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僕は同調圧力は嫌いだが・・・。

僕は人間にとってオリジナリティーを出すことは非常に重要であると考えており、またそれが人間の個性そのものであると考えている。なので人と同じことを強要する同調圧力と言うものが最も嫌いであり、日本における一番ダメなところは誰に対しても同調圧力を押し付けることだと思っている。

しかし現在のコロナ禍においては状況は少し違うと思っている。マスクを付けることを求める事、多人数での会食を自粛する事、このようなこともある意味同調圧力だと考えられる。しかし現在の状況下においてマスク、会食問題は人の命にかかわることであり、また人に不快な思いをさせないための究極のマナーだと思っている。なので「自分は同調圧力は嫌いだからマスクはしない」と言うのは完全に違うと思っている。なので究極的に同調圧力が嫌いな僕もマスクは必ず着用し、できるだけ不要な外出を避けている。もちろん人との会食などコロナ禍に入ってから一度も行っていない。

もちろん僕だってマスクをしないで街中を歩きたいし、皆と飲み会も行いたいと強く思っている。しかし周りの人の命、また命に係わるまで行かなくても大きな健康の損傷につながる今のような状況においては仕方のないことだと思っている。コロナ禍に入るまでは、皆がマスクをせずにワイワイと騒いでいた。今では想像もできないことだ。しかしそのような日常を取り戻すことが現在の最大の社会的課題である。

アメリカやヨーロッパでは個人の自由と言うものは最大の価値を持つ。しかし現在のコロナ禍においてはそれが完全に裏目に出ている。欧米の人達も現在は非常時であり、通常時の常識が通じないと言う事を認識した方が良いかもしれない。しかしそれ以上に恐れているのが、コロナ禍後に日本が個人の自由を認められる社会に戻れるかと言う事だ。震災後、日本においては「絆」と言う言葉が多用されることになった。しかしこの絆と言う言葉は、暗に同調を強要することが含まれている。なので僕はこの絆と言う言葉は決してきれいな言葉ではないと思っている。言葉もそうだが、物事を表面的に捉えてはならない。僕は大学時代に所属していた大学の合唱団で、プーランクの「人間の顔」と言う20分ほどの大曲を歌った。この曲は第二次大戦下の究極的な抑圧に対しての抵抗の曲である。そしてその曲の最終章のタイトルは「リベルテ(自由)」である。

もう一度、蓮舫氏の「2位じゃダメなんですか?」発言を考える。

十年ほど前の民主党政権下での事業仕分けで、蓮舫氏が京コンピューター建設に際して「2位じゃダメなんですか?」と発言したことは余りにも有名だ。この蓮舫氏の発言によって、科学と言うものは1位じゃないと何の価値もないことが広く認識されることとなった。僕のブログでも以前、この蓮舫氏の発言を取り上げたことがある。しかし今考えると、この蓮舫氏の発言はもっと深い意味があるのではないかと最近感じている。

確かに科学と言うものは、1位じゃないと何の価値もない。例え小さい結果であってもそこに1位であることが求められる。しかし「京」のようなスーパーコンピューターは科学であると同時に「道具」でもある。いや、道具であることの比重の方が圧倒的に大きい。そう考えると、道具に対して1位を求めることは本当に正しいのか?とも思える。例え単位時間当たりの演算回数が圧倒的であってもそれは単なるスペックであって、それが本当に道具として優秀かどうか?と言う話とは別問題だ。例えばスマホで言うと、メモリやストレージが何ギガだとか、CPUのスペックがどうか?と言う話と、実際にそれが本当に使いやすいか?と言う話はそれぞれ無関係ではないが、完全に相関関係があるわけではない。中にはどんなに高スペックのアンドロイドよりもiPhoneの方がいいと言う人も少なくないであろう。

京コンピューターはスペックに過度にこだわるあまり、非常にマニアックなものとなり使い辛いものだったと言う意見が多かったと言う。それの反省を生かして、二代目スパコンの「富岳」はスペックよりも使いやすさに重点を置いたと言う(そうは言ってもスペックも世界トップクラスだ)。今蓮舫氏の発言を考え直すと、コンピューターと言うものは道具なのだから2位でも良いではないかと言う提言だと捉えることもできる。しかし当時は科学としての側面ばかり焦点を当てられたがために、スペックが1位であることにこだわり続けられた。ある意味、二代目スパコン「富岳」の汎用性は蓮舫発言の結晶だと言える。

しかし社会では全く逆の発想が染みついている。「役に立つ」とことばかりに重点が置かれ、「科学の真の価値」が無視されている。例えば学校でも、「数学なんかやっても何の役にも立たない」と言う主張も根強くある。しかし数学と言うものは極論を言うと、物事の本質を極限まで追求する学問だと言える。そして役に立つかどうかと言う事に対しても、自分の命を左右するくらい重要なものであると僕は考えている。その理由を挙げると、現在のコロナ禍において「ワクチンを接種するかどうか?」と言う事が関心事になっているが、確率(数学)をしっかり理解できないとリスクの評価(副反応のリスクとワクチン接種による感染防止のメリットの評価)に対して判断を下すことができず、最終的に自分の命の行方まで左右されることになる。

「科学」と「科学技術」の違いを明確に認識することは非常に重要な事である。科学は1位でないと意味がないが、科学技術は必ずしも1位でなくても良い。それよりも道具としての使いやすさやどれだけ役に立つかと言う事が非常に重要になってくる。しかし少なくとも日本においては、科学と科学技術の違いについて教育や言及されることはほとんどない。なのでほとんどの人が科学と科学技術を同一視している。蓮舫氏の発言はそのような現状に一石を投じるものではないだろうか?

五輪開催だけが菅首相に評価をもたらすのか?

今、五輪を開催すべきかどうかと言う事で世間が揺れている。しかし揺れているのは「世間」であって、政府にとってはどうやら「開催ありき」の選択肢一本しかないようだ。もし五輪を開催しそれが成功すれば、政府そして菅首相の評価はうなぎのぼりになるであろう・・・。とは僕は思わない。そもそも現在の民意は五輪回避にすべきだと言う意見であるように思えてならず、もし菅氏が五輪を強行すれば菅氏は民意を無視したと言う事になる。しかも菅氏は「五輪開催=成功」と言う等式しか眼中にないように見えるが、しかし「五輪開催→失敗」と言う事も十分にあり得る。最悪は、「五輪開催→コロナ患者が急増→五輪中断」と言うパターンであろう。五輪失敗に終われば菅氏の政治生命は完全に断たれるわけであるが、では何をしてもダメなのかと言うとそういう訳ではない。現在の状況であれば、「五輪開催断念」と言う決断をすることは、五輪を強行すると言う決断以上に英断と言えるだろう。

菅氏にとって、国民の命より五輪開催による自身の支持率向上の方が重要なのか?そう思えてならない。緊急事態宣言が5月11日までと言う非常に中途半端なのも、その直後のIOCバッハ会長の来日に合わせてのものだと言われている。これまでの緊急事態宣言もそうだが、菅氏の決断は何もかもが中途半端に思えてならない。結局二兎追って一兎も得ずと言う事になるのではないだろうか?そもそもこのような国民の事を考えない政治家が首相になること自体、完全に間違っていると僕は強く思っている。

もちろん五輪を強行して成功する可能性も十分にある。そして菅氏はそれを期待して強行しようとしているのだろう。ではそのような可能性があるにも関わらず、なぜ多くの国民は菅氏の判断に従えないのか?それは菅氏の後ろ姿に誰もついていけないと言う事であろう。僕は意外に大きかったのは、菅氏のステーキ会食問題であったと考えている。たかが一会食だと思うかもしれないが、トップは自分の行動によって国民に取るべき道を示すべきであるのだが、そのトップがそのような姿しか示せないようであれば誰もそのようなトップについて行こうとは思わない。

今回の五輪開催の問題は、それが成功するか失敗するかに関わらず、菅氏が国民の方を全く見ていないと言う事を示すものであった。僕は必ずしも五輪を否定しようとは思わない。選手にっては4年に一度の五輪であって、その一度に人生を懸けている選手も少なくないであろう。しかし首相が実行を決断するのであれば、その根拠を明確に示すべきである。「強行したらたまたま成功した」と言う事でしかないのなら、例え五輪が成功しても菅氏には誰もついて行こうとは思わない。菅氏は「五輪が成功すれば、皆自分を支持する」と思っているようだが、僕はそれは全く違うと考えている。成功した暁に支持率を高めようと思うのならば、その開催強行の根拠を示さなければならない。そうでないと開催しようがしまいが菅氏にとってはこれからは茨の道になるであろう。

スマホ後の革命ツールは自動運転車だ!

ここ十年程、社会の革命はスマホが担ってきた。スマホの性能は格段に良くなり、革命的スマホツールがいくつも現れ我々を驚かしてくれた。しかし現在はどうだろう。CPUの性能がどれだけ上がっただとか、カメラの画素数がどれだけ上がったとか毎年話題にはなるが、しかし一般ユーザーとしてはそのような性能向上を実感できることはほとんどなく、一部のガジェットマニアとガジェットレビューアーが喜んでいるだけに見える。もうスマホの革命は頭打ちであり、一般ユーザーもこれまでのように性能アップを望んでいないように思える。

ではスマホ革命後のこれから、世の中を変えるツールは何か?それは間違いなく自動運転車だと言える。自動運転車は単に自動で運転してくれるだけでなく、考えれば考えるほど、想像すれば想像するほど夢があふれてくる。では自動運転車の何がそこまで夢を見させてくれるのだろうか?

まず必ずしも家にいる必要がなくなる。そして移動するにも、そして通勤するにしても、朝起きてそのまま車に乗り込み、車の中で着替えをし食事をすればよい。一人で乗れば他人の目を気にする必要はない。そして目的地に着くまでiPadで読書や情報チェックができる。そして夜は飲み屋でたらふく飲み、無人の自動運転車に迎えに来てもらい家まで帰ることができる。学生なら自動運転車に学校まで送ってもらい、帰る時には無人の自動運転車を呼び出せばよい。

しかしこれらの事だけなら従来の車から運転者がいなくなっただけの話だ。実は夢はさらに広大だ。一言で言えば「車に住む!」、これが究極であろう。最近ホンダのレジェンドと言うセダンの車がレベル3の自動運転を実現したことが話題になった。しかし例えレジェンドがレベル5の完全自動運転になったとしても、車に住むのは難しいであろう。僕が想像しているのは、マイクロバス級、あるいはそれ以上の大きさの自動運転車に住むことだ。バスくらいの大きさがあれば書斎もベットもおけるだろう。そしてトイレも完備すれば完璧だ。そうなればもう家など持つ必要はない。もし家でゆっくりとしたいと思えばその時だけホテルにでも泊まればいい。

とは言え、車に浴室を付けるのは難しい。もしかしたらトイレを付けるのも嫌だと言う人もいるかもしれない。洗濯機を置くことも難しいだろう。そこでだ。そのような自動運転車で暮らす人たちのために「自動運転車ステーション」を至る所に作ればいい。自動運転車ステーションには銭湯やトイレはもちろんあり、クリーニング店を併設してそこで洗濯してもらえばよい。もちろん車がステーションに入れば自動課金される。そして全てのステーションに水素ステーションを完備すれば、水素燃料車も普及するだろう。今日は鹿児島のステーション、そして寝ている間に翌日には仙台のステーションに着くと言う事も夢ではない。

こうなれば、車に住むのは家がない人だと言う固定観念が崩れる。いやむしろ、お金がある人の方が積極的に車に住むかもしれない。住所不定、いや、住所は車!そんな生活が訪れることを僕は夢見ている。アップル社はiPhoneを世に出しスマホ革命を起こしてきた。そして現在、またもやアップル社による自動運転車の計画が世に知られるようになり革命を起こそうとしている。僕は数年後に出される「アップルカー(iCar?)」は間違いなく人々の生活様式を変えてくれると考えている。アップルカーが発売されたときには、真っ先に僕もアップルカーを購入できるようにお金を貯めておきたいと思う。そしてゆくゆくはアップル製自家用自動運転バスの中に書斎や寝室を完備して住みたいと思っている。このような世の中に大きな夢を感じるのは僕だけではないはずだ!

メリットとデメリット。

現在、ワクチン接種をするかどうかの判断が問題になっている。ワクチンに限らず、どんな薬でもどんな医療でもリスクはつきものであり、少なくともゼロリスクと言うものはあり得ない。そこでそのようなリスクをどう評価するかが問題になってくる。するか?しないか?の判断を下すとき、人間なのでどうしても感情的な事やイメージなどが入り込んでくる。そのような事抜きで判断する事は実際非常に難しいことだ。しかしそのような判断をするときに最も大事なのは、メリットとデメリットを天秤にかけてどちらが大きいかと言う事を比較することだ。

何度も言うが、ゼロリスクと言うものはあり得ない。道端を歩いていても、車が突っ込んでくる可能性もゼロではない。しかしほとんどの人はそんな危険性など考えずに気軽に道を歩き回っている。それはなぜかと言うと、道を歩いて事故に遭う危険性と、家に籠って自由に歩き回れないデメリットを無意識に比較しているからだ。そしてほとんどの人は、家から一歩も出ないことによるデメリットの方が大きいと判断する。さらに言えば、家に車が突っ込んでくる可能性もゼロではないので、家にいることが必ずしも安全だとは限らない。

ワクチンのメリットデメリットを判断する時に最も重要になるのは、副反応(副作用)が起こるかどうかではなく、どれくらいの確率で副反応が発生するかだ。この確率が高ければワクチンの危険性が高いと言う事なので、接種しないと言う選択肢も十分にあり得る。しかし重篤な副反応が100万人に一人の確率で発生するとどうだろう。この100万に一人と言う確率はそのままではイメージしづらいが、満員の甲子園の収容観客人数が約5万人なので、甲子園を20個満員にしたときその中から一人発生すると言う事だ。2020年の交通死亡事故人数が2839人なので、去年交通事故で死亡する確率は、約42000人に一人ほどだ。そして2021年4月10日時点の情報では、コロナによる国内死亡者数は9364人。これを割合で表すと、国民約13000人に一人である。現在アストラゼネカ社のワクチンによって血栓ができると言う副作用が報告されているが、その割合は(イギリス国内の統計では)約2000万回接種して死亡者が19人。なので単純に計算して(一人二回接種することを考慮して)約50万人に一人である。なのでコロナに感染して死亡する危険性の方が圧倒的に高い。

そしてもう一つ大事な事は、副反応と思われるものが本当にワクチン接種と因果関係があるのかと言う事である。ワクチンを接種しなくてもその時期に死亡する人は当然存在する。そのような人が偶然ワクチン接種の時期と重なったと言う可能性は十分にありえる。もちろん100人くらいの集団ならそのような可能性はほぼ皆無と言っていいが、数千万人の集団接種となればそのような人が何十人と出て来る事はむしろ当然のことである。なのでワクチンとの因果関係ははっきりと追究しなければならない。そしてメディアには、単にワクチン後に死亡したと言う事例をセンセーショナルに伝えるのではなく、因果関係がどれくらいあるのかと言う事をはっきりとさせて正確な情報を伝える義務がある。もしメディアが視聴率だけを考えて因果関係がはっきりしない死亡例をセンセーショナルに伝え続けてしまえば、結局最後には国民の首を絞めることになる。

今国民一人一人が、メリットデメリットを正確に判断できるかと言う判断力が試されている。学校で習う勉強が実際には社会で全く役に立たないと言う声をよく聞くが、ワクチン接種の判断をする上では大アリなのである。生物学的な知識、社会的な知識、そして何より数学的(特に確率的)な思考力が大きくものを言ってくる。そのような知識を総動員して正確な判断が出来ないと、回り巡って自分の不利益として跳ね返ってくる。それはもしかしたら命にかかわることかもしれない。そのように考えると、基礎的教養としての学問がいかに大事かと言う事が思い知らされる。

GIGAスクール構想で忘れてはいけないこと。

現在全国の小中学校で、GIGAスクール構想と言うものが進められている。ここで言うGIGAとは我々が日常的に使うギガ(バイト)の事ではなく、Global and Innovation Gateway for All、直訳すると「全ての人にグローバルで革新的な入り口を」と言う意味である。簡単に言うと、児童学生に一人一台コンピューターを与えて、情報技術を身に付けさせようと言うものである。この構想は2019年から5年間かけて遂行される予定であったものだが、新型コロナの影響があって急速に前倒しされ実行されている。

僕自身この構想に関わっているわけではないので特に詳しいわけではないが、ただこの構想に限らず学校での情報技術教育を行う上で忘れてはならないことが一つあると強く考えているので、そのことを指摘したいと思いこの記事を書くことにした。そのこととは、「情報技術をブラックボックスのまま扱わない」と言う事である。多くの人達は、パソコンやスマホを日常的に当たり前のように使っているが、ではその自分が使っているパソコン・スマホの仕組みをどれだけ理解して使用しているだろうか?おそらく多の人が、仕組みを知らず操作の仕方だけをマスターして使っていることだと思う。もちろんそれらの仕組みを全て知ることは(あまりにも複雑すぎて)不可能であるが、しかし最低限の事くらいは知る必要があるのではないだろうか?そして最低限の事を知った次は、さらに1%でも詳しく理解していく必要がある。それはなぜか?情報技術を発展的に利用あるいは開発していくためには、単に操作方法だけではなくブラックボックスの中身を少しでも詳しく知る必要があるからだ。

もちろん操作方法を知りそれらを使いこなせるだけでもかなりの事が出来るようになる。しかしそれらの事は、学校の教師が教えるよりも、自分で使いこなしたり友達同士で教えあったりする方が圧倒的に習得が早い。なので教師が教えるべきことはむしろそのブラックボックスの中身的な事ではないだろうか?プログラミングももちろんその中に入るが、しかし極論を言えばプログラミングだってさらに根本的なコンピューターの仕組みの下に成り立っている。ソフトだけでなくハードを理解することも必要だ。しかし現実はおそらくそれらすべてを教育できる教師はいないだろう。なのでコンピューターの部門ごとに教師に専門を作らせるのも良いと思う。たとえばプログラミングを担当する教師、そしてネットワーク担当、アーキテクチャー担当など、通常の教科のように分担すればよい。コンピューターとはそれだけ深く複雑なものである。

僕自身、学校でコンピューター教育など全く受けておらず、学生時代はTeXと言う論文執筆ソフトを利用したくらいだ。なので今は少しでも詳しく情報技術の知識を身に付けようと勉強している。現在はAIが徐々に浸透してきているので、それらの基になっているPythonと言うプログラミング言語を習得するのも重要かもしれない。今ではPythonはAIだけでなく、これまでC言語が担っていたプログラミング教育の主流になりつつあるので、これからはPython一つであらゆることに応用できるかもしれない。そしてもう一つ忘れてはいけないのが、これから革新的に普及されると思われる量子コンピューター・量子情報技術である。これらもプログラミングのように基本的マニュアルを覚えて利用することもできなくもないが、しかしこれらを深く理解し切り込んでいくためには物理学における量子力学を知ることは必須だ。しかしこれは現在は大学物理学科2年生か3年生で習うような少し高度なものである。しかし量子コンピューターを理解すると言う目的のために教育の仕方を変えれば、もっと早い段階で教育できるかもしれない。

最後に繰り返しになるが、ブラックボックスのままで扱っているようではコンピューターを理解したことには全くならない。ブラックボックスを全て理解することは専門家でも不可能かもしれないが、しかし1%でも深く理解しようとする姿勢が最も重要になると僕は強く感じている。

学問的意義と受験テクニック。

受験とは何のためにあるのか?さらに受験の意義とは何なのか?僕はこれまで受験に取り組むことに対して、学問的意義ばかりに気を取られていた。なのでこれまでのブログにも「受験は無意味だ」などと言う趣旨の事を何度か述べて来た。確かに学問的意義だけを考えると、受験の意義と言うものは非常に小さなものであると僕は考えている。そのような考えは今でも変わっていない。しかし受験と言うものに対して学問的意義だけにとらわれていると、重要な事を見落としてしまう。僕自身もこれまでそのような重要なものを見落としていた。

受験に臨むにあたって、受験テクニックにこだわる人がかなりいる。僕はこれまでそのような受験テクニックをバカにしてきた。しかし現実社会においてどのようなスキルが要求されるのかと考えた時、その場での課題を乗り越えるスキルを身に付けることが重要である。そしてそのようなスキルは意外とテクニック的なものであったり隙間を突く裏技的なものであったり、そのような事が要求されることが多いのではないだろうか?なので受験勉強をするにあたってその学問的意義よりも、いかに要領よく切り抜けるかとか、さらにそこを切り抜けるためのテクニックを駆使すると言う事が重要なのではないだろうか?そのような事を考えた時、意外と受験テクニックと言うものは、社会から要求されるスキルに近いものがあるのではないかと最近考えている。

もちろん学問を究めようと思えば、学問的意義と言うものは最も重要になる。しかし現在の大学と言うものは就職予備校と揶揄されることも多いように、ほとんどの人はアカデミックの世界には行かない。なのでそのような人にとっては受験テクニック的なスキルも重要な力になるのではないだろうか?

以前、大学を研究型大学と就職型大学に分離すると言う話がされていた。僕はこのような分離には(一部)賛成である。なぜなら今の大学は研究を志す人が就職を目指す人に引きずられ、逆に就職を目指している人が本人には無用だと思っている学問を強制されている。しかし考え方を変えれば、研究者と就職者が同じ土俵で学ぶと言う事は多様性を高めると言う観点からは大きな意義があるし、また現在の社会が進む方向性に合っているのかもしれない。なので大学などの教育現場で、研究者と就職者がWinWinの関係を築くことが最も重要なのではないだろうか。

藤井聡太二冠の高校自主退学について。

藤井聡太二冠が卒業間近の今年一月に高校を自主退学していたと言うニュースが流れた。多くの人は「あと二か月いれば卒業できたのに」ともったいないと思うかもしれないが、僕はこの藤井二冠の決断は素晴らしいと強く思う。おそらく現在の藤井二冠にとって、将棋以外の全ての事が無駄だと感じているのかもしれない。もし本人がそう思うのなら高校に一か月でもいることは完全に時間の無駄である。そして将棋一本にこれだけ打ち込み燃えることができることは何よりも素晴らしいことである。

僕の事になるが、僕は高校を一学期で辞めている。しかし勉強が嫌になったわけでなく、むしろその全く逆であった。当時の僕にとって、物理と数学が(ほぼ)全てであった。とは言え、藤井二冠のようにまだ結果を出しているわけでは全くないので、藤井二冠と比較することは恥ずかしい思いであるが・・・。僕は16歳の時に大検を取って18歳で大学に入ったが、大学に入っても数学と物理以外の事にやる意味を見出せず、フランス語の教授と「フランス語をする意味があるのか!」と激論したものだ。

しかしそんな僕も、最近になって様々な分野に興味を持ち、様々な事に挑戦したくなった。学問で言えば、生物学や化学、そして経済学やコンピューター科学など様々な分野に取り組み始めている。そして専門の数学・物理に関しても、これまでとは全く違う分野にまで手を広げ始めている。藤井二冠もタイトルを総なめした後、30代や40代になって様々な分野に興味を持つかもしれない。そうなればその時になってサクッと高卒認定試験を取って大学に入って学べばいい。そうすれば18歳で大学に入るよりもはるかに得る物があるだろう。

学問に取り組むことに、何歳になっても遅いと言う事はない。スポーツと同様、学問も若い方が才能が発揮されると言う声も聞くが、僕はそうは全く思わない。藤井二冠が30代で大学に通い、そして40代や50代で将棋の才能を生かしつつ大学教授などになればすごく面白いではないか!僕は藤井聡太二冠にはそれが可能だと思う。おそらく藤井二冠は今はそんなことは全く考えていないだろうが、とてつもないスケール感を持つ藤井二冠ならそんなこともやってのけるのではないかと強く思わせてくれる。

東京五輪は深い五輪になる。

これほど問題提起された五輪もないだろう。もちろん最大の問題提起はコロナをどう乗り切るかと言う事に尽きるが、数日前の森氏の問題発言についても色々と考えさせられることがある。そういう意味で、(森氏を擁護するつもりはないが)森氏の発言は一定の意味があったと僕は考えている。

コロナによって、五輪の在り方が大きく問われている。一体だれが主役なのか?そしてボランティアはどれだけ貴重でありがたい存在であるか?そして果たしてこれまで通りの商業五輪であり続けるべきなのか?この商業五輪問題に関しては、コロナと大きく係わっている。コロナによって五輪開催がほぼ絶望的な状態であるが、しかし政治家たちがここまで五輪開催にこだわっているのは商業的、あるいは金銭的事情によるところが大きい。何だか主役であるアスリートと国民、そして五輪を楽しみにしている世界市民が置いてきぼりにされているようである。今の五輪主催者たちを見ていると、何だか主役が政治家たちであるように思えていならない。実際、二階氏はボランティア辞退問題に対して、いくらでも代わりがいると言うような発言をしている。ボランティアは単なる使い捨ての駒だったのだろうか?しかしこの二階氏の発言によって、五輪に対する政治家の関わり方を考えさせられる機会になったとも言える。

今は五輪をどう開催するかと言うレベルの問題ではない。開催が100%無理とは言わないが、開催できるかどうかはワクチンなどの外的要因に大きく依存する形になっている。とは言え、絶対に無理だと決めつけるのも僕は違うと考えている。確かに開催できるともできないとも断言できないが、今は様々な問題をどう解決するかと言う事が一番重要だと思う。コロナにどう対処するか?ボランティアなど、国民にどう協力してもらうか?そして森氏の発言に端を発した、男女平等の精神をどう根付かせていくか?考えれば問題は尽きることがない。

最後に僕個人の考えを述べようと思う。結論から言うと、五輪を4年後、あるいは次々回の8年後に延ばすのが最も良いのではないかと考えている。それには大きく二つ理由がある。一つは現在のコロナ禍によって正常に開催できそうにないことにある。もし開催を強行しても、まともに観客を入れることは難しいし、再びコロナを蔓延させるきっかけになってしまう可能性も高い。例え国内でワクチン接種が進んでも、人々は世界からやってくる。経済的に見ても、開催強行によって失うものは大きいと考えている。二つ目は国民感情である。一年前と違って、日本国民は五輪開催を歓迎できる気持ちではない。むしろ開催強行にこだわる政府に怒りを感じている人も多いし、五輪開催にネガティブなイメージを持っている人も少なくないと思う。そのような歓迎できない感情を持った中で開催するのは国民のフラストレーションを爆発させるだけではないか?もちろん開催すれば国民感情も一気に歓迎の方向に向くかもしれない。しかしこればかりは何とも言えない。しかしこのような感情の一番の原因になっているのは、政治家の姿勢であることは間違いない。なのでこのような感情をどう変えるかは政治家の姿勢と手腕・実行に全てがかかっていると言える。しかし政治家に全てを丸投げするのではなく、国民もどうすれば問題を解決できるかと言う事を一人一人が自分の頭で考えることが求められている。

菅氏が三流政治家たるゆえん。

2月10日の報道ステーションで、イスラエルにおけるワクチン接種のニュースが流れた。そのニュースによると、イスラエルでは6割以上の人達がワクチン接種(一回目)を受け終えたと言う。二回目の接種においても2割以上の人達が接種を終えていると言う。まだ一人も接種を受け終えていない日本と比較すると、驚愕的な事実である。ではなぜイスラエルではそのような早期接種が実現したのか?それは非常に単純であって、ワクチンを相場の1.5倍の値段で購入したからである。

それに対して日本はどうか?相場に上乗せすべきお金を全てGoToキャンペーンにつぎ込んでいる。もしそのお金をワクチン購入代金に上乗せしていれば、イスラエルのように早期接種が可能であっただろう。もしGoToにかかる金額以上の出費になったとしても、国民のほとんどが納得するはずだ。イスラエルと日本の運命が分かれたのは、菅氏の無能によるものに他ならない。

もしワクチン接種が三か月早まれば、三か月早く人々は旅行や飲食に出かけることができ、経済的にも大きなメリットになったであろう。それはGoToを行うよりも大きく持続的な効果を生み出すはずだ。そして一番は人々が安心して旅行や飲食に出かけることができることである。GoToで無理やり需要を引き出そうとしても、人々はコロナにおびえながら旅行に出かけなければならない。そしてそれによってさらにコロナ感染を拡大してしまう。

菅氏にはそのような事を想像できる頭は持たないであろう。ならばそのような事を進言する人が絶対にいるはずで、菅氏が公平に意見を聞く耳を持てるだけの器があればそのような事も実行できたはずだ。もしそれができていれば菅氏は二流政治家になれたであろう。しかし菅氏はれっきとした三流政治家に他ならない。

そして報道ステーションではさらに重要なニュースがなされた。アメリカやEUが域外へのワクチン輸出を制限し始めたと言う。それによって日本におけるワクチン確保のめどが立たなくなっていると言う。これらのことも当たり前と言えば当たり前の事だ。自国民を犠牲にして他国民を助けるようなことは普通はしない。しかし菅氏にはそのような事が想像できなかったのであろう。もしワクチン接種が数か月遅れるようなことがあれば、完全に菅氏の失政である。そうならないことを強く願うが、状況は厳しくなって行くように思えてならない。