ。いつも精神を張りつめて少し神経質になっていたところがあったが、ここは妥協して少し心にゆとりを持たせ、一番大事な事に力を集中させようと思う。